ジャルジェ邸の裏庭に面する石造りの階段を6段ほど下がると、シンプルだががっしりとした一枚板の扉がある。使用人の出入り専用に利用される裏口で、半地下の厨房に繋がっている扉だ。
夕方から夜にかけて本格的な雪になり、すでに足首が埋まるほど積もっている。朝まで放置していたら、早朝の出入りに支障をきたすに違いない。アンドレは階段から裏庭に抜ける通路と井戸周り、半地下にある食材貯蔵庫前のあたりまで雪をかいてから、中に入ることにした。
雪かきを終えたアンドレが使用人用のダイニングと厨房に入ると、ありがたいことに窯の火は落とされる前で、室内は程よく暖かかった。良かった。濡れた上着もここで乾かしてしまおう。アンドレは上着を脱いで外套とともに食堂の素朴な椅子にかけた。
「今日は早かったんだな」
いきなり聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。アンドレの心臓が跳ね上がる。足音なんぞ聞こえなかったぞ。目をこらすと、木目が剥き出しの大テーブルのど真ん中に座る金色の人型が炉のぼんやりした光を背にぼうっと浮き上がって見えた。
「おまえ、そこに居たのか。脅かすなよ」
こんな所におまえが居たら台所を預かるおばちゃん達が困るだろうと、アンドレは言いかけて止めた。待っていてくれたんだ。今朝の落とし前をつけるために待ち構えていた、のかも知れないが、どちらにしても、冷え切った身体が芯の方から暖かくなった。
「うん、ただいま。本格的な降りになってきたしね」
そこに座れと手で合図を送られたのでアンドレはオスカルの向かいに腰を降ろした。するとやおら立ち上がったオスカルは、危なっかしい手つきで種火がちょろちょろとくすぶっている窯に置かれたポットからカフェを注ぎ、手渡してくれようとしている。
え?
目の前で起きている出来事を解析するのを頭が拒んでいる。未だかつて経験したことのない何かが起きている。唖然としたアンドレは手を出すことすら思いつかず、オスカルを見つめていた。
「ほら、しっかり持て。暖まるぞ」
オスカルは照れくさそうに言ってそっぽを向いた。ああ、危ないったら!アンドレは慌ててカップを受け取るために足早にテーブルの向こうへ回った。空いた方の右手はオスカルからポットを取り上げる。
「ありがとう、暖まるよ。おまえが入れてくれたのか?」
「違う」
オスカルは憮然として黙ってしまった。本当だ、煮詰まっている。いつ煎れたやつだこれ。全然かまわないけど。アンドレは温かいけれど、舌が痺れるほど苦い黒い液体を口にした。幸せの形はいろいろだよな、苦い悪魔の形でもやってくる。と感動しながら。
そのまま暫らく2人テーブルに並んで座ったまま口をつぐんでいた。降りしきる雪が音という音を包み込み、心のざわつきまで鎮めてくれる。炉の周りには淡い光の輪が暖かく浮き上がっていた。
静かにその空間に溶け込んでいると、ここだけがこの世界の全てで在るような感覚に包まれる。時折きしきしっと木部の梁が音を立てると、オスカルがぴくんと背を震わせた。
そう言えば昔から好きじゃなかったよな、この音。アンドレは声を掛けようとして、思い直した。破ってしまうのが勿体無いような静寂だった。
オスカルが訳もなくこんなに彼女らしくない事をするはずもなく、きっと、何か言いたいことがあるに違いない。もう少しこのまま待っていてみよう。アンドレは静寂に身を任せた。
オスカルが急にカタンと音を立てて立ち上がった。
「寝る」
「え?」
ちょっとした嵐を予感していたアンドレが小さく声を上げた。待っていてくれた訳ではなかったのかな。肩透かしをくったような感だが、アンドレはそれ以上問うこともなく、静かに答えた。
「そうか、お休み。カフェをありがとう」
「え?」
今度はオスカルが凍結した。
再び沈黙。しかし今度はさほど長くはなかった。アンドレが噴出してしまったから。
「わ、笑うなアンドレ!」
「あ、はは…は、ごめんごめん。…ぷーっ」
「失敬なやつだな、おまえは」
「悪かったって、せっかく待っていてくれたのにな。まあ座れよ、今度はおれが何か煎れてやるから。寝る前だからカフェ・オ・レにしよう」
アンドレはまだ少しポットに残る煮詰まったカフェを自分のカップに注ぐと一気に飲み干し、空になったポットを水差しの水で軽くすすぎ、湯を沸かしにかかった。別に待っていたわけではないとか何とかオスカルはごにょごにょ言ったが、そんなのは想定内なのでアンドレはにこやかに無視した。
オスカルはアンドレの手元をじっと見ていたが、視線を感じたアンドレが振り向くとそっぽを向く。妙に可笑しいのをこらえてアンドレは背を向けたまま問い掛けた。
「どうした?」
「何でもない」
「そうか」
「……」
「今日はやさしいんだな」
「気味が悪いか?」
「いいや、嬉しいよ」
「肩…、どんな具合だ」
湯気の上がるカップをオスカルの前に置き、アンドレはオスカルと向かい合ってテーブルに掛けた。
「大丈夫だよ」
「見せてみろ」
「え、いいよ、ちゃんと処置してもらったから」
「今朝、父上が傍にいなかったら…」
「いなかったら?」
「ちゃんと心配してやれたんだが…」
情けなさそうに眉根を寄せてから、オスカルは力なくやっと微笑んだ。
今日は隊本部に着くやないなや、凍結路で横転した大型乗合馬車の相次ぐ事故処理に追われた。殆どが無理な改造した車体に規定以上の人間と荷を搭載していたものだった。あまりの慌しさに互いに口を利く暇もないまま1日が終わった。
「それを心配していてくれたのか。馬にも普通に乗れるし、雪もかいたし、ほら」
身体も心もすっかり温まり、このちょっとしたひと時が幸福だった。多少痛かったけれど、アンドレは肩をぐるぐると回して見せ、大丈夫を強調した。本当は紫色に腫れあがっているのだが。
オスカルはそんなアンドレをなにやら割り切れないような面持ちで見ていたが、一つ小さな息をつくと今度は少しばかり挑戦的な光を目に浮かべた。
「それに、おまえときたらまた姉上の所へ呼ばれて行ってしまうし…珍しく今日のうちに帰ってきたが」
「うん、まあ…今日は前から約束していたからな。雪で帰れなくなる前に失礼してきたんだ」
オスカルはアンドレが入れてくれたカフェ・オ・レをゆっくり味わいながら、意味あり気な視線を投げてよこした。
「おまえが入れるお茶は確かに美味しいな。姉上が大切な客人の来訪の度におまえを借りたがるのも無理はない」
アンドレも頬杖をついて頭を低くし、オスカルを覗き込む。
「言葉通りに受け取ってよろしいですか?」
オスカルは皮肉っぽく笑みを返す。
「何故そう思う?」
あ、この顔好きだ。オスカルが一番生気に満ちて見える。アンドレは遠慮なく好みの一品をまじまじと愛でた。自然に頬がほころんでしまう。
「……」
一方、目一杯厳しい目つきをして見せたのに、にやけ出した相棒をオスカルはねめつけた。
「何だよ」
「非常に不自然な申し出だと思わないか?」
互いに少しずつ斜めに向き合いながら、仲良く同じ姿勢で肘をつき、相手の出方を注意深く観察し合う。
「実はおれもそう言ってはみたんだが」
「ところが姉上は引かない、か。なんだやっぱりただの口実だな」
「よくわかるな、さすが姉妹だけある」
「おまえのことも良くわかるぞ」
「おお、神よ哀れみたまえ。わたしの主人は恐ろしい人です」
だんだん芝居がかってきた。こらえ切れなくなり二人からくすくすと笑いが漏れ始める。
「おまえ、姉上に何か弱みを握られたな?」
「察しがいいので助かる」
「あっさり認めたな、どんな弱みだ」
「おまえと共通の弱み」
嬉しそうにアンドレに絡んでいたオスカルが息を詰めた。
「……!」
「心配するな。おまえの分までおれが体で支払っているから」
ぶっとオスカルが飲み物を噴出し、アンドレの顔面を直撃する。
「わ~っ何をするっ」
「へ、変な言い方をするな!」
「しっ!オスカル!静かに」
「おまえこそ!」
思わず出してしまった大声に二人は慌てて声を潜める。そしてひそひそ声で再びやり取りが開始された。
「まだ、他にも隠していることがあるだろう」
「お、ついに本題に入ったか」
顔を拭き拭きアンドレが応戦姿勢をとった。オスカルは言葉を選びながらアンドレを崩しにかかる。
「今朝…、いや今朝だけじゃない。時々マルタと何やら連絡を取り合っているな。あの紙切れは何だ?」
「おまえの出仕が不規則なんだから連絡ぐらい取り合うよ。あのメモ、取り上げた後に見たんじゃないのか?」
「おまえの反応を見ようと思って抜いたんだ。盗み見はしたくない」
「なるほど。不意打ちは盗み見よりは卑怯ではないと」
「挑発しようったってその手には乗らん。なぜ隠そうした」
おや、やるな。かっとして横道にそれると思ったアンドレの思惑は外れた。敵は冷静である。
「別に隠す必要なんかなかったさ、業務連絡だよ。降誕祭が近いからパリに出ることの多いおれに皆何かと用事を言いつけるんだ。おまえにいちいち言わないのは…これは使用人レベルの要件だから。それだけだよ」
オスカルは、はっと息を呑むと後悔の色を浮かべた。
「あ…、す、済まない…」
済まながる事なんかないのに。オスカルの中に芽生える変化を垣間見た気がするアンドレだった。身分の違いを実感するなど、今に始まったことではかったし、一々動揺していては当主は務まらない。
幼少の頃から、オスカルが等身大で心を通わせる相手を欲していた事は事実だが、時と場合によって、立場の違いを明確に線引きすることに折り合いはついているはずだ。
それとも、納得し切れなくなってきたのだろうか。それは今のオスカルが置かれている状況においては、辛い事かもしれない、とアンドレも少なからず切なく思った。
「それなのに何故おれがおまえを追ったか、と言うと…」
アンドレは務めて明るく言った。元気をだせオスカル!
「あのね、猫はネコジャラシが欲しくて飛びつくんじゃないんだ。追うのが楽しいの」
オスカルは誘いに乗った。
「ほお、おまえは猫並に単純なのだな」
そうそう、その調子だ、オスカル。アンドレは目を細めた。
「ハイどうぞごゆっくりご覧下さい、なんて言われたら拍子抜けだろ?あの場合はやっぱり追いかけるってもんでしょう」
「成る程、わたしの期待に応えてくれたわけだ。うまく繋いでいるな、アンドレ」
「繋ぐも何もおれは本当のことしか言っていない」
「ふん、一部の事実を選んで言っているだけだろうがな。では、おまえは本当のことしか言わないんだな」
「おまえに嘘はつかないよ」
「そうか」
オスカルはそれでは、と言わんばかりに体勢を立て直した。
「謀(はかりごと)があるだろう」
そう言って注意深く相方の出方を待つ構えを見せる。嘘はつかないと言ったばかりの男に。アンドレは極めて自然に、天気の話をするかのように答えた。
「あるよ」
一気にオスカルを襲う脱力感。攻撃の間があいた。アンドレはニコニコしながら次の問いを待っている。
「目的はなんだ」
オスカルの語気は戦意喪失を白状しているようなものだった。アンドレが公然と居直るときに聞いたって言いっこないのだ。
「言うわけないだろ」
「そう来ると思った」
アンドレは冷めてしまったカフェ・オ・レを入れ換えてやりながら、ほら見ろと言わんばかりに笑った。
「な、がっかりしただろ?あっさり認められては面白くも何ともないよな」
本当に。アンドレのネコジャラシ論は正しかった。しかし、隠し事は隠し事である。オスカルは拗ねた。
「陰謀の中身は言わないじゃないか」
「陰謀!大げさな!おまえの気が晴れるならいくらでも話してやるけど、今明かされても面白くないと思うけどな。気になるなら暴いてみろよ」
「いいんだな」
オスカルがぴくり、と眉をあげた。アンドレには猫じゃらしにぴくっと反応する子猫の姿に見える。もとい、子虎だ。可愛いなあ、なんて言ったら怒るだろうな。
「簡単にはいかないぞ」
「ではこうしよう。おまえの様子では、その陰謀はいずれ明らかになるんだな?」
「その陰謀ってのは止めてくれよ。ああ、その通りだ、おまえにもそのうち分かる」
「ではわたしに明らかになるべき時までおまえが隠し通したら、おまえの勝ち。その前に私が秘密を暴いたら私の勝ち。どうだ?」
オスカルが再び生き生きとしてきた。
「全くおまえは勝負事になると水を得た魚だよな」
アンドレは大げさに感心して見せると、深く座り直してから面白そうにオスカルを見据えた。
「よし、お受けしましょう。で、勝者の褒美は?」
「考えておく」
「そっちの方が怖いな」
怖がってなどいない。完全に楽しんでいるのはアンドレも同じ。オスカルは両手でカップを包み込むようにしてカフェ・オ・レを満足そうに一口味わった。
「おまえが煎れるとやっぱり美味しいな」
「そうでしょう、そうでしょう」
アンドレは大きく頷いてから、オスカル、と慈しみをこめて幼馴染の名を呼んだ。駆け引き遊びは終了だ。聞いておかなければならないことがあった。
「おれに話せることなら話してくれないか?この頃のおまえは、迷路に迷い込んだ感じだ」
カップから立ち上る湯気のせいか、炉で燃え尽きる寸前の淡い光のせいか、向かい合うアンドレの顔も揺らいで見える。
そうだ、やたらアンドレに絡みたくなるのも…。本当は聞いて欲しいからだ。こんな何時ものパターンが彼に解らないわけが無い。でも言ってしまえば問わずにはいられなくなる問いがある。オスカルはその答えを彼から聞くのが怖かった。
ただ黙って自分を見つめるだけのオスカルに、アンドレは彼の最も暗い部分に触れた。
「オスカル、もし、おれのせいなら…」
「違う!おまえのせいなどではない。ただ,うまく言えないんだ」
「うまく言わなくたっていいよ。ちゃんと分かるから」
オスカルは片肘を突くと、こめかみのあたりから五本の指を髪に滑り込ませ、自分の頭を支えた。きしっと太い天井の胡桃の大梁がかすかな音をさせる。アンドレと目が合った。話してみようか。分かっているところから。オスカルは言葉を捜した。
「パリで襲われた時、生まれて初めて激しい憎悪の対象になって、自分が彼らにとってどんな存在なのかを知った。報告や視察で分かっているつもりだった現実と、実際の体験は全く違っていて、正直愕然とした。わたしはいつもそうなんだ」
言葉を探していると、アンドレが言葉にできない思いまで感じ取ろうとしてくれていることがわかる。それだけで胸の奥を立ち塞いでいた重さがふわりと消えた。アンドレは時々こんな魔法を使う。
言葉が流れ出す。自分は何を言っても受け入れられる場所にいる。
「人間が人間の流血に狂喜するさまが恐ろしかった。彼らにとって、特権階級にいるものは最後の血の一滴までもを、辱め踏みにじっても足りぬほど、邪悪で許しがたいものなのだ。そんな現実の前にはわたし個人の思いなど何の意味もない。そうだろう?」
アンドレはじっと耳を傾けていたが、オスカルの思いをそのまま取り込もうとするように目を閉じ大きく息を吸った。
オスカルは続けた。
「それならそれでもいい。我々の生活が彼らからの搾取で成り立っているのは事実だ。淘汰されるもべきのは淘汰される、それでいい。でもあの時刃を受けたのはおまえだった」
アンドレは目を開いた。オスカルはアンドレの左わき腹を目で辿っている。逆上したパリ市民達の一人が手にした錆びた鎌が深く食い込んだ場所。傷も深かったが、不潔な刃物による感染症で一時は死線をさまよったアンドレだった。傷は癒えたが、彼は皮膚感覚を一部失った。
「わたしの傍にいれば、また同じことが起きる。おまえにはいわれのないことだ。それでもおまえはまた、躊躇せずにわたしの前に飛び出すのだろう?」
真剣な、どこまでも澄んだ蒼い眼差しが問い掛けていた。この瞳の前で、正直に心にあるものを見せる以外の何が出来るだろうか。アンドレは注意深く自分の抱く思いを言い表わす言葉を探した。
「大切なものを守りたいという心の底からの叫びには抗えないけど、あの時の…怪我をして意識が無くなって目覚めた時に見たおまえの顔。忘れないよ。おまえの命だけでなく自分の命も軽んじてはいけないこと、自分の命をないがしろにするのは、命の価値に優劣をつけることだとおまえが教えてくれた」
アンドレはオスカルの手を両手で包んだ。その指の1本1本を確かめる。温かく血の通う弾力のあるきめの細やかな肌。機敏な動き。その上に重ねられた自分の手の無骨さ。大きさも動きも表情も違うけれど、同じ命が宿る。
「だから、もう昔のように自棄になったりはしない。おまえは何よりも大切だけど、おれの命もおまえと同じ重さがある。それを知っていれば、取る行動も自ずと変わってくるよ。そうだ、おれはおまえに謝らなくては」
「え?」
「おれはおまえを追い詰めていただろう?」
どういうことだろう。暖かい手が自分の手を包んでいる。追い詰められたことなどあっただろうか。問い返すように見返してくるオスカルに、アンドレは静かに続けた。
「おれがおまえのために命をかけると誓ったのはまだ10代のときだ。長いことそう思って生きてきて…。口に出さずともおまえが感じないはずはない。目を怪我したときも、おまえにそう思わせてしまったはずだ。何時の間にか、命がけになることが目標になってしまった。それではおまえは安まらない。そうじゃなかったか?」
そうかもしれない…。アンドレがいつかその身を投げ出すのではという恐怖、自分が彼を傷つけるばかりという自責。今でも感じる。傍に置いておけば、彼を失う日が来るという不安。
「うん…おまえが傷つく度に、自分を責めた」
「そうだよな、ずっと気づいてやれなくてごめん。自分勝手な思い込みだった。これからは考え得る限りの最善を、としか約束できないけど、生きるための選択をする。これで、答えになるだろうか、オスカル。おまえは自由に動けるだろうか」
オスカルがもう一方の手を伸ばしてアンドレの手に重ねた。
「うん…」
目の前のよく知っているはずの男が、こんなにも自分の意思で一瞬一瞬をどう生きるか選び取っているとは知らなかった。自分がこの男の人生を支配するなどありえないことをオスカルは知った。まして社会的な枠が、アンドレがそうあろうと選ぶ姿を左右することなど。
誰も誰かを支配したりはしないのだ。オスカルに重く覆い被さっていた拘束感が薄らいでいく。心のままに決める。まだ行き先はわからないけれど、正直な自分の声に従うことは大事なひとを縛ったり傷つけたりするどころか、より多くを分かち合うことができるのだ。アンドレ、おまえこそわたしにそれを教えてくれた。わたしはわたし。それでいい。
「凄いな」
アンドレが驚いたようにオスカルを見ていた。
「見る間に変わっていく。外見が変わるわけではないけど、何ていうか…おまえの放つ生きる力とか希望の光とか、そういうものに色や香りがあったなら、それがどんどん美しく変化していく。そんな感じだ。何か…答えを見つけたな?」
ぽんぽんとオスカルの手を叩き、包むような動作を繰り返しながら、アンドレが賞賛一杯の眼差しを向ける。
「うん…」
オスカルは一言だけ短く答えた。今、この一瞬。あまりにも豊かで満ち足りて、置き換える言葉が見つからなかった。掌からなら伝えられそうな気がして、オスカルはもう一度、アンドレの手を強く握りしめた。
~To be continued ~
夕方から夜にかけて本格的な雪になり、すでに足首が埋まるほど積もっている。朝まで放置していたら、早朝の出入りに支障をきたすに違いない。アンドレは階段から裏庭に抜ける通路と井戸周り、半地下にある食材貯蔵庫前のあたりまで雪をかいてから、中に入ることにした。
雪かきを終えたアンドレが使用人用のダイニングと厨房に入ると、ありがたいことに窯の火は落とされる前で、室内は程よく暖かかった。良かった。濡れた上着もここで乾かしてしまおう。アンドレは上着を脱いで外套とともに食堂の素朴な椅子にかけた。
「今日は早かったんだな」
いきなり聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。アンドレの心臓が跳ね上がる。足音なんぞ聞こえなかったぞ。目をこらすと、木目が剥き出しの大テーブルのど真ん中に座る金色の人型が炉のぼんやりした光を背にぼうっと浮き上がって見えた。
「おまえ、そこに居たのか。脅かすなよ」
こんな所におまえが居たら台所を預かるおばちゃん達が困るだろうと、アンドレは言いかけて止めた。待っていてくれたんだ。今朝の落とし前をつけるために待ち構えていた、のかも知れないが、どちらにしても、冷え切った身体が芯の方から暖かくなった。
「うん、ただいま。本格的な降りになってきたしね」
そこに座れと手で合図を送られたのでアンドレはオスカルの向かいに腰を降ろした。するとやおら立ち上がったオスカルは、危なっかしい手つきで種火がちょろちょろとくすぶっている窯に置かれたポットからカフェを注ぎ、手渡してくれようとしている。
え?
目の前で起きている出来事を解析するのを頭が拒んでいる。未だかつて経験したことのない何かが起きている。唖然としたアンドレは手を出すことすら思いつかず、オスカルを見つめていた。
「ほら、しっかり持て。暖まるぞ」
オスカルは照れくさそうに言ってそっぽを向いた。ああ、危ないったら!アンドレは慌ててカップを受け取るために足早にテーブルの向こうへ回った。空いた方の右手はオスカルからポットを取り上げる。
「ありがとう、暖まるよ。おまえが入れてくれたのか?」
「違う」
オスカルは憮然として黙ってしまった。本当だ、煮詰まっている。いつ煎れたやつだこれ。全然かまわないけど。アンドレは温かいけれど、舌が痺れるほど苦い黒い液体を口にした。幸せの形はいろいろだよな、苦い悪魔の形でもやってくる。と感動しながら。
そのまま暫らく2人テーブルに並んで座ったまま口をつぐんでいた。降りしきる雪が音という音を包み込み、心のざわつきまで鎮めてくれる。炉の周りには淡い光の輪が暖かく浮き上がっていた。
静かにその空間に溶け込んでいると、ここだけがこの世界の全てで在るような感覚に包まれる。時折きしきしっと木部の梁が音を立てると、オスカルがぴくんと背を震わせた。
そう言えば昔から好きじゃなかったよな、この音。アンドレは声を掛けようとして、思い直した。破ってしまうのが勿体無いような静寂だった。
オスカルが訳もなくこんなに彼女らしくない事をするはずもなく、きっと、何か言いたいことがあるに違いない。もう少しこのまま待っていてみよう。アンドレは静寂に身を任せた。
オスカルが急にカタンと音を立てて立ち上がった。
「寝る」
「え?」
ちょっとした嵐を予感していたアンドレが小さく声を上げた。待っていてくれた訳ではなかったのかな。肩透かしをくったような感だが、アンドレはそれ以上問うこともなく、静かに答えた。
「そうか、お休み。カフェをありがとう」
「え?」
今度はオスカルが凍結した。
再び沈黙。しかし今度はさほど長くはなかった。アンドレが噴出してしまったから。
「わ、笑うなアンドレ!」
「あ、はは…は、ごめんごめん。…ぷーっ」
「失敬なやつだな、おまえは」
「悪かったって、せっかく待っていてくれたのにな。まあ座れよ、今度はおれが何か煎れてやるから。寝る前だからカフェ・オ・レにしよう」
アンドレはまだ少しポットに残る煮詰まったカフェを自分のカップに注ぐと一気に飲み干し、空になったポットを水差しの水で軽くすすぎ、湯を沸かしにかかった。別に待っていたわけではないとか何とかオスカルはごにょごにょ言ったが、そんなのは想定内なのでアンドレはにこやかに無視した。
オスカルはアンドレの手元をじっと見ていたが、視線を感じたアンドレが振り向くとそっぽを向く。妙に可笑しいのをこらえてアンドレは背を向けたまま問い掛けた。
「どうした?」
「何でもない」
「そうか」
「……」
「今日はやさしいんだな」
「気味が悪いか?」
「いいや、嬉しいよ」
「肩…、どんな具合だ」
湯気の上がるカップをオスカルの前に置き、アンドレはオスカルと向かい合ってテーブルに掛けた。
「大丈夫だよ」
「見せてみろ」
「え、いいよ、ちゃんと処置してもらったから」
「今朝、父上が傍にいなかったら…」
「いなかったら?」
「ちゃんと心配してやれたんだが…」
情けなさそうに眉根を寄せてから、オスカルは力なくやっと微笑んだ。
今日は隊本部に着くやないなや、凍結路で横転した大型乗合馬車の相次ぐ事故処理に追われた。殆どが無理な改造した車体に規定以上の人間と荷を搭載していたものだった。あまりの慌しさに互いに口を利く暇もないまま1日が終わった。
「それを心配していてくれたのか。馬にも普通に乗れるし、雪もかいたし、ほら」
身体も心もすっかり温まり、このちょっとしたひと時が幸福だった。多少痛かったけれど、アンドレは肩をぐるぐると回して見せ、大丈夫を強調した。本当は紫色に腫れあがっているのだが。
オスカルはそんなアンドレをなにやら割り切れないような面持ちで見ていたが、一つ小さな息をつくと今度は少しばかり挑戦的な光を目に浮かべた。
「それに、おまえときたらまた姉上の所へ呼ばれて行ってしまうし…珍しく今日のうちに帰ってきたが」
「うん、まあ…今日は前から約束していたからな。雪で帰れなくなる前に失礼してきたんだ」
オスカルはアンドレが入れてくれたカフェ・オ・レをゆっくり味わいながら、意味あり気な視線を投げてよこした。
「おまえが入れるお茶は確かに美味しいな。姉上が大切な客人の来訪の度におまえを借りたがるのも無理はない」
アンドレも頬杖をついて頭を低くし、オスカルを覗き込む。
「言葉通りに受け取ってよろしいですか?」
オスカルは皮肉っぽく笑みを返す。
「何故そう思う?」
あ、この顔好きだ。オスカルが一番生気に満ちて見える。アンドレは遠慮なく好みの一品をまじまじと愛でた。自然に頬がほころんでしまう。
「……」
一方、目一杯厳しい目つきをして見せたのに、にやけ出した相棒をオスカルはねめつけた。
「何だよ」
「非常に不自然な申し出だと思わないか?」
互いに少しずつ斜めに向き合いながら、仲良く同じ姿勢で肘をつき、相手の出方を注意深く観察し合う。
「実はおれもそう言ってはみたんだが」
「ところが姉上は引かない、か。なんだやっぱりただの口実だな」
「よくわかるな、さすが姉妹だけある」
「おまえのことも良くわかるぞ」
「おお、神よ哀れみたまえ。わたしの主人は恐ろしい人です」
だんだん芝居がかってきた。こらえ切れなくなり二人からくすくすと笑いが漏れ始める。
「おまえ、姉上に何か弱みを握られたな?」
「察しがいいので助かる」
「あっさり認めたな、どんな弱みだ」
「おまえと共通の弱み」
嬉しそうにアンドレに絡んでいたオスカルが息を詰めた。
「……!」
「心配するな。おまえの分までおれが体で支払っているから」
ぶっとオスカルが飲み物を噴出し、アンドレの顔面を直撃する。
「わ~っ何をするっ」
「へ、変な言い方をするな!」
「しっ!オスカル!静かに」
「おまえこそ!」
思わず出してしまった大声に二人は慌てて声を潜める。そしてひそひそ声で再びやり取りが開始された。
「まだ、他にも隠していることがあるだろう」
「お、ついに本題に入ったか」
顔を拭き拭きアンドレが応戦姿勢をとった。オスカルは言葉を選びながらアンドレを崩しにかかる。
「今朝…、いや今朝だけじゃない。時々マルタと何やら連絡を取り合っているな。あの紙切れは何だ?」
「おまえの出仕が不規則なんだから連絡ぐらい取り合うよ。あのメモ、取り上げた後に見たんじゃないのか?」
「おまえの反応を見ようと思って抜いたんだ。盗み見はしたくない」
「なるほど。不意打ちは盗み見よりは卑怯ではないと」
「挑発しようったってその手には乗らん。なぜ隠そうした」
おや、やるな。かっとして横道にそれると思ったアンドレの思惑は外れた。敵は冷静である。
「別に隠す必要なんかなかったさ、業務連絡だよ。降誕祭が近いからパリに出ることの多いおれに皆何かと用事を言いつけるんだ。おまえにいちいち言わないのは…これは使用人レベルの要件だから。それだけだよ」
オスカルは、はっと息を呑むと後悔の色を浮かべた。
「あ…、す、済まない…」
済まながる事なんかないのに。オスカルの中に芽生える変化を垣間見た気がするアンドレだった。身分の違いを実感するなど、今に始まったことではかったし、一々動揺していては当主は務まらない。
幼少の頃から、オスカルが等身大で心を通わせる相手を欲していた事は事実だが、時と場合によって、立場の違いを明確に線引きすることに折り合いはついているはずだ。
それとも、納得し切れなくなってきたのだろうか。それは今のオスカルが置かれている状況においては、辛い事かもしれない、とアンドレも少なからず切なく思った。
「それなのに何故おれがおまえを追ったか、と言うと…」
アンドレは務めて明るく言った。元気をだせオスカル!
「あのね、猫はネコジャラシが欲しくて飛びつくんじゃないんだ。追うのが楽しいの」
オスカルは誘いに乗った。
「ほお、おまえは猫並に単純なのだな」
そうそう、その調子だ、オスカル。アンドレは目を細めた。
「ハイどうぞごゆっくりご覧下さい、なんて言われたら拍子抜けだろ?あの場合はやっぱり追いかけるってもんでしょう」
「成る程、わたしの期待に応えてくれたわけだ。うまく繋いでいるな、アンドレ」
「繋ぐも何もおれは本当のことしか言っていない」
「ふん、一部の事実を選んで言っているだけだろうがな。では、おまえは本当のことしか言わないんだな」
「おまえに嘘はつかないよ」
「そうか」
オスカルはそれでは、と言わんばかりに体勢を立て直した。
「謀(はかりごと)があるだろう」
そう言って注意深く相方の出方を待つ構えを見せる。嘘はつかないと言ったばかりの男に。アンドレは極めて自然に、天気の話をするかのように答えた。
「あるよ」
一気にオスカルを襲う脱力感。攻撃の間があいた。アンドレはニコニコしながら次の問いを待っている。
「目的はなんだ」
オスカルの語気は戦意喪失を白状しているようなものだった。アンドレが公然と居直るときに聞いたって言いっこないのだ。
「言うわけないだろ」
「そう来ると思った」
アンドレは冷めてしまったカフェ・オ・レを入れ換えてやりながら、ほら見ろと言わんばかりに笑った。
「な、がっかりしただろ?あっさり認められては面白くも何ともないよな」
本当に。アンドレのネコジャラシ論は正しかった。しかし、隠し事は隠し事である。オスカルは拗ねた。
「陰謀の中身は言わないじゃないか」
「陰謀!大げさな!おまえの気が晴れるならいくらでも話してやるけど、今明かされても面白くないと思うけどな。気になるなら暴いてみろよ」
「いいんだな」
オスカルがぴくり、と眉をあげた。アンドレには猫じゃらしにぴくっと反応する子猫の姿に見える。もとい、子虎だ。可愛いなあ、なんて言ったら怒るだろうな。
「簡単にはいかないぞ」
「ではこうしよう。おまえの様子では、その陰謀はいずれ明らかになるんだな?」
「その陰謀ってのは止めてくれよ。ああ、その通りだ、おまえにもそのうち分かる」
「ではわたしに明らかになるべき時までおまえが隠し通したら、おまえの勝ち。その前に私が秘密を暴いたら私の勝ち。どうだ?」
オスカルが再び生き生きとしてきた。
「全くおまえは勝負事になると水を得た魚だよな」
アンドレは大げさに感心して見せると、深く座り直してから面白そうにオスカルを見据えた。
「よし、お受けしましょう。で、勝者の褒美は?」
「考えておく」
「そっちの方が怖いな」
怖がってなどいない。完全に楽しんでいるのはアンドレも同じ。オスカルは両手でカップを包み込むようにしてカフェ・オ・レを満足そうに一口味わった。
「おまえが煎れるとやっぱり美味しいな」
「そうでしょう、そうでしょう」
アンドレは大きく頷いてから、オスカル、と慈しみをこめて幼馴染の名を呼んだ。駆け引き遊びは終了だ。聞いておかなければならないことがあった。
「おれに話せることなら話してくれないか?この頃のおまえは、迷路に迷い込んだ感じだ」
カップから立ち上る湯気のせいか、炉で燃え尽きる寸前の淡い光のせいか、向かい合うアンドレの顔も揺らいで見える。
そうだ、やたらアンドレに絡みたくなるのも…。本当は聞いて欲しいからだ。こんな何時ものパターンが彼に解らないわけが無い。でも言ってしまえば問わずにはいられなくなる問いがある。オスカルはその答えを彼から聞くのが怖かった。
ただ黙って自分を見つめるだけのオスカルに、アンドレは彼の最も暗い部分に触れた。
「オスカル、もし、おれのせいなら…」
「違う!おまえのせいなどではない。ただ,うまく言えないんだ」
「うまく言わなくたっていいよ。ちゃんと分かるから」
オスカルは片肘を突くと、こめかみのあたりから五本の指を髪に滑り込ませ、自分の頭を支えた。きしっと太い天井の胡桃の大梁がかすかな音をさせる。アンドレと目が合った。話してみようか。分かっているところから。オスカルは言葉を捜した。
「パリで襲われた時、生まれて初めて激しい憎悪の対象になって、自分が彼らにとってどんな存在なのかを知った。報告や視察で分かっているつもりだった現実と、実際の体験は全く違っていて、正直愕然とした。わたしはいつもそうなんだ」
言葉を探していると、アンドレが言葉にできない思いまで感じ取ろうとしてくれていることがわかる。それだけで胸の奥を立ち塞いでいた重さがふわりと消えた。アンドレは時々こんな魔法を使う。
言葉が流れ出す。自分は何を言っても受け入れられる場所にいる。
「人間が人間の流血に狂喜するさまが恐ろしかった。彼らにとって、特権階級にいるものは最後の血の一滴までもを、辱め踏みにじっても足りぬほど、邪悪で許しがたいものなのだ。そんな現実の前にはわたし個人の思いなど何の意味もない。そうだろう?」
アンドレはじっと耳を傾けていたが、オスカルの思いをそのまま取り込もうとするように目を閉じ大きく息を吸った。
オスカルは続けた。
「それならそれでもいい。我々の生活が彼らからの搾取で成り立っているのは事実だ。淘汰されるもべきのは淘汰される、それでいい。でもあの時刃を受けたのはおまえだった」
アンドレは目を開いた。オスカルはアンドレの左わき腹を目で辿っている。逆上したパリ市民達の一人が手にした錆びた鎌が深く食い込んだ場所。傷も深かったが、不潔な刃物による感染症で一時は死線をさまよったアンドレだった。傷は癒えたが、彼は皮膚感覚を一部失った。
「わたしの傍にいれば、また同じことが起きる。おまえにはいわれのないことだ。それでもおまえはまた、躊躇せずにわたしの前に飛び出すのだろう?」
真剣な、どこまでも澄んだ蒼い眼差しが問い掛けていた。この瞳の前で、正直に心にあるものを見せる以外の何が出来るだろうか。アンドレは注意深く自分の抱く思いを言い表わす言葉を探した。
「大切なものを守りたいという心の底からの叫びには抗えないけど、あの時の…怪我をして意識が無くなって目覚めた時に見たおまえの顔。忘れないよ。おまえの命だけでなく自分の命も軽んじてはいけないこと、自分の命をないがしろにするのは、命の価値に優劣をつけることだとおまえが教えてくれた」
アンドレはオスカルの手を両手で包んだ。その指の1本1本を確かめる。温かく血の通う弾力のあるきめの細やかな肌。機敏な動き。その上に重ねられた自分の手の無骨さ。大きさも動きも表情も違うけれど、同じ命が宿る。
「だから、もう昔のように自棄になったりはしない。おまえは何よりも大切だけど、おれの命もおまえと同じ重さがある。それを知っていれば、取る行動も自ずと変わってくるよ。そうだ、おれはおまえに謝らなくては」
「え?」
「おれはおまえを追い詰めていただろう?」
どういうことだろう。暖かい手が自分の手を包んでいる。追い詰められたことなどあっただろうか。問い返すように見返してくるオスカルに、アンドレは静かに続けた。
「おれがおまえのために命をかけると誓ったのはまだ10代のときだ。長いことそう思って生きてきて…。口に出さずともおまえが感じないはずはない。目を怪我したときも、おまえにそう思わせてしまったはずだ。何時の間にか、命がけになることが目標になってしまった。それではおまえは安まらない。そうじゃなかったか?」
そうかもしれない…。アンドレがいつかその身を投げ出すのではという恐怖、自分が彼を傷つけるばかりという自責。今でも感じる。傍に置いておけば、彼を失う日が来るという不安。
「うん…おまえが傷つく度に、自分を責めた」
「そうだよな、ずっと気づいてやれなくてごめん。自分勝手な思い込みだった。これからは考え得る限りの最善を、としか約束できないけど、生きるための選択をする。これで、答えになるだろうか、オスカル。おまえは自由に動けるだろうか」
オスカルがもう一方の手を伸ばしてアンドレの手に重ねた。
「うん…」
目の前のよく知っているはずの男が、こんなにも自分の意思で一瞬一瞬をどう生きるか選び取っているとは知らなかった。自分がこの男の人生を支配するなどありえないことをオスカルは知った。まして社会的な枠が、アンドレがそうあろうと選ぶ姿を左右することなど。
誰も誰かを支配したりはしないのだ。オスカルに重く覆い被さっていた拘束感が薄らいでいく。心のままに決める。まだ行き先はわからないけれど、正直な自分の声に従うことは大事なひとを縛ったり傷つけたりするどころか、より多くを分かち合うことができるのだ。アンドレ、おまえこそわたしにそれを教えてくれた。わたしはわたし。それでいい。
「凄いな」
アンドレが驚いたようにオスカルを見ていた。
「見る間に変わっていく。外見が変わるわけではないけど、何ていうか…おまえの放つ生きる力とか希望の光とか、そういうものに色や香りがあったなら、それがどんどん美しく変化していく。そんな感じだ。何か…答えを見つけたな?」
ぽんぽんとオスカルの手を叩き、包むような動作を繰り返しながら、アンドレが賞賛一杯の眼差しを向ける。
「うん…」
オスカルは一言だけ短く答えた。今、この一瞬。あまりにも豊かで満ち足りて、置き換える言葉が見つからなかった。掌からなら伝えられそうな気がして、オスカルはもう一度、アンドレの手を強く握りしめた。
~To be continued ~
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