「いいかい、掃除は上から下へ、内から外へだよ!じきに雨か雪になりそうだから、皆急いでおくれ!天井と照明、窓枠に階段手すり、列柱の彫刻、ドアの上棚の上、天蓋の上、細かい羽目板飾りの隙間もお忘れじゃないよ!屋敷の中が済んだら、男衆は屋敷の外側に回っとくれ!」
万聖節(11月1日)を控えた日曜の午後、ジャルジェ家にはマロン・グラッセの元気な声が響いた。日曜日のミサからそれぞれ帰宅した使用人らは礼拝用の晴れ着を急いで着替えると、皆ほうきやはたきを手にそれぞれの持ち場へ散って行った。
本来は安息日であるが、万聖節前の日曜日の午後は、ジャルジェ家の埃払い日と決まっている。この日から万聖節までの数日間は、普段細かく分業されている使用人の役職や序列の枠を超えて、全員が大掃除に総動員されるのだ。
ヴェルサイユの大貴族の中では風変りと評されるジャルジェ家ならではの光景だ。
ジャルジェ家で働く使用人の多くはノエル前から新年にかけて帰郷が許される。主人と家族は手薄になった邸宅で、つましく年末を過ごすのが恒例だった。
この慣習は、近衛連隊長を任命されたジャルジェ将軍が、王家の式典警護のために家族とノエルを過ごすことがままならなくなったことがきっかけで始まった。家族と降誕祭を祝うことができないならば、いっそこの時期をイエス・キリストに捧げる清貧の期間と定めてしまえ、と将軍が得意のご都合主義を振りかざしたのである。
人間の原罪を贖うために尊い犠牲になったキリストへ感謝と信仰心を形として表すために、ジャルジェ家では倹しく暮らし、寄進、喜捨を実行する週間を設ける。ついては最も相応しい時期はノエルであろう、とこじつけたのである。
清貧と言ってもヴェルサイユ宮殿近くに居を構える大貴族一家。形ばかりの真似事だろうという批判は免れないにしても、家政運営上は上手くいったので続いている。
使用人に帰郷を許すのは喜捨のひとつであったが、主家から年越し用の食料や下賜物を与えられて家族とノエルを過ごせるようになった使用人は一層主家に忠義を尽くすようになった。
離職者が少なければ使用人教育の効率が良いし、忠義心は質の良い仕事という形で表現された。結果オーライである。
そして今年も帰省を前にした使用人らは主人の恩に報いるため、また居残る少数の使用人だけで家政を回せるように、万全な越冬準備と大掃除に奮闘する時期がやって来たのだった。
アンドレは、忙しく大きなピクニックバスケットに冷製肉やチーズ、リエット、果物、焼き菓子と、ワイン瓶、簡易食器類を詰めているマロン・グラッセの前に座り、ナフキンをたたむ手伝いをしていた。
「万聖節の前の晩にはご先祖さまがあの世から帰っていらっしゃるからね、ほうきを使う掃除はそれまでに絶対に終わらせておかなくちゃいけないんだよ」
「ご先祖さまって?」
「亡くなった旦那様のご両親やそのまたご両親やご兄弟さ。ここは古い家柄だからね、何百年も遡るご先祖様が大勢いらっしゃるのさ」
「死んだ人が返って来るの?」
「そうだよ。万聖節前にあの世の扉が開く。ご先祖さまは年に一度のその日を心待ちにしておられるんだよ。懐かしい我が家に帰ってご自分の子孫が息災にしている姿を見られるからね。だから、里帰りして来たご先祖さまをうっかりほうきで掃き出したりしないように、掃除は厳禁なのさ」
「そうなの?!じゃあ、おばあちゃん、あのね…」
「さあさ、これでいい」
自分だけ喋るだけ喋ると、孫のもの問いたそうな様子には頓着せず、マロンはぎっしりと中身の詰まったピクニックバスケットの蓋を閉じ、孫に手渡した。8歳の子供には少々重すぎる荷物だった。
「いいかい、アンドレ。今日は皆がすす払いに出払ってしまうから、おまえがお嬢様方のお給仕をおし。掃除の間、お嬢様方はオランジュリーでピクニックして頂くことになっているからね。
温室には暖房を入れてあるけれど、薪が切れないように気をつけるのもおまえの仕事だよ。今日はあたしたちは皆テーブルについて食事する暇がないから、使用人食堂のテーブルに用意してあるパンと釜戸にかけてある大鍋のスープをそれぞれ勝手に食べることになっているからね。
おまえも暇を見つけたらそうするんだよ。お嬢様方はおまえにも一緒にお昼をおあがり、と誘ってくださるだろうけど、絶対に甘えちゃいけないよ。それから、火傷にはくれぐれも気をおつけ。いいかい、わかったね」
マロンはさらに一気にまくし立て、エプロンで手をふきふき慌ただしく孫に背を向けた。
「うん、わかった。それでねおばあちゃん…」
「それじゃ、あたしは応接間の様子を見に行かなきゃいけないから後は頼んだよ、フィリップ、マルゴ!」
「おう、こっちはまかしときな」
腕まくりした厨房メイドのマルゴが釜戸から顔を上げた。ボンネットも丸みを帯びた鼻と頬は煤で真っ黒になっている。料理長助手のフィリップは厨房の高い天井に渡された太い梁の上に跨り、埃が落ちないように真剣に雑巾がけをしている。
だめだ。みんな忙しそうだ。重いバスケットを両手で抱えたアンドレは、頬を流れた一粒の涙を肩先で拭った。アンドレにとって大切なことを教えてくれそうな大人は誰もいなかった。
おばあちゃん。おばあちゃんにとっても大切なことじゃないかとアンドレはくちびるを噛んだ。アンドレの心を一杯に占めている心配事を、祖母が気にも留めないことが不思議で仕方なかった。
両腕でバスケットを抱え、後ろ向きになって厨房の重い勝手口を腰を使って押し開けながら、アンドレはじんじんと痛くなって来た鼻の奥から漏れそうな嗚咽をかみ殺した。
大きなバスケットを抱えているせいで足元が見えないアンドレは、そろそろとつま先で足場を確かめながら慎重に勝手口の石段を下りた。オランジュリーのあるジャルジェ邸前庭へ向かう小道へ出たが、普段なら姿があるはずの外働き下男も庭師も誰もいない。
祖母の指令通り、全員総出で掃除にかかっているのだろう。
井戸の横を通り抜けようとすると、足元がパリパリと小さな音を立てた。井戸端のぬかるんだ地面は、正午を過ぎてもまだ一部凍ったままである。雲はどんよりと重く垂れ込め、冷たい冷気がアンドレの頬に残る涙の跡に痛いほど沁みた。
「おーい、アンドレ!そこか!」
すっかり耳になじんだ声が聞こえ、アンドレは顔を上げた。ここは井戸ばかりではなく、ゴミ焼却炉や薪の貯蔵庫など裏方の仕事場がまとめられた一角で、元気いっぱいの声の主が来るような場所ではない。
誰もいないと踏んで、ついうっかりべそかき顔を取り繕うことなく歩いていたアンドレは己の失敗を悟った。大人は騙せても、この一番末のお嬢様は騙せない。
息せき切って走って来たお嬢様の白い絹の靴下には点々と泥はねが上がっていた。あーあ、あのシミはもう取れないな。ジャルジェ家に引き取られて4か月、アンドレは祖母の視点でお嬢様を観察する術を会得しつつあった。
「遅いから見に来たぞ。重そうだな、それ。一緒に持ってやろう」
「大丈夫だよ」
「いいから、早く運んでしまおう。時間がもったいない」
「どうして?」
お嬢様は大きく目を見開いて、両手を腰に当てると、ふん、と鼻を鳴らした。そのポーズは『ばかだなあ、それを聞くか』というセリフそのものだ。
分厚い雲で覆われた陰気な日曜の昼下がり。ただでさえ薄ら寒い日なのに、裏方の作業場は大きな屋敷の影になり、さらに暗い。そんな場所にあっても、お嬢様のくるくる巻き上がった金髪はきらきらと輝いて見えた。
揃いのジレとアビ・ア・ラ・フランセーズは目の覚めるような青い絹サテン。アンドレの知らない名前の花模様の刺繍で縁取られている。ナントカってややこしい名前がついていることは知っていたが、にわかには思い出せない。
そうか、今日はおばあちゃんが忙しいから誰もお嬢様に礼拝用の服を着替えるように言わなかったんだな。アビの裾にまで泥はねしないように僕が気をつけてやらなくちゃ。アンドレはぐるぐると考えを先回りさせた。
誰に教えられたわけではない。マロン直系の血の仕業である。
「ばかだなあ、それを聞くか」
ポーズから読み取ったのと一字一句違わないセリフをお嬢様が吐いたので、アンドレは思わずくすり、と笑ったが、お嬢様は怪訝そうに顔を近づけて来た。
「あれ、泣いていたのか」
「泣いてないよ」
お嬢様はふーん、と顎を上げアンドレの周りをゆっくりと一周した。
「誰かに乱暴されたわけではなさそうだな。話はあとで聞こう。今は腹を空かせたレディたちが騒ぎ出す方が恐ろしいから、それを運んでぼくたちも急いで腹ごしらえだ」
アンドレは眉をハの字に下げた。祖母が気に留めることのなかったアンドレの心模様に末のお嬢様が関心を寄せてくれた。『あとで聞く』と言った以上、彼女が絶対に忘れないことをこの4か月の付き合いでアンドレは知っていた。
逆に、大人の『あとで聞く』がほぼ100%信用できないことも。言い換えれば、彼女はアンドレが泣いていた理由を白状するまで許してくれないのだろうけれど、心の中がほこほこした。
「バスケットの取っ手を片方ぼくによこせ」
「うん」
「お?今日はすぐいう事を聞くんだな」
「その方が早いでしょ」
「わかって来たようだな」
お嬢様は満足そうに頷くと、豪快にからからと笑った。そして、アンドレからバスケットの取っ手を片方もぎ取ると、すぐにでも駆け出しそうな構えを見せた。
「急ごう。走るぞ」
「だめだよ、道がぬかるんでいる。泥がはねちゃうよ、オスカル。着替えてないだろ」
「ああああ、ばあやみたいなことを言う」
「そこまでひどくないよ、だいいいち…」
アンドレは笑顔になったが、歩くペースは断固として譲らない。重いバスケットを介して攻防戦が始まった。
「こんな言葉遣いしていたら、絶対にヤキだ」
「あははは、おまえもたいへんだな!だが、アンドレ、今日はチャンスだぞ。ばあやは忙しい、家庭教師も今日は来ない。時間を気にせず遊べるんだ」
「ぼく、遊び相手でいいの?剣の相手が欲しいんじゃなかったっけ?」
「意地の悪い事を言うな、早く!食事の時間も惜しい!」
二人の子供は弾けるように笑った。重いバスケットを落とさずにオランジュリーへ辿りつけたのは殆ど奇跡だった。
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新シリーズのアップ、ありがとうございます!もしかして、このお話は、狼谷村へアンドレが一人で帰っちゃった時のお話でしょうか。…もしそうなら、すっごく嬉しいです!! 私、暁シリーズのあのエピソード、心に染み込んでまして、google mapでアンドレが歩いた道をチェックしてしまったくらい。これからアップ頂く続きを、心待ちにしてしております。
ぶうとんさま
大当たりです!即そのエピソードと繋げてくださるなんて、わたしの方こそ感動です。google map 私もよく見て想像を膨らましますが、狼谷村を設定したヴァンセンヌの森と大きく蛇行したマルヌ川の間のあたりって、谷も山もないんですよね~。パリからあまり離したくなかったのでそんな設定になりました。今年中に完結できるように頑張ります!
大当たりです!即そのエピソードと繋げてくださるなんて、わたしの方こそ感動です。google map 私もよく見て想像を膨らましますが、狼谷村を設定したヴァンセンヌの森と大きく蛇行したマルヌ川の間のあたりって、谷も山もないんですよね~。パリからあまり離したくなかったのでそんな設定になりました。今年中に完結できるように頑張ります!
出会いからはじまる幼少期のお話も好きです。
なにもかも持ってるけど立場的に孤独なとこもあるお嬢さまと母を亡くしやはり孤独な少年が心を通わせる。
母が恋しいよね、うんうん(T-T)
お嬢さまにアンドレがいてくれて本当に良かったと思います。
振り回されながらも自分の意見が言えるアンドレ。
そこまでひどくないよ、ってばあや、口うるさいの専売特許になってるけど、ばあやとアンドレに愛されることでバランスをとりオスカルさまが真っ直ぐに成長したんだろうなあと思います。
なにもかも持ってるけど立場的に孤独なとこもあるお嬢さまと母を亡くしやはり孤独な少年が心を通わせる。
母が恋しいよね、うんうん(T-T)
お嬢さまにアンドレがいてくれて本当に良かったと思います。
振り回されながらも自分の意見が言えるアンドレ。
そこまでひどくないよ、ってばあや、口うるさいの専売特許になってるけど、ばあやとアンドレに愛されることでバランスをとりオスカルさまが真っ直ぐに成長したんだろうなあと思います。
まここさま
そこまでひそくないよ、ってアンドレも子供ながら自分も口うるさくなりつつあることを自覚している台詞なんです。仰るとおり、誰かが厳しいと誰かが優しくして、誰かが口うるさいと誰かが寛大で、オスカルさまが幼いうちから当主教育を厳しく受けると、ちゃんと甘やかす人も存在するんですよね。祖母が厳しいアンドレにも、逆の甘やかし係の存在がある、そんな設定で書きました。
そこまでひそくないよ、ってアンドレも子供ながら自分も口うるさくなりつつあることを自覚している台詞なんです。仰るとおり、誰かが厳しいと誰かが優しくして、誰かが口うるさいと誰かが寛大で、オスカルさまが幼いうちから当主教育を厳しく受けると、ちゃんと甘やかす人も存在するんですよね。祖母が厳しいアンドレにも、逆の甘やかし係の存在がある、そんな設定で書きました。
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