オスカルと同じサファイヤ色の瞳に、途方に暮れたアンドレの表情がくっきりと映った。
「じゃあ、こうしましょう、アンドレ!今、わたしが援助している音楽家の中でまだお披露目前の者を集めるわ。でも心配しないで。来年早々にはコンセール・スピリテュエル(*)にデヴュー予定の精鋭だから。でもまだ宮廷には上がった事はないし、あなた達との面識も一切ないから気も楽でしょう?」
ジャルジェ家の血筋の特徴が品よく整った顔立ちに凝縮した愛らしい金髪の貴婦人は、豊かな表情をくるくる変えて今にも踊りだしそうにはしゃいだ。
この人の際立った魅力は、美しい容姿以上に、“喜び上手”という才能にある。誰もがこの人の喜ぶ笑顔を見る為ためならついうっかり何でもしてしまいそうになるのだ。
いや、誓ってもいい。おれはこの人に惚れているわけではない、とアンドレは自分に言い訳した。この人にかかったら、誰もが彼女の望みを叶えたくなってしまうだろう。
しかし、これほどまでにオスカルそっくりの瞳で微笑まれた日には、アンドレの分は他の誰より悪い。
「クロチルドさま、そんな大掛かりな話ではなく、私はただ…」
ラヴェンダー色の薔薇の小花模様に白いレースの袖が目の前を行ったり来たりするたびにアンドレの鼻先を淡くローズマリーが香る。興奮した仕草なのになんとも優雅で絵になるしぐさは舞いのようだ。
ジャルジェ家の次女、クロチルドの私的な居間は、彼女の人なりをそのまま表していた。白を基調に薄い空色と落ち着いた金色で装飾彩色された羽目板は、その上にかけられたゴブラン織りのタピストリーに施された花輪模様の刺繍と色彩が統一されている。
暖炉も、ギリシャ風家具調度も、ロココ風味を一部取り入れた甘さを残しながらもシンプルな直線を多用し目に優しくゆったり寛がせてくれる。
「アンドレ!今日はこの間の件のお礼に来てくれたのでしょう?」
10歳も年上とは思えない少女のような笑みを向けられて、アンドレは彼女の掌の上に乗ってしまったことを悟る。このまま押し切られる運命か。
「はい、勤務状況が厳しく、自ら来られない失礼をお詫びしてきて欲しいと、オスカルからも言い付かっております。今回は失礼させていただきますが、クロチルドさまのお誕生日のお祝いには是非伺いたい、と」
多少嘘も混じるが、方便だ。オスカルは誕生祝の舞踏会に出るくらいなら、単独で訪問する。とにかく、オスカルの方に話題を振ることによって、何とか風向きを変えるべく、アンドレは軌道修正を必死で図ってみるのだが。
「オスカルがいないのはかえって好都合だわ!さあ、アンドレ!ゆっくり相談しましょう」
クロチルドはその可愛らしいかんばせに、ジャルジェ系特有の威厳を乗せて頷いた。つまり、アンドレはロックオンされたのだ。
「クロチルドさま、その話はお忘れになっていただけませんか?」
アンドレは一応最後の抵抗を試みた。
「いいこと?オスカルからの薔薇は見事だし、ばあやが焼いたガレットも懐かしい気分にしてくれるけど、一番のお礼はあなたのその計画に私を参加させる事よ。こんなに楽しい計画なんてめったにできるものではないわ」
反論の余地はなさそうだ。
「クロチルドさまの援助のお陰で才能が花開いた芸術家の活躍は多方面で聞き及ぶところにございます。それで、ついうっかり一日借りられる楽士をご存じないか、お尋ねしてしまった次第ですが、まさかクロチルド様のお手を直接煩わせるつもりではなかったのです。申し訳ありません」
一日だけ演奏を請け負ってくれるアンサンブルに心当りはないか、とつい尋ねてしまったのが間違いだった。その理由を根ほり葉ほり聞かれ、仕方なく白状したら、その計画全般を取り仕切りたいとクロチルドは目を輝かせたのだった。
あくまでも控えめに、白い薔薇のブーケに一粒の真珠を隠すような小さなはかりごとにしたかった。しかし、宮廷の化け猫貴族の裏をかくこと百戦錬磨であるはずのアンドレが、オスカルと同じ血を引く貴婦人を甘く見すぎた。結果、めでたく豪華打ち上げ花火の導火線に火をつけてしまったようだ。
恐縮しまくるアンドレに元気な貴婦人は、しかたのない子ねといった風に品良くため息をつき、子供に物語を話して聞かせる語り口で話し始めた。
「ねえ、アンドレ、ジャルジェ家は温かいでしょう?」
「はい」
「愛し合う夫婦のもとで育ったことや、生まれてから嫁ぐまでずっとお母様の膝元で教育を受けたことは、私たち姉妹の少女時代を素晴らしく豊かにしてくれたのよ。何物にも代えがたい宝物」
「はい」
「でもね、ジャルジェ家の外に嫁いでみると、私達姉妹が大切に思っている思い出の価値はわかってもらえないの。貴方なら…この意味わかるでしょう?」
「…わかります」
わかり過ぎるくらいだ。ずっとオスカルを見てきたのだから。
「ジャルジェ家を離れて貴族社会で長く暮らしていると、両親から学んだ人としての在り方はおかしいのでは、と錯覚してしまうことがあるの。社交界のみなさまの様に、愛人の見目を誇ったり、噂話に明け暮れたり、権力者に取り入ったり、したたかに生きる方が利口よね、なんて考えてしまうことがある。そんな生き方が空しいことはわかっていても。私達姉妹は多かれ少なかれ、みな同じような思いをしているはずよ」
アンドレはただじっと耳を傾けている。それだけなのに、クロチルドは話せば話すほど本音の部分を曝け出してしまう自分に驚いていた。こんな胸の内を話すつもりはなかったのに、アンドレを目の前にするとするすると心の内を話してしまう。
難しい子供だったオスカルが、彼を一目で気に入ったのはこんなところなのだ、とあらためて実感する姉は続けた。
「そんな風に、自分自身を見失ってしまいそうになる時、あなた達二人のことを思い出すの。そうすると、我に返ることができるのよ」
「え?」
思いがけないことを聞いたアンドレは目を見開いた。
「全幅の信頼で結ばれた貴方達2人は、あの虚構の世界にあって奇跡のようだったわ。何の計算もない純粋な絆を見る度に、やっぱり人に絶望するのは止めよう、愛する力を信じようと思い直すことができた。だって貴方達が生き証人ですもの」
クロチルドは、何か物言いたげな素振りをしたアンドレに目を細め、分かっているという風に頷いた。
「綺麗ごとばかりでは無かった、と言いたいのね?長い年月ですもの、それはいろいろあったでしょう、当然だわ」
「若くて未熟で、守るつもりが傷つけてしまったり、愚かな振る舞いの連続でした」
アンドレが微笑みながら過去形で語るのをクロチルドは微笑ましく聞いた。それでも乗り越えて来たことが聞かずともわかる。
「傷つく勇気を持っているのね、2人とも。だからどんな事があってもお互いから逃げようなどと考えずに、大切にできたのでしょう?」
「とても大切な存在であることは…それだけは…変わりませんでした。もっともっと他のやり方で大切にしたかったと悔やむことばかり思い出しますが」
悔やむと言いながらも全てを受入れて自分自身と和解した落ち着きが見える。いつの間にこんなに成長したのだろうか。少年の頃の素直な愛くるしい面影はそのまま、クロチルドの前にいるのは、成熟に近づきつつある大人の男だった。
「私達の中で、一番過酷な道を歩まなければならなかった末の妹が、一番豊かで人らしい感性を保ち続けて、私達を元気にしてくれるのは、貴方がいてくれたおかげね」
なんと過分な評価を受けてしまったのだろうと、アンドレは恥じ入った。
「私など、オスカルからは与えられるばかりでした」
そんなアンドレの恥じ入る素振りが、クロチルドを悪戯な少女に引き戻す。
「うふふ、そうかしら?彼女も同じように思っているのではなくて?少なくともこの間、パリで襲われて怪我をした貴方をオスカルが担ぎ込んでからは、私にはそうとしか見えなくてよ?」
「クロチルドさま」
「あら、ごめんなさい。困らせるつもりではないの」
いや、いろいろな意味で充分困ることになりそうな予感がおおありだ。アンドレの背筋に、再び冷や汗が流れた。
「だから、迷惑ではないの。私達の大切な意地っ張りの妹が大義より自分の気持ちを最優先する事を自分に許してやれるように、私からも贈り物をしてあげたいわ!これからは彼女が幸せにならなくてはいけないわ、異論は?」
「…ありません…」
そこに結論を持って行かれては、他に言いようがないじゃありませんか、クロチルド様。消え入りそうな声で答えるアンドレに、心底満足げな笑みが向けられた。
「大変よろしい。縁談を蹴るくらいの事は予見できたけれど、だからと言って他にどうなればオスカルが幸せなのか、とても気にかかっていたのよ」
「はあ…」
アンドレは絶体絶命の予感に震えた。
「でも、見つけたわ、彼女の幸せに不可欠なものを。怪我の功名ねアンドレ!オスカルの誕生日には最高の幸せを贈りましょう!私と貴方からよ。急がなくてはあと2月しかないわ。オスカルに気付かれないように此処へ来ることはできて?」
微妙~な含みがきいている気がする。しかし、問題が問題なだけに、その不可欠なものって何ですか、などと間違っても問うわけにはいかない。アンドレは仕方なく話の流れに従った。
「そんな…不可能です!」
「まあ、そうでしょうね…ならば正面から行きましょう。貴方をそうね、1月借りるための口実を考えるわ」
「1月も、どうするのですか」
聞くのが怖いがこれだけは聞かねばならぬ。
「贈り物に磨きをかけるのよ。1月でも足りないくらいだけど怪しまれちゃ元も子も無いでしょ?」
そんな…1日だって怪しみますって!それに何に磨きをかけるんだ!
アンドレはチェックメイトの駒が目前に置かれるのを見た。しかし、ここまで話が発展してしまったなら、このとんでもない事態を受け入れて、主導権は自分が取ろう。アンドレは覚悟を決めた。
「お茶を入れ換えさせましょう」
クロチルドはそんなアンドレの変化に気づいたかのように、本題に入る合図替わりに呼び鈴を鳴らそうとした。
「わたくしが」
アンドレが制止する。
「いいのよ、貴方はこれから忙しくなるんだから」
クロチルドは立ち上がろうとしているアンドレを止めようとしたが、アンドレは先程とは打って変わり、自信に満ちた笑顔で答えた。
「ヴェルサイユで一番美味いお茶を味わえる幸運を逃してはいけません、クロチルドさま」
「まあ」
クロチルドはあっけに取られて、下がっていくアンドレを見送っていたが、突然輝く笑顔を浮かべ、ぽんと掌を拳で叩いた。
「その手があるじゃない!」
ティーセットを持って居間を出ようとしていたアンドレは、扉の隙間から覗く4つの蒼い瞳に気がついた。
「ところでクロチルドさま、雲のベッドにいる筈の天使が地上に舞い降りているようですよ」
クロチルドは一人うんうんと頷きながら、思索に耽って返事をしない。アンドレが小さな侵入者に笑って見せると、綿毛のようにふわふわと広がった金髪が愛らしい5歳になるソフィーと、利発そうな藍色のくっきりした瞳の8歳になるジュリアンが、嬉しそうにぱたぱたと駆け寄って来た。
「アンドレ!アンドレ!」
「遊びにきたの?ねえ、もう痛くないの?」
アンドレは器用にトレイを片手で持ち上げたまましゃがみ込んだ。
「こんばんは。もう痛くありませんよ。可愛い看護婦さんのおかげで、すっかり元気になりました」
ジュリアンが妹の髪を引っ張る。
「ソフィーは、お手伝いすると言って、毎日アンドレの枕をびしょびしょにしたんだよねえ」
「違うもん、違うもん!」
怪我の功名かどうかは分からないが、パリで馬車が襲撃された時、オスカルは現場から一番近かったクロチルドの嫁ぎ先、ヴェルディエ別邸にアンドレを担ぎ込んだという経緯があった。
熱心なメセナ(芸術家支援家パトロン)であるクロチルドが劇場の多いパリに別邸を持ち、頻繁に出入りしていることをオスカルは知っていたのである。
軽症で済んだオスカルはすぐに軍務復帰したが、より重傷を負ったアンドレはジャルジェ家へ帰れるようになるまでそのまま世話になった。その間、アンドレは、この小さな兄妹とお喋りしたり本を読み聞かせたりして過ごしたのだった。
ソフィーが目に涙をためて兄に憤慨している。アンドレはひとまずトレイをテーブルに戻した。可愛らしい夜着にくるまれた小さなソフィーを抱き上げると、今度はジュリアンが面白くなさそうにふくれた。
「アンドレ、抱っこしても痛くないの?じゃあ、肩車できる?大回転知ってる?友達のセバスチャンは大きい兄さんがしてくれるんだって!」
少々対処に困ったアンドレは、クロチルドをもう一度振り返ったが、彼女はなにやら真剣に書面をしたためている。
「今日はもうお休みの時間を過ぎていますから…お母様にお許しを頂いたらこの次は肩車でも何でも一緒に遊びましょう」
「約束?」
「ソフィーも、ソフィーも!」
「約束しますとも」
アンドレは兄妹を促して居間を出た。
「乱暴な遊びはお母上のお許しが必要ですが、きっと大丈夫ですよ。今度は必ず、ね。だから今夜はもうベッドに入りましょう」
母より若い乳母と過ごすことの多いこの兄妹には、大人の男に遊んでもらう経験はなかなかエキサイティングな事件だったのだ。
忙しそうな母親を残して、アンドレは子供に纏わりつかれながら子供達の寝室へ向かった。
「ねえ、じゃあお話は?お話もしてくれる?」
「そうですね…じゃあ一つだけお話をしたら、乳母を呼びましょうか…」
* コンセール・スピリテュエル
1725年、フランスで初めて料金を徴収して公開演奏会を組織した団体。チケットさえ購入すれば、身分の別なくだれでも演奏を聴くことができた。冬に週2回、夏には1回の演奏会が革命までで続いた。それまで宮廷でしか聴くことのできなかった演奏を聞く機会を、広い社会階層の多数の聴衆に与えた。オペラ座と並んでパリの音楽活動の中心となる。地方の若い作曲家や外国の作品にも発表の機会を与え(ヘンデル、ハイドン、モーツァルトもここで紹介された)作曲家、演奏家の登龍門的存在でもあった。
~To be continued ~
「じゃあ、こうしましょう、アンドレ!今、わたしが援助している音楽家の中でまだお披露目前の者を集めるわ。でも心配しないで。来年早々にはコンセール・スピリテュエル(*)にデヴュー予定の精鋭だから。でもまだ宮廷には上がった事はないし、あなた達との面識も一切ないから気も楽でしょう?」
ジャルジェ家の血筋の特徴が品よく整った顔立ちに凝縮した愛らしい金髪の貴婦人は、豊かな表情をくるくる変えて今にも踊りだしそうにはしゃいだ。
この人の際立った魅力は、美しい容姿以上に、“喜び上手”という才能にある。誰もがこの人の喜ぶ笑顔を見る為ためならついうっかり何でもしてしまいそうになるのだ。
いや、誓ってもいい。おれはこの人に惚れているわけではない、とアンドレは自分に言い訳した。この人にかかったら、誰もが彼女の望みを叶えたくなってしまうだろう。
しかし、これほどまでにオスカルそっくりの瞳で微笑まれた日には、アンドレの分は他の誰より悪い。
「クロチルドさま、そんな大掛かりな話ではなく、私はただ…」
ラヴェンダー色の薔薇の小花模様に白いレースの袖が目の前を行ったり来たりするたびにアンドレの鼻先を淡くローズマリーが香る。興奮した仕草なのになんとも優雅で絵になるしぐさは舞いのようだ。
ジャルジェ家の次女、クロチルドの私的な居間は、彼女の人なりをそのまま表していた。白を基調に薄い空色と落ち着いた金色で装飾彩色された羽目板は、その上にかけられたゴブラン織りのタピストリーに施された花輪模様の刺繍と色彩が統一されている。
暖炉も、ギリシャ風家具調度も、ロココ風味を一部取り入れた甘さを残しながらもシンプルな直線を多用し目に優しくゆったり寛がせてくれる。
「アンドレ!今日はこの間の件のお礼に来てくれたのでしょう?」
10歳も年上とは思えない少女のような笑みを向けられて、アンドレは彼女の掌の上に乗ってしまったことを悟る。このまま押し切られる運命か。
「はい、勤務状況が厳しく、自ら来られない失礼をお詫びしてきて欲しいと、オスカルからも言い付かっております。今回は失礼させていただきますが、クロチルドさまのお誕生日のお祝いには是非伺いたい、と」
多少嘘も混じるが、方便だ。オスカルは誕生祝の舞踏会に出るくらいなら、単独で訪問する。とにかく、オスカルの方に話題を振ることによって、何とか風向きを変えるべく、アンドレは軌道修正を必死で図ってみるのだが。
「オスカルがいないのはかえって好都合だわ!さあ、アンドレ!ゆっくり相談しましょう」
クロチルドはその可愛らしいかんばせに、ジャルジェ系特有の威厳を乗せて頷いた。つまり、アンドレはロックオンされたのだ。
「クロチルドさま、その話はお忘れになっていただけませんか?」
アンドレは一応最後の抵抗を試みた。
「いいこと?オスカルからの薔薇は見事だし、ばあやが焼いたガレットも懐かしい気分にしてくれるけど、一番のお礼はあなたのその計画に私を参加させる事よ。こんなに楽しい計画なんてめったにできるものではないわ」
反論の余地はなさそうだ。
「クロチルドさまの援助のお陰で才能が花開いた芸術家の活躍は多方面で聞き及ぶところにございます。それで、ついうっかり一日借りられる楽士をご存じないか、お尋ねしてしまった次第ですが、まさかクロチルド様のお手を直接煩わせるつもりではなかったのです。申し訳ありません」
一日だけ演奏を請け負ってくれるアンサンブルに心当りはないか、とつい尋ねてしまったのが間違いだった。その理由を根ほり葉ほり聞かれ、仕方なく白状したら、その計画全般を取り仕切りたいとクロチルドは目を輝かせたのだった。
あくまでも控えめに、白い薔薇のブーケに一粒の真珠を隠すような小さなはかりごとにしたかった。しかし、宮廷の化け猫貴族の裏をかくこと百戦錬磨であるはずのアンドレが、オスカルと同じ血を引く貴婦人を甘く見すぎた。結果、めでたく豪華打ち上げ花火の導火線に火をつけてしまったようだ。
恐縮しまくるアンドレに元気な貴婦人は、しかたのない子ねといった風に品良くため息をつき、子供に物語を話して聞かせる語り口で話し始めた。
「ねえ、アンドレ、ジャルジェ家は温かいでしょう?」
「はい」
「愛し合う夫婦のもとで育ったことや、生まれてから嫁ぐまでずっとお母様の膝元で教育を受けたことは、私たち姉妹の少女時代を素晴らしく豊かにしてくれたのよ。何物にも代えがたい宝物」
「はい」
「でもね、ジャルジェ家の外に嫁いでみると、私達姉妹が大切に思っている思い出の価値はわかってもらえないの。貴方なら…この意味わかるでしょう?」
「…わかります」
わかり過ぎるくらいだ。ずっとオスカルを見てきたのだから。
「ジャルジェ家を離れて貴族社会で長く暮らしていると、両親から学んだ人としての在り方はおかしいのでは、と錯覚してしまうことがあるの。社交界のみなさまの様に、愛人の見目を誇ったり、噂話に明け暮れたり、権力者に取り入ったり、したたかに生きる方が利口よね、なんて考えてしまうことがある。そんな生き方が空しいことはわかっていても。私達姉妹は多かれ少なかれ、みな同じような思いをしているはずよ」
アンドレはただじっと耳を傾けている。それだけなのに、クロチルドは話せば話すほど本音の部分を曝け出してしまう自分に驚いていた。こんな胸の内を話すつもりはなかったのに、アンドレを目の前にするとするすると心の内を話してしまう。
難しい子供だったオスカルが、彼を一目で気に入ったのはこんなところなのだ、とあらためて実感する姉は続けた。
「そんな風に、自分自身を見失ってしまいそうになる時、あなた達二人のことを思い出すの。そうすると、我に返ることができるのよ」
「え?」
思いがけないことを聞いたアンドレは目を見開いた。
「全幅の信頼で結ばれた貴方達2人は、あの虚構の世界にあって奇跡のようだったわ。何の計算もない純粋な絆を見る度に、やっぱり人に絶望するのは止めよう、愛する力を信じようと思い直すことができた。だって貴方達が生き証人ですもの」
クロチルドは、何か物言いたげな素振りをしたアンドレに目を細め、分かっているという風に頷いた。
「綺麗ごとばかりでは無かった、と言いたいのね?長い年月ですもの、それはいろいろあったでしょう、当然だわ」
「若くて未熟で、守るつもりが傷つけてしまったり、愚かな振る舞いの連続でした」
アンドレが微笑みながら過去形で語るのをクロチルドは微笑ましく聞いた。それでも乗り越えて来たことが聞かずともわかる。
「傷つく勇気を持っているのね、2人とも。だからどんな事があってもお互いから逃げようなどと考えずに、大切にできたのでしょう?」
「とても大切な存在であることは…それだけは…変わりませんでした。もっともっと他のやり方で大切にしたかったと悔やむことばかり思い出しますが」
悔やむと言いながらも全てを受入れて自分自身と和解した落ち着きが見える。いつの間にこんなに成長したのだろうか。少年の頃の素直な愛くるしい面影はそのまま、クロチルドの前にいるのは、成熟に近づきつつある大人の男だった。
「私達の中で、一番過酷な道を歩まなければならなかった末の妹が、一番豊かで人らしい感性を保ち続けて、私達を元気にしてくれるのは、貴方がいてくれたおかげね」
なんと過分な評価を受けてしまったのだろうと、アンドレは恥じ入った。
「私など、オスカルからは与えられるばかりでした」
そんなアンドレの恥じ入る素振りが、クロチルドを悪戯な少女に引き戻す。
「うふふ、そうかしら?彼女も同じように思っているのではなくて?少なくともこの間、パリで襲われて怪我をした貴方をオスカルが担ぎ込んでからは、私にはそうとしか見えなくてよ?」
「クロチルドさま」
「あら、ごめんなさい。困らせるつもりではないの」
いや、いろいろな意味で充分困ることになりそうな予感がおおありだ。アンドレの背筋に、再び冷や汗が流れた。
「だから、迷惑ではないの。私達の大切な意地っ張りの妹が大義より自分の気持ちを最優先する事を自分に許してやれるように、私からも贈り物をしてあげたいわ!これからは彼女が幸せにならなくてはいけないわ、異論は?」
「…ありません…」
そこに結論を持って行かれては、他に言いようがないじゃありませんか、クロチルド様。消え入りそうな声で答えるアンドレに、心底満足げな笑みが向けられた。
「大変よろしい。縁談を蹴るくらいの事は予見できたけれど、だからと言って他にどうなればオスカルが幸せなのか、とても気にかかっていたのよ」
「はあ…」
アンドレは絶体絶命の予感に震えた。
「でも、見つけたわ、彼女の幸せに不可欠なものを。怪我の功名ねアンドレ!オスカルの誕生日には最高の幸せを贈りましょう!私と貴方からよ。急がなくてはあと2月しかないわ。オスカルに気付かれないように此処へ来ることはできて?」
微妙~な含みがきいている気がする。しかし、問題が問題なだけに、その不可欠なものって何ですか、などと間違っても問うわけにはいかない。アンドレは仕方なく話の流れに従った。
「そんな…不可能です!」
「まあ、そうでしょうね…ならば正面から行きましょう。貴方をそうね、1月借りるための口実を考えるわ」
「1月も、どうするのですか」
聞くのが怖いがこれだけは聞かねばならぬ。
「贈り物に磨きをかけるのよ。1月でも足りないくらいだけど怪しまれちゃ元も子も無いでしょ?」
そんな…1日だって怪しみますって!それに何に磨きをかけるんだ!
アンドレはチェックメイトの駒が目前に置かれるのを見た。しかし、ここまで話が発展してしまったなら、このとんでもない事態を受け入れて、主導権は自分が取ろう。アンドレは覚悟を決めた。
「お茶を入れ換えさせましょう」
クロチルドはそんなアンドレの変化に気づいたかのように、本題に入る合図替わりに呼び鈴を鳴らそうとした。
「わたくしが」
アンドレが制止する。
「いいのよ、貴方はこれから忙しくなるんだから」
クロチルドは立ち上がろうとしているアンドレを止めようとしたが、アンドレは先程とは打って変わり、自信に満ちた笑顔で答えた。
「ヴェルサイユで一番美味いお茶を味わえる幸運を逃してはいけません、クロチルドさま」
「まあ」
クロチルドはあっけに取られて、下がっていくアンドレを見送っていたが、突然輝く笑顔を浮かべ、ぽんと掌を拳で叩いた。
「その手があるじゃない!」
ティーセットを持って居間を出ようとしていたアンドレは、扉の隙間から覗く4つの蒼い瞳に気がついた。
「ところでクロチルドさま、雲のベッドにいる筈の天使が地上に舞い降りているようですよ」
クロチルドは一人うんうんと頷きながら、思索に耽って返事をしない。アンドレが小さな侵入者に笑って見せると、綿毛のようにふわふわと広がった金髪が愛らしい5歳になるソフィーと、利発そうな藍色のくっきりした瞳の8歳になるジュリアンが、嬉しそうにぱたぱたと駆け寄って来た。
「アンドレ!アンドレ!」
「遊びにきたの?ねえ、もう痛くないの?」
アンドレは器用にトレイを片手で持ち上げたまましゃがみ込んだ。
「こんばんは。もう痛くありませんよ。可愛い看護婦さんのおかげで、すっかり元気になりました」
ジュリアンが妹の髪を引っ張る。
「ソフィーは、お手伝いすると言って、毎日アンドレの枕をびしょびしょにしたんだよねえ」
「違うもん、違うもん!」
怪我の功名かどうかは分からないが、パリで馬車が襲撃された時、オスカルは現場から一番近かったクロチルドの嫁ぎ先、ヴェルディエ別邸にアンドレを担ぎ込んだという経緯があった。
熱心なメセナ(芸術家支援家パトロン)であるクロチルドが劇場の多いパリに別邸を持ち、頻繁に出入りしていることをオスカルは知っていたのである。
軽症で済んだオスカルはすぐに軍務復帰したが、より重傷を負ったアンドレはジャルジェ家へ帰れるようになるまでそのまま世話になった。その間、アンドレは、この小さな兄妹とお喋りしたり本を読み聞かせたりして過ごしたのだった。
ソフィーが目に涙をためて兄に憤慨している。アンドレはひとまずトレイをテーブルに戻した。可愛らしい夜着にくるまれた小さなソフィーを抱き上げると、今度はジュリアンが面白くなさそうにふくれた。
「アンドレ、抱っこしても痛くないの?じゃあ、肩車できる?大回転知ってる?友達のセバスチャンは大きい兄さんがしてくれるんだって!」
少々対処に困ったアンドレは、クロチルドをもう一度振り返ったが、彼女はなにやら真剣に書面をしたためている。
「今日はもうお休みの時間を過ぎていますから…お母様にお許しを頂いたらこの次は肩車でも何でも一緒に遊びましょう」
「約束?」
「ソフィーも、ソフィーも!」
「約束しますとも」
アンドレは兄妹を促して居間を出た。
「乱暴な遊びはお母上のお許しが必要ですが、きっと大丈夫ですよ。今度は必ず、ね。だから今夜はもうベッドに入りましょう」
母より若い乳母と過ごすことの多いこの兄妹には、大人の男に遊んでもらう経験はなかなかエキサイティングな事件だったのだ。
忙しそうな母親を残して、アンドレは子供に纏わりつかれながら子供達の寝室へ向かった。
「ねえ、じゃあお話は?お話もしてくれる?」
「そうですね…じゃあ一つだけお話をしたら、乳母を呼びましょうか…」
* コンセール・スピリテュエル
1725年、フランスで初めて料金を徴収して公開演奏会を組織した団体。チケットさえ購入すれば、身分の別なくだれでも演奏を聴くことができた。冬に週2回、夏には1回の演奏会が革命までで続いた。それまで宮廷でしか聴くことのできなかった演奏を聞く機会を、広い社会階層の多数の聴衆に与えた。オペラ座と並んでパリの音楽活動の中心となる。地方の若い作曲家や外国の作品にも発表の機会を与え(ヘンデル、ハイドン、モーツァルトもここで紹介された)作曲家、演奏家の登龍門的存在でもあった。
~To be continued ~
スポンサードリンク
COMMENT FORM