天使の寄り道8

2018/12/24(月) 原作の隙間1788冬
「それでね、ヴェラが言うにはル・コック亭のレイモン親爺は一見優男に見えるけど、何て言うのかな、ムッツリ助べえなんですって」
「これ、ソフィ、言葉に気をおつけ。悪い言葉を使いつけると、うっかりご主人様の前でも出てしまうからね」
「はーい、すみません、ばあやさん」

その夜、ジャルジェ家の厨房に隣接した使用人用食堂では、スパイとして任務を果たして来た洗濯係のソフィと、厨房メイドのポーレットが興奮を隠しきれない様子で争うように、本日の成果を報告していた。

突然降って沸いたスパイという華々しい役目を射止めた上に、滅多に食事時間が合わないアンドレも今夜は一緒にテーブルについている。若い娘には少々単調だったメイド生活の上に、今やハレルヤの大合唱が鳴り響いている今夜、興奮しないで何とする。

物おじしない明るい性格と、抜け目のなさを持ち、ヴェラと年齢が近いソフィをスパイに抜擢したのはマロン・グラッセだ。思慮深く、冷静なポーレットはソフィの暴走を牽制する役どころとして同行させた。

一日休みをもらった二人が大喜びで出かけて行った、と聞いたアンドレは気が気ではない。このはしゃぎようでは、探りを入れていることに気づかれてしまいはしなかったろうか。

「ソフィ、聞くのが怖いんだが、どんな風にヴェラに近づいたんだい」
ソフィはよくぞ聞いてくれました、と言わんばかりにミートパイが突き刺さったフォーク片手に胸を張った。

「簡単よ。ヴェラはノートル・ダム市場の野菜売り場で売り子をしているから、お買い物の振りして話しかけたのよ。それで私たち、お友達になっちゃったのよね」

牽制役のはずのポーレットまでが子供のように頬を紅潮させた。
「そうなのよ。ヴェラってちょい悪なところがすっごく刺激的な子でドキドキしちゃった」

ゴン!ゴブレットが乱暴にテーブルに置かれる音が響き、にわか娘スパイは慌てて口を閉じた。

「ポーレットまではしゃぎすぎだよ。見聞きしてきたことをちゃんと報告おし。あたしは早いとこ、あの可哀想な娘の敵を討ってやらないことには、納まりがつきゃしない。あの子と妹をひどい目に合わせた奴をさっさと燻し出して、生皮剥いでから、頭から地獄の窯にくべてやるまではね」
「お、おばあちゃん…」

悪い言葉に気をつけないと、どうなるんだっけ。と腹の中でツッコミを入れたのは、実の孫だけではなかったはずだが、それを口に出せる猛者は食卓にはいなかった。

死線を彷徨ったジュリの世話に直接関わっているマロン・グラッセ始め古参の侍女らは、何も知らない赤ん坊が日々愛らしく育つのを見るにつけ、子の父親に対し憤懣やるかたない思いをたぎらせている。ソフィやポーレットとは別の意味で熟女班は灼熱の戦意を燃やしているのだ。

幸い今日あたりからジュリの容体が好転し、柔らかく煮崩した鶏肉やパンがゆを食べさせても吐き戻すことなく落ち着いていることもあり、何とか表向きは平和に日常を送っているが、熟女チームが料理用刃物とフライパンで武装したアマゾネスと化すのは秒読み段階に入っている。

「地獄の門をくぐらせる前に生皮剥いだ全身に塩コショウを刷り込んでやろうかね。唐辛子も注文しておこう、た~っぷりと」
と厨房メイド頭のマルゴがやおら息巻いたところで、小さな上品な咳払いが聞こえた。

「まずはソフィの話を聞きましょう。ここは由緒正しき将軍家です。我々使用人も主家に相応しい品位を保たねばなりません。根拠と戦略を欠いた行動は慎むようにお願いします」
話を聞きながら黙々と食事を続けていた執事のデュポールが、ナプキンで優雅に口元をぬぐいながら、にわかにきな臭くなった女性陣に釘を刺した。

根拠と戦略があれば良いのかという議論は残るが、深く刻まれた笑い皺がその人そのままである老執事の口調は、お天気の話をする時と変わらず優雅で上品だ。しかし、滲み出る確固たる威厳は、熟女チームとヤングスパイチームを一瞬で大人しくさせた。

積み重ねた実績の持つ力とはこういうものだ。マロン・グラッセの存在感も老執事と遜色ないが、二人の在り様は、静と動。対極にあって、良いバランスをジャルジェ家にもたらしている。

ほっとしたアンドレが感謝の眼差しを老執事に向けると、老人の笑い皺がさらに深くなった。チーム熟女の高まる憤慨はたびたびアンドレへの八つ当たりで圧抜きされるので、火に油を注がないためにもアンドレは静観しているしかなかったのだ。

熟女班の八つ当たりという受難を差し引いても、アンドレは彼女らの気持ちをよく理解できた。アンドレ自身、リュカを腕に抱き、愛しく思うようになればなるほど、まだ見ぬ男に対して憤りをつのらせずにはいられなかったからだ。

それは、オスカルを傷つけようとする者に対して覚える怒りとどこか通ずるものがあった。父親捜索のためとは言え、居酒屋で度がすぎる程荒っぽい調査をしてしまったのは、そのせいだと言う自覚もある。アランを構い倒したのも多分同じ理由だ。アンドレにもマロン・グラッセの血が確かに流れているのであった。

「では、ソフィにポーレット、お願いします」
デュポールは居住まいを正し、改めて二人に報告を求めた。今やジャルジェ家のアイドルとなったリュカの命運に関わる情報を持ち帰ったかも知れない二人に全員の注目が集まる。ソフィとポーレットは静まり返った食卓にごくりと生唾を飲み込むと、互いに肩でつつき合い、発言権を譲り合った。

**********************

リュカの泣き声が聞こえた気がして、ジュリは飛び起きた。実際には飛び起きたのは意識の一部で、身体は重たく寝台に横たわったままだった。覚醒が少しずつ進むと、ぼんやりとした感覚の中で、自分が柔らかな毛布にくるまれていることに気が付いた。

しまった、寝過ごしてしまったかしら。ごめんね、でも体が鉛のように重くて動かないの。とても疲れている。このまままた眠ってしまいたい。いいえ、それはだめ、急いでリュカにお乳を貰いに行かなくちゃ、あの子が死んでしまう。

「リュカ…」

掠れた声しか出なかった。泣き声が聞こえたはずなのに、手を伸ばした先に赤ん坊はいなかった。その代り白いボンネットをかぶった丸顔のふっくらとした老婦人が皺だらけの手でジュリの手を握った。

小さいけれど温かい手だ。これは夢かしら。この頃何度もこんな夢を見るような気がする、薪のはぜる音、温かい部屋、やわらかい毛布、ボンネットの可愛らしいおばあさん。

「目が覚めたかい。今日は一段と顔色がいいようだね」
夢のおばあさんが呼びかける声がはっきりと聞こえ、たちまち、夢のふわふわした感覚が霧が晴れるように消えていった。

「マロン…さん」

ジュリは老女の名を呼んだ。そうだった。この人の名も知っているし、白い漆喰壁の部屋、緑のカーテン、ちゃんとガラスが入った明り取りの窓、湯気のたつ薬缶がかかっている小さな暖炉、全部見覚えがある。

ゴミ一つ落ちていない木の床には暖かそうな深緑の敷物が敷かれている。同じようなベッドが二つ並び、自分はその片方に寝ている。そうだった、ジュリは思い出した。この贅沢な部屋に入れてもらってから何日経ったのかは覚えていないけれど、もうリュカの心配はしなくてよくなったのだ。
 
マロンという名の老婆はにこにこしながら、ベッド脇の小テーブルの上に置いてあった籠を取った。

「ほら見てごらん。小さな靴下と帽子を編んでみたよ。あんたの気に入るといいんだがね」
ジュリは半身を起こし、籠に手を伸ばした。中には空色の小さな靴下が二足、あご紐のついたクリーム色の帽子が入っている。

「何てかわいい…」
「こどもに何かを編んでやったのはもう何十年も前だ。それでも手が覚えているもんだね。楽しいよ、こういうのは」
「ありがとうございます」
「なに、良い息抜きさ。この年になると若い衆が心配してあたしにはあまり仕事をさせてくれないからね、丁度いい手慰みだよ」

老婆は丸っこい鼻にかかった丸っこい眼鏡をはずすとテーブルに置き、よっこいしょと立ち上がった。そのタイミングを計ったように、コンコンとドアがノックされる音が響き、落ち着いた低い男の声がした。

「おばあちゃん、入っていいかい?」

聞き覚え覚えのある声だった。成熟した大人の声と、おばあちゃんという呼びかけのミスマッチが何だか可笑しくて肩の力が緩んだ。老婆は細くドアを開け、声の主にやや声を尖らせた。

「若い女性の寝室だよ、ここは」
「わかってるよ。オスカルが会いたいって来ているんだ。おれは廊下で待っているよ」

老婆の丸まった背中が一気に伸びた。
「まあ、オスカルさま!いけません、使用人棟になどおいでなさっては!」
「しっ、病人が驚くじゃないか。騒がないでくれ、ばあや。それにアンドレにもいてもらわないとわたしが困るんだが」

今度は男でも女でもない不思議な深みがある声が聞こえた。やはりどこかで聞いたことがあるような気がした。老婆はジュリを振り返り見ながらドアを開け通路を譲るように後ろに退いた。

部屋に入って来た人物が、妹の憧れの将校と同一人物であると、ジュリが気づくのにはしばらくかかった。結わずに波打たせた豊かな金髪が縁取る白い顔は至近で見ると恐ろしいほど完璧な造作である。そして、白いブラウスとキュロットという軽装の下に見えるほっそりとした体の線は明らかに背後に控えた大柄な男性のそれとは異質なものだった。

リュカの父親だとジュリが確信していた将校が実は女性であることは聞いていたので、オスカルと呼ばれるこの人がそうなのだろうというあたりはついた。しかし、にわかには信じられない事が起きた。完璧な美貌と上に立つ者特有の威厳を持つその人が、老婆を宥め賺しつつジュリの枕元に跪き、男性の同席の許可を丁寧にジュリに請うたのだ。

ジュリは困惑した。妹が不義の子を産んだことで職を追われ、なりふり構わず命がけで日々の糧を求める中、同胞であるはずの隣人は、ことごとく自分と妹を蔑んだ。一方、忌むべき貴族であるこの人に丁重に扱われるとは一体どう言うことなのだろう。

しかも、人違いとは言えジュリはこの人を人殺し呼ばわりしたのだった。にも関わらず、この部屋で目覚めてこの方、咎め立ての言葉ひとつ言われていない。自分の想定をはるかに超える展開に、ジュリはただ茫然と目の前に現れた麗人を見上げていた。

頭の片隅で警鐘が鳴る。この人は貴族だ、信用しちゃいけない。何の裏もなく私みたいな一文無しを助けるはずがない。体力を回復したら、リュカを連れて逃げ出す隙を見つけるのだ。

そんなジュリの心中をよそに麗人は長身の男性を伴ってジュリの横たわる寝台の向かいの寝台に腰を降ろした。まあまあ、そんなところにと恐縮する老婆を軽く手で制止し、麗人は伴った男性に、『そんな高いところから見下ろすな、さっさと座れ、バカモノ』と着座を促した。バカモノ、には非難よりは親しみの情が入っているように聞こえた。

長身の二人が腰を降ろすと、ジュリの寝台に膝が届きそうだ。低くなった男性の頭頂に、老婆が手にした編み棒がパシッと小気味よい音をさせて振り下ろされた。
「身の程を知らない子だね」
「あいてて、おばあちゃん、勘弁してよ」

子と呼ばれるには大きすぎる男性が頭をさほど痛そうでもなくさするのを、苦笑いしながら見ていた麗人がジュリに向かって微笑んだ。ジュリの心臓が跳ね上がった。美しさは程を通り越すと、恐ろしい威力を放つ。

「突然押し掛けて済まなかったね。長い事隊長なぞ務めているものだから、わたしはどうも人に威圧感を与えてしまうらしい。ところが、こいつ…わたしの従者でアンドレという者だが、一緒だとなぜか人が警戒を解いてくれる。だから連れて来た。少し話がしたいのだが、いいかな?」

言われて見れば、老婆の孫であるらしい男性がおしおきをされる子供のように老婆に叩かれ、身を小さくしている姿にジュリの緊張はかなり緩んでいた。確かにこの美貌の人と一対一で向き合ったら、緊張で話どころではないだろう。

ジュリの沈黙を肯定と捉えた麗人は続けた。
「こいつが言うには、わたしは幸運なのだそうだ。貴女の誤解を解くのに何の努力も要らない。わたしが女だと言えば事は足りる。そうだな、アンドレ」

いきなり矛先を向けられた従者は『おれ?』とでも言いたげに自分を指差した。麗人は当然だ、と頷き口角を上げた。ジュリは、冷たい彫刻のように見えていた白い顔が、実はほんのりと温かな色に染まっていることに気が付いた。思ったよりも表情が豊かなことも。

「誤解は解けているとして、今後のことを考えた。貴女には親戚縁者はいないそうだか、間違いないか?」

正直に聞かれたまま返事をして良いものどうか、ジュリは逡巡した。自己開示は、身の危険を呼ばないだろか。その様子を見たオスカルは額をぐりぐりと二本指で押し回し、隣の大男を見上げた。

「まだ強圧的過ぎるか、わたしは?」
大男はぷっと小さく噴き出した。
「聞く相手が違うだろう?」
「いや、そう何度も聞いては気の毒かと」
「そうだな、うん、おまえ顔怖いしな」
「おい!」
「いてっ!」

大男の膝に一撃を加えたのは再び老婆の編み棒だった。ジュリは呆気にとられた。頭の中でやかましく鳴っていた警鐘がどんどん遠ざかる。いけないと思っても、どうにも止まらない。そんなジュリの表情の変化をオスカルはしっかりと捉えていた。

「ジュリ、と言ったね。縁者の有無を聞いたのは、もし貴女さえよければわたしの領地、アラスで暮らすのはどうか、と提案したかったからだよ」
「アラス…?」

つい声を出した自分に驚いて、ジュリが口元に手を当てる。ふと麗人の隣を見ると、大男がウィンクらしきものを送って寄越した。『大丈夫だよ』と声は出さずに唇がそう動いている。もしかしたら、本当に他意などないのかも知れない、とジュリに思わせる砕けた空気がふたりの間にある。

「アラスはヴェルサイユの北にある小さな町だが歴史は古い。農業や織物産業が盛んで街道も南北に抜けているから交易や金融も発達している活気のある町だ。馬車なら2日あればつく。そこにわたしの別邸があるから、まず住み込みで働いてみるのはどうだ?慣れてきたところで他に希望する仕事が見つかったら紹介状は書いてやろう」

「で、でも何のために…?」

ジュリは戸惑った。身体がもとに戻ったら働くのはいい。どこにいたって働かなければ食べては行けない。でもなぜこの人の領地で?紹介状を書いてくれるって、なぜ?ひと間違いした罰?リュカやわたしの食費を返すため?

際限なく疑問がジュリの脳裏を駆け巡った。何のため、と問われた麗人も困ったように腕を組んだ。隣で二人のやりとりを黙って見ていたアンドレが後を引き取った。

「彼女に下心はないから安心していいよ。見知らぬ土地でひとりぼっちは最初は辛いだろう。だが、その分良いこともある。誰もきみを知らない場所で、君は誰にでもなれる。リュカと暮らしたければ、未亡人を名乗ってもいいし甥を引き取った叔母でもいい。君の望む身分証明書を作ろう。リュカの洗礼証明書と身分証を持ってオスカルの領地の教区に転入すれば、君に後ろ指を指す人間はいなくなる」

「身分証明書を?」
「そのくらいでっち上げるのは訳ないんだよ、彼女はね」

ジュリがぽかんと口を開けた前で、大男は麗人にニヤリと笑い、『人聞きの悪いことを!』とどつき返されている。一体全体この人たちはどうなっているの?本当に主人と従者なの?ジュリの混乱は最高潮に達した。

「そうそう、リュカの洗礼証明書は本物だよ」
「えっ?」
「正真正銘のね。おばあちゃん、彼女を起こせるかな」

老婆に手伝ってもらってクッションを背にジュリは半座になった。アンドレは携えて来たリュカの洗礼証明書をジュリに手渡した。文字が読めないジュリのために、アンドレがオーダーした大判の版画入り証書だ。後光を背にしたイエス・キリストを祈祷文が書かれたリボンが縁取り、その下ではゴシック式教会の中で祈りを捧げる祭司と信徒の細密版画が印刷されている。

証明書の周りは豊穣の印、麦と葡萄のモチーフがエンボス加工で縁取られ、紙面の三分の二を占める版画の下に、司祭、リュカの名、代父、代母の署名が手書きで並んでいる。シンプルな白い木枠で額装された証明書は、絵画のようだった。

文字はわからなくても、額はジュリの目に神々しく、霊験あらたかに見えた。こんなに美しいものを手にしたことは初めてだった。リュカが神に祝福を受けた子供であることを証明する証書だ。これを見た者は誰もリュカが私生児であるなどと思わないであろう。

もう、長い事感じたことのない感情がジュリの胸の奥にふつふつと沸いて来た。嬉しい。これを持って、誰も知り合いのいないところで生活できたら、もう人に蔑んだ目で見られることはなくなるんだ。

額の中で静かに両腕を広げるイエス・キリストは、ジュリの罪を洗いざらい許してくれると言っているようだった。特に、生きるために妹の亡骸を医学生に売った罪を。

「ジュリ」

心を吸い寄せられるように額の絵に見入っていたジュリは、ふいに名を呼ばれて我に返った。目の前にいるのは、自分の生活とはかけ離れた世界に住む異人種であるはずの人間だった。それなのに、いつの間にか警鐘は鳴り止んでいた。

いけない。うっかりしていた。この人たちは誰もが敵だと言っている貴族だ。何か裏があるに違いないのだ。このまま心を許してしまいたいけれど、そんな危険は冒せない。そう自分を叱咤しつつ、ジュリは目の前の人に吸い込まれるように釘付けになっていた。

「今日はこれで引き上げるが、よく養生しゆっくり考えておいておくれ。リュカのことは心配ない。我が家の女性たちが取り合うようにして愛情を注いでいる。今年のノエルは、天使が祝福を届けに来てくれたに違いないとね。すっかり我が家のアイドルになって皆を幸せにしているよ。貴女は身体を治すことに専念するがいい」

大天使ミッシェルのように見えた女主人は、ジュリの前でみるみるうちに印象を変え、今では聖母マリアのようだった。豪奢な金髪と女性離れした深い声を持つその人の佇まいは、戦士マリアと呼ぶ方が相応しいかも知れないが。

それ以上に衝撃的なのは彼女の提案だった。ジュリの常識をはるかに超えている。あり得ない。ああ、だけど、全てをまるごと信じることができたら、どんなに素晴らしいだろう。

手元の額の中からイエス・キリストの静かな眼差しがジュリに注がれる。ジュリは絵のキリストに縋るように問うた。イエス様、この人を信じたいけれど、怖くて仕方がないのです。信じた後に裏切られることが怖い。最初から信じないでいる方がずっと安全な気がするのです。わたしはどうすればいいのですか?

麗人はジュリの逡巡する様子を暫く見ていたが、やがて腰を浮かせた。
「さあ、そろそろ行くぞ、アンドレ。遅くに突然済まなかったね、ジュリ」

大男は麗人の指示を聞くと、先にさっと立ち上がり通路を空けた。あ、行ってしまう。そんな思いがジュリの胸に飛来し、気づいた時にはジュリの唇から言葉がとめどなく溢れ出していた。

「あ、あの、待ってください。ありがとうございます。まだお礼を言っていませんでした、ごめんなさい。それから、どうしてわたしなんかを助けてくれるんですか?わたし、ひと違いでひどい事言いました。あ、そうだ、ごめんなさいって言っていませんでした。ごめんなさい。それで、その、アラスって所でわたしはリュカとわたしの食費をお返しするために働くんですか?それっていつまで?その後、何か罰を受けるんですか?洗礼代とか、払えなかったらどうなるんですか?わたしには何もないのに、いつまでもここでお世話になっていたら、お返ししきれないし…!」

麗人の切れ長の目が瞬く間に丸くなり、両掌がジュリに向けられた。
「こらこら、ストップ!ジュリ」

彼女のために扉を開けに立った従者も驚いた様子で戻って来た。ジュリは慌てて口元を押さえ、その手から額が滑り落ちた。

「あ、あの、ごめんなさい、すみません」
「ああ、そう謝らんでも良い」

麗人がジュリのひざ下に落ちた額を拾い上げ、ジュリの手に戻してくれた。たったそれだけの事だったが、大切に扱われていることがわかる。高い地位にいる貴族が、街で拾った孤児にする行為とは思えない。ああ、カトリーヌ、あなたもどこかでこんなことがあったのね。ジュリは忙しく打ち始めた心臓を覆うように手渡された額を抱きしめた。

オスカルはどうしたものか、とアンドレを振り返った。案の定、おれは知らんぞと無言で返されたので、同じく薄情者め、とアイコンタクトを返してやってから、もう一度腰を降ろした。薄情者アンドレもそれにならう。

一瞬、無礼者!と怒鳴られるかと身をすくめたジュリだったが、麗人はただ困ったようにジュリを見つめ、言葉を選び選び話し出した。

「ジュリ、わたしは滞在費を請求するつもりもなければ罰を与えるつもりもない。むしろ、貴女の勇気に敬服している。その勇気に敬意を示す意味で今後の生活を立て直す援助をしたいだけで他意はない。それに、リュカはすっかり我が家の女性たちの心を奪ってしまった。あの子をないがしろにしたら、わたしは彼女たち全員を敵に回してしまうのだよ」

最後の方は、少し悪戯っぽい口調だった。隣に座り直した従者は麗人が困るのを面白そうに観察している。

「それは、困る。非常に困るのだ。何せわたしはひとりでは何もできない」

従者がくすりと声を出さずに笑った。すると、従者など視界に入っていない様子の麗人が、従者を肘で軽く突いた。心の中が何もかも筒抜けみたい、本当に不思議な二人だわ、とジュリは思った。

「考えて見れば、他意がないことを証明できる証拠はない。その逆は簡単そうなのにな。そこにいるばあやや他の家人が貴女をどう扱うか、見ていればじきに信用して貰えるのではないかと期待しているのだが…。そうだ!」

麗人は良いことを思いついた、とポンと膝を叩き、従者はまた余計なことを言い出すぞ、と言わんばかりに警戒心丸出しの視線を主人に投げかけた。

「神の計画ついて聞いたことがあるだろう?教会には行っているか?ジュリ」
ジュリは訳の分からぬまま頷き、従者は怪訝な目つきをさらに険しくし、麗人は嬉々として続けた。

「神の計画と、人間の自由意志の相反に関して、神学上の議論が始まったのはなんと、千年以上も前だが未だに結論に至っていないのだ。つまり、短期的な視点で見た貴女の行動が…」
「あー、オスカル」

麗人が話し始めると従者が早々に遮った。ジュリは外国語でも聞いているように、唖然と口を開けている。遮られた方は瞳だけをじろりと従者の方へ向け、片眉だけを器用に釣り上げた。従者はご主人様の不興には全く頓着せず、小さく咳払いするとジュリの方へ大柄な体を屈め、彼女が手に持った額を指差した。

「ここを見てくれ。代父と代母を引き受けてくれた夫婦の署名がこれなんだけどね、代母になってくれたこの人は、君みたいに人違いでこのジャルジェ家に乗り込んだのをきっかけに養い子になったんだよ。オスカルはその娘をそれはそれは妹のように可愛がってね、少し前に嫁に出した時はもう泣いて泣いて大変だったんだ」
「アンドレ!」

外国語が理解可能なフランス語になってジュリの肩の力は幾分抜けたが、麗人の両眉がつり上がった。従者は構わず機嫌よく続ける。

「その娘は捨て身の覚悟で親の仇を打つべく、刃物かざして飛び込んで来たんだよ。人違いだったけどね。オスカルはその娘を引き取って教育を与え、愛した。この人はそういう人だ。君を助けようとしているのも、この人には自然なことなんだよ。言って見れば、ネコが鼠を追いかけるのと同じくらい、自然なことなんだ。だから、遠慮しないで甘えるといいよ」

従者がにこやかに続ければ続けるほど、ご主人様の形相は険しくなった。


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