王妃はふるふると首を細かく左右に振り、もう一度長い睫毛を忙しく上下させた。見れば白い世界は元の薔薇色溢れる寝室に戻っている。ジャルジェ将軍にとっては、一歳年を取るほどの長い数秒だった。
「へ、陛下」
妻に腕を取られ、国王も幻から覚醒した。
「ジャルジェ将軍、つ、つまり・・・」
国王は自分にわかりやすい言語に言い直すため、つまりの先を探したが何もない。臣下の告白はそれ以上要約できないほどシンプルだった。王妃が寵愛する元近衛連隊長オスカル・フランソワの思い人は平民の従者。
しかも、一生独身を通す覚悟を決めるほど、深く。
恋人から、同じ決意を捧げられている王妃に突然天啓が下った。オスカル・フランソワは自分の現し身だ。彼女を救おう。いや、救わねばならぬ。
まだ、どうしたものかと目を泳がせている国王の隣で、王妃が重々しく頷いた。王妃の少々確信犯的な目の据わりように、将軍は不安を覚えたが、強力な味方を得たことは確かなようだ。王妃の無言の圧力に押されるまま、将軍は恐る恐る詳細を報告することにした。
オスカルと従者の名コンビぶりは宮廷でも有名であり、多くの業績が従者ありきであることを国王夫妻は承知していたので、全てを説明する必要はなかった。将軍は家庭内参謀総長の勧めに従い、長年の信頼関係と献身が愛に変容してしまったことだけを正直に話した。
「真面目で不器用な娘でございます。他の誰かに目を移すことも、無責任に駆け落ちすることも、自分に許すことができないのでございます。かくなる上は、誰とも添い遂げず、本心を口にすることなく、生涯を通し職務を全うすると一人で決めてしまいました」
「まあ、なんということでしょう。そんなの寂しすぎますわ」
将軍が話し終わらぬうちから、王妃はぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めていた。貴族間でも貴賤結婚は非常識とされる中、伯爵令嬢と使用人の組み合わせは、人間と荷馬車の結婚と同じくらいの異質感がある。
にも拘らず、たちまち許されない恋人へ、王妃の共感は怒涛ごとく放出された。『セビリアの理髪師』で主演したのは伊達ではない。さらに、王族には珍しい大恋愛で結ばれた両親を持つ、異色のおてんば王太子妃だった頃の恋愛観は不滅なのであった。
「親としても大変忍びない。そこで、酔狂なお願いに参りました。二人の結婚をどうかお許しくださいますようお願い申し上げます」
国王はおろおろと王妃を盗み見る。感極まる妻は静かに嗚咽している。現存する最も高貴な貴族中の貴族、国王ルイ16世もまた筋金入りの愛妻家である。風紀乱れるヴェルサイユ文化圏内に生息する絶滅危惧種である国王。
愛に一途な種族の気持ちが手に取るように理解できた。
秩序を乱す非常識はまかりならん、と切って捨てることもできない王様なのだ。どうしたものかと困り果てながら、妻に代わって口を開いた。
「ジャルジェ将軍。娘を思う父の愛情の深さに余は感動しておる。貴殿がこの場に来るまでどれほどの葛藤を経たか、想像できるからだ。さぞ、難しい決断だったであろう」
神妙なポーズのまま、ジャルジェ将軍は面食らった。参謀総長が見通したように、現王は前王と真逆の姿勢を示して来た。
「そもそも論として、結婚が許可制なのは貴族の勢力バランスを保つためだ。となれば、オスカル・フランソワが平民と結婚して困るのは当のジャルジェ家だけであるな。理論的に余が反対する理由は見当たらぬ」
王妃は夫の言葉に雨上がりに開くセンティフォリアのように微笑んだ。
「あなた、では・・・!」
「しかし、ことはそう単純ではない。王妃よ、あなたには一部の貴族と国民の非難が集中している。あなたの気に入りの臣下に型破りな恩寵を授ければ、王が王妃の言いなりである印象を強化することになる。それは政情をより不穏に刺激してしまうだろう」
「そんな、ただ私は!」
国王は、わかっていると王妃に掌を向けて優しく制した。わかっているとも。心根の優しい王妃の私的な親切は、その立場故に曲解され妬みを生み政治利用されてきた。そんな妻を不憫に思う。
そして、それは国王にも通ずるものがあった。
臣下の希望は最大公約数的に叶えてやりたい。国民に対しては尚のこと、幸福な暮らしを営んで欲しいと望んでいる。争いより平和が好きだ。そんな国王の性分は、帝王学が時に命ずる非情な決断を、血の滲む苦行にしてしまうのだ。
国王は腕組みをして考え込んだ。財政破綻は国の破綻なのに、進まない税制改革。国益より既得権益を主張する貴族階級。それにむかつきながらもついうっかり希望を叶えてやりたくなる不甲斐なさ。三部会の開催も押し切られて許可してしまった。
自分は国王なのに。
他人の思惑に振り回されてばかりで一体何が国王だ。国政のみならず、誰にも迷惑の及ばない個人的な願いすら叶えてやれない国王?そんな馬鹿なことがまかり通って良いものか!国王の身体の奥で、カチリと何かが嵌まった。そう、錠前の鍵穴に完璧に適合した鍵が解錠レバーを正確に押したときの、心躍るあの感覚だ。
突然、国王の耳に荘厳なハレルヤが鳴り響いた。愛らしい尻を丸出しにした天使が頭上を輪になって舞う。そして、言霊が降りてきた。
『朕は国家なり』
肖像画でしか会ったことのないひい祖父ちゃんの血は、ルイの中にも確かに流れているのであった。
ジャルジェ将軍は、国王に現れた変化に慄いた。温和な国王の両のまなこから、朱色の焔がメラメラと燃え上がっていた。ように見えた。しかも王妃よりずっと危険味溢れる迫力で。
一体自分はどんな爆弾を投下してしまったのだ。もう飲み込もうにも、生唾さえ枯渇していた。
国王の沈黙は長くは続かなかった。ただ、目は据わったままである。
「決めた。余は『愛の特別令』を発布する」
声も普段の優しいテノールではなく、雷鳴のように腹に響くバリトンだった。聞く者が聞けば、在りし日の『最愛王』を思い出したかも知れない。愛に国境も身分も設けなかった(ただし自分だけ)、かのお祖父ちゃんである。
「婚姻は当事者両名の自由なる誓約によって成立するものとする。出生、身分、爵位、財産その他の事情をもってこれを妨げることを禁ず。これに背き、正当なる婚姻を妨害した者は、その特権および地位の全部または一部を失うものとする」
できればここは昇る太陽を背負って宣言してもらいたいところであったが。王妃の選んだ可憐な花模様を背にした国王は、威厳ある君主というより、遅れてきた反抗期が発露した少年のようだった。
「あなた!」
絶賛盛り上がり中の王妃には、ヒーローに映った。神に祈るように両手を組み、夫に尊敬の眼差しを向ける。それは国王の自尊心を大いにくすぐった。
「王妃よ、これならあなたの特別な寵愛による特例ではなく、オスカル・フランソワは公正明大に、愛する者と結ばれることができる。彼女だけではない。全ての身分差に苦しむ恋人達が救われるのだ」
「ええ、素晴らしいですわ国王陛下!ジャルジェ将軍、すぐにオスカルに知らせましょう。あ、いいえ、待って。その役目は私にさせてくださいな。彼女の愛が国王陛下、つまり神様のご許可を得たのです。彼女がそれを知る瞬間に立ち会わせて」
将軍は、ジャルジェカラーである深い湖水色の目を白黒させていた。一体この展開は何なのだ。話が大きくなり過ぎだ。娘と従者の結婚は、むしろひっそりと目立たず執り行うものと考えていた。娘だってそこの価値観は同じだろう。
いや、しかし。ここは、王妃様から直々にお言葉を賜れば、さすがの破壊神オスカルとて、宮殿を焼き払うことはできぬだろう。内心舌舐めずりをした将軍は、うやうやしく頭を垂れた。
「有り難き幸せに存じます」
「感謝しますわジャルジェ将軍、ではオスカルを私のところに・・・」
「王妃よ、待ちなさい」
逸る王妃を国王が止めた。
「ことは結婚だ。家督や財産にかかわる政治的な問題が嫌でも付随する。恋人達が愛にのみ基づき結婚できるよう、婚姻契約法について詳細を詰めてから発令する」
本来なら。大仰な国家プロジェクトにせずとも、オスカルがとりあえず誰かと結婚し、跡継ぎを出産したのちに晴れて恋人と過ごす。典型的かつ無難なお貴族様定番コースを踏襲すれば、一件落着な案件だった。先王までの時代なら、一笑に付されたはずだ。
しかし、ヴェルサイユ宮で最も高貴な最奥で一堂に会した三人は、宮廷人としては異種だった。すなわち、二人の愛妻家と純愛至上家。それがもたらす悲喜劇は置いておくとして、常識的な選択肢は排除一択でことが決まりつつある。
「既存の常識を覆す法令だ。人心が追いつかぬと言うなら、余が先に歩こう。愛の特別令の発布と同時に、オスカル・フランソワとアンドレ・グランディエの婚姻を公表する。これは象徴婚である。王家の名において婚礼を主催し祝福しよう」
「まあ、素敵!」
象徴婚?王家の祝福?父将軍は目を回しながら頭の回転を止めた。一体何が起きているのか、もう思考が追い付かない。ただ、家庭内参謀総長の声だけがこだまする。
『真の勝利を勝ち取りなさいませ』
妻よ、真の勝利とは娘の幸せであったな。では、これは勝利以外の何ものでもないな?従者との結婚はもの笑いの種になるくらいの覚悟はしていた。それがどうだ。王家のお墨付きとなれば誰も文句は言えまい。
「ジャルジェ将軍、アンドレの人柄は私もよく知っています。落ち着いて考えてみれば、お似合いの二人だわ。二人は相思相愛なのね」
「はっ、お恥ずかしながら」
即座に肯定しておきながら、将軍の後頭部に何かが引っかかった。何かちょっと違う気がするが、どう違うのか。どちらかと言えば娘の方がベタ惚れ?いや従者の献身だって、あれは度が過ぎている。だから、相思相愛には違いないだろう。まあいいか。
と、微かな違和感は、王妃の熱に潤んだ瞳に注視され吹き飛んだ。
「恥ずかしいのは私の方です。最初に聞いたときは耳を疑ってしまいました。身分の乖離は、むしろ二人の愛に一切の打算がない証明ですわ。ええ、彼ら以上に愛の特別令に相応しいカップルはいないでしょう」
これは、ひょっとして観客のいない芝居か?次の台詞はこれで合っているか?将軍は畏まった。
「恐れ多いことでございます」
「王妃よ、結婚式の采配はあなたにお任せするが、くれぐれも華美に走らず、二人の希望を最大限取り入れた形を心がけるのだよ、いいね」
「勿論ですわ陛下!」
興奮気味の王妃を宥めるように国王が会話を引き取り、将軍はほっと胸を撫で下ろした。
「来年には三部会も開催される。この象徴婚が3つの身分全てに受け入れられれば、対立ではなく対話を進める追い風になるやも知れぬ。身分差の超越が愛と幸福に繋がると、人民が確信するような式にしておくれ」
「責任重大ですわね、陛下」
父将軍は、口が半開きになっていることすら気づかずに放心していた。170年前の三部会は、身分間の対立に何ら寄与しなかったはずだ。再び身分間の軋轢が高まっている今、三部会の開催は、税制改革を進めたい国王にとって、不利な展開だ。
オスカルとアンドレの結婚式が三部会の成功に繋がる?いや、もう訳がわからんが、もしそうなら、これこそ究極の勝利ではないか?娘は幸福に、国政は健全な方向に。そうなれば、妻にも一泡吹かせることができるだろう。
ん?一泡吹かせたいのは妻だっけ、誰だっけ?
父将軍のゼンマイが巻ききった頭はもうそれ以上回らなかったが、胸中にはふつふつと感慨が湧いてきた。
「ジャルジェ将軍、よろしいですか?」
「はっ、有り難き幸せに存じます」
文字通り有り難い希有な結果がもたらされた。将軍は、床に頭が触れるほど頭を低く跪いた。
「オスカルの花嫁姿を見るのが待ちきれないわ!どんなにか美しいでしょう。アンドレの上背と体躯も申し分ないし、きっと二人は幸せを絵に描いたようなカップルになるわ。ええ、私が必ずそうします」
「頼むぞ王妃。すべて貴女の手腕にかかっている。オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェと言えば、ベルサイユで知らぬ者はいない有名人であるから、注目度も桁違いであろう。まさに象徴婚に相応しい人選ではないか」
もの凄いことになった。もう将軍の頭の中はその一言だけがこだまするばかりだった。
帰路にについた将軍は、心地よい馬車の振動に身を任せ、やりきった充実感に満ちていた。これで、妻にも堂々と報告できる。オスカルは父を見直すだろう。素直に感謝の言葉は述べないかも知れないが、王室主催で―正確にはアントワネットプロデュースで―結婚式が執り行われることに反発するかも知れないが。
幸せになるだろう。肝心なのはそこだけだ。
正式な法令発布まで、誰にも言えないことだけが辛いところだが、三部会前に婚礼なら、そう長く待つこともないだろう。
「一件落着だな」
長いため息を吐きながら、自然と声に出たまでは良かったが、何かが軍服の裾を引っ張った。ちょっと待て。何かズレている感じがする。このままでは何か重大な事件に繋がりそうな、何かが。
なんだっけ。
つづく(とも!)