聖夜に降る音 Ⅰ
きっと喜んでくれる。
それは、彼にとって確信以外の何ものではなく。突然の落雷のように彼を直撃したインスピレーションに従って行動するならば、彼女は、絶対に喜んでくれる。が、しかし。
言うは易し行うは難き。だよなあ。
喜んでくれることは間違いないだろうけど、突然閃いちゃった企画はとんでもなく難易度が高かった。ここはやっぱり無難な妥協策に甘んじて…、と考えた瞬間、強烈な違和感が鳩尾を締め上げた。そっか、まあ、つまり、あれだ、やれ、ということだよな。アンドレは覚悟を決めた。
「おい、アンドレ!」
名を呼ばれてアンドレの考え事は中断された。パリの下町の喧騒が途端に耳に流れ込む。物売りが張りあげる単調な売り文句、客を取り合う女達の金切り声、泥をはね上げて疾走するカブリオレ。
商品を万引きした少年を罵倒しながら追いかける古着露天商。それを野次る酔っ払いの集団。アンドレはパリを巡回中だったことを思い出した。
「さっきから、何度も呼んでるんだぞ。何を呆けているんだよ?おっと、そこ、ぬかるんでるぜ」
全く、何が悲しゅうて野郎をエスコートしなきゃならないんだ。などと悪態を吐きつつ結構親切な相棒に、ぐい、と腕を引っ張られ、アンドレはすんでのところで排水講に足を突っ込む悲劇から救われた。
「お前と組むと疲れてしょうがねえ。いい加減パリの路地の歩き方に慣れろよな。呆けた顔しやがって」
乱暴に掴んだ腕をほいっと投げ捨てながら、あきれたように言い放ち、もみあげの相方はずんずんと先へ進んで行った。
「あ、ああ、悪いな、アラン。ちょっと考え事をしていた」
「夕刻だ、ぼやぼや歩いているとひき殺されるぞ」
オデオン座やフランス座が開演する時刻が迫っていた。きらびやかな馬車が続々と狭い路地を汚泥を跳ね上げながら飛ばし、夕餉の食材や夕方のパンの値下げを当て込んで通りを急ぐ人々を追い散らす。
「相変わらずひでえもんだ。連中が有難がって勉強する作法書には通行人に対する礼儀ってもんは書いてないのかね」
おれに説明を求めるなよ、と一通りの礼儀作法は士官学校で学んで来たはずの相方に、アンドレは肩をすくめて見せた。
秋の日の入りは早い。隙間無くアパルトマンが立ち並ぶ路地はただでさえ薄暗いのに、冬の低い太陽は狭いパリの空に姿を見せないまま西に急ぐ。じめついた路地は乾く間もなく宵闇に飲み込まれ、建物の間から吹きつける冷たい隙間風が身に染みた。
ありとあらゆる生活臭と人間の汚物の匂いを運ぶ空風は建物沿いに吹き上がり、せり出した看板をがたぴしと絶え間なく揺らした。
「寒くなってきたな、腹も減った」
寒さに肩をいからせて歩いていたアランがぼやいた。
「おまえが腹ぺこじゃない時なんてあるのか?」
「うっせえや」
アンドレは、半歩先を歩いて行くアランに、もう今日は本部に戻ろうと声を掛けようとして、ふとあることを思いついた。
「おい、アラン。おまえそこそこ腕のある楽士をおいている店を知らんか?」
「知っていたらなんだよ?」
妙なことを聞くやつだな、と訝しげにアランが振り返ると、十年来の友人であるかのようにアンドレは懐っこく笑っている。
「おれも腹が減った。飯奢るよ、音楽を聴きながら、なんてどうだ?」
世にも珍しいことを聞いたアランだった。こいつでも仕事中に寄り道をしようなんて発想ができるとは驚きだ。しかも楽士付きの店に案内しろだってえ!?何で野郎と2人でそんな所へ行かなくちゃならないんだ。こいつ、今日は絶対オカシイ。
アランは警戒心丸出しでアンドレを睨んだ。アンドレはそんな相棒の不信に満ち溢れた様子を気にする素振りも見せず、にこにこと返事を待っている。
正直に言えば、私服偵察任務にアンドレと組むのは嫌いではないアランである。パリ事情については圧倒的にアランの方が詳しいが、勘が良くて観察眼の鋭いアンドレは、要点を的確にまとめて短時間で報告書をまとめ上げることができる。
書類作成が大嫌いなアランにとって、実はありがたい相方なのだ。しかし、平素から勤務態度が真面目なアンドレが勤務中に脱線するのは想定外だった。まさかこいつ。
「おまえ、カマかけてんじゃないだろうな」
眼光鋭く睨みつけるアランにアンドレを目を瞬いた。
「カマ?何の?」
アンドレは言葉どおり以外のことは何も考えていませんが何か?と言わんばかりに首を傾げた。
「おれが喜んでほいほい請け負ったら、隊長に言いつけるつもりだな」
「何で?どっちかと言えば、オスカルには内緒にしてくれってこれから頼むつもりだった」
「……そ…うだよな」
「そうでしょ、普通は」
野郎二人は寒風吹きすさぶ路上でしばし見つめ合い、その馬鹿馬鹿しさに失笑した。とにかく寒かったし。
「ご立派なところは知らんぞ」
「カフェ・デ・ザヴ―グル(*)みたいなところじゃなきゃいいよ」
「はっ、よくご存じじゃねえか。おれだってそんな破廉恥な店はごめんだ」
アンドレはまた屈託なく笑った。最悪の出会いだったいけ好かない年上の男は、実はこんなに無邪気に笑うやつだったことを知ったのはごく最近。何だかんだと悪態ばかりかましていても、こうしてたまに頼られると内心嬉しいアランであった。
絶対に認めはしないが。
*カフェ・デ・ザヴーグル(盲人のカフェ)——パレ・ロワイヤルの地下に実在した店。盲目の楽士の演奏と、風紀の悪い空気で知られた。
💃 🍷 🎻 🍾 💃 🍷 📯 🍾
「ねえ、アンドレ」
ジャルジェ夫人つきの第二侍女が、井戸端で洗顔しているアンドレに声を掛けた。
使用人の係分担は明確に定められているジャルジェ家だが、どうしてもタイミングが合わずに半端にとりこぼされる雑用はまま生じるものだ。
その隙間を埋める『何でも屋』を侍女頭である祖母に押し付けられて早四半世紀。一応上等な制服着用の上級使用人、次期執事とも期待されるまでに昇進した永遠の下積み男は、早朝から薪を割り終えたところだった。
「やあ、おはようイヴォンヌ、今朝は早いんだな」
すっかり色づいたプラタナスを昇ったばかりの新しい朝日が金色に煌めかせている。小柄できりりとしたイヴォンヌの輪郭が逆光にくっきり浮かぶのをアンドレは少々眩しい想いで見た。彼女は来春、料理長見習のフィリップと結婚する。
綺麗になったと思う。姿形の美しさといった上辺の美ではなく、生き生きと花開いた生命力の輝き。ちょっと前までは、利発だけれどご愛嬌な程度に粗忽者なところが皆に愛されていた、こどもこどもした少女だったのに。
恋を知るとあっという間に華やいだ女性の色香が立ち昇るんだな。言動はまだまだ子供っぽさ丸出しだけど。おかげでフィリップは皆から祝福半分、やっかみ半分で犯罪者扱いだけど仕方ない。
最近のオスカルも、ますます綺麗になったとむくつけき同僚たちが噂している。それって、つまりは・・・。
「アンドレったら!どうしたのよ、何か変よ、ぼけっとして!」
あれ、アランにも同じようなことを言われたっけな。うん、最近ちょっとどうかしている。アンドレは頭を振った。
「つい、見とれちゃったんだよ、綺麗になったなと思って」
イヴォンヌは褐色の大きな瞳を見開いて頬を染めたが、すぐに不服そうにぷうっと膨れた。
「今ごろ遅いわよ、そう言って欲しい時にはただの能天気だったくせに」
「え?」
「何でもありません!それよりねえ、オスカルさまなんだけど」
イヴォンヌは、それぞれの朝の仕事を始めた使用人達が、2人、3人と中庭に姿を現し始めるのを認めると、今は空になっている古い厩の影にアンドレを引っ張っていき、声を潜めた。
「ねえ、最近のオスカルさま、少し感じが変わられたでしょう?」
え?今まさに考えていた事を指摘されて、アンドレは思わず身を屈めて少女の目を覗き込んだ。
「オスカルが?どんな風に?」
「だから、聞いているのはわたしだってば!」
「あ、そうだね… おれは毎日ずっと一緒だからかえって変化が判らないことも多いんだ。君にはどう見えるんだい?」
「何だかお傍へ寄っても怖くないって言うか…」
アンドレは首を傾げて目の前の少女の意図を汲み取ろうとした。
「オスカルはもともと怖くなんかないだろ?」
イヴォンヌも何とか思うところを言葉にしようと鼻の頭にしわを作ってうーんと唇を真一文字に結ぶ。
「そう…ね、怖いわけではないんだけど、何と言うか、オスカルさまの周りにはこれ以上は踏み込むことを許ない結界みたいなものがあって、近づきにくい雰囲気があったのよね。それがこのところないのよ。お傍に寄れるの」
ふうん、そんな風に見えるのか。洗いっぱなしの濡れた頬に朝の冷気がしみた。アンドレはひとつ小さな身震いをすると麻布で顔を拭いながら、少女に向けていた真剣な表情を和らげ、微笑んだ。
「呑気な顔!そうよね、あなたはもともと一番オスカルさまの近くにいるんだから、そんな緊張は分かんなかったでしょうね」
イヴォンヌはきっとアンドレを上目使いで睨みつけた。
「うん、それは気が付かなかったけど、何か困る事でも?」
余裕で聞き返され、あーあ、これだからいやんなっちゃう、と言わんばかりにイヴォンヌは大きくため息をついた。
「オスカルさまが結婚祝いにドレスをくださると言うの。仕立て直して使えそうなのがあれば好きなものをお持ちって」
「へえ、良かったな。いい嫁入り支度になるじゃないか」
「もう!形見分けみたいで不安になるじゃないの!あんな柔らかなお顔でそんなことを言われたら!」
なるほど、形見分けね。確かにこのところオスカルは暇を見つけては身辺整理をしている。当のアンドレが何かとこき使われているのだから、間違いない。何しろ、このところ頭の中をぐるぐるとループしている計画を思いついたのも、オスカルの身辺整理に付き合ったことが発端だったっけ、とアンドレは記憶を辿った。
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あれは、先週の日曜日。不要品を全て処分したいというオスカルに呼ばれたアンドレは、彼女の居間にいた。
「こうやって一所に集めて見ると凄い量だな。焼却処分でいいのか?」
「もう、いいだろう。こういったものは送り主の情がこもっているような気がして処分しきれず溜め込んでしまったが…」
オスカルは、手に持っていた一束の書簡を数刻見つめていたが、やがてそれもばさっとアンドレの前に山積みになった手紙や冊子類の上に投げ出した。
「オスカル!これは王妃様からの書状じゃないか!これも処分してしまうつもりなのか?」
積み上げられた紙類の殆どは妖しげな付文や恋文、ある種の趣向を追求するサロンへの誘い文だったりするのだが、中には真剣な思いを綴るものも混じっていた。
見覚えのある文字で宛名書きされたアメリカ発と分かる封筒の束が、不要箱に投げ入れられていたのを見た時、アンドレはしれっと黙認したが、王妃からの書簡となると確認せずにはいられない。
オスカルはすっと立ち上がると大きく伸びをした。
「何故かは分からんが、そうしたいんだ。人の心も人生も一瞬たりとも同じ場所には留まれない。常に次の選択をし続けなければ前に進めないじゃないか。ならば捉われるものなく、出来る限り今の自分に相応しい道を選びたいと…そうは思うが…」
オスカルは言葉を切ると、長い睫毛を伏せて自嘲気味に笑った。
「積み重ねて来たものの重みが…わたしを引き戻そうとする…」
アンドレはしばし手を止めてオスカルの横顔に見入った。最近よく見かける進退窮まるといった苦しげな表情だ。それを見るたびに、アンドレの脳裏に浮かぶ情景がある。
太い鎖と錠でしっかりと閉ざされた城壁の門の内側からオスカルが外の世界を見つめている。城壁内で閉塞感にあえいでいたオスカルが、ある日ふと錠に鍵がささったままであることに気づく。
気づいてしまえば開門するか、留まるか、選択は自分の意志に委ねられる。閉じ込められているという言い訳はもはや通用しないのだ。オスカル、おまえは今そんな場所に立っているのではないか?
アンドレの静かな視線を感じたオスカルは面を上げ、もの問いた気な瞳を向けた。
「よし、おまえがそうしたいならどんどん処分しよう!」
アンドレは明るく言い放つと、威勢良くより分けた紙類を古い木箱に投げ込んだ。
「ほら、どんどん出せ!景気よく焼却処分してさっぱりしよう!なんなら箪笥ごと出してもいいぞ!それとも…」
アンドレは上着を脱ぎ捨て、両袖を肘まで捲り上げると、ぽきぽきと片方ずつ指を鳴らして見せた。
「身包みだって剥いでやるぞ!」
オスカルの表情が一変して高揚する。遊び心が点火された合図だ。
「10年早いアンドレ!剥がれるのはおまえだ!」
オスカルに不敵な笑顔が戻った。
それからしばらくは整理だかじゃれあいだか分からない様相になった。紙類は舞い上がり、書籍は崩れ落ち、追いかけ合って敷物はめくれ上がり、居間は一時台風が通過したような有様になった。
お茶を運んできたばあやのカミナリが(アンドレだけにピンスポットで)落ちた後、なんとか仕分けした不用品はいくつもの古い木箱につめられた。それらを何度かに分けて運び出したアンドレが、一番大きな最後の古木箱を抱え上げ、部屋を出て行かんとした時、オスカルがしみじみとつぶやいた。
「これほど大量の恋文を貰ったのに、わたしがこの男と定めた世界一恋しいたったひとりの相手からは、一通たりとも恋文を貰った事がないのだ。世の中丁度にいかないものだな、何故だと思う?」
えっ?
アンドレの手から木箱がすべり落ち、床で大破した。
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イヴォンヌが真剣な面持ちでアンドレを見つめている。アンドレは中腰になって彼女の目線に合わせた。
「オスカルが身辺整理を始めたのは、あれはまあ一種の儀式みたいなもので、心配する事はないと思うよ」
イヴォンヌはよく分からないといった風に下唇を突き出した。
「うーん、つまり、ここの所いろいろあったろう?」
「いろいろって、オスカルさまが舞踏会をぶっ潰したこととか?それともパリで襲撃されたこととか?」
ずばり切り返されて、わざわざ湾曲表現したアンドレはがっくりと肩を落とした。
「まあ、そんなところだ。オスカルは新しい気持ちでこれからの人生を仕切り直したいと思っている。だけどあいつは背負うものが大きいから気持ちを切り替えるのも簡単じゃないんだ。だから古いものを処分する事で、弾みをつけようとしている、とおれは思うんだが」
ぽかん、と小さな口を開けてイヴォンヌは穴の開くほどアンドレの顔を眺めたまま一言も発しない。そんなところはまだあどけない子供のようで、アンドレは微笑ましくなる。近く花嫁衣装を纏う小さなレディへの敬意を込めて、口には出さないが。
「だから、世を儚んでいるとか、家出を考えているとか、駆け落ちの計画があるとか、そういう心配はないよ。悩んでいる事はあるだろうけどね。あいつの気持ちがしっかり前向きなのは確かだ」
たちまちイヴォンヌの目に尊敬と驚きの色が現われた。
「すっご~い。やっぱりアンドレだ」
「どうも」
アンドレは片足を引き、かしこまった礼をして見せ、イヴォンヌはぴょんぴょん跳ねた。
「良かった!安心した」
「遠慮しないでドレスは貰ってやれよ。その方があいつも喜ぶって。おばあちゃんの事は気にしなくていいから」
「ヤキが入るんじゃないの?」
アンドレはわざとらしく苦悩して見せた。
「それも儀式さ、おばあちゃんはそうやっておれから生気を吸い取って若さを保っているんだ。実はもう120を越えているという説もある。」
「きゃはは、冗談に聞こえないからすごい~」
「冗談だと思うか?ほとんど妖怪の域に達しているぞ」
アンドレは手にした布でほっかぶりをすると、足元を埋める色とりどりの落ち葉を撒き散らし、凄んで見せた。
「きゃ~っ」
「憑り付かれないように気を付けろよ。嫁入り前の娘の生気が一番狙われるんだ。おれもいつまで身体を張って防げるかそろそろ自信がないぞ~」
「あははは!」
笑い転げる二人の後ろを2頭の栗毛の馬を引くジャックが通り過ぎた。朝の給餌を終えて、馬装の準備に行くのだろう。二人にも仕事を再開する時刻が迫っていた。
「奥様がね、とても気にかけていらっしゃったの」
「なるほど、それでおれに探りを入れにきたのか」
「奥様に言われたじゃないわよ!」
「なるほど、自主的にね。最近あいつは奥様と過ごす時間が全くないからな…。一緒に食事する機会でもあれば、あいつが元気なことをお分かりになるだろうに。まあ、それとなく言っておくよ」
「うん、お願い」
イヴォンヌは按堵の笑みを浮かべた。
じゃあ、行かなくっちゃ、とくるりと身を翻しながら屋敷に駆け戻る小さな彼女は、去り際に、屋敷の中まで届けとばかりの大きな声で爆弾を落とした。
「駆け落ちとか冗談に出来るほどあなたも立ち直ったって訳ね!そのまま頑張るのよ!」
何をどう頑張れと?
思いっきりのけぞったアンドレであった。よろよろと体勢を立て直しながら、おまえこそ頑張れフィリップと、彼は心の中でイヴォンヌを嫁にする予定の同僚にエールを送ったのだった。
~To be continued ~
きっと喜んでくれる。
それは、彼にとって確信以外の何ものではなく。突然の落雷のように彼を直撃したインスピレーションに従って行動するならば、彼女は、絶対に喜んでくれる。が、しかし。
言うは易し行うは難き。だよなあ。
喜んでくれることは間違いないだろうけど、突然閃いちゃった企画はとんでもなく難易度が高かった。ここはやっぱり無難な妥協策に甘んじて…、と考えた瞬間、強烈な違和感が鳩尾を締め上げた。そっか、まあ、つまり、あれだ、やれ、ということだよな。アンドレは覚悟を決めた。
「おい、アンドレ!」
名を呼ばれてアンドレの考え事は中断された。パリの下町の喧騒が途端に耳に流れ込む。物売りが張りあげる単調な売り文句、客を取り合う女達の金切り声、泥をはね上げて疾走するカブリオレ。
商品を万引きした少年を罵倒しながら追いかける古着露天商。それを野次る酔っ払いの集団。アンドレはパリを巡回中だったことを思い出した。
「さっきから、何度も呼んでるんだぞ。何を呆けているんだよ?おっと、そこ、ぬかるんでるぜ」
全く、何が悲しゅうて野郎をエスコートしなきゃならないんだ。などと悪態を吐きつつ結構親切な相棒に、ぐい、と腕を引っ張られ、アンドレはすんでのところで排水講に足を突っ込む悲劇から救われた。
「お前と組むと疲れてしょうがねえ。いい加減パリの路地の歩き方に慣れろよな。呆けた顔しやがって」
乱暴に掴んだ腕をほいっと投げ捨てながら、あきれたように言い放ち、もみあげの相方はずんずんと先へ進んで行った。
「あ、ああ、悪いな、アラン。ちょっと考え事をしていた」
「夕刻だ、ぼやぼや歩いているとひき殺されるぞ」
オデオン座やフランス座が開演する時刻が迫っていた。きらびやかな馬車が続々と狭い路地を汚泥を跳ね上げながら飛ばし、夕餉の食材や夕方のパンの値下げを当て込んで通りを急ぐ人々を追い散らす。
「相変わらずひでえもんだ。連中が有難がって勉強する作法書には通行人に対する礼儀ってもんは書いてないのかね」
おれに説明を求めるなよ、と一通りの礼儀作法は士官学校で学んで来たはずの相方に、アンドレは肩をすくめて見せた。
秋の日の入りは早い。隙間無くアパルトマンが立ち並ぶ路地はただでさえ薄暗いのに、冬の低い太陽は狭いパリの空に姿を見せないまま西に急ぐ。じめついた路地は乾く間もなく宵闇に飲み込まれ、建物の間から吹きつける冷たい隙間風が身に染みた。
ありとあらゆる生活臭と人間の汚物の匂いを運ぶ空風は建物沿いに吹き上がり、せり出した看板をがたぴしと絶え間なく揺らした。
「寒くなってきたな、腹も減った」
寒さに肩をいからせて歩いていたアランがぼやいた。
「おまえが腹ぺこじゃない時なんてあるのか?」
「うっせえや」
アンドレは、半歩先を歩いて行くアランに、もう今日は本部に戻ろうと声を掛けようとして、ふとあることを思いついた。
「おい、アラン。おまえそこそこ腕のある楽士をおいている店を知らんか?」
「知っていたらなんだよ?」
妙なことを聞くやつだな、と訝しげにアランが振り返ると、十年来の友人であるかのようにアンドレは懐っこく笑っている。
「おれも腹が減った。飯奢るよ、音楽を聴きながら、なんてどうだ?」
世にも珍しいことを聞いたアランだった。こいつでも仕事中に寄り道をしようなんて発想ができるとは驚きだ。しかも楽士付きの店に案内しろだってえ!?何で野郎と2人でそんな所へ行かなくちゃならないんだ。こいつ、今日は絶対オカシイ。
アランは警戒心丸出しでアンドレを睨んだ。アンドレはそんな相棒の不信に満ち溢れた様子を気にする素振りも見せず、にこにこと返事を待っている。
正直に言えば、私服偵察任務にアンドレと組むのは嫌いではないアランである。パリ事情については圧倒的にアランの方が詳しいが、勘が良くて観察眼の鋭いアンドレは、要点を的確にまとめて短時間で報告書をまとめ上げることができる。
書類作成が大嫌いなアランにとって、実はありがたい相方なのだ。しかし、平素から勤務態度が真面目なアンドレが勤務中に脱線するのは想定外だった。まさかこいつ。
「おまえ、カマかけてんじゃないだろうな」
眼光鋭く睨みつけるアランにアンドレを目を瞬いた。
「カマ?何の?」
アンドレは言葉どおり以外のことは何も考えていませんが何か?と言わんばかりに首を傾げた。
「おれが喜んでほいほい請け負ったら、隊長に言いつけるつもりだな」
「何で?どっちかと言えば、オスカルには内緒にしてくれってこれから頼むつもりだった」
「……そ…うだよな」
「そうでしょ、普通は」
野郎二人は寒風吹きすさぶ路上でしばし見つめ合い、その馬鹿馬鹿しさに失笑した。とにかく寒かったし。
「ご立派なところは知らんぞ」
「カフェ・デ・ザヴ―グル(*)みたいなところじゃなきゃいいよ」
「はっ、よくご存じじゃねえか。おれだってそんな破廉恥な店はごめんだ」
アンドレはまた屈託なく笑った。最悪の出会いだったいけ好かない年上の男は、実はこんなに無邪気に笑うやつだったことを知ったのはごく最近。何だかんだと悪態ばかりかましていても、こうしてたまに頼られると内心嬉しいアランであった。
絶対に認めはしないが。
*カフェ・デ・ザヴーグル(盲人のカフェ)——パレ・ロワイヤルの地下に実在した店。盲目の楽士の演奏と、風紀の悪い空気で知られた。
💃 🍷 🎻 🍾 💃 🍷 📯 🍾
「ねえ、アンドレ」
ジャルジェ夫人つきの第二侍女が、井戸端で洗顔しているアンドレに声を掛けた。
使用人の係分担は明確に定められているジャルジェ家だが、どうしてもタイミングが合わずに半端にとりこぼされる雑用はまま生じるものだ。
その隙間を埋める『何でも屋』を侍女頭である祖母に押し付けられて早四半世紀。一応上等な制服着用の上級使用人、次期執事とも期待されるまでに昇進した永遠の下積み男は、早朝から薪を割り終えたところだった。
「やあ、おはようイヴォンヌ、今朝は早いんだな」
すっかり色づいたプラタナスを昇ったばかりの新しい朝日が金色に煌めかせている。小柄できりりとしたイヴォンヌの輪郭が逆光にくっきり浮かぶのをアンドレは少々眩しい想いで見た。彼女は来春、料理長見習のフィリップと結婚する。
綺麗になったと思う。姿形の美しさといった上辺の美ではなく、生き生きと花開いた生命力の輝き。ちょっと前までは、利発だけれどご愛嬌な程度に粗忽者なところが皆に愛されていた、こどもこどもした少女だったのに。
恋を知るとあっという間に華やいだ女性の色香が立ち昇るんだな。言動はまだまだ子供っぽさ丸出しだけど。おかげでフィリップは皆から祝福半分、やっかみ半分で犯罪者扱いだけど仕方ない。
最近のオスカルも、ますます綺麗になったとむくつけき同僚たちが噂している。それって、つまりは・・・。
「アンドレったら!どうしたのよ、何か変よ、ぼけっとして!」
あれ、アランにも同じようなことを言われたっけな。うん、最近ちょっとどうかしている。アンドレは頭を振った。
「つい、見とれちゃったんだよ、綺麗になったなと思って」
イヴォンヌは褐色の大きな瞳を見開いて頬を染めたが、すぐに不服そうにぷうっと膨れた。
「今ごろ遅いわよ、そう言って欲しい時にはただの能天気だったくせに」
「え?」
「何でもありません!それよりねえ、オスカルさまなんだけど」
イヴォンヌは、それぞれの朝の仕事を始めた使用人達が、2人、3人と中庭に姿を現し始めるのを認めると、今は空になっている古い厩の影にアンドレを引っ張っていき、声を潜めた。
「ねえ、最近のオスカルさま、少し感じが変わられたでしょう?」
え?今まさに考えていた事を指摘されて、アンドレは思わず身を屈めて少女の目を覗き込んだ。
「オスカルが?どんな風に?」
「だから、聞いているのはわたしだってば!」
「あ、そうだね… おれは毎日ずっと一緒だからかえって変化が判らないことも多いんだ。君にはどう見えるんだい?」
「何だかお傍へ寄っても怖くないって言うか…」
アンドレは首を傾げて目の前の少女の意図を汲み取ろうとした。
「オスカルはもともと怖くなんかないだろ?」
イヴォンヌも何とか思うところを言葉にしようと鼻の頭にしわを作ってうーんと唇を真一文字に結ぶ。
「そう…ね、怖いわけではないんだけど、何と言うか、オスカルさまの周りにはこれ以上は踏み込むことを許ない結界みたいなものがあって、近づきにくい雰囲気があったのよね。それがこのところないのよ。お傍に寄れるの」
ふうん、そんな風に見えるのか。洗いっぱなしの濡れた頬に朝の冷気がしみた。アンドレはひとつ小さな身震いをすると麻布で顔を拭いながら、少女に向けていた真剣な表情を和らげ、微笑んだ。
「呑気な顔!そうよね、あなたはもともと一番オスカルさまの近くにいるんだから、そんな緊張は分かんなかったでしょうね」
イヴォンヌはきっとアンドレを上目使いで睨みつけた。
「うん、それは気が付かなかったけど、何か困る事でも?」
余裕で聞き返され、あーあ、これだからいやんなっちゃう、と言わんばかりにイヴォンヌは大きくため息をついた。
「オスカルさまが結婚祝いにドレスをくださると言うの。仕立て直して使えそうなのがあれば好きなものをお持ちって」
「へえ、良かったな。いい嫁入り支度になるじゃないか」
「もう!形見分けみたいで不安になるじゃないの!あんな柔らかなお顔でそんなことを言われたら!」
なるほど、形見分けね。確かにこのところオスカルは暇を見つけては身辺整理をしている。当のアンドレが何かとこき使われているのだから、間違いない。何しろ、このところ頭の中をぐるぐるとループしている計画を思いついたのも、オスカルの身辺整理に付き合ったことが発端だったっけ、とアンドレは記憶を辿った。
🍁 🔨 🪵 🍂 🪚 🍁 🔨 🪵 🍂 🪚
あれは、先週の日曜日。不要品を全て処分したいというオスカルに呼ばれたアンドレは、彼女の居間にいた。
「こうやって一所に集めて見ると凄い量だな。焼却処分でいいのか?」
「もう、いいだろう。こういったものは送り主の情がこもっているような気がして処分しきれず溜め込んでしまったが…」
オスカルは、手に持っていた一束の書簡を数刻見つめていたが、やがてそれもばさっとアンドレの前に山積みになった手紙や冊子類の上に投げ出した。
「オスカル!これは王妃様からの書状じゃないか!これも処分してしまうつもりなのか?」
積み上げられた紙類の殆どは妖しげな付文や恋文、ある種の趣向を追求するサロンへの誘い文だったりするのだが、中には真剣な思いを綴るものも混じっていた。
見覚えのある文字で宛名書きされたアメリカ発と分かる封筒の束が、不要箱に投げ入れられていたのを見た時、アンドレはしれっと黙認したが、王妃からの書簡となると確認せずにはいられない。
オスカルはすっと立ち上がると大きく伸びをした。
「何故かは分からんが、そうしたいんだ。人の心も人生も一瞬たりとも同じ場所には留まれない。常に次の選択をし続けなければ前に進めないじゃないか。ならば捉われるものなく、出来る限り今の自分に相応しい道を選びたいと…そうは思うが…」
オスカルは言葉を切ると、長い睫毛を伏せて自嘲気味に笑った。
「積み重ねて来たものの重みが…わたしを引き戻そうとする…」
アンドレはしばし手を止めてオスカルの横顔に見入った。最近よく見かける進退窮まるといった苦しげな表情だ。それを見るたびに、アンドレの脳裏に浮かぶ情景がある。
太い鎖と錠でしっかりと閉ざされた城壁の門の内側からオスカルが外の世界を見つめている。城壁内で閉塞感にあえいでいたオスカルが、ある日ふと錠に鍵がささったままであることに気づく。
気づいてしまえば開門するか、留まるか、選択は自分の意志に委ねられる。閉じ込められているという言い訳はもはや通用しないのだ。オスカル、おまえは今そんな場所に立っているのではないか?
アンドレの静かな視線を感じたオスカルは面を上げ、もの問いた気な瞳を向けた。
「よし、おまえがそうしたいならどんどん処分しよう!」
アンドレは明るく言い放つと、威勢良くより分けた紙類を古い木箱に投げ込んだ。
「ほら、どんどん出せ!景気よく焼却処分してさっぱりしよう!なんなら箪笥ごと出してもいいぞ!それとも…」
アンドレは上着を脱ぎ捨て、両袖を肘まで捲り上げると、ぽきぽきと片方ずつ指を鳴らして見せた。
「身包みだって剥いでやるぞ!」
オスカルの表情が一変して高揚する。遊び心が点火された合図だ。
「10年早いアンドレ!剥がれるのはおまえだ!」
オスカルに不敵な笑顔が戻った。
それからしばらくは整理だかじゃれあいだか分からない様相になった。紙類は舞い上がり、書籍は崩れ落ち、追いかけ合って敷物はめくれ上がり、居間は一時台風が通過したような有様になった。
お茶を運んできたばあやのカミナリが(アンドレだけにピンスポットで)落ちた後、なんとか仕分けした不用品はいくつもの古い木箱につめられた。それらを何度かに分けて運び出したアンドレが、一番大きな最後の古木箱を抱え上げ、部屋を出て行かんとした時、オスカルがしみじみとつぶやいた。
「これほど大量の恋文を貰ったのに、わたしがこの男と定めた世界一恋しいたったひとりの相手からは、一通たりとも恋文を貰った事がないのだ。世の中丁度にいかないものだな、何故だと思う?」
えっ?
アンドレの手から木箱がすべり落ち、床で大破した。
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イヴォンヌが真剣な面持ちでアンドレを見つめている。アンドレは中腰になって彼女の目線に合わせた。
「オスカルが身辺整理を始めたのは、あれはまあ一種の儀式みたいなもので、心配する事はないと思うよ」
イヴォンヌはよく分からないといった風に下唇を突き出した。
「うーん、つまり、ここの所いろいろあったろう?」
「いろいろって、オスカルさまが舞踏会をぶっ潰したこととか?それともパリで襲撃されたこととか?」
ずばり切り返されて、わざわざ湾曲表現したアンドレはがっくりと肩を落とした。
「まあ、そんなところだ。オスカルは新しい気持ちでこれからの人生を仕切り直したいと思っている。だけどあいつは背負うものが大きいから気持ちを切り替えるのも簡単じゃないんだ。だから古いものを処分する事で、弾みをつけようとしている、とおれは思うんだが」
ぽかん、と小さな口を開けてイヴォンヌは穴の開くほどアンドレの顔を眺めたまま一言も発しない。そんなところはまだあどけない子供のようで、アンドレは微笑ましくなる。近く花嫁衣装を纏う小さなレディへの敬意を込めて、口には出さないが。
「だから、世を儚んでいるとか、家出を考えているとか、駆け落ちの計画があるとか、そういう心配はないよ。悩んでいる事はあるだろうけどね。あいつの気持ちがしっかり前向きなのは確かだ」
たちまちイヴォンヌの目に尊敬と驚きの色が現われた。
「すっご~い。やっぱりアンドレだ」
「どうも」
アンドレは片足を引き、かしこまった礼をして見せ、イヴォンヌはぴょんぴょん跳ねた。
「良かった!安心した」
「遠慮しないでドレスは貰ってやれよ。その方があいつも喜ぶって。おばあちゃんの事は気にしなくていいから」
「ヤキが入るんじゃないの?」
アンドレはわざとらしく苦悩して見せた。
「それも儀式さ、おばあちゃんはそうやっておれから生気を吸い取って若さを保っているんだ。実はもう120を越えているという説もある。」
「きゃはは、冗談に聞こえないからすごい~」
「冗談だと思うか?ほとんど妖怪の域に達しているぞ」
アンドレは手にした布でほっかぶりをすると、足元を埋める色とりどりの落ち葉を撒き散らし、凄んで見せた。
「きゃ~っ」
「憑り付かれないように気を付けろよ。嫁入り前の娘の生気が一番狙われるんだ。おれもいつまで身体を張って防げるかそろそろ自信がないぞ~」
「あははは!」
笑い転げる二人の後ろを2頭の栗毛の馬を引くジャックが通り過ぎた。朝の給餌を終えて、馬装の準備に行くのだろう。二人にも仕事を再開する時刻が迫っていた。
「奥様がね、とても気にかけていらっしゃったの」
「なるほど、それでおれに探りを入れにきたのか」
「奥様に言われたじゃないわよ!」
「なるほど、自主的にね。最近あいつは奥様と過ごす時間が全くないからな…。一緒に食事する機会でもあれば、あいつが元気なことをお分かりになるだろうに。まあ、それとなく言っておくよ」
「うん、お願い」
イヴォンヌは按堵の笑みを浮かべた。
じゃあ、行かなくっちゃ、とくるりと身を翻しながら屋敷に駆け戻る小さな彼女は、去り際に、屋敷の中まで届けとばかりの大きな声で爆弾を落とした。
「駆け落ちとか冗談に出来るほどあなたも立ち直ったって訳ね!そのまま頑張るのよ!」
何をどう頑張れと?
思いっきりのけぞったアンドレであった。よろよろと体勢を立て直しながら、おまえこそ頑張れフィリップと、彼は心の中でイヴォンヌを嫁にする予定の同僚にエールを送ったのだった。
~To be continued ~
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