万聖節が来る前に 5

2018/12/25(火) 原作の隙間 1762晩秋

アンドレを呼んでくれと何度も言いつけたのに、誰も言うことを聞きやしない。次期当主なんて名前ばっかりだ。ばあやも、侍女のナタリーもぼくに従う振りはするけど、本当はぼくを子ども扱いしているだけだ。

猫なで声で『はいただいま』って望みを聞いてくれるのは、どうでもいいことだけで、かんじんなことはぜんぜん自由にならない。

父上がご満足くださるようなジャルジェ家の当主になることが、一番のかんじんなことだけど、いまは他にもかんじんなことがある。自由にならないかんじんごとはそっちの方だ。

アンドレは本当はマリー・アンヌ姉上の家に引き取られるはずだった。母上はその方がアンドレのためにはいいことだと考えていらっしゃった。なぜって、ばあやはぼくの乳母で、まごのアンドレが来ても遠慮してアンドレの面倒を見られないから。

それは、ばあやにとってもアンドレにとっても辛いことになるかも知れない、と母上は仰った。マリー・アンヌ姉上ならアンドレをうんと大事にされるに決まっている。でも、ぼくは嫌だった。だって、それじゃアンドレはたった一人しかいない家族と一緒に暮らせなくなる。ぼくのために。

ぼくは母上にお願いした。アンドレはジャルジェ家に呼んで欲しいって。だから、ぼくにはアンドレがつらい思いをしないようにする責任がある。それがぼくのかんじんごとだけど、思ったようにはいかなかった。

ばあやはアンドレにとても厳しい。ぼくは次期当主だからばあやに命令することができるはずなんだけど、いくらばあやに言っても負けてしまう。『お嬢様とアンドレでは身分もお立場も違います。分をわきまえないのはお互いに不幸の始まりでございますよ』ってばあやは絶対に譲らないんだ。

だからぼくは父上に直談判した。そうしたら、父上はこう仰った。『ばあやがアンドレに厳しくあたることがアンドレにとって本当に不幸なのか、よく考えてみるが良い。おまえにつけた剣術の師匠は厳しいであろう?おまえはそれで不幸なのか?わざと負けてくれるような優しい師匠に変えて欲しいか?』

そんなの願い下げだ。ぼくは強くなりたいし、わざと負けるなんて、ばかにしている。さすが父上だ。ちゃんとアンドレのことも考えて心を鬼にしていらっしゃるのか。その時はそう思って父上の書斎から下がったけど、落ち着いて考えてみると、何だかうまくだまされた気がする。何かがヘンだ。ぼくの母上はとても優しい方だけど、だからといってぼくが弱くなるわけじゃない。

『闇雲に勝負をかけることは本物の勇気ではない。敵の兵力を見誤ることなく、必要な時は味方の兵力を温存したまま撤退する判断が出来ねば大将は務まらんぞ。戦術は磨いても溺れるな。戦略あっての戦術だ。負ける戦を仕掛けぬ大将が最終的に強いのだ』

ヘンだ、と思ったら、前に父上に言われたことが頭にぱっと浮かんだ。もしかして、父上はばあやと対戦しないようにしている?つまり父上よりばあやの方が強いってこと?

『お客様をお呼びするなら事前にお知らせくださいまし!ろくなおもてなしが出来ないとなればジャルジェ家の面目丸つぶれでございます!』なんてしょっちゅう怒られているし。父上はただばあやと勝負を避けたいだけじゃないだろうか。

そう言えば、父上はばあやになにか言いたい時は、たいてい母上を通す。母上はばあやとちゃんと話をする。あれ?てことは???


戦略ってそういうもの?

とにかく、父上はあてにならないのでぼくがアンドレを守ってやろうと決めた。アンドレは頼りないやつで、剣はやったことがないし、お祈りはラテン語じゃできないし、歴史も知らない。

始めはいろいろ教えてやらなくちゃ、と思った。剣の練習あいてになれないようだったら、つまらないことになるぞ、とうんざりした気分にもなったけれど、責任は責任だ。それなのに、ぼくは責任のことをじきに忘れてしまった。なぜって、気がついた時には、アンドレの顔を見るのが楽しみになっていたからだ。

母上と一緒に行ったサロンでそこの家のこどもと会うことはあったけど、ゲームは弱いくせに負けると泣くし、話すことがなかったり、お菓子のことしか考えていなかったり、とにかくつまらなかった。

だからぼくには友達はいなかったけれど、そんなこと平気だった。将軍になるためには勉強することがたくさんあって、ぼくには遊んでいるひまなんかないからね。

でもあいつがやって来て、そうもいかなくなった。ぼくは責任があるので相手をするようにしたけど、あいつと一緒だと何をしても楽しくて時間があっという間に過ぎてしまうことに気がついた。

次から次へと話したいことが出てきて止まらなくなるし、やりたいことがどんどんできる。ぼくは将軍になるんだから、遊ぶ時間なんかいらないってずっと思っていたけれど、今はもっとアンドレと過ごす時間が欲しい。

それじゃ、ぼくはどんどん弱くなってしまんだろうか。心配になって母上に相談に言ったら、母上はアンドレと楽しく遊ぶのはいいことだとおしゃってくださった。そんなことで弱くなるようなぼくではないっておっしゃってくださった。

アンドレのどこが他の子たちと違うのかわからないけれど、一緒にいてこんなに楽しい子は初めてだったから、ぼくは母上にそうおっしゃっていただいて、うんとうんと嬉しかった。

ヴェルサイユのこともジャルジェ家のことも剣もぼくが教えるばっかりだけど、あいつが何か覚えたりできるようになると凄くうれしい。だから、つい母上と約束したことを忘れてしまって、あとで後悔することがある。母上はアンドレが来るまえにぼくと姉上に仰ったんだ。

『お母さまを亡くしたばかりの子であることを忘れずに優しくしてあげるのですよ』

アンドレの父上は大陸に出征中でいつ帰って来るかわからない。アンドレの母上は父上のお留守中に亡くなった。ぼくはアンドレの気持ちは半分わかる。

ぼくの父上はまえに戦争行かれて長いことお留守だったことがある。ぼくは父上が戦死してしまうのではないかと心配しながら待っていた。でもぼくは軍人の跡取りだから、父上の戦死がこわいなんて、絶対に誰にも言えなかった。

でも、ほんとうは、父上が無事におかえりになるまで怖くて寂しくて、よく夜にひとりで泣いていた。そんな時に母上までが亡くなってしまうって、いったいどういう気持ちになるんだろう。アンドレは、今そうなんだ。

ぼくは夜ベッドの中で母上が亡くなったら、と想像してみた。けれど、何度やっても苦しくて途中で止めてしまった。

母上が亡くなったつもりになってみると、真っ暗な穴の中に、いつまでもいつまでも落ちていくような感じになった。胸がねじれて切れてしまうように悲しくなって息ができなくなったから。

いっとき母上が亡くなった振りをしてみるだけでこんなに苦しいのに、アンドレは振りではなくて、ほんとうにひとりぼっちなんだ。ずっとそんな悲しい気持ちの中にいるんだ。それなのに、ぼくと笑って遊んだりばあやの手伝いをしたり、ジャルジェ家風の行儀作法を習ったりしている。

それって、もしかしてすごく勇気のいることなんじゃないだろうか。二人でいる時は楽しくて、ぼくはついアンドレのきょうぐうを忘れていることが多い。母上がおっしゃったように優しくすることも忘れてしまう。アンドレも楽しそうにしているからぼくも笑ってばっかりだ。

もしかして、アンドレは泣きたいのに笑っているのかな。『ぼくの遊び相手』が仕事だから。もしそうだとしたら、そんなのは嫌だ。ぼくは、アンドレと楽しく遊ぶだけじゃなくて、辛い時は力になれる友だちになりたい。そんなことを思ったのは初めてでドキドキする。

それなのに、ぼくはまた失敗をしてしまった。アンドレが狼谷に行って来られるように協力したつもりだったけど、いつの間にかぼくの方が冒険に出掛けることにワクワクしていた。アンドレとふたりで行ったことのない場所を探検するのが楽しみで仕方なくなっていた。

ぼくが夢中になったせいで、アンドレを困らせた。

アンドレにとっては探検じゃない。お母上にたいせつな伝言を持っていくミッションなんだ。10月31日の夜がたったいちどのチャンスで、絶対に失敗できないんだ。

それでぼくは計画をたて直した。最初の計画はぼくたちだけで挑戦するやつだ。そっちができるなら今でもすごくワクワクする。でも、失敗する危険もいっぱいだ。だから、ワクワクはしないけど、失敗の心配がいちばん少なくて、ぼくだからできるやり方を考えた。

マリー・アンヌ姉上の家に行ってお願いする作戦だ。マリー・アンヌ姉上とアンドレの母上は仲良しだったので、姉上は是非アンドレに会いたいから近いうちに連れてきて欲しいとお手紙を送ってこられた。姉上はアンドレが来なくてがっかりしたんだ。

姉上はアンドレの母上が結婚するまでのことを話してくれると思う、とぼくが言ったらアンドレも姉上に会いたがった。でも、姉上のところは夏に赤ちゃんが生まれたばかりなので、姉上の家に行くのはもうしばらく待とうということになっていた。もうすぐノエルだからいい頃だと思う。

パリの姉上の家に行って、よく話せば姉上なら狼谷村に馬車を出してくれるかもしれない。マリー・アンヌ姉上ならきっと大丈夫だ。パリなら狼谷村はすぐ近くだし、姉上が助けてくれるなら騒ぎにはならないし、ばあやは今忙しくて、ついて来るのは多分ナタリーだから、アンドレを叱って止める人間はいない。

そうだ!そうしよう。ボーネルさんの馬車に忍び込んだりパリをアンドレとふたりで探検するほど面白くはなさそうだけど、成功率が高いし、母上に心配もかけないし、姉上からお母上の話を聞けたらアンドレも喜ぶだろう。

アンドレが喜ぶことを想像したら、ぼくまでうんと嬉しくなってしまった。ぼくは、母上のところにお願いに飛んで行った。二人でパリの姉上のところに遊びに行きたい、って。

母上もいつかアンドレとマリー・アンヌ姉上を会わせてやりたいと思っていらっしゃったので、すぐにパリに使いを出してくださった。返事はその日のうちに届いて、ぼくたちは明日出発する。明日なら、しあさってが万聖節だから間に合うはずだ。ばあやだけは、よりによってこんな忙しい時に、って大騒ぎだったけどね。

アンドレに話したら、すごく喜んだ。アンドレといると笑ってばかりだと思っていたけれど、こんなに喜んだアンドレを見たのは初めてだった。オスカルありがとうって、何度も言われた。プランAを立てた時とは大違いだ。

あまり喜ぶのでぼくはちょっとムッとした。だって、ぼくは本当はプランAの方が気に入っていたから。でも、アンドレはばあやや他の大人に心配をかけないで狼谷村に行ける、ってことが嬉しいみたいだった。そんな時はアンドレがちょっと意気地なしに見える。

でも、あまりにも嬉しそうだったからそこはぐっと我慢した。だって、ぼくもアンドレが喜ぶのは嬉しいから。とにかく明日だ。そのはずだった。

明日に備えて、いつもより勉強の予定を詰めることになった。そのくらいどうってことはないと思ったのに段々先生の言っていることがわからなくなってしまった。背中が寒くて痛くて変な感じになった。頭も痛くなって、そのうち震えが止まらなくなった。

大事な時に、ぼくはひどい風邪で高い熱を出してしまうという大失敗をしてしまったのだ。ぼくはベッドに連れて行かれ、その後のことはよく覚えていない。ただ、心の中で神様に祈っていた。神様、どうか明日までに熱が下がりますように。

アンドレに謝りたかったけど、どうにもならなかった。お医者様が来て、ばあやや侍女のナタリーに何をすればいいか言っていた。沸かしたお湯やミントの匂いがする湿布なんかを持ってぼくの寝室には何人もの大人が出たり入ったりしたけれど、アンドレはぼくの部屋に来ることを許されなかった。

ぼくは何度もアンドレを呼んで欲しいって言ったけど、そのうち声が出なくなって何も喋っちゃいけないと言われしまった。ぼくの頭の中は雲がかかったようで何も考えられなくなってしまった。

時どき目が覚めると、ばあやか母上のどちらかが傍にいてくれた。声はよく出なかったけど、ぼくはそのたびに『アンドレは?』と聞いた。ばあやも母上も困ったお顔をなさったけど、熱が下がったら会えると同じ返事が返って来た。

ぼくはアンドレに謝りたかった。今頃どんな気持ちでいるだろう。ぼくが風邪をひいたために、一年で一度の特別な日を逃してしまっては絶対にダメだ。ぼくはめったに風邪なんかひかないのに、どうしてよりによって今日なんだ!

長いあいだ眠ったり起きたりして、朝になったら体がすっかり楽になっていた。ぼくが急いで起き上がったら、母上がナタリーを呼んだ。ナタリーがお湯と着替えを持って来て、汗をびっしょりかいた体をふいてくれた。おなかが空いた、と言ったら母上がとても嬉しそうなお顔をされた。

ぼくは食事の前に急いでアンドレを呼んで欲しいとお願いした。そうしたら、母上のお顔が急に変わった。すぐにもとのお優しいお顔に戻られたけれど、見たことがない困ったような悲しそうなお顔だったから、びっくりした。

でも、確か今日が10月30日だから、今日中に姉上のところに出発しなければ間に合わない。ぼくはそのことも母上に言った。熱が下がったのだから、姉上のところに今すぐ出発したい、って。そうしたら、母上は珍しく厳しいお顔になって、ぼくはまだ咳が出るからいけないと仰った。

それどころか、部屋から出てはいけないとも言われてぼくは焦った。今日は特別な日なんだ。だから何が何でもパリに出発しなくちゃいけない。ぼくは、母上に全部お話しする決心をした。でも母上はぼくの話を聞こうとはしないで、ナタリーを呼んだ。

そして、ナタリーがぼくの傍に来ると、母上はお部屋から出て行ってしまった。話を聞いてくれないなんて、いつもの母上じゃない。ご様子もいつもと違う。ぼくはピンときた。何かがあったんだ。ぼくに知らせたくない何かが。

ナタリーに何があった?と聞いたけど、何もございませんよ、お食事して今日はもう一日静かに寝ていましょうとか何とか、誰でもが言いそうなことしか言わない。ぼくはこういうのがいちばん嫌いだ。

かんじんなことをぼかして、何でもない振りをして、子ども扱いする。でも、何かが起きて大人はぼくにそれを知らせたくないんだ。ぼくにはそれがわかる。ぼくみたいに、アンドレも風邪が酷くなって起きられないのかな。でもそんなことだったら、ぼくに秘密にすることはないはずだ。

じゃあ、もっとひどい事が起きたんだ。まさかアンドレの病気がすごく悪いとか。だったら、尚更ぼくはアンドレに会わなくてはならない。居てもた立っても居られなくなって来た。ぼくを見張っている相手はナタリーだ。ナタリーなら、癇癪を起して大暴れすれば、ここは突破できるかもしれない。ばあやだったら無理だけど。

でもその手を使ったら、その後の行動がやりにくくなるからぼくはじっと耐えた。何が起きたのか、大人が隠しにかかっているならこっそり探りに出るまでだ。気は焦るけど、ここはさっさと食事して寝た振りをして、ナタリーが油断するのを待ってから部屋を抜け出すんだ。ぼくは忍耐が続きますように、と神様に祈った。

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