1789年 8月26日
アンドレとわたしの挙式を執り行ってくれるサン・シュルピス教会は、セーヌを渡ってすぐのサンジェルマン・デ・プレ教区にある。主任司祭であるフロランタン神父は、いち早く第三身分に合流した第一身分国民議会議員であり、議員達が武力で排除されようとしたあの日、その場にいた。
その縁で、教区民ではないわたしたちの結婚式を特別に引き受けようと申し出てくださったのだ。わたしたちは二つ返事で好意に甘えることにした。あの忘れ得ぬ日が取持つ縁で、わたしたちは今日秘蹟を受ける。これが神の祝福でなくて何であろう。
一番無骨な軍用馬車を借り、御者を雇い、わたしは今教会に向かっている。明け方から世話を焼きに来てくれたロザリーも隣にいる。アンドレは一足先に教会で待っているはずだ。我が妹分の瞳はすでにすでに青い洪水で大変なことになっていて、うっかりわたしまでもらい泣きしてしまいそうだ。
まったくどちらが花嫁なのかわからないぞ、と涙をぬぐってやったらロザリーはわたしの腕にしがみついてきた。彼女の気持ちがぬくもりを通してわたしの胸に打って響き、それ以来わたしたちは無言で揺れに身を任せた。
フロランタン神父は、特殊な事情を抱えているわたしたちのために、何かと便宜を図ってくれた。カトリックでは三連続した祝日含む期間、結婚の公示が義務づけられる。結婚に意義を申し立てる者に猶予を与えるためだ。わたしたちの場合は、フルネームではなく、洗礼名のみを三日間だけ公示したあと、残りの期間は特別に免除された。
だから、代父を務めてくれるダグー大佐と、証人として立ち会い署名してくれるシャトレ夫妻、新たなスタートを共に切ることとなったル・フォージュ少佐と、元フランス衛兵隊代表の部下数名だけが見守る中で、挙式は人知れずひっそりと執り行えるはずだ。
石畳の配列が変わったようだ。馬車の揺れが小さくなった。ポンヌフを渡り終え、右岸に着いたのだろう。サン・シュルピス教会まではあと五分ほどだと思うと胸が高鳴った。教会に着く前から、わたしは何度も呼吸を整えなければならなかった。
人前に立つ仕事についたのは十四歳。十代の頃こそ神経を張り詰めることも多かったが、現王の戴冠式を最後に、儀礼で緊張することはほとんどなくなった。宮廷での日常は余りにも儀礼的で、その意味すら希薄だったのだ。
それに引き換え、この名状しがたい緊張感は何だ。たった一人の男性と永遠を誓い合う。その限りなく私的な儀式の存在感に圧倒され、わたしは外の空気を求めて窓から顔を出した。そして思いもかけないものを見た。
まだ建築中の右塔を見上げながら教会を一旦通り越し、馬車は教会のファサードに面した広場に向かって180度回り込んだところだった。そこには幻覚を見たのかと思えるような光景が広がっていた。
懐かしくほろ苦い、わたしの大切な記憶として胸にしまい込んだはずのものが、実体として目の前に現れたのだ。整然と隊列を組んだフランス衛兵の青い制服と捧げ持った銃剣先が居並ぶ光景が。
馬車を御してくれているユラン伍長の声と鞭音が響き、二頭の馬が常足に速度を落とした。思わず窓から半身を乗り出すと、天にも届かんばかりの大歓声が沸き起こった。
「ユラン伍長…、これは…?!」
「我々からのささやかな祝いの印です。馬車を一旦止めますよ」
にこやかに御者台の上から振り返るユランの顔が逆光で見えなくなった。ちょっと待ってくれ。これではわたしは…!
教会への両沿道には、二列にびっしりと兵が居並んでいた。ざっと見積もって五百名ほど。ヴェルサイユ部隊ほぼ全員に近い人数だ。もう二度と見ることのないはずだったフランス衛兵隊の軍服姿で。熱い塊が込み上げ、思わず両手で口元を塞がねば堪え切れそうもなかった。
「おっと、降りられますか?」
馬車の扉に手をかけると、息を切らしたル・フォージュ少佐が扉を開けてくれた。馬車を先導していたところを急いで引き返して来たらしい。
「良かった、間に合いましたね。降りるのならエスコートさせてください。美しい花嫁がドレスの裾を翻して地面に飛び降りたりしたら、赤恥ですからね」
わたしはまさに路面に飛び降りようとしていたところだった。赤恥からは救われたが、顔は赤くなったはずだ。
「ふみ台を降ろしますからお待ちください。それから手を」
少佐は手早く足台をセットし、にこにこと手を差し出してくれた。下車するわたしを女性式にエスコートしようとしているのだと思い至るまで、数秒かかった。
「ありがとう、少佐。いったいこれは・・・」
「きょうび奇跡のような統制ぶりですね。よく訓練されている。今どきの司令官が見たら泣いて悔しがることでしょうね」
「わたしが集めたわけではない。君は知っていたのか」
「とある兵に脅されて、いや、熱心に頼まれて婚礼の日時と場所を元フランス衛兵全員に伝達しました。しかし命令でもないのに、これほどの兵が自発的に集まるとは驚きだ」
面白そうに笑うル・フォージュ少佐の手を借りて履き慣れない踵の細いサテン靴を台に降ろすと、居並ぶ兵士たちから一斉に大きなどよめきが起こった。
裾を踏まないようにたくし上げて路面に降りると、収集のつかない騒ぎになった。そうか、わたしの姿がそんなにもの珍しいか、諸君。
「整列!休め!」
御者台から飛び降りたユラン伍長が必死に号令が飛ばし、場を収めようとするが、怒涛の興奮に号令はかき消されてしまった。ル・フォージュ少佐から褒められたばかりなのに台無しだ。
後方にいる兵士は良く見えないと騒いでいるし、前方の兵士は背後から圧し掛かられて、つぶされそうだ。
ありふれた挙式に見えるようにドレスを着たのに、どこぞの珍獣が登場したみたいな騒ぎになってしまった。兵士達の目にはほとんど仮装に見えるのだろう。仕方ない。わたしは前へ進み出た。すると、一瞬にして兵士達は水を打ったように静かになった。
「整列!」
ユランがその隙に再度号令を飛ばす。兵士たちは、今度は人一人通れるほどの間隔を空けてのろのろと隊列を組んだ。こらこら、珍獣は少しでも近くで見たいのはわかるが、通行の邪魔だぞ。そう怒鳴りたいのに胸が一杯で声が出なかった。
「我らが隊長仕込みの隊列をお見せしたかったのですが、これでは無理ですね。私も隊長を一目見た時は顎が外れそうになりましたから。外科医も呼んでおくべきでした」
ユラン伍長が振り返って愉快そうにル・フォージュ少佐に整列した兵士達を指し示す。良く見れば、皆口を半開きにしてぽかんと呆けた表情をしていた。
ドレスの裾を掴んで前へ進み出ようとすると、慌てて少佐が私の手を取った。彼にとって、エスコート無しで女性を歩かせるのは犯罪行為なのだろう。ドレスを纏うとその法則はわたしにも当てはまるらしい。
すると、それを合図に静まり返った兵士の列が途端に崩れ、ありとあらゆる野次と罵声が交錯し、雄叫びが響いた。
「隊長に気安く触んじゃねえ、スカしっぺ野郎~」
「そうだバッキャロ、抜け駆けした奴は死刑だぜっ、覚悟しやがれ」
「うおおおお~~っ、たいちょ綺麗っ、こんちきしょ~め」
「水臭いですよ~、俺らに黙ってヨメにいこうだなんて」
「いいもん見た、もう死んでもいい~」
「いい女が女に見えなくなっちまったら、隊長のせいですよ~」
ユランが自慢したかった整列はもう見る影もない。済まない、大目に見てやってくれ。今日は連中が愛しくて堪らない。
列は見る見るうちにわたしを取り囲む輪になった。後方の兵士達が互いに馬乗りになり肩によじ登り視界を確保しようと凌ぎを削っている。
姿は見えないが、必死に逆さにした松葉杖を振っているのはフランソワだろうか。長いこと臥していたジャンもいる。押しつぶされないよう気をつけろ。ラサールにアルベールにセバスチャンにニコラにジャックにピエール・・・。
アンドレ、わたしはどうしたらいい。彼らに何と応えてやればいいのだ。
「わたしの兵士諸君!」
「うおおおおおおお~~~~っ!」
呼びかけると、嵐のような叫び声の大合唱が返って来た。
「ありがとう・・・わたしは・・・」
「うおおおおおおお~~~~っ!」
「滅茶苦茶悔しいっすけどおめでとうございます!」
「相手を間違っちゃいけませんぜ~、隣の野郎ははただの抜け駆け野郎でっせ~」
「そうそう、相手ならここ、この俺様・・・ふんがっ」
わたしはもう言葉を続けることができず、必死で目頭を押さえた。何か言えたとしても、彼らの大絶叫にかき消されてしまったろうが。
わたしと一緒に兵の輪に入ってしまったル・フォージュ少佐は、半ばあきれ果て、半ば驚いて騒ぎを見詰めて苦笑いした。
「どうします?」
「済まないな。ル・フォージュ少佐。実はあまり行儀がいいとは言えんのだ」
「それはよくわかりました。しかし羨ましい。これほど部下に慕われる将校などいませんよ」
そう言ってさり気なくハンカチを貸してくれるタイミングはなかなか心憎い。これは場数を踏んでいるな、とわたしは苦笑した。が、呑気に感心している場合ではない。
「わたしが果報者なのはわかったが、早急に収まりをつけないといけないな」
バスティーユで一世風靡したフランス衛兵隊は今やパリで大人気で、その青い軍服が再び大挙して整列していればパリ市民の注目を集めてしまう。すでに物見高い市民が集まりかけているところに、興奮した兵士たちの歓声を聞きつけた人垣ができ始めている。
「私の指示に従ってくれるでしょうか。何せ抜け駆け野郎になってお手をお取りしてしまいましたから、逆に袋叩きにされそうです」
「ふふ、わたしがやろう。サーベルと馬を貸してくれたまえ」
「は?ご冗談でしょう、花嫁御陵が」
「まあ、見ていろ」
わたしはル・フォージュ少佐の馬に跨った。正確に言えば、ドレスの裾をたくし上げて鐙(あぶみ)に片足をかけようとしたところで少佐と伍長に止められ、不承不承抱え上げてもらった。
そして、思った以上に邪魔だったドレスの裾を蹴りはらったつもりが、ユラン伍長の顎まで蹴ってしまった。
外科医を呼んでおくべきだったという彼の不安は正しかったわけだ。申し訳ない。邪魔なハイヒール靴を脱ぎ捨てたらふくらはぎまで見えてしまったらしく、兵士の騒ぎは一段と盛り上がった。
「花婿が見たらショックで気絶しますよ!」
サーベルの代わりにわたしの靴を持たされたル・フォージュ少佐がさも心配だと言わんばかりに面白がった。
まだまだ修行が足りんぞ、プレイボーイ。気づいていないのだろうが、失言したな。わたしがどれ程はしたない姿で現れようが花婿は卒倒しない。もしそんなことがあるならば、わたしは歓喜の余りドレスで馬上逆立ちをして見せてやる。
わたしの兵士達よ、諸君の祝福に手綱を持つ手が震えて困る。愛し合って結婚するのだから、家族の祝福がない自分を憐れみはしないが、わたしの幸福をこんなにも手放しで喜んでくれる君たちがいる。君たちの祝福は何という喜びでわたしを満たしてくれるのだろう。
手放したものは、巡り巡って違う形で与えられるのか。わたしの終わらぬ歓喜が君達にも響いたのではないだろうか。だから祝福をくれるのだろう?
君たちと出会わなければ、わたしは今日を迎えることはなかったろう。この感動と感謝を君達に伝えたい。言葉ではとても追いつかないから、君たちに馴染みの方法でわたしの気持ちを表そう。
わたしはサーベル片手に馬を操ると群がる兵士達の中央に進んだ。大歓声が上がる中でサーベルを抜き、鞘をル・フォージュ少佐に投げ、切っ先を真っ直ぐ天に向ける。もう二度と使われることのなくなった、フランス衛兵隊独自の徒手指令を今一度だけ受けてくれ、諸君。
『全員注目』
波が引くように、兵士達の騒ぎが静かになった。掲げたサーベルを静かに降ろし、水平に胸の上で止める。
『分隊ごとに』
兵士達は目を見開いてわたしの動きを追っていた。そして意図が伝わったのだろう、たちまち満面に喜びが広がった。
わたしは彼らがサインを受け取ったのを見て取ると、サーベルを真っ直ぐ前方水平に指し示してから、切っ先でゆっくり十字を切った。
『四列に縦列を組め』
「いいいいいやっほう~~~」
「よっしゃあああああっ」
「そうこなくっちゃ~っ」
まるで大戦に勝利でもしたかのような歓喜の雄たけび上がり、わたしは苦笑した。拳を突き上げ兵帽を振りちぎる指令は出していないはずだが、無粋なことは言うまい。
フランス衛兵の姿で駆けつけてくれた兵士諸君、正真正銘、これが最後のフランス衛兵式コマンドを贈る。わたしからの気持ちをどうか受け取って欲しい。事前に知らせてくれたら、わたしも青い軍服で来たものを残念だ。
『中央から二手へ分かれよ』
『止まれ』
『外側へ回れ』
『下げ銃』
兵士達は指示を出すごとにおおっと嬉しそうに気勢をあげ、嬉々として号令に従ってくれた。解体したフランス衛兵隊に対しての個々の思いは様々で、誰もがノスタルジーを感じているわけではないだろう。
けれど、彼らの反応から、掛け値なしにわたしの気持ちを受け取ってくれていることがわかる。少々騒がしい祭りのようなパレードになってしまったが明るくていい。
通りの両側に兵士達を二列に整列させると、わたしは見物に集まった市民と兵を向かい合わせにした。こやつらは、朝っぱらから集結して通行の邪魔をした挙句、衆目を集めながら大騒ぎをしたのだ、迷惑なこと甚だしい。住民にも礼を捧げてもらおう。
「最敬礼!」
兵士がわたしから背を向ける形になったので、ここは声を出す。絵としてはかなり妙な構図ではないだろうか。何しろドレスのまま馬に跨った女がサーベルを抜き兵を動かしているのだ。一糸乱れぬ動きで綺麗に揃った敬礼が住民に捧げられ、わたしは満足した。
兵士達は見るからに陽気に隊列を組んでいたから、見物の市民にも非常事態には映らなかったらしく、兵士の礼に拍手と明るい歓声が返って来てほっとした。せっかくびしっと敬礼が決まったのに、兵士達は再び歓声を返しては手を振った。
この脱線振りは、わたしの本音を読まれているからだろう。わたしは幼年学校の教師にでもなったような気分で歓声の波が引くのを待った。
次のコマンドを与えようとした時だった。
「全員回れ右!」
ユラン伍長の声だった。全員が一斉に私の方へ向き直る。
「気をつけ!隊長に、ささげ銃!」
今度は、おふざけモードは一掃され、訓練中でも滅多に揃わないほど美しく白と青の軍服が延々と教会の正面玄関まで居並んだ。
「隊長、ありがとうございました。隊長は行くところがあるのですからこれ以上お引止めはできません。後は任せてください」
「ユラン伍長・・・」
私は伍長に手にしたサーベルを手渡した。
「わたしの方こそありがとう。もしかして、このまま皆で教会まで見送ってくれると言うのか?」
「隊長の姿が見えなくなるまで、敬礼で送らせてください。それから式の列席も許可してください!」
良く見れば、整列した兵士達は泣き笑いを堪えた顔つきで正面を見据えている。そんな彼らの並ぶ間を通り、ささげ銃に送られて教会へ?目立たぬように挙式するつもりが、大番狂わせになってしまったが、何とわたしらしい門出を用意してくれたのだ、諸君。
「では・・・」
わたしはついに涙声になった。
「では、ル・フォージュ少佐の指示には絶対服従すること、各班長は責任を持って班員に秩序を守らせ、市民と諍いを起こさないこと。厳守しろ」
「はっ!ありがとうございます!」
「ル・フォージュ少佐!兵士の列席は許可するが、交代で周辺の路地を警戒させてくれ。市民の数が増えれば暴動を扇動する者が出る恐れがある」
「はっ」
「小さな喧嘩でも火種になるから油断するな。・・・非番なのに済まないな」
「いえ、・・・もう一枚ハンカチをお貸ししましょうか?」
白いものが差し出されたが、すでにぼやけてよく見えない。
「そんなに酷い顔か?」
「ええ、その涙目は確実に男の息の根を止めます」
わたしは笑ってハンカチを受け取ると、視界を確保し手綱を握った。すると、その手綱に手をかける者がいる。ダグー大佐だった。
「馬を引きましょう。花嫁のパレードはなし、と聞いていましたが、予定が変わったらしい。花嫁を祭壇まで導く光栄に浴したのは、わたくしですからね」
「ダグー大佐・・・」
ああ、祭壇に着く前に涙で溶けてしまいそうだ。
ダグー大佐の引く馬は、両側に居並ぶ兵士達一人ひとりに目を合わせるのに充分な時間をかけてゆっくりと進んだ。ドレス姿を部下に晒す決まり悪さはすっかり消え、誰一人も取りこぼさぬように、わたしは兵士の無言の祝福に頷き返した。
真剣な眼差しで礼を送ってくれる者、泣き笑いしている者、何かを一生懸命に堪えている者、はにかんだ笑みを浮かべている者、何故か悲壮な覚悟を決めているような者。
兵士の名をひとりひとり心の中で呼びながら進む街道は、わたしの新しい門出であると同時に、古いものに幕を引く儀式でもあった。わたしと、フランス衛兵隊員全員の手で。あの日、パリに出動した日に、後に残して来た兵ともようやく区切りをつけることができた。
みんな、ありがとう。ありがとう。
教会広場に着くと、ダグー大佐は広場を一回りするように右に進んだ。広場に沿って半周し、教会の正面階段の前で止まり、見上げると一番上にアンドレが立っていた。その両脇にベルナールとアラン。
何が起きたかはもう聞いているのだろうな。教会に兵士が集まっていることを知った時点で、お前のことだから何がしかの覚悟は決めていたのだろうな。わたしの大好きな穏やかな笑顔だ。よく気絶しなかったな、褒めてやる。
すぐに行くから、待っていろ。
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