ジャルジェ将軍は片膝をつき、自分の軍靴のつま先を睨んでいた。衣擦れの音で王妃と国王が着席したことがわかる。先代王の時代から王に仕えること半世紀、国王夫妻の前でこれほど緊張したことなどなかった。
いや、あった。
僻地の田舎貴族の娘を娶りたい、と先代王に許可を願い出たあの日だ。最愛王と評された美貌の王は、生涯の愛を捧げたい唯一の女性の存在など理解できなかった。そちにはもっと相応しい女性を朕が見つけてやるから、そんな田舎の小娘などやめておけと、まるで傷んだ果物を下げさせるように却下したのだった。
曇り一つなく磨き上げられた上等の革靴を見つめ、将軍は床につけた拳をきつく握った。当時の記憶がありありと甦る。傷心を抱え、自邸に取って返した若き自分は、取るものも取りあえず未来の妻が待つロレーヌへ馳せ参じたのだった。
そうだ。
あの時、家名も約束された地位も財も捨て、待ち受ける万難を命がけで廃し、愛する少女を妻にすることを誓ったのではなかったか。薄汚れたぼろを纏い、すり切れた靴しか履けずとも、妻と子だけをかけがえのない財産として、自分の腕一つで守り抜くと覚悟を決めたのではなかったか。
もし、そのような人生を送っていたら。伯爵だの将軍だの、万人が認める栄誉ではなく、一番大切な妻子だけの英雄である人生。全世界を敵に回しても自己の真実のみに従い、戦い抜く生き様を子らに見せていれば、オスカルは英雄を見上げるように、いや、英雄どころか父を軍神として崇拝したに違いない。
たまたま、妻の祖父が高名な宮廷画家であることが後に判明し結婚の許可がおりたがために、オスカルは父の結婚を狩りに出たら丸焼きになった兎が勝手に口に飛び込んで来たくらいに考えているに違いない。
脳内連想ゲームの火ぶたが落ちた。おのれ、オスカル。父をおちょくるのも大概にするがいい。将軍の身体が熱を持ち、小刻みに肩が揺れる。
「面をおあげなさい、ジャルジェ将軍」
大体、オスカルの言う軍神マルスとは何なのだ。それで飯が食えるのか。伯爵だの将軍だの看板を掲げなくても、腕一本でおまえ達の砦となり庇護してやることくらい、この父だってできたんだぞ。たまたま、たっまたま伯爵家を背負ってしまったから、それを見せる機会がなかっただけだ。
「ジャルジェ将軍?」
伯爵家の面目と王家への忠誠だってな、片手間で維持できんのはわかっとろう。裸一貫で家族の命運を切り開く男の姿と、ノブレスオブリージュと王政守護に滅私奉公する男の姿。両方同時に見せてやれなかったからと言って、父に反抗しまくるのもいい加減にするがいい、オスカル。
「ジャルジェ将軍?どうかしましたか?」
はっ?
自己の真実ならぬ妄想に盛り上がっていた将軍は、鬘が抜ける勢いで面を上げた。ぼろにすり切れた靴、泥の詰まった爪、傷だらけだけど筋肉の盛り上がった腕・・・とは対極にある洗練を極めた王妃の寝室で。
王妃はもう少しで悲鳴を上げるところだった。頭を垂れたまま動かない将軍の肩が揺れ出したことを心配して声をかけたら、いきなり真っ赤に充血した将軍の目と視線が合ってしまったのだ。しかもその目は据わっている。
「大丈夫ですか?」
「はっ、失礼いたしました」
国王夫婦は顔を見合わせた。どう見ても大丈夫そうではない。近衛総司令官は、何かに追い詰められたような悲壮感でわなないている。謁見目的は娘の将来についてと聞いていた王妃の表情が曇った。
一体オスカルに何が?
ムードンで療養中の長男、ジョゼフに思うように会いに行けない王妃のシンパシーは、いやが上にも高まった。
***
「つまり、オスカルは軍務に励むために生涯独身を通す決意を固めてしまったということですか?意中の殿方がいるにも関わらず」
「は、さようにございます」
「まあ、それはいけないわ」
王妃は我がことのように小ぶりなかんばせに同情の色を浮かべ、是が非でも問題解決に乗り出す構えを見せた。国王は困り果て、叶うことならこの場から逃げ出す算段はないものかと大きな体躯を丸めている。
「それで合点がいったわ。だからオスカルはジェローデル伯爵と婚約しなかったのね。わかります。他の人を愛しながら、別の人と結婚するなんて、清廉潔白なオスカルには身を切られるようなことでしょう」
よくおわかりで。
妻との馴れそめを思い出すまでは、自分も末娘の荒れっぷりが理解不能だったことは棚に上げ、将軍は重々しく頷いた。
参謀総長の言う通り、先王なら、そもそも問題にすらしなかったであろうポイントを王妃はきっちりと押さえて来た。さすがでございますが王妃様、ご夫君がお隣におられますがよろしいのですか。将軍は生唾を飲み込んだ。
「衛兵隊に転属してしまったこともそのせいですね?意中の男性は他の近衛の方?だったら家柄も容姿も厳選された方ばかり。誰と結婚したって何の問題もないはずなのに、ジェローデル伯を思いやってのことかしら?」
ある意味、娘は大変にジェローデル伯を思いやっております、はい。伯との婚約を無理強いしただけであの破壊力。結婚まで進めば、彼も無傷では済まなかったでしょう。…今思えば。
などと、本音を言えるはずもなく。返事に困る将軍に王妃は続けた。
「余程の事情がありそうですね。オスカルったら水臭いわ、何の相談もなく傷心のまま衛兵隊に去ってしまうなんて。私は彼女が大好きなのに」
更に返事に困る会話が続く。あなた様のそのご寵愛を利用してはいけないと教育したのは私めでございます。面白みがなくて済みません。将軍は靴先を凝視し続けた。
「ジャルジェ将軍、感謝しますわ。よく相談してくださいました!オスカルの力になるのは私の喜びです。私たちなら大抵のことは助けて差し上げられます!」
王妃はひとしきり切れ間なく喋ってから、はっとして両手で口元を押さえた。
「もしかして・・・もう結婚していらっしゃる方?」
そういうわけでは。
将軍が口を挟む間もなく、王妃の表情が悲しげに歪む。それは彼女が知る中で、この世で一番不幸な恋の形なのだ。だが、オスカルには王妃のように結婚で国を背負う使命はない。ひょっとすると何か手立てがあるかも知れないと、王妃は縋るよう上目遣いで夫に訴えた。
『あなた、オスカルを助けて頂戴』
助けられるものなら、まずは余を最初に助けてはくれまいか、王妃よ。国王は、これ以上引けない腰を国王の肘掛け椅子の奥に引き、半眼で妻から視線をずらした。
王妃は一大決心したかのように立ち上がり、両脇に控える侍従と女官に退席を命じた。信任厚い近衛総司令官であっても、正式な謁見で人払いなど前代未聞の措置である。納得いかない様子の臣下が全て退出するのを待って、王妃は品良く咳払いをした。
「ジャルジェ将軍、信じてください。私はオスカルの味方です。愛に罪はありません。それなのにオスカルは自分の心一つに納めようとしているのですね。尊い犠牲ですわ。だからこそ、私は彼女に幸せになって欲しいのです。お相手はどなたですか?秘密は守りますし、決して非難などいたしません。方法を探るためにも、どうぞ教えてください」
パイプオルガンの重厚な伴奏が聞こえてきそうな、情感たっぷりの抑揚がアリアのようだった。王后陛下は「オルフェオとエウリディーチェ」でも主演女優として演技指導をお受けになったことがあったか?王妃の熱すぎるコンパッションの風は、いとも簡単に軍人脳の持ち主であるジャルジェ将軍を軽い催眠状態に導いた。
権力からはほど遠い相手であることを理由に、相方の名前は伏せ身分違いの結婚の許可だけを願い出る予定が、将軍の頭から飛んでいく。
「恐れながら陛下、娘の思い人は・・・」
王妃が身をぐいと乗り出した。乗り出された分だけ将軍の腰も引けた。さすがに言葉がのどに引っかかる。
「オスカルの思い人は・・・どなたですの?私も知っている殿方ですか?」
「お…、おほん」
申し訳ございません、王后陛下。勿体をつけているわけではなく、口に出すのに中々の勇気が必要なところでありまして変な間が開いておりますが、急がずゆったりとお待ちください。
将軍は膝をついた姿勢のまま、頭を垂れ、大きく息を吸い込み、バクバクと早打ちを始めた心臓を宥めた。こんなはずじゃなかっただろう、身分不相応な者でありますから、名前はご容赦くださいと願うのだ~と叫ぶもう一人の理性担当が、将軍の意識の闇に吸い込まれて消えていった。
そう、娘の思い人は…。
「恥を忍んで申し上げます。娘、オスカル・フランソワの思い人は、アンドレ・グランディエにございます」
「えっ?」
「えっ?」
居心地悪そうにしていた国王と前のめりになっていた王妃が仲良くユニゾった。将軍は、床に額がつくほど頭を低くした。言っちゃった。賽は投げられたのだ。
「ジャルジェ将軍、どうぞ面を上げて下さいな。アンドレ・グランディエって、あのアンドレのことですか?」
「さようにございます」
「私の知っている、アンドレのことですよ?」
「いかにも」
「つまり、いつもオスカルについているあのアンドレ?」
「恐れながら、全くもってその通りにございます」
あのアンドレですって?
一瞬、王妃の世界から言葉が消えた。豪奢な天蓋布から、壁布から、全ての薔薇文様が音もなく一斉に剥がれ落ち、世界が真っ白になる。
王妃は両手を両頬に当て、こぼれ落ちんばかりに瞳を見開き目蓋を瞬かせた。国王は知らぬ外国語でも聞いたかのように瞬きを忘れた。将軍は、退路を完全に断った自分を撃ち殺すか、英雄視するか決めかねていた。
つづく(から待ってて)