1789年 8月26日
その日は夜勤明けだった。俺はボロアパートに戻って着替えると、すぐにサン・シュルピス教会へぶらぶら歩いて向かった。ひと眠りするなら、自宅よりも礼拝堂のベンチがいい。うっかり寝過ごす心配がないからな。
安らかな眠りがおとずれるかどうかはともかく。
一昨日の晩のことだ。俺ら元一班はジャンの快気祝いと称して酒場に集まっていた。隊長に夜遊びを禁じられているアンドレの野郎も珍しく同席していた。
パリの食料事情は相変わらず悲惨で、ワインは水のようだったが、すっかり元気になったジャンを囲み、久しぶりに顔を揃えた俺たちは上機嫌だった。誰かがアンドレの快気祝いも一緒にやろうと言い出した。
奴の顔色も前よりずっとましになっていた。そう言えば、肩を固定していたギプスが外れている。まだ全快ではないにしろ、危機的状況は脱したのだろう。よし、おまえも真ん中に座れ、と俺は奴に席の移動を促した。
奴は困ったように首を振り、長居はできないからまた機会を改めて祝ってくれ、と腰を上げた。まだ乾杯したばかりで宴はこれからなのに、辛気臭い奴だ。俺はそうはさせじと奴の前に立ちはだかった。
すると、奴はくしゃくしゃと髪を掻きむしり、何かを言いよどんだ。でかいなりして、まるで悪さがばれたガキだ。何だよ、はっきり言えと畳みかけると、奴は歯切れ悪く切り出した。
『今夜は顔だけ出しに来た。すぐに帰らないと』
『そんなつまらんことをわざわざ言いに来たのかよ』
『そうじゃない。実は明後日、結婚するんだ。それを伝えに来た。良かったらそっちを祝ってくれないか?』
え?
聞いた全員が、その場で固まった。
何か衝撃的なことを聞いたことはわかったのだが、内容を理解するのを頭が拒んでいる。俺らはただぽかんと口を開けて奴を凝視し、奴も困り果てたようにもう一度頭を掻いた。
場が静まり返ること、数秒たってから、誰かが言った。
『そ、そりゃめでたいな』
『お、おう』
『良かったな。い、いや~良かったじゃん』
何人かは口をあけたまま、こくこくと頷き、奴はお仕置きをまぬがれた小僧っこみたいに情けなく笑った。
『メルシ。実は内々に済ませるつもりで、まだ誰にも言っていなかったんだ』
何だかな。水臭い野郎だ、今更俺たちに遠慮も何もないだろうに。揶揄う気も起きず、俺は親指を立てて頷いた。他の連中は口をぱくぱくさせながらグラスを鳴らし、奴は照れくさそうに続けた。
『時勢が時勢だから、祝宴は無しで悪いけど。それでも良かったら立ち会ってほしい』
そのかわりと言っちゃなんだけど、とかなんとか言いながら、奴は全員分の勘定に十分足る金額をテーブルに置いた。
『本当は事後報告だけの予定だったが、あいつは祝福されて当然だ。特にお前たちには。だから内緒で知らせに来た』
『内緒?』
奴は頷いた。
『おれたちと、証人になってくれる夫婦だけで済ませることになっている。だけど、あいつには祝福がふさわしい。だから、もし…』
そうか。これは、家族や親族の祝福が望めない結婚なんだ。だから奴は。俺は奴に最後まで言わせなかった。
『ああ、わかったわかった、盛大に祝ってやるさ、花嫁のためにな。お前のためじゃないぞ』
『立ち会ってくれるだけでいいんだ。盛大よりはくれぐれも静かに…』
『もう遅いぞ。聞いちまったからな』
『はは、大丈夫かな。不安になって来た』
市民を刺激するような騒ぎに発展しないように気を付けて欲しいと奴は懇願し、俺は請け合った。国民衛兵になった俺たちは日夜荒れ狂うパリの治安維持に明け暮れている。
何が市民の神経に触るのか、肌感覚でわかっている。何より花嫁の味方だから大丈夫だと。
『お前じゃなく花嫁の、な』
『わかってるよ、そんなに強調しなくても』
元衛兵隊が祝いに集まることは当日まで花嫁には知らせないことを確認し合ったあとも、アンドレは不安そうだった。これほど乗り気になってくれるとは思わなかった、あとで激怒されるか感涙されるか恐ろしいと。そんなこと知るか。ふたりで勝手に解決してくれ。
『知らせてくれて良かったぜ』
俺は本気でそう言った。俺たちと世界を同じくするために多くを捨てたその人の、未来が幸福であるように、望んでいるのは奴一人だけじゃない。あらん限りの祈りを込めて、俺たちはその人の門出を祝いたい。
難しい立場にあるその人のリスクを考えれば婚礼は内密に済ます方が安全なのだろう。しかし、彼女は祝福に値する、祝福されるべき人だ。その点は奴に同意する。ならば。
『婚礼には参列するが、全力で警備もしてやる。誰にも邪魔はさせないし、何も起こさせない。必ず守ってやる』
奴は言葉を失ったように見えない目を見開くと、黙って頷いた。唇のはしが震えていたようだが泣いていたのかも知れない。おいおい、泣かせたいのはおまえじゃないって。
『言っとくが、おまえのためじゃ…』
『明後日、サン・シュルピス教会9時だ』
奴はちゃっちゃと俺を遮ると、ギブスがとれたばかりの左手を上げて出て行った。
『で、だ、だ、誰と?』
ようやく夢から覚めたようにジャンがすっとぼけた発言をした。
お~いおい・・・。俺は脱力のあまりテーブルに突っ伏した。
『少なくてもおめえとじゃねえだろ~よっ!』
衝撃から立ち直りつつあった他のメンバーは、ジャンに群がり小突いた。その夜がジャンの野郎の快気祝いでなかったら、今度こそ再起不能にされていたに違いない。
連中が大げさに騒いだり嘆いたりしているのを聞きながら、俺は一つの計画を思いついた。
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サンジェルマン・デ・プレ地区はパリのなかでも古い街だ。豪奢な貴族の館が並ぶ傍ら、ちょっと小路に入り込めば、崩れかけた賃貸住宅がひしめき建ち、排水溝には汚水が溢れ、生活臭が淀む。貧富の差の見本市だ。
俺はそんな路地を通る近道を選んだ。重なり合う建物に遮られ、一日中陽の当らない路地は薄暗い闇に沈んでいる。俺はもくもくと路地を進んだ。早く目的地に着きたくもあり、永遠に着かないままでいたくもあり。暗い通路を抜けたら、何かが一つ終わりを告げるのだ。
やがて俺は教会広場に面した大通りに出た。サン・シュルピス教会の二つの鐘楼が、朝日を背にそびえ立ち、石畳に長く影を落としている。急に明るい場所に出て、俺は思わず目を細めたが、まぶたの裏に教会の残像がくっきりと映った。
「晴れてよかったな」
隊長へでもなく、あいつへでもなく、俺はひとりごちた。これでよかった、と恐ろしく納得していた。見上げた空は高く遠く、深い秋の青だった。その青がしみるように胸が痛んだ。
教会の側堂から中に入ろうとしたら、扉が開け放たれていた。まだ誰も来ていないと思いきや先客がいるらしい。朝の祈りにでも来た近所の暇なばあさんか、俺みたいに涼しい寝場所が欲しい朝帰り野郎か。
まあ、いい。大きな聖堂だから、後の席で寝転がっていても問題ないだろう。どうせ眠れやしない。硬い木の座席で、背中の痛みを味わいながら、聖堂のステンドグラスから差し込む光を浴びて、センチな涙にでもくれるとするか。
足音を忍ばせて聖堂に踏み入ると、先客が誰なのかすぐに分かった。
見慣れた長身のシルエットが、聖堂の列柱を、一本一本、手で確かめながら歩いていた。 俺は、一歩も動けず、じっとその姿を目で追った。
野郎は、ゆっくりと二度ばかり聖堂の内側を列柱に沿って歩くと、びっしりと並んだ長椅子の数と列を、やっぱり手で触れながら数え、間隔を確かめている。
表情一つ動かさずに、通路という通路を歩幅で測りながら淡々と歩き尽くす。作業に全神経を集中させているからか、前を何度か通り過ぎても俺に気付く様子はなかった。
建物の大きさと位置関係を一通り把握すると、次に奴は何にも手を触れずに歩いた。そして、あたりをつけた場所が実際の場所と一致するか確認している。
最初はゆっくり、慣れるに従って通常の歩行速度に近づけていく。奴なりの手順がすっかり確立している様子で、その集中力の持続は尋常じゃなかった。
淡々と作業を続ける様子は、これが奴にとっては当たり前の日常であることを物語る。一度読み上げてもらった書類の内容は、その場で頭に叩き込むと奴は言った。俺は半信半疑だったけれど、誇張でも何でもなかったんだ。
奴が事務屋として仕事に復帰すると聞いた時は冗談かと思ったが、冗談どころか、気の遠くなるような努力を重ねて視力を補完する覚悟の上だったのか。それを目の当たりにして俺は圧倒された。
考えて見れば、野郎は衛兵連中だけではなく、隊長までを欺き通すほどの根性の持ち主だ。当の本人にはまるで当たり前の、文字通り朝飯前のションベンみたいなものなんだろうか。隊長は・・・奴のこんな姿を見たことがあるのだろうか。
ションベンは見せるもんじゃねえから、ないだろうな。これが、数時間後には三国一の花嫁をその手にする男の姿とはな。全くつり合わねえ。つり合わねえくせして天国と地獄の組み合わせ以上に似合いだ、こんちくしょう。
新しい軍服ってのは、体に馴染むまでは服に着られているように野暮くさく見えるもんだが、奴は、真新しい国民衛兵の制服を、相変わらずくそ憎らしいくらいにスマートに着こなしていた。
俺らは今日、ちょっとした企みがあって、全員フランス衛兵隊の制服を着て来る予定だから、国民衛兵姿の奴は目立つだろう。自分の婚礼だというのに、礼服の一つもあつらえず、市井のひとりとして地味に振る舞うつもりだったのかも知れないが、悪いな、裏目に出ちまうかも知れない。
フランス衛兵隊の姿で集結するのは、あくまでも隊長への餞だから、奴には事前に知らせてやるべきだった。もっとも知らせてやったとて、あいつの古い軍服は穴だらけでもう使いもんにならないんだったっけ。
奴が死ななくて良かった。
滅多にしない感謝を神に捧げたくなるほど、俺は本気でそう思った。
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花婿が花婿なら、本日の花嫁もやってくれた。
この世には何をやっても華がある人間がまれにいるが、今日の隊長は女神光臨だなんて生易しい美しさじゃなかった。初めて見る隊長の女装・・・と違うか、上品だけれど、飾り気一つない装いは、かえって隊長の完璧な造形を際立たせていた。
清楚な大輪の白薔薇が、人間の男を恋する余り人の姿に変身したら、きっとこんな姿に違いない。女のなりがあんなにしっくりと馴染むとは驚きだった。・・・当たり前か。
何に慌てたかって、隊長の輪郭を縁取る曲線が、想像の域を遥か遠くに越えた優美さだったことか。隊長の直線的な軍服の下をあれこれ想像したことのない男なんぞ、衛兵隊にはまずいない。が、そのうちの誰一人として、こんな線を思い浮かべはしなかったろう。
無理に強調したり、締め付けたりする不自然さが一つもないのに、どの方向から見ても綺麗な曲線が流れている。特にうなじから背中を通って腰にいたるまでの稜線は見事過ぎる。
象牙色の細いうなじに金色の後れ毛が降りかかり、陽に透けて揺れていた。胸元は慎ましやかに覆われているが、頭が変になるには十分すぎる完璧な形。
まるで女だ、っつうかオンナなんだが、そりゃあらゆる意味で分かっちゃいるが、だから苦しいんだし、しっかしこれは反則だろうって、あんな姿を見た日にゃお手上げだって、見なくてもお手上げだが、じゃあ何なんだ、ええいくそっ、頭が爆発する!俺の頭かち割ったら沸騰したシャンパンが飛び出るぞ、誰かやってみろ。
隊長のほっそりした輪郭が、太陽の粒子と混じり合って光を放っているようだった。隊長が振り向く、首を傾げる、しなやかな腕がドレスの襞を掴む。何気ない動作が何故これほど流麗で優美なんだ。
そのくせ、細い体には力強いバネが内包されていることがわかる動き。小気味よい切れのよさ。
時折、足元にからみつく裾を忌々しそうに大またで蹴り上げては、はっと我に帰って歩幅を狭めたりする。そんな隊長らしさもまたいい。どんな僅かな動きの後にも金銀にきらめく光の粉がきらめき追いかける。ただ美しいだけではなく生き生きと血の通った体温が確かに息づいている。
そして、極め付きはその表情。こぼれ落ちそうな涙を隠そうと天を仰いでは、大きく息を吸い込んで耐え切ると、しっかりと引き結んだ唇をふっと開放し、微笑む。魂を抜き取られそうな、豪華な笑み。
こん畜生、貴女は何かの間違いでこの地上に舞い降りて来ちまった異世界の人じゃないのか。それなら天上の者らしく、毅然と面を上げて迷わず厳しく、愚かなる地上の俺たちを教え、諭し、導いてくれればいいものを。誰の手にも届かない高みから。
なのに、貴女は大声で泣き、豪傑笑いをし、我を忘れて怒り、迷子のように困惑し、寂しげに瞳を潤ませ、素直に歓喜する。真っ正直で不器用で、生身の男に一途に恋をする、まごうことなき生身の女。最悪にして最高の、俺の上官。
貴女の門出を祝福したかったさ。だから見てくれ、昨日の今日だというのにこれだけの兵が集まった。でも頼むから、華奢なドレスに包まれた胸を震わせて、精一杯涙を堪えた瞳を向けて、俺たちに親愛の情を返さないでくれ。
裸足で馬にまたがり、頬を高揚させて、俺を再生させてくれたフランス衛兵隊式で指揮を執る貴女の姿を、俺は一生抱えていくことになりそうだ。
祭壇へ進む貴女の後姿を見詰めながら、俺はふと亡き妹を思い起こした。亡父の代わりに介添え役を務めながら、やっぱり最高で最悪の気分に浸りながら、幸せそうな後姿を見送るはずだった。忌まわしい事実が発覚する直前まで、あいつも我が妹とは信じられぬ程、手を触れるのも躊躇うまでに美しく輝いていた。
つまりそういうことだ。
もとより美しい隊長が、こうまで輝いて見えるのは恋敵あってのものという皮肉。
俺はもうバケツの中をぶちまけた後のようにからっぽだが不思議に気分がいいもんだ。
それから、知りたくもねえことをどうやらもう一つ知ったようだ。あいつがどうして長い間、報われぬ片恋を貫いて来れたのか。
晴れて夫婦になった二人が教会を出てきたのを俺はぼんやりと眺めていた。あっという間に兵士達が取り囲み、口々に無邪気に祝福したり、アンドレの野郎を野次ったりしている。
俺はといえば、手持ちの言葉をすべて使い切ってしまった木偶と同じで、今は何を言っても空砲になる。ここに立ち会っていることが精一杯の祝福だ。仕方がない、今日は初っ端から俺らしくないんだ。極上の美酒に心地良く溺れているさ。
「アラン、アラン、ここにいたんだ!隅っこで何しているんだよ。隊長のところへ行かなくていいのかい?」
「おっかしいな~、アランが静かだ」
「うん、大暴れするかと思って警戒していたのにな」
「お~い、生きてるかい?俺の指何本ある~?」
教会前の広場には大勢の人が集い、花嫁に見ほれていた。勿論俺も。なのに邪魔するやつがいきなり湧いて出た。元一斑の面々だ。フランソワが俺の顔の前で手をひらひらさせていやがる。
くお~いつら、能天気に泣き笑いしやがって、無神経に好きなようにくっちゃべりやがって。おうおう、嬉しいか、悔しいか、そりゃよかったな。俺はおめえらと違って繊細なんだ、ほっとけ。
「綺麗だよな、隊長。お祝いは言って来たかい?」
「議員がいつの間にか大勢来ているから、早くしないと、隊長を取られちゃうよ」
「ホントだ。市長もいる。司祭様まで出てきたぞ。やっぱ隊長って凄い」
「けど、悔しいな。アンドレの奴、ず~~~っと隊長の腕を離さない・・・、あっ、また腰に腕廻したっ!」
「おまえ、ずっと見てたんか」
「おうさ、アンドレの奴が隊長の腰抱いたのは、もう十二回目だ。許せん」
「っく~っ、腕回したらこんな感じかなあ、たいちょのウェスト」
「その手つきは、もっと他のとこ触る手つきじゃねえか、ど助平野郎っ!」
「あ~、隊長に触れる男がこの世にいるなんて、世の中不公平だよな」
「だけど、自由と平等って隊長だって言ってたんだぜ」
「よし、それなら話は簡単だ。いくぞ、いざ隊長を奪還!」
嘘だろ・・・。まるで分かっちゃいないんだ、こいつら。
俺は花嫁の姿をただ黙って追っていたかったんだがな。脳天にかまされた衝撃の余韻にぼけっと浸っていたい気分なんだよ。こいつらの能天気ぶりは悪夢だ。
見物の市民の数が膨れ上がりつつある。何かあれば、隊長を庇ってやらんじゃならないのに、浮つくばかりで肝心のことをわかっていない。ああ、俺が手綱をとってやらなきゃならんのか。仕方のない青ガキどもめ。俺は今、口を利くのもかったるいんだぞ。
「おめえらの目は節穴か」
思い切りドスを効かせてやるのにも結構努力がいるぜ。
「あ、アラン?」
なぁ~にを驚いている。ああ、ああ、そうだろ、わからんだろうな、その様子じゃ。フランソワ、ピエール、ラサール、ジャン・・・。
俺は元一斑を広場の片隅に引っ張った。はあ、俺が説明しなきゃならんなんて、何かが間違っている。お目出たいおまえらよりも、デリケートな俺の方がよっぽど堪えているんだぞ、ちくしょう。
「よく見てみろ。一見アンドレの野郎が隊長をエスコートしているように見えるがな、逆だ」
「え?そ、そうかな」
「いいか、知らんわけじゃないだろう、奴は・・・、見えねえんだ。忘れたか」
「・・・あっ!」
「そ、そうだ」
ば~かやろ。マジで忘れていやがった、こいつら。
まあ、こいつらがついうっかり忘れてしまうのも、無理もない。それほどアンドレの動作は自然で、そうと知らなきゃ気づきっこない。
市庁舎からやって来た委員会役員やら、議員やらに挨拶している様子は、ごく普通の男だ。隊長の巧みな誘導と、あいつが努力して身につけた見えているかのような身のこなしが乗算されて、この場の誰もが騙されている。
二人が仲良く寄り添っている様はごく自然で、一つも芝居がかったところはなかった。挙式直後のカップルならそれがむしろ当たり前だし、今は職務を離れたプライベートな時間だから問題ない。
けれど、普段軍で見るストイックに自らを律した姿とあまりにもかけ離れた様子が気になって、目で追い続けるうちにわかった。
隊長は、必死でアンドレを守っている。
隊長が女のなりで現れたのは、正直意外だった。美しいが、らしくない。アンドレにしたって無理強いするような奴じゃない。その美貌に賛辞されるたびに隊長が辛そうにアンドレの様子を伺っているのに気づいた時は、隊長がわざわざ花嫁衣裳など纏った訳が尚更解せなくなった。
しかし、実際に式に参列し、二人の様子を見ていうるちに合点がいった。結婚式は、市民の娯楽のひとつであり、婚礼の鐘が鳴れば、何処の誰でも関係なく花嫁を見物せんと野次馬根性を発揮するのがパリっ子だった。
もし教会という保守的な場所で、軍服姿の二人が挙式したとなれば、彼らに与える印象はどうか。かなり違和感があるはずだ。
軍隊組織の中でさえ、女の隊長を受け入れるまでには紆余曲折があった。それでも隊長の軍服姿が自然だったのは軍隊だからこそ。教会という場では話は違う。
まして結婚式ともなれば、性を偽る神への冒涜だとか、花婿は男色趣味だとか、あらぬ中傷を受ける恐れがある。軍服姿の二人が祭壇前に跪く様は、一般人には奇異すぎる。
それでは、式を取り計らった司祭にも迷惑がかかるし、何よりも隊長はアンドレを、アンドレは隊長を守りたかったのだろう。きっとそうだ。
特に隊長は、あいつが社会で有用だという評価を確実に得るまで、失明を伏せておきたいのだ。身をよせてアンドレを誘導するなら、ドレス姿が一番自然だ。
「わかったか」
よほど熱に浮かされていたのだろう。一通りの事情を説明してやると、元一斑の面々は冷や水をかけられたように固まった。
「大所帯で押しかけて注目を集めた俺らのせいで、野次馬根性で群がる市民だけじゃなく、市庁舎から知らせを聞いてやって来た役員や議員まで余計に引き寄せちまった。
だから、何か起これば、俺たちには体を張って守ってやらねばならない責任があるんだ。隊長に見とれるのはいいが、常に群集の様子に敏感でいろ」
我ながら、これじゃ分別の塊だ。やはり今日の俺はおかしい。絶対におかしい。
「アラン・・・、かっこいい・・・」
フランソワが俺に崇拝の眼差しを向けている。気味がわるい。
「気づかなかった。俺、隊長にしつこく凄く綺麗だって言っちゃった。隊長、困った顔してたのは、照れていたんじゃなくて、傍にいるアンドレのせいだったんだ」
と、青くなったラサール。ま、普段のおまえなら、気づかなくて当然よ。隊長が今更照れるもんかね。
「まあ、そのあたりのことは、仕方ねえよ。気使いすぎて何も言わんのも不自然だろう。アンドレは、覚悟してたろうさ。あいつは一人歩きできるように事前に準備していた。
が、ここまで人混みでごった返しちまったら、隊長は奴の傍を離れられんだろうて。とにかく、必要ならさりげなくフォローしてやれ。それから群衆の様子と挙動不審者に注意してろや」
「きょ、今日のアラン・・・、どこか、ちょ、ちょっと違うね。大人だ」
ちょっとどころの騒ぎじゃねえのよ、ジャン。狂っちまったのかもな。まあ、そう神妙になるなって。二人を祝福しちゃいけねえと言っているわけじゃない。存分に楽しむがいいさ。
「分かった、気をつける。持ち場に行くけど後でそれ、読んでくれるかい」
ピエールが俺の手に丸まっている号外を指差した。
「おうさ、無事に解散できたら、読んでやるよ」
俺は親指を立ててウィンクしてやり、連中は隊長を遠巻きに囲むべく歩み去った。
ベルナールの書いた号外、『素顔のバスティーユの女神』は、民衆の現人神と祭り上げられた隊長が、一人の迷える人間として、描かれていた。俺が士官学校で聞いた隊長超人伝説は、作られた神話だったということだ。
十四で近衛に引き抜かれた本当の理由、学校を終えることができなかった穴埋めに、隊長が自分に課した人知れぬ努力、実は仕える王族に盲従するよりは苦言を発することを選び、貴族の蛮行に異を唱えて罰則を受けた経験もある、決して世渡り上手ではなかった年少時代。
王家への忠誠心と、自分の目で見た市井の人々の現実との板挟みになって悩みぬいた長い年月。ベルナールの筆の見事なところは、あえて隊長の弱い部分をさらけ出してから、現在の隊長が民衆に心を添わせるまでの軌跡を辿っているところだ。
賛辞ばかりで完全無欠の人間など胡散臭いが、弱みを見せることによって、その人物像は現実味を帯びる。その上で語られる隊長の勇気、強い信念、真理を射る力。
弱さと力強さの配分は巧みに計算しつくされ、真に迫った記事になっている。そして、無理に結論を出そうとはせず、読者に問いかける形で終わらせているのが心憎い。
かつて、都合の良い愛人とまで噂された、身分も地位もない元従者を、今日夫として選んだバスティーユの女神の意図とは?
彼女の人となりを理解すれば容易に結論を得ると信じる。虚構の中に安住できなかった女神が伴侶選びに下した決断をどう捉えるか。それは、読者諸君の聡明さ、精神の公平さをことごとく反映する結果となるだろう、と結んであった。
温かい血の通った隊長の姿を強く印象付ける号外だった。バスティーユの女神として超人的に神格化されてしまった人物象を、一人の生身の女性に立ち返らせている。身分を越えて愛し合う二人を、国の理想の未来の象徴として言外に称えてるなんざ、あの野郎、理屈馬鹿かと思ったら、結構やるじゃねえか。
これは慎重に展開する情報戦の先制攻撃なんだろう。この後、どこのメディアが隊長の印象を都合よく変えて操作しようとしても、説得力を削いでしまうほどインパクトがある。
前々日になって初めて結婚することを明かしたアンドレの水臭さには腹が立ったが、こういう理由だったのだ。他の新聞屋に情報が漏れても、情報収集と草稿作成と、印刷が追いつかないぎりぎりのタイミングで俺らに話をした。
アンドレも含めた協力者は、隊長をマスコミの餌食にしないための作戦と思っているのだろうが、俺はそうは思わない。
隊長が保身のためだけに自分の経歴を好んでひけらかすもんか。隊長は、心ならず衆目を浴び、政治利用の駒に狙われる自分の夫になる男を守りたいのだ。だから同意した。そうに決まっている。
たまらねえな。
今日の俺は知らぬふりをしておけばいいことばかり、キャッチする。それなら、いっそ、面と向かって挨拶してくるか。いざ、前線へ。
「アラン」
人混みをかき分けて隊長に近づこうとした途端、目が合った。桜色の唇が俺の名の形にゆっくり動くのを見ると、背筋が総毛立つ。半秒遅れたアンドレも隊長の背後から、正確な視線を俺に寄越す。隊長の体動で方向がわかるのか。もう、いちいち驚かねえが。
市常設委員会会長が、隊長の注意が離れたことに気づかないまま、媚を含んだ作り笑いでしきりに隊長に話しかけている。左側からは、確かパリ警視のド・グルネルとかいう男が近づこうとしているが、アンドレが天然の要塞になっている。でかいのもたまには役に立つもんだ。
少し離れてシャトレ夫妻が、やはり守りを固めるように緊張した面持ちで見守っている。隊長は俺の視線をしっかり捕らえて目を逸らさない。俺はそれで許しを得たような気分になり、何とかコネクションを得ようとやっきになっているお偉方を差し置くことにして、ずかずかと近づいた。
「隊長」
しわがれた声しか出なかった。頭は空っぽのまま、俺は何か言葉を空中に捜す。隊長は青玉より青い瞳を細め、口元に笑みを浮かべた。お馴染の片方の口角だけを持ち上げる不敵な笑みとは全く別物だ。雨上がりに雲間からこぼれる日差しのような笑顔が、『何も言わなくていい』と頷いた。
懐かしい感覚が体中に広がった。情けないことに、その時俺が味わったのは、悪戯を許してもらった餓鬼の気分。熱い塊が喉元から込み上げる。手に握った号外をくちゃくちゃになるまで握り締め、うつむいて自分の足元に目を落とすと、うすレモン色のシルクの裾から覗く、細身の女物靴のつま先が視界に入った。
とん、と軽く肩を叩かれ、俺は恐る恐る顔を上げた。隊長の瞳に視線を戻すまでに、自然と間近になった胸元に目線をあわせてしまったせいで、心臓が口から飛び出そうになった。隊長は、微笑んだままだった。
「読んだか」
「はい」
「ベルナール・シャトレの会心作だ。もっと丁寧に扱うんだな。彼はジャーリストとして必ず成功することになっているから、その号外は十年後に高値がつくぞ」
隊長の片眉がぴくりと上がり、悪戯っぽいウィンクが飛んできた。あいてて、本当に星が見える・・・気がする。
「おい、それは冗談でも買いかぶりだ」
いつの間にか当のシャトレ氏が横にいた。見かけに騙されちゃいけないともっぱらの評判の少女のような奥方も傍にいる。
「・・・成功することになっている?」
俺は、ふと疑問に思ったところを復唱した。別に言葉尻を捉えたいわけじゃないんだが、今の俺にナプキンのはじっこをいじくる程度の会話が精一杯だ。
「そう決まっているのだ」
今度は豪胆に笑いつつ、隊長が記者どのを顎でしゃくった。おやおや貴婦人にあるまじき礼儀作法ではありませんか。花嫁衣裳を着ていても、隊長にはよく似合っていて、ほっとする。新米夫君は奥方のお行儀には寛大にも涼しい顔だ。
「わたしの大事な妹を掠め取っていった時点でな、こいつは成功するしかなくなったのだ。」
「人聞きの悪いことを」
「心配するな。秘密を教えてやるのはこいつだけだ。大量にばら撒いた号外を誰もが大事に保存したら、希少価値がつかないからな」
本日の主役のくせに、人の話題ばかりをつついては笑う隊長。やっぱり照れるのだろうか。そうだとしたら。年上の美貌の上司に対して不遜だが可愛らしすぎる。なけなしの理性が吹っ飛びそうだ。
「誰にもまねの出来ない、いい記事だったよ。ありがとう」
一筋縄にはいかない奥方に反し、夫君がストレートに謝辞を述べると、たちまち奥方の頬に赤みが差し、怒ったような顔をする。やっぱり照れているんだ。くそ、か、かあいい。
「俺には初めての挑戦だった。社説を書くのとはまた違う難しさがあったが・・・。いい経験だった。俺こそ感謝している」
「新境地を開いたところで、仕事にかまけてロザリーをないがしろにしたら、明日は来ないと思え。これまで以上に大事にしてやってくれ」
隊長~。本日は誰の結婚式ですかい。花嫁姿で突然兄気分とか。
「言われるまでもない」
「そうか、それならいい」
記者殿もちょいと子供っぽいところがあるんだな。この二人、議論させておくと、とんでもないことになる組み合わせではないだろうか。夫君が、用心深くフォローの態勢で待機に入っているのが妙に可笑しい。
「オスカル、ロザリーはそろそろ帰した方がいい。ずっと立ち通しだ」
そう言えば、可愛らしい嫁さんは確かおめでただと聞いたっけ。相変わらずの気配り野郎はよく気がつく。隊長は、それにはすぐ真顔になった。
「そうだった、済まない。早朝からつき合わせてしまったのを忘れるなんて」
「大丈夫です、オスカルさま。病気ではありませんもの」
「いや、帰ってお休み、ロザリー」
「でも」
隊長は、ロザリーをふわっと抱き寄せた。本当に妹のように思っていることがよくわかる心のこもった抱擁だった。
「ここから先を付き合うことはない。残るは表向きは祝福、実際は政治的な駆け引きが延々と続く。大切な人の祝福は十分に受け取った。おまえからのも、ほらここに」
隊長は自分の左胸に手を当てる。ロザリーの瞳は見る見るうちに涙で溢れた。
「オスカルさま」
「髪くらい、自分で解ける。心配するな」
『で、ドレスは花婿が脱がすんだしな』
俺はすかさずアンドレの脇を肘でつついてやった。奴は眉一つ動かさず、平然と動揺の素振りも見せやしない。花嫁はかあいいのに、こいつは~っ!
俺は突込みが宙に浮いた決まり悪さに、自己嫌悪に陥った後、猛烈に腹が立った。おお、普段の俺が戻ってきたぞ。隊長は、ようやくロザリーを説得して、ベルナールに託そうとしていた。
「俺は彼女を家へ送ったらすぐ戻る。いつの間にか、要人がわんさと集まって来たからな」
「オスカルさま、やっぱりわたし・・・」
「わたしのために、大事にしてくれ。またすぐ会える」
ロザリーは、もう一度隊長の胸に飛び込んだ。何とも羨ましいことだ。
「やれやれ、毎度のことながら、誰が亭主だかわからん。これでいいのかアンドレ」
二人の女性を落ち着かない様子で見ていたベルナールが花婿に矛を向けたが、のっぽの婿さんは何がそんなに問題なのかわからん、と言いたげに肩をすくめた。何だかよくわからんが、記者氏は妬いているのか。これはおもしれえ。
名残惜しそうに、亭主に背中を押されたロザリーは何度も振り返り、ベルナールは苦笑を隠せない。手を振りながら、隊長が嬉しそうに声をかけた。
「ところでベルナール、来年生まれてくる子供はどっちに似るだろう?おまえかな、わたしかな」
またまた、純真な男をからかっちゃいけませんぜ隊長。ベルナールが真っ青になって固まったじゃありませんか。普通なら笑い飛ばせるはずなんだがねえ。しかも。
「わたし・・・、オスカルさまに似た子が欲しいです」
およ。可愛い顔して追い討ちをかけるとは、奥さんもやるね。それともひょっとして、マジ?いいからはやく笑え、笑ってやれ、旦那さんよ。
「それはいい!」
隊長はアンドレに身を預け、大喜びで笑っている。
「ア、 アンドレ・グランディエ!これでいいのか!何かが間違っているぞ」
しっかと我が妻を抱えた記者殿が、顔中牙をむいて怒鳴った。可愛い奥さんにもばかねえ、と笑われながら。アンドレの方は痛くもかゆくもない様子で、礼儀正しく笑いを堪えている。不謹慎な皆さん、ここは教会だって忘れちゃいませんかあ?
可哀相な記者さんは一人だけプリプリ怒った背中を見せて人ごみの中に消えて行った。
「あ~あ、もう戻ってこないかも知れないぞ、オスカル」
アンドレがやれやれと首を振った。
「戻って来るとも。パリ市常設委員会の委員はほぼ勢揃いだし、パリ在住の議員はどうも出廷前に懺悔する習慣があるらしいから、やっぱり豪華な顔ぶれが揃っている。記者魂がこのチャンスを放っておくものか。見ろ、あそこに・・・」
呆れ顔の花婿に、嬉しそうに寄りかかっていた隊長は、自分の発した言葉にはっとして息を呑んだ。
「誰がいる?」
アンドレは何事もなかったように穏やかに聞き返す。
「パルナーヴにシーエス・・・」
隊長は、見ている俺の胸まで痛くなる眼差しをアンドレに向けた。もう今日で何度目だろう、この表情を見るのは。先ほどの明るい悪ふざけの余韻が強く残っているだけに酷く切なく切り込まれる。
「議員も人の子で男だからな。おまえに見とれているんだよ」
鉄壁の要塞のごとく、びくとも変わらぬ笑顔を返し、アンドレは隊長の手の甲をぽんと叩いた。この大勢の中で、ただ一人隊長に見とれることのできない男の本音は測りようもないが、俺が心配する幕じゃない。
この二人で乗り越えることができないなら、世界中の誰にも無理だろうて。隊長は黙って奴の手を握り返した。
記者夫婦が去って、隊長を囲む人の輪が切れるのを目ざとく伺っていた法衣の議員が、隊長の前に割り込もうと体を揺すって近づいた。ああ、今しばらくは放っておいてやれないか。
「この晴れやかな日に、思いがけなくお会いできる幸福、これを神の思し召しと呼ばなければ何と・・・」
「隊長!」
長々と口上を述べ始めた坊さんの前に、俺はいきなり割り込んだ。考える間もなく言葉がすらすらと飛び出した。
「申し訳ありません!全て俺の責任です。俺が段取りをつけました。ヴェルサイユの元フランス衛兵隊員に一人の漏れなく知らせろと手を廻したのは俺です。何百人も兵を一箇所に集めたら、市民にどれ程脅威を与えてしまうか、まるで思いもつきませんでした。時勢を考えれば軽率な行為でした!この後の収拾に指示をお願いします!」
直立不動で一気にまくし立てると、深々と敬礼する。隊長は、呆気にとられたように目を丸くしたが、坊主に失礼する、と断りを入れると、俺を真正面から見据えた。遠くで見守っていた一斑の連中が気遣わしげに近づいてくる。
「おまえだったか」
その表情は複雑で、何の感情も読み取れないが、責められている風ではない。ただ、照準がきっちりと合わさった感覚。
「はい」
「市民に脅威を与えるだけではないぞ。アンドレ、ざっと見積もって集まった兵のうち何名が勤務中だ?」
「そう・・だな。パリとヴェルサイユ部隊が混在しているからおよそだが、六分の一が明け、六分の一が遅番、四分の一が非番。残りの六分の一が早番と四分の一が日勤とすれば、約二百十五名前後が勤務中だ」
「全員が交代要員を確保してから駆けつけてくれた、と信じたいが、この人数では期待できんな。両市ともに警備が手薄になっている箇所があるわけだ」
「俺の責任です」
「何か事が起きればおまえに負いきれるとも思えんが?」
隊長はそう言うと口角を片方上げた。これを見ると緊張するのに安心する。
「ダグー大佐とル・フォージュ少佐によく礼を言うんだな。挙式のあと、兵のシフト確認作業に走ってもらっている。もうすでに大方の欠勤者は持ち場に送り返されているはずだ」
つまり挙式後まで待った、ということか?威嚇の入った厳しい眼差しを向けてくるくせに、隊長の口元は明らかに面白がっている。
「首謀者がおまえだとわかっていたら、真っ先におまえを使ったのだがな」
「済みません…」
「おまえには借りがあるから、無罪放免にしてやりたいところだが」
「それではしめしがつきませんから営倉でも何でもぶち込んでください」
「あはは、そんな生ぬるい罰では済まないぞ」
では何だ?除隊処分にするのに、こんなに明るく笑うだろうか。隊長は楽しそうに続けた。
「無断欠勤者の所属する小隊長から始末書を取る一方、非公式に詫び状も出さねばならんだろう。欠勤の直接損害状況の調査やら、市警への報告書やら、気の遠くなる書類仕事が発生すること必至だから、そっちに使ってやる。楽しみにしてろ」
書き仕事!そうきたか!嗚呼、神様、確かに営倉入りの方ずっと楽です。俺は思わず天を仰ぎ、アンドレが小さく絶望の声を上げた。うんざりした様子で十字を切る奴の姿に少し胸がすいた。ざまあみろ。隊長の高笑いが空に響いた。
「それから、アラン」
隊長は、まだ俺から視線を外していなかった。
「今日、おまえはわたしを世界一の果報者にしてくれたぞ。ありがとう」
え?隊長は…、今何を言った?
「どうした?罰則のショックがでかかったか?」
「あ、いえ、でも俺は余計に騒ぎを・・・」
「アラン」
何て声だ。柔らかくて深みのあるアルトが俺の体中に響き渡る。
ざわざわとした人いきれの中、誰も入って来られない空間が隊長と俺の間に実際に見えた。アンドレでさえ、その存在が希薄に感じられる。この一瞬だけだとしても、隊長と俺とで共有するもの。俺はその正体のわからないものを深く胸に刻み込もうと隊長を見詰めた。
「挙式は内輪だけで済ませるはずだったし、理由もあった。しかし今となれば、兵士達を遠ざけずに済んで良かったと思っている。危険回避を優先するあまり、わたしの兵士達の気持ちに思い至らなかったことを恥ずかしくさえ思う。余計なおまけも引き寄せてしまったが・・・」
隊長はそこで一旦いわゆる名士と呼ばれる客を盗み見て、茶目っ気たっぷりに顔をしかめて見せた。だめだ、魅力的過ぎてくらくらする。
「わたしの兵士達から受け取った贈り物の価値を決めるのはわたしだ。どう思う?」
「俺は・・・、休日返上で書類仕事くらい、安いものです」
足元から・・・地面が消えたような気がする。嘘つけ、と悪態をつくアンドレの声なん勿論聞こえない。隊長しか見えない。悠然と微笑む黄金の髪をしたミューズ。
「賛成、だ。君達から贈られた贈り物は、地上の何より尊い。一生大切に忘れない」
俺には、耳ではない別のところで、おまえに出会えて良かったとも聞こえた。気のせいだって構わない。そう響いたものは俺のものだ。
「どうか、幸せになってください」
決して、言うことはできないと思っていた言葉を、俺はいともあっさりと口にした。隊長も予期していなかったらしく、瞳が大きく見開かれた。
「かなら・・・ず・・・」
見る間に大粒の涙が青い瞳から零れ落ち、隊長は最後まで言葉を終えないうちに涙声に詰まった。胸元にいくつもしずくの跡ができる。止め処なく溢れる涙を拭おうともせず、笑顔に戻ろうととする隊長は、神々しいまでに美しかった。この人がこの世に生まれて来ただけで、くそったれの世の中が、俺にとって生きるに値する場所になった。
「今日の貴女は、俺が生まれてこのかた見たことのあるどの風景より、どの芸術作品より、どの詩より、どこの誰より、美しいです」
言わずにはいられなかった。大方むき出しになっていた俺の心は、最後の一枚まで隊長に剥ぎ取られてしまったのだから、もう内に留めておくことなどできなかった。隊長の傷に触れてしまうとわかっていても、どうしようもなかった。隊長は、怯まず俺の拙い言葉を受け止めてくれた。
「おまえに言われると、真実味がある」
隊長が震える唇で、無理に笑った。アンドレの顔を見られないとでも言いたげに。おい、花婿よ、花嫁が泣いているぞ、早く何とかしろ、そのためにいるんだろうが。
「おれも、珍しくアランに賛成」
お、神通力が通じたか。奴が宣誓のポーズをとっておどけた。一言多いぞ、この野郎。うつむいていた隊長が、アンドレにきっと目をむいた。
「あ~あ、怖いこわい、美女台無し」
そんなことないです、隊長。お怒りになった貴女も美人です。こいつは何にもわかっちゃいないんですう。愛想尽かすなら、早いうちに是非。
「そ、その手の嘘をつくな。わたしにまで見えているふりをしたら許さない」
低く声を抑えているが、じわじわと怒りが温度を上げている。煽ってどうすんだ、色男。収拾をつけるつもりがないのか、こやつは。
アンドレは宣誓ポーズから降参ポーズをとった。
「そうやって怒られるのがわかっていたから言えなかったけど、本当はおれもずっと言いたかった。綺麗だよ、誰よりも」
「耳はいいと信じていたが、それも嘘か」
降参ポーズの両手が隊長の肩に降り、腕を滑り降り肘を通って隊長の両手を包み込んだ。確かに花婿の領分の仕事だが見ちゃいられん、ふん。
「最悪の形でおまえに知られてしまって、おまえに深い傷を残す結果になったことは後悔している」
「それは・・・」
まずい展開になってきた。俺も片棒を担いだんだっけ。
「だけどオスカル、おれは何も目だけでおまえを見ているわけじゃない。見えていた時だってそうだ。知っているだろう?」
隊長がぴくりと肩を震わせる。
「ついそれを忘れてしまうほど、おまえの傷は深手だったのだろう?でも、そろそろ思い出してくれないか。また、こいつに先を越されちゃたまらない」
おうおう、そこへ持っていくか。ついでに、隊長の指先まで口元にもっていきやがった。隊長の怒りがすとんと見る間に落ちる。くそ。
「アランや他の誰かより、おれにおまえの美しさが見えないと思うのか?」
わかったから、俺の名を出すな。俺はたまたま一生に一度の最初で最後の正直ってやつを言わなきゃならなかっただけだ。もう次はないんだから勘弁してくれ。
隊長は、また下を向いた。怒りで一度は引っ込んだ涙が、再びはたはたと地面に吸い込まれている。あれよという間に全てわかり合って、何も言う必要はないんだな。アンドレは愛しげに微笑み、顔を伏せてしまった隊長を笑わせる材料を探した。
「そうだ、証拠を見せよう」
何かひらめいたらしいあいつが満面の笑顔になった。隊長は顔をあげると、つられて泣き笑いしている。はい、はい、もうそれでいいんじゃないっすか?当てられるこっちの身にもなってくれ。と、言いながら立ち去らない俺も俺。
「今日のおまえが譬えようもなく綺麗なのは誰もが認めるところだけど」
奴はそう言って身を屈め、隊長の顔に自分の顔を寄せた。こらこら、ここは教会だということをどうぞお忘れなく。と、思ったがそれは余計な心配で、あいつは隊長に何か耳打ちしようとしただけだった。
「ただし、何も着ていない時の次に」
ぬ、ぬ、ぬわんだとぉ~っ!十分聞こえてるぞ、ばかったれ!
「わ~~~っ、アランがいつものアランに戻った!」
「危ない、抑えろ!」
「うわ、足も押さえなきゃ、二人は足元にまわれ!」
「挙動不審者に目を光らせておいて良かったね、間に合った」
「何でおまえ都合よく縄持っているんだ?」
「今日は絶対アランが大荒れすると思ったから、念のためにさ」
「どうしたんだろう、さっきまで大人でいかしてたのに」
「何か言ってるよ」
「さるぐつわは、外してやってもいいんじゃない?」
「噛み付くからやだ」
「まだ何か言ってる」
「何々、えーと・・・ここは教会だ! だって」
「当たり前じゃないか。可哀相に、よっぽどショックだったんだね」
「隊長!後は任してください。落ち着くまで俺らでちゃんと面倒見ますから!」
「隊長も、何か変じゃない?顔赤いよ」
「具合でも悪いのかな」
「それならアンドレがにこにこして手振ってるわけないから心配ないって!」
貴女がこの世に生きているだけで、俺は・・・・
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