いのち謳うもの10

2018/09/29(土) 原作の隙間1762~1789



「そろそろ本当に行かないと」

オスカルに強く腕をつかまれながらアンドレが自分に言い聞かせるようにつぶやいた。オスカルは答えない。離れ難い思いもさることながら、人目を避ける形でアンドレを部屋からこっそり出すことにどうしても抵抗感があった。

彼はオスカルにとって、隠すべき存在ではない。

「こそこそと出て行かせたくないんだ。ただのつまらん感傷なのはわかっているが」
「人目を避けるのは恥だからじゃない。誰にも見せたくない超私的な大切なものだからだよ。実際誰かに踏み込まれたら恥ずかしいだろ」
「それは…そうだ…な…」

オスカルが勢いをなくした。分かりやす過ぎて、おかしいやら愛しいやら感動するやら、あらゆる愛情の種類がアンドレの胸を一杯に満たす。思わず恋人の額からまぶたに向かってくちづけの雨を落とし、耳をはみながら低く囁いた。

「踏み込んだ方も困るよ。俺なら願い下げだ。何も見えない振りも白々しいし、かと言って『御用の際はいつでもお呼びくださいませ、ごゆっくり』とにっこり余裕かますのも…間が抜けているよなあ。マルタだったらどうするだろう」

オスカルはアンドレの背中に抗議の意味を込めて軽く爪を立てた。オスカルは、使用人も家畜も同列に扱う輩がするように何の抵抗もなくプライベートをさらけ出して世話を焼かせる種の人間ではない。

恋人が言わんとする意味は即座に理解したようだ。アンドレは『痛いよ』と小さく呻くと、恋人のからだ全体を包み込むように抱いた。

「誰かをそんな目に遭わせるのは気の毒だから、やっぱり行かなきゃ」

そんな言葉とは裏腹に、首元に顔をすり寄せて来る大男の全身は一時も離れたくないと訴えている。頬や耳たぶに落とされる慈しみのくちづけはたちまち熱を帯びて、オスカルの身体の中心深く、初めて覚えた痛みとともに鎮静化していた火種が再び火を噴いた。

喉の奥から意味をなさない女の声が思わず漏れる。それはアンドレの体にも火をつけた。彼女を抱く指先が熱くなり、いたわりの抱擁は求める抱擁に変わってゆく。

夜を通して寝室に響いた声と同じ種類の声が短く上がった。オスカルは思い出す。昨夜、他人のもののような女の声に馴染めず、何度も自分の口を塞いだことを。そのたびに、優しく手をほどかれては耳元で熱っぽく名を呼ばれた。

男の声が焦がれるように自分の名を呼ぶたびに、自分の身体の外に追いやっていた女の血脈が、体中の血管に戻って来るのを感じた。抑えきれない声をあげればあげるほど、厚い胸板を持つ恋人も高ぶること知り、何かが一気に吹っ切れた。

愛する人からこれほどまでに求められる女の身体を自分でも愛しいと思った時、将校であり、伯爵家を背負う主人であり、一人の恋する女性であるオスカル・フランソワの多様な側面が、対立することなくひとりの人間として融合し生まれ変わったことを知った。

ふたりはもう言葉を交わすことなく、アンドレが再び寝台から渾身の力を振り絞って身を起こすまで、熱い血潮に身を委ねた。




翌朝の10時。支度を終えたオスカルは自分付侍女マルタを従えてジャルジェ家正面ホールに姿を現した。ホールには、執事のデュポールを先頭にアンドレを除く使用人が全員役職の序列順に並んで次期当主を待っていた。

アンドレは軍装させた2頭の馬を引いてメインエントランスの外に控えている。歩兵を引き連れてパリへ軍行するにあたり、今日は騎乗して兵が待つ練兵場まで赴くのだ。だからオスカル付き馭者のジャン・ポールも見送りの列に並んでいる。パリへ到着するのは午後4時頃という予定だ。

留守部隊からの伝令が伝えるところによると、シャン・ド・マルスに集結したドイツ人騎兵隊に対し市民の投石騒ぎが勃発したとのことだった。パレ・ロワイヤルに詰めかけた若い思想家達は昨日から誰一人帰宅しようとせず、夜通し熱い論戦を続けていることもわかっていた。

一触即発の緊張状態にあるパリへ出動する。それが何を意味しているのか、誰もが理解していた。市民に対する武力行使を拒む兵の不服従や脱走が蔓延する中、国王は増々自国軍より外国の傭兵に頼るようになり、それが更なる兵の不信を生むという悪循環の渦がフランス国軍を支配していた。フランス軍の瓦解は秒読みなのであった。

第三身分で構成されているフランス衛兵も状況は同じである。だから比較的統制のとれているベルサイユ部隊に出動命令が出た。しかし、今やベルサイユ部隊を軍として機能させているのはオスカルの存在だけだ。ジャルジェ将軍はその状況をよく理解していた。だから、本来なら少佐級の役割である司令官をオスカルが自ら務めることを聞いても、黙って頷いただけだった。

そのジャルジェ将軍も早朝から近衛総司令官室に詰めていたのだが、一時帰宅しオスカルを見送るためにエントランスホールに姿を見せた。ジャルジェ夫人も夫に寄り添い、椅子ごと担ぎ出されたマロン・グラッセに気遣いすらしながら気丈に微笑んでいた。マロン・グラッセはぬぐってもぬぐっても止まらぬ涙にくれていた。

見送りの者にも、見送られる者にも言葉は無かった。どんな言葉であっても、口に出してしまったら、たちまち陳腐なまがい物になってしまう。それぞれの胸に飛来する思いは、むしろ形がないまま、ただ場を共有することで分かち合うことがふさわしい。

そんな空気がメインエントランスホールに満ちていた。その感覚は、一昨日音楽室でオスカルとアンドレの協演を聴いた者に特に強く迫るものがあった。

オスカルは2列に並んだ使用人らに目をやると軽く頷き、一番手前にいる父親のの前に進み出た。

父将軍は達観した静かな面持ちで娘の目を真っすぐに見た。娘も目を逸らすことなく、父の視線に自分のそれをぴったりと合わせる。父将軍の表情には何の感情も浮かんではいなかったが、オスカルは父の額から目尻、口元の皺が濃く影を落としていることに気が付いた。

その口元が一瞬、わずかに歪んだような気がした。はっとしてもう一度父の目を見つめると、自分と同じ濃いブルーの瞳の奥に深い湖が見えた。波一つない鏡面のような湖水。それが、父が決して表に見せることがなかった悲しみのしずくが集まってできた湖水であることをオスカルは直感的に悟った。

湖水の一部は、父がオスカルのために心の奥底で流した涙であることも。それは、あまりに深い場所で、多分父本人も気が付かないうちに少しずつ水位を増して来たのだ。オスカルが軍人として適性を発揮し、将軍の期待以上に国王夫妻の信頼を得たことを喜ぶと同時に、同じ量の後悔と哀惜を、父将軍は心の奥底に積み上げて来たのだ。

オスカルは父の前に歩み出ると、黙って左足を引き右手を胸に当てて礼をした。どうしても伝えておきたいことをどう言い表せるのか見当もつかなかった。将軍は軽く頷き口を開いた。

「行くがよい。自らが信じる道を情熱のままに進め、オスカル」

顔を上げたオスカルは驚きの表情を見せた。特にこの2年間、父から見れば反逆に次ぐ反逆を企て続けた娘だった。しかし不良娘に匙を投げたと言うより、父は言葉どおりに娘の背を押そうとしているのは明らかだった。

職務を見事に果たして来るのだ、でもなく、王家への忠義をしかと心得ろ、でもなく。父はオスカルを解き放とうとしていた。

息子以上に過酷な道を定めてしまった末娘は、与えられた重責を果たすうちに、既存の枠の中では生きられないほどの力強い翼を持つに至った。かつて夢に描いていたように、ジャルジェ家の栄光を存続させる任をこの末娘に負わせるならば、自由な心を持つ美しい末娘を生きながら殺すことになる。

自分が弓を引いたのだ。強く賢く高潔に育てと。娘は精一杯それに応えたではないか。だから鉄の箱の中ではなく、矢は大空に放たなくてはならない。その行先はたとえ親であっても制御することなどできないのだ。どんなに嵐が逆巻く空であっても。

オスカルは父の思いを余すところなく感じ取った。父同様、真実心にあるものだけが言葉になって自然に流れ出した。

「行ってまいります。たとえ何が起ころうとも、父上はわたくしを卑怯者にはお育てにならなかったと信じてくださってよろしゅうございます。父上がわたくしにお与えくださった運命は、もうずっと前からわたくし自身が選び取った道となっていたのです。何一つとして後悔はございません。わたくしは父上の娘に生まれたことを、心より嬉しく思っております」

「うむ」

万感の思いがこもった父の頷きに、オスカルはもう一度丁寧に頭を下げた。涙が熱く盛り上がるのを精一杯押さえながら。

母の押さえ切れない嗚咽が聞こえた。どれほど努力を重ねても、父の完全な息子になり得ない自分を責め続けた長い年月があったのに、母の娘でいられない自分に罪責感を感じたことがなかったことにオスカルは気が付き愕然とした。

どんな自分であっても、母がありのまま受け入れてくれるという安心感に甘えていた。軍人として男社会で生きる時、女の身に生じる不都合の全てを母と乳母が総力を挙げて支えてくれたからこそ、今の自分がいる。恋人となった幼馴染も多分に巻きこまれて来たのでその点は気の毒だと思っていた。

しかし、母と乳母に対してはどこかあたりまえだと思っていた。5人も姉がおり、今では可愛い孫にも事欠かないのだから、母も乳母も女の子を綺麗に飾り立てる楽しみは充分に堪能しているはず、と高を括っていた。

女の体を鎧で包むような仕事を母はどんな思いで担って来たのか。どれほど辛かったことだろう。父の焦点が当たらない領分を、細やかな配慮で誰にも愚知らず補完してくれたのは母だった。それは、母が娘にしてやりたいこととは全く違う役割だったことだろう。

知っていたのに見えていなかった母の心。

オスカルは足早に母親に近づくと片膝をつきその手を取った。
「母上、どうかお許しください。わたくしは…!」
母はオスカルの手をしっかりと握り返すと娘を引き寄せ、涙にぬれた頬で左右かわるがわるビズを落とした。

そして、オスカルの手に何かを握らせた。
「これを持ってお行きなさい、オスカル」
「これは…」
「お姉さま方がジャルジェ家を出る朝に贈ったのと同じものです」
「母上…?!」
「あなたの分も用意してあったのよ。当然でしょう?」

オスカルが掌の中のものを確認するより早く、母は娘を立ち上がらせた。
「さあ、母の決心が覆る前に、みなに挨拶を済ませてしまいなさい」
母にはこれ以上何も言ってはいけないことをオスカルは悟った。何か一言でも言えば、彼女の均衡は崩れてしまうだろう。

「お姉さまたちと同じ、ブルーダイヤの指輪です。チェーンを通してありますから
胸元に入れてお行きなさい。つけてあげましょう。後ろを向いて」

母は娘を後ろ向きに立たせ、娘は両手で髪をまとめて持ち上げ、すこし屈んだ。チェーンのフックを留める母の指先は温かかった。

「これでいいわ。あなたにこれを贈る日が来ることを心より望んでいました。今朝はそれにふさわしい日です」
「母上…」

母は軽く頷いた。その瞳は何も言うなと言っている。母は間違いなく知っている。確信したオスカルは黙って母親を抱きしめた。

母の隣には乳母がいた。オスカルは乳母の部屋に今朝がた別れの挨拶をしに訪れた時、さめざめと泣かれてしまったが、その乳母は何とか声を出して号泣するのを堪えている。オスカルは乳母にも腕を回した。

乳母も知っているのだと思う節があった。孫が一晩中自室に戻らなかったことを隣室のジャン・ポールから伝え聞いているはずなのに、顔を合わせてもそのことには一言も触れないんだ、不気味だろ、と朝食の前にアンドレも苦笑いしていた。


「行って来る、ばあや。無理して起き出してはいけないよ。大人しく待っていておくれ」
「オスカルさま、お早いお帰りを待っておりますよ。パリの別邸にはオスカルさまをお迎えする準備を整えるよう使いをやってありますからね。いつでもお体を休めに行ってくださいましよ」
「ふふ、ばあやはいつでもぬかりがないな。ありがとう」
「本当にきっとご無事で戻って来てくださいましね」
「もちろんだとも」

おばあちゃん、とオスカルは声に出さずにくちびるの動きで乳母をそう呼んだ。老女はとたんにクシャクシャに顔を崩してオスカルの胸に取りすがった。

乳母にもう一度抱擁を返すと、オスカルはホールに2列に並んだ使用人たちに向かった。列の先には屋外へ向けて大扉が全開している。

「行ってらっしゃいませ。ご無事でお戻りを、オスカルさま」

デュポールが年齢を重ねても変わらぬ美しい所作で、背筋を伸ばした完璧な礼をした。その隣には執事補佐のブランヴィル、客室接待係のシャヴァネル、シェフのパトリック、と男性使用人が続く。もう反対側にはオスカル付き侍女のマルタを筆頭に女主人付き侍女、ハウスキーパー責任者のマルゴ、と女性使用人が続いていた。全員がデュポールの礼を合図に頭を下げ、膝を折る。

「行って来る。留守を頼むぞ」

オスカルは短く応えると、列の間を扉に向かって進み始めた。前方には大きく開け放たれた扉から差し込む逆光が溢れている。屋内から見ると強い日差しの光で屋外様子は全くわからない。まるで、光の中へ歩んで行くようだ。

光の中ではアンドレが待っている。二頭の馬がかわるがわる蹄で地面を掻く音が微かに聞こえている。

ゆっくりと歩みを進めるオスカルの足音に次々と使用人らが身を起こした。オスカルは一人一人に頷いて前進する。行く先に待つ世界に恐怖を感じないと言えば嘘になる。病を隠した身であるという不安材料もある。

視野を欠いたアンドレを戦場に連れ出すのはエゴ以外の何物でもないだろう。たとえ、それが本人の望みであろうとも。

家族への愛、国への愛、忠誠心、自分の思想、情熱、真理を求める魂の叫び。自分の内面で、相反する主張を繰り返す多数の存在がぶつかり合う。それぞれの正義、それぞれの理想、それぞれの喜びが一致する日は永遠に来ないかのように。

それでも。

何かを選び取るために何かを捨てることを繰り返し、幾度も間違いを犯し、涙を流し、もがきながら、それらから逃げることなく答えを探し続けることが、生きるということなのだろう。

目を閉じて耳を塞ぎ、安全な場所の確保を最優先する生き方もあるだろう。しかし、そのような生き方は、オスカルの属性と決して相容れることはない。危険に晒すことになるだろう相棒もそんなオスカルと同じ魂を持っている。

オスカルは自邸の玄関の前に立った。ここで生まれ育ち、幼馴染と剣を持って外に飛び出す時にここをくぐった。毎日ここから出仕した。慣れ親しんだこの場所の外はやはり慣れ親しんだ前庭とアプローチ。

それなのに、今日は全く新しい世界がこの先に広がっている。

一瞬。

まばゆい光がオスカルを包み込み、目が眩んだ。額に掌をあてて光を遮ると、ぼんやりと馬2頭と長身の男のシルエットが浮かび上がった。もう一歩進み、生まれ育った邸のメインエントランスから屋外に踏み出す。

たちまち逆光に浮かぶシルエットが鮮やかな色を帯び、華やかな金モールと赤い房が揺れる胸飾りを装着したオスカルの愛馬エルダンジュと、青毛の牝馬ダフニ、二頭の手綱を引くアンドレの青い軍服が眼に入った。アンドレの表情は逆光でわからない。ただ、共に歩もうとする意志に一かけらの迷いなくそこにいてくれることが確信できる。

オスカルは真っすぐにアンドレの元へ歩き、それに従うように使用人たちも順番に屋外に出て並び直した。オスカルは愛馬を目の前にして振り返り、見送りの家族と使用人に向き直った。そして、全員に向かって二指敬礼して見せた。父からすかさず答礼が返ってきて、オスカルの胸を熱いものがこみ上げた。

オスカルは大きく息を吸い込むと、右足を引き軍人らしい身のこなしで向きを変えた。ゆっくりと愛馬に向かい、腹帯を掴んで鐙に足をかけると、何の指示出しをしなくても、オスカルの動きに吸い付くように、アンドレの両手が自然にウェストを支持し騎乗をサポートする。オスカルを垂直に持ち上げる力も方向も、手を離すタイミングも、まるで自分の体の一部のように動きの流れにぴったりと沿った。

オスカルがふわりと鞍に跨ると、愛馬は純白の美しいたてがみを揺らし、鼻を鳴らした。次いで後方からアンドレが馬に跨る馬具の金属音が聞こえた。オスカルは前方を見すえたままアンドレに声をかける。

「アンドレ、行くぞ。用意はいいか」
「いつでも」

背後で見送りの人垣がざわついたがオスカルはもう二度と振り返らなかった。




            いのち謳うもの【完】


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