One and Half Love Stories 1章 ★New★だけど再掲

2025/11/01(土) Trashy Closet様 掲載作品
長い北ヨーロッパの冬には独特の重苦しさがある。寒さが特に厳しくなったこの年のパリでは、パンと燃料が高騰し、失業者が路上に溢れた。誰もが越冬を耐え忍んでいた。だから腹を減らした若い衛兵が元気をなくしていても、彼だけが特別に不幸だとは誰も思わなかった。

アンドレもそれほど気に留めなかっただろう。その若者の必死の懇願に押し切られ、いく通かの恋文を考えてやった後でなかったら。

   
それらは恋文と呼ぶには軽やかで、一見友情の手紙のようであり、ふとした瞬間に摘みたてのハーブのようなほのかな甘さが行間から立ちのぼるような文だった。だから、そこに大の男二人分の労力が最後のひとしずくまで注ぎ込まれているとは想像もつかないだろう。

何しろ、兵士が恋する少女が読めるつづりは非常に限られている。生活に密着した食材や雑貨、酒屋やカフェの看板、好きな花や甘味の名前、聖人の名前を数名、そして自分と家族の名前。これらが彼女の文字世界の全てだ。

その彼女が読めるくらいシンプルであること。そして、家族を養うためにきつい仕事を始めた彼女を力づける内容に、さり気なく恋心をほのめかせて欲しい。

「なる…ほどね、フランソワ」
アンドレはしばし絶句した。『おまえ、それどんだけ技巧を要するかわかってないだろ・・・』

当の青年の読み書き能力だって彼女といい勝負なのだ。高望みも大概にせよである。アンドレの右目が渋く眇められたが、青年は頓着せずに条件を並べ立てた。

恋する相手は幼馴染みで、支え合いながらパリで生き抜いた戦友である。男女の意識は育っていない。いきなり恋を語るには、距離が近すぎる。熱い恋心を語る前に段階を踏みたいから、まずは異性であることをやんわりと気づいてもらえるような恋文を送りたい、と。

🥚 🐣 🐤 🐣 🐥 🐣 🥚

まだ卵の殻を尻につけているひよっこのくせに、幼馴染の女の子に「男」を意識してもらうのに段階を踏む、という着眼点には恐れ入った。

優しい幼馴染でいることに踏ん張りきれず、ついに暴走してしまった中年男の鳩尾で、癒えぬ傷がジタバタと疼いた。愛する人が安らげる場所であり続けたかった。それができぬなら、せめて、彼女の足元に跪き愛を告げたかった。

よせばいいのに、うっかり感傷の底無し沼に自ら足を突っ込んだ中年男をよそに、青年はピヨピヨと無邪気にまくし立てた。

「船の荷揚げでも石運びでも何でもやらなきゃ食っていけないから、おれの親もヴィルナの親も朝から夜遅くまで留守だった。あいつと妹とおれら兄弟はいつもどっちかの家で留守番していたんだ。

親が帰ってこない夜は凍えないように寄り添って寝た。悪いことも一緒にやったよ。へへ、腹減って仕方なかったからね。スリ働く時の連携プレイなんか神業だったな。だからおれたち、戦友みたいなものなんだ」

一部どこかで聞いたような話だ。近すぎて遠い距離感か。今や感傷の沼に首まで浸かったアンドレがクールに聞き流せるはずもなく、そのまま他人のどつぼに引きずり込まれる音が響いた。

フランソワ19歳、彼の想い人ヴィルナは17歳。貴族とは違い、労働者階級の結婚は一般的に二十代後半になることが多い。生活力を身につけるまでは結婚どころか交際する段階にすらない二人である。

それでも家族ぐるみの交流があり、休日の折に家族を交えて食事などできれば、昔馴染みの二人のままで青年は幸せだった。

あと数年はそんな関係が続くはずだった。しかし、夏を境にフランソワは焦りはじめた。ヴィルナの生活環境が一転したのだ。

唯一の男手であるヴィルナの父が教会の補修工事助手の仕事を得て間もなく、足場から落下し大怪我を負った。壊死した右足の膝から下は切断せざるを得なかった。非情な言い方をすれば、死亡事故よりも悲劇的な結果を呼んだ。

死亡事故ならば、一時的にせよ雇い主から見舞金が降り、残った家族は自分たちだけが生きていくことを考えればよい。しかし、加療が必要な父親を扶養する生活は、女手の低賃金で支えるには厳しいものだった。

長時間労働から疲労困憊して帰宅すれば、日常生活に何かと手がかかる父親の世話が待っている。己の立場を悲観した父の酒量が増え、苦しい家計をさら逼迫させた。じきに暴言、暴力といった悲劇の前兆が見え始めた。

愛はあっても人の心は鋼鉄製ではない。いずれ生活苦に押しつぶされた家族は憎み合うようになる。パリの下町で、いくらもそんな家族の崩壊を見てきたヴィルナが覚悟を決めた。

彼女は針子をやめ、市外にいくつもある歓楽地区の一つ、ポルシュロンのキャバレーで踊り子となった。免税酒が安く飲める庶民に人気の盛り場である。

踊りと給仕で得るチップは針子で得る賃金の倍になるが、家族を丸ごと支えられる額を稼ぎたければ、女が差し出すものは決まっている。芸としての踊りではなく、若い肢体が目的の客が集まる、キャバレーとはそんな場所であった。

ヴィルナは日常的に男の視線に晒される身となり、フランソワはただ静観しているわけにはいかなくなった。

『おれの家族だって飢えているから何もしてやれない。でも、せめてあいつがおれの気持を知ってくれたら』

ヴィルナが最初から手っ取り早い高収入の道を選ばずに踊り子を選んだのは、彼女のささやかな抵抗だった。夜の仕事であっても、踊り子であれば何とかギリギリの縁で身を汚さずに済むことを期待して。

フランソワの思いも同じであった。幼馴染から恋人になれたら、彼女は彼のために一線を越えず堪えてくれるのではないか。儚い望みではあるが、彼女の家族ごとまとめて面倒を見てやる甲斐性がない以上、彼は僅かな希望に縋り付いていた。

「酷なことを言うようだが・・・」

話を聞いたアンドレは幾度も逡巡した後に現実を指摘した。19歳なら夢見る時代は卒業する頃だろう。意外に成熟した面を見せてくれたのだから。さもなければ心がずたずたに引き裂かれる前に、辛い恋からは身を引くことだ。

「夜の世界に染まらずにいるのはまず不可能だと思った方がいい。その世界で稼ぎたいなら時間の問題だろう。それが嫌なら傷つく前に彼女はお針子に戻るしかないよ」

「針子じゃ病人の面倒まで見きれないし、彼女は親を捨てたりしない」

青年はそう言うと俯いて押し黙った。アンドレは、ひとすじの細い希望の糸を断ち切ろうとしている自分が酷く残酷に思えたが、刃は向けねばならなかった。

「ならば諦めろ、フランソワ」
アンドレは冷たく言い放つ。さあ、若者はどう出るか。

「アンドレ!」

耳にした言葉が信じられない青年は、淡い金髪を振り乱してアンドレの軍襟を両手で鷲づかみにした。

「ア…、アンドレ!あんたまでそんなことを言うなんて!」

成程。彼に正論を諭した大人は自分が最初ではなかった訳だ。アンドレは自身を正しいとも常識的とも思ってはいないが、色白の頬を上気させ、涙目を見開いて自分を激しく揺さぶる青年が心から好きだったからこそ、甘言は吐きたくなかった。

かつて。
同じ屋根の下、アンドレの秘めたる想いを察した仕事仲間は大同小異、悔しいほどの正論でもっともな忠告をくれた。深く彼を心配してくれていた仲間ほど辛辣だった。最強だったのは勿論祖母だ。有り難いと理性の片隅で頭を下げはしたが正直疎ましく、誰にもわかるもんかと血の出るほど唇を噛んだ。

今、涙で金髪を頬にはりつけたまま、食いつかんばかりに詰め寄る若者の重みを胸に受けてみて、アンドレは忠告をくれた祖母や仲間の気持ちを突然理解した。当時の自分の姿が、目の前のフランソワなのだ。アンドレは今度こそ真摯に頭を垂れた。

「おれに何と言って欲しかったんだ?」
「諦めるなって、言ってよ!どうして、みんな無理だと決めつけるんだよ!」

「決めつけじゃない。現実だ」
「可能性はあるじゃないか!」

「千にひとつかふたつくらいなら、あるかもな」
「それに賭けてみないうちに諦めるなんてできないよ」

「馬鹿野郎、目を覚ませ!」
「何だよ、自分だって諦められないくせに分別くさいこと言って」

「わかったような口をきくな」

アンドレのたった一つの瞳が底光りし、優しく頼れる兄貴分はいきなり容赦ない怒りをあらわにした。実の兄貴に甘えるようなつもりでいたフランソワは、喉笛にひんやりとした広刃をあてがわれたように凍りついた。

「最初から奇跡を望むような餓鬼に手を貸すつもりはない。ヴィルナは家族を守るために体を張る覚悟を決めたのだろう。そんな彼女の足をひっぱって甘える馬鹿があるか」

聞いたことのないような低音が、ずっしりとフランソワの腹の底に響いた。

「あ、甘えてなんか・・・」
「わからないか。仮にヴィルナの気持ちがおまえに向いたとして、その先はどうする?男相手に稼がなくてはならない彼女は、おまえとの板挟みで余計に苦しむだろう。おまえは彼女の気持ちに縋りついて、彼女の選択を制限するつもりか?」

「じゃ、じゃあ、ヴィルナが身売りした方がいいって言うのか!酷いよ!」
「いいか、悪いかじゃない。そうせざるを得なくなった時、おまえはヴィルナをより一層苦しめたいのか、と聞いているんだ」

「そんなこと・・・」
「彼女はおまえを愛すれば、愛するほど苦しむんだぞ。おまえが駄々っ子ならなおさらだ」
「・・・っく」

「そっとしておいてやるんだな。そして、陽気で気安い幼馴染のまま、気持ちの上で支えてやれ。それが彼女にしてやれる最良のことだ」

見る間に血の気を失っていくフランソワを見て、アンドレも辛かった。若い彼の中で荒れ狂う葛藤の細部までがわかり過ぎるほど理解できる。それなのに自分は若者に一番酷な道を選べと要求しているのだ。

しかし、相手の立場に視点を誘導してやると、背年はたちどころにアンドレの言わんとすることを理解した。蒼白になって震えている様子がそれを証明している。

自分の思慕を持て余して突っ走ってもおかしくない年齢の餓鬼のくせして、何と優しく、見どころのあるやつだ。アンドレは驚嘆した。

「・・・・・・」
わかった、と言いたい。しかし、言葉に出して宣言する決心もつきかねる。そんなフランソワの無言の叫びが沈黙のうちに聞こえた。

「さもなければ」
アンドレが言葉を繋げると、すがりつくようにフランソワが顔を上げる。

「さもなければ?」
「彼女の身に何が起きようが変わらず愛しぬく覚悟ができるなら、気持ちを伝えてみればいい」

「何が起きてもって・・・」
「言い方を変える。おまえは、愛を語っておきながら、彼女が身を売ったら背を向けるのか?より辛い状況に追い込まれた彼女に追い討ちをかけるのか?」

「それは・・・」
「だったら最初から止めろ。でなければありのままを受け入れられる男になってから彼女の前に立て、ということだ」

青年は凍りついたように握り締めた両拳見詰めている。すぐに結論など出ないだろう。ゆっくりと考えればいい。アンドレは青年と並んで座っていた空の弾薬箱から立ち上がると埃を払い、青年を残して歩き出した。司令官室へ戻る時刻が迫っている。

青年は押し黙ったままそのままの格好で動かなかったが、アンドレが兵舎の角を曲らんとしたところで立ち上がり叫んだ。

「アンドレ!あんたはその覚悟を決めたのか?」
アンドレは立ち止まると、黙って肩をすくめ、振り返りもせずに答えた。
「使用人の覚悟ってやつをな」

奇跡をあてにする甘さなど完璧に拭い去った男の後ろ姿は、フランソワをただ圧倒した。望みの有無など関係ない。すっきりと伸ばした背筋がそう断言していた。

      💘 💔 💘 💔 💘 💔

(ア~~~ンドレ~~♪)
美しい主人に付き従って衛兵隊司令官室へ急ぐアンドレを、柱の影から陽気な身振りでフランソワが呼び止めたのはそれから一週間も経たない朝のことだった。

(あ・と・で、お願い)
アンドレの前を歩く隊長の目を盗んでいるつもりだろうが半身がたっぷりと柱からはみ出したまま、大げさな身振りでサインを送ってくるものだから、効果のほどは推して知るべしである。

(わかったから早く引っ込め)
アンドレは眉根を寄せ、ちいさくあごをしゃくって若い隊員を遠ざけたがが、隊長には当然後ろにも目があった。

🕊 💘 🕊 💘 🕊 💘

「さっきのは何だ」

司令官室の扉が閉まるや否や、両腕を組んだ隊長様は早速アンドレに斜めの視線を投げてよこす。

「さあ」
「アンドレ」
隊長は半オクターブ声を下げた。

「何でもないよ。最悪でもメシおごらされるくらいじゃないか?」
「何でもいいが、おまえの発砲や喧嘩も含めた一斑との素行不良について、始末書の文句はネタ切れだ。もうごめんだぞ」
「はっ、痛みいります」

アンドレは深々と上体が床と並行になるまで頭を下げた。その芝居がかった反省ポーズがあまりにも不謹慎だったので、オスカルは見事に水平を保ったアンドレの背中にさっと茶器のトレイを乗せてしまった。

「オ・・・オスカル・・・?」
「わたしの気に入りのセーブルが乗っている。落としたら私刑だぞ」
「ご、ご乱心を」
「昼までそうしてろ」
「うそだろ」

なぜいきなりこんな不当な目に会うんだ。アンドレは恨めしげに寄木細工の床と自分のつま先を睨んだ。オスカルの気に入りと言えば、王立窯により厳格に製造個数を規制された通し番号入りの希少なテイーセットで、濃い瑠璃色に24金で狼の歯紋様を縁取った豪華なものだ。そんなものを背中に乗せた日にゃ・・・。

え?

どんがらガッシャン!
派手な金属音を立てて銅製の無骨な盆が床を跳ね、同じくブロンズ色をしたカップとポットが転がった。オスカルのセーブルは屋敷で厳重に管理されている。こんなところにあるわけがないじゃないか、担がれた!

背中のトレイを振り落とし、憮然としたアンドレが髪をかきあげながら身を起こすと、彼の上官はしてやったりと嬉しそうに唇の端でほくそ笑んでいた。

「カップがへこんだな。アンドレ・グランディエ器物損壊…と」

この頃何が気に入らないのか、アンドレの想い人は、ふとした隙をついてよくこの手の悪戯をしかけて来る。大概は罪のない悪ふざけで目くじら立てるようなものではない。そしてオイタの成功に満悦する姿は相変わらず豪華に美しい。

衛兵隊転属前後から、二人を翻弄した人生の荒波は、ネタとして戯曲家に売れば一財産稼げそうなくらい盛りだくさんだったから、再び昔のようにじゃれ合える関係に落ち着いたことはむしろ喜ばしいくらいである。

しかし、最近のアンドレには一つ困ったことがあった。つい勘違いしそうになるのだ。

オスカルの行動原理が少女時代と同じならば、彼女がアンドレにしかける悪さは求愛行動の変形である。

求愛と言っても男女のそれではない。少女の頃からの流れで『寂しいからもっとかまって、わたしを優先して』という意味であり、『だって、おまえが大好きだから』であるのだが、当然アンドレの抱く感情とは性質を異にする。

だから、勘違いするな。アンドレは繰り返し自分に言い含めた。結婚を蹴ってしまったことでサバサバしたのだろうが、一人で生きる寂しさは改めて実感したのかも知れない。

乳兄弟であり親友であるつながりが健在であることを確かめたくて、彼女がしばしばチョッカイをかけるようになったとしても無理はなかろう。

けれど、最近ふとした瞬間に心ざわつく甘やかな空気が、オスカルと自分の間を通り過ぎるのだ。しかも、やっかいなことに、その感覚は振り払っても振り払っても、静電気を帯びた羽毛のように舞い戻って来るのである。

希望的観測を捨てきれないものだから、ないものがあるように見えるのだ。アンドレは、以前にも増して慎重にオスカルとの距離を調節するようになった。

その反動か、フランソワには偉そうに意見してしまった。本当は自分だって奇跡を夢見ている腰抜けなのに。自分を書き損じ書類のようにくしゃくしゃと丸めて暖炉にくべてしまいたいほど恥ずかしい。

そんな後ろめたさも手伝って、アンドレは夕刻の衛兵交代の時刻にあわせて時間をつくり、オスカルには内密でフランソワに会いに行った。

本当に忍び会いたい相手とはフランソワ違いもいいところである。まあ、人生なんてそんなものだ。

「決めた、アンドレ」
青年は何を決めたやら、ピーカンに明るく破顔してアンドレを迎えた。非常に不吉な予感がざわっとアンドレの首筋をなで上げる。

「そうか、それが懸命だ。じゃあな」
アンドレは負けじと明るくきびすを返そうとしたが、
「ア~ンドレ~、逃げるなんて卑怯だよ」
しっかりと上着の裾をつかまれていた。

先日はつい熱く語り過ぎたなどと今更後悔したところであとの祭りである。アンドレがフランソワの燃える決意に投げ込んだのは氷ではなく、火薬だったようだ。

「やっぱりヴィルナじゃなきゃだめだ。よく考えたけど何があったってそれは変わらない。絶対にだ」

フランソワは真剣な眼差しでアンドレを真っ直ぐ見据えてそう断言した。はいはい、勿論そうでしょうとも。アンドレはがっくりと肩を落とした。古式ゆかしき騎士道禁欲クラブに新規会員様一名ご案内、なんてことにならないようせいぜい祈っているよ。

「だから手伝ってくれるよね」
「う」

かくして、フランソワ青年の我がままかつ超特級難易度の要請が、アンドレに突きつけられることになったのである。

  💘 💌 🍒 🌛 🌺 💌
 

「月は?」
「あ~、多分大丈夫」
「ひなげし」
「OK」
「さくらんぼ」
「確実」

「待てよ、さくらんぼは・・・万が一深読みされるとまずいからやめ」
「え~~?何で?彼女さくらんぼ大好きだよ」
「わからなきゃいい。とにかく却下!」
「変なの」

「そばかすはどうだ」
「えっと~」
「綴ってみろ」

「えっと・・、taces d・・・r??」
「taches de rousseur だ。 だめか、キーワードなんだがな。おまえが書けない綴りは、ヴィルナも読めないんだよな?」
「うん、まあ多分」

「だがこれをはずすわけにはいかないなあ。仕方ない、図解しよう」
「わあ、アンドレ絵うまいね」
「莫迦、ただの点々だ」

               
                        

数えてみたよ
君の好きなもの
たくさんあるね
目がまわるほど

明るい月夜
ひなげしの園
午後のおひるね
馬の足音

お気に入り 並べてみれば 元気になるね
疲れた時は 思い出してよ
一緒にぼくも 数えていると

風見鶏 ぺーシュメルバ サブレプラリネ
晴れた日には 願いかけるよ
いつかそばかす 数えてくれると


ヴィルナへ
     フランソワ


「平易にしたつもりだが、まだ難しいかな」
「すごい・・・アンドレってすごい!こんなの一人じゃ絶対思いつかない!いくつか読めない字もあるけど何て言うか・・・」

「前後の関係で意味は推測できるだろうし、若干わからなくてもリズムで感じてくれればいいと思う」
「うん、何となく語呂がいいよね」

「一応十四行詩の形にしてあるからな。ソネだよ。文字慣れしていなくても、この短かさならさほど負担に思わないだろう。脚韻がやや不規則なのは語彙が少ないから仕方ない」
「ソネ???な、なんかカッコイイね」

「で、おまえの気持ちと内容に違和感はないか」
「うううん、ぴったりだ、って言うかちょっともの足りない感じだけど」
「おまえの戦略だろう?最初は控えめ」
「うん、そうだね。このくらいならびっくりして引いちゃうことはないよね」

フランソワの一言に引いたのはアンドレだった。傷がうずく。

「どうしたの?何か顔が青いよ」
「い・・・いや、何でもない。気に入ってくれたなら・・・」
「もちろん気に入ったさ!次の日曜にミサで会えるんだ。その時に渡すよ」

青年は無邪気に喜んだが、ふと重大なことに気づく。

「どうしよう・・・何て言って渡せばいいんだ・・・。ヴィルナの母さんだって妹だってミサには来るんだし、みんなの見ている前でなんてダメだ。かと言って二人きりになるのもまずいし、き、緊張して頭が爆発しちゃうよ、どうしよう」
「そのくらい自分で何とかしろ。おれは関与しないぞ」

紙面がめらめらと燃え上がるような熱烈恋文ならともかく、下手すれば恋文にすら見えない手紙じゃないか。そんなに緊張するほどのことがあるもんか。

普段文字を日常的に駆使しているアンドレは、フランソワにとって『手紙』を渡すことそのものが一大イベントであることにまで気が回らない。オスカルの目を盗んで抜けて来たこともあり、アンドレはさっさと切り上げるべく腰を上げた。

「ま、しっかりな」
「あっ、待って!まだ頼みがあるんだ」

慌てたフランソワがまたアンドレの上着の裾をつかんだ。
「おいおい」
「彼女、馬が好きだって言ったろ?で、あのさ」


     ♥ 🎠 ♥ 🎠 ♥ 🎠 ♥


断っても良かったのだが、できなかった。子供っぽいとも言える頼みごとだったが、青年があまりにも一生懸命だったので断るには忍びなかったし、どうもこの件に関して後ろめたいアンドレである。

ま、どうせ乗りかけた船、いや、難破船、か。許可さえ取り付ければ、さほど難しい依頼でもなかった。そして、アンドレは強力なコネを持っていた。

   🙏 🙇 🙏 🙇 🙏 🙇

「できれば何も理由を聞かずにおれを信じてサインしてくれないかな。決して迷惑はかけない」
「ふん、で、なぜわたしにこれを?」

「決裁権を持っているだろ?」
「軍厩舎の管理責任者はジャック・ル・ロワイエだ。彼を飛び越してわたしが決裁したのでは彼の面子が立たんだろう」

「人が悪いなあ、オスカル。ジャック・ル・ロワイエになんか頼んだ日には、決裁が降りる頃には定年退職になっちまう。おまえが決裁したって彼が人任せにしている書類の山が薄紙一枚分高くなるだけで彼は気づきもしないさ。

って、早い話がいつもやっていることじゃないか!衛兵隊の馬がバーベキューにされずに生き延びているのはおまえが時事すべて決裁しているからだろう!」

「ふむ」
それは初耳と言わんばかりにオスカルは鼻を鳴らす。

ふむ?何~~がふむだ、しらばっくれて。
そっちがそう来るならこっちも正攻法はやめだ。

わざとらしく肩眉を上げて見せる美しき上官に、アンドレは書類と一緒に持参した紅茶のトレイを黄金卿よりの献上物を捧げ奉るかのように、うやうやしく差し出した。兵士仕様の銅マグは、例の一件の後アンドレが指で整復を試みたが、一部いびつにへこんだままだ。

それでも巧みなアンドレの手による芳醇な茶の香りが立ちのぼり、執務机にことさら偉そうにふんぞり返ったオスカルの鼻腔をくすぐる。

「隊厨房のミューズ、マダム・ヨランド特製超人気マドレーヌを熾烈な争奪戦を勝ち抜いて最後の一つを何とかくすねてまいりました。面倒な書類はさっさと片付けて一服されてはいかがです?」

がらりと従僕モードに切り変えたアンドレをひと睨みすると、オスカルはいびつに歪んだカップをトレイから取り、豊かな香りを胸いっぱい満たしてから一口飲んだ。

気のせいだと思おうとしてきたアンドレだが、やはり隊長どのには何か気に入らなくて仕方がないことがあるらしい。だが、何に?

アンドレにほの字であるとおおっぴらに公言してはばからない厨房のおばちゃんが、彼のためにいつもとっておきのデザートを確保しているのは衛兵隊中で周知の事実だ。

だから、本当はアンドレが争奪戦を勝ち抜く必要などないことをオスカルも知っている。とは言え、まさかそんなことでヘソを曲げたりはしないだろう。もしそうだとしても、素直に喜んでいい案件なのかどうか。

フランソワとこっそり逢瀬を重ねていた時に、内緒の遊びの輪に入れない子供のようなかわいらしいヤキモチをオスカルがちらっと見せたことがあったが。

つい先日、オスカルの執務室窓際でフランソワ始め一斑連中がフランソワの一大事を喋りまくったものだから、アンドレの隠密協力活動はすっかりばれてしまった。

隊長様が目くじらを立てるような案件ではない。実際彼女はフランソワを気遣う様子を見せた以外、特に普段と変わりなく見える。

あれこれ思索をめぐらせながら用心深く観察するアンドレの前で、彼のミューズは不満気な仏頂面で目を閉じたまま紅茶の芳香を味わうと、のたまった。

「賄賂か。いっぷくの茶と菓子でわたしが買収されると?
「滅相もございません」

茶番はもうこのくらいにしましょう、お嬢様。さあ、買収されてください。アンドレはもみ手などして見せたが、目を閉じた相手には無意味だった。

と、オスカルが片目を開けた。
「事と次第によっては相談に応ずるぞ」
「は?」
「賄賂にもう少し色をつける気はないか?」

いきなりその美貌に釣り合わないお茶目なウィンクが飛んできて、虚を突かれたアンドレは妖艶な笑みに危うく心臓麻痺を起こしかけた。

そんな時は深呼吸である。ショック死をかろうじてまぬがれたアンドレだが、次にうなじを羽がなでるようなぞくりとした感触に襲われた。これは危険を知らせる警報としてすっかりおなじみになった感覚である。命中率はぐんぐん上昇し、今ではほぼパーフェクトだ。

どうやら悪代官を気取ったお嬢様は従卒で遊ぶつもりらしく、肩にかかる髪をくるくると指でもてあそびながら邪気たっぷりの流し目で獲物を眇めた。

お嬢様と(に)遊ぶ(遊ばれる)のは構わないが、不相応な勘違いを犯さぬよう心してお相手せねばならない。哀れな従僕は生唾を飲み込んで身構えた。

   ☕ 🍰 ☕ 🍰 ☕ 🍰

アンドレが身を硬くするのをオスカルは俊敏に感じ取った。アンドレがこうして慎重に距離を保とうとすると、最近なぜか癇に障るようになったオスカルだった。しかし、オスカル自身も彼とどれほどの距離感で関わりたいのか分からず、自分を扱いかねている。

結婚騒ぎはめでたく収束した。パリで暴徒に襲われて深手を負ったアンドレの傷がすっかり癒えた後、二人の間で燻っていた重苦しい空気が嘘のように晴れ、オスカルはこれですべて元通りと大いに安堵した。

ところが、再び軽口を叩き合える二人に戻ったことが嬉しくて幼馴染にじゃれついてみたら、元通りどころの騒ぎではなかった。

遠慮のない軽口は健在だった。気さくさも変わりはないし、笑顔に至っては春の陽光のように穏やかで明るい。しかし、そのつき物の落ちたような彼の態度とは裏腹に、彼はオスカルとの間に見えない壁を築いていた。

いや、見えていなかっただけで、元からあったのかも知れなかった。

オスカルはごく自然に触れあうことで親愛の情を表現してきたし、彼も嬉しそうに受け止めてくれていると思っていた。しかし、彼が制御している様子がわかるようになってしまった以上、気軽に肩を借りることも、腕をまわすこともはばかられる。

他の人間となら気楽に交わせる軽いビズすら躊躇するようになった関係になってしまうなんて。彼が傍にいるのに、大洪水後の地球上でたった一人取り生き残った人間のようにオスカルは孤独だった。


アンドレが持って来た書類は、馬場と訓練用馬の使用許可願いだった。厩舎管理責任者が許可すれば、隊員は乗馬訓練目的に限って利用できる。

今更アンドレが乗馬練習などありえないし、いつか馬を乗りこなしたら、一度でいいから彼女を乗せてパリを一周してやりたいと目下の問題児フランソワが夢を語っていたのをオスカルは知っていたので、目的はすぐにピンと来た。

フランソワが馬をどこで調達して目的を果たすつもりなのかふと気になったが、アンドレがついているなら違法な軍事物資利用の心配はないだろう。だから決裁はしてやるつもりだったオスカルだが、ちょいと揺さぶってやりたくなった。他人の恋路を助けるアンドレにはなぜか腹が立つ。他人の前に自分の心配をしたらどうだ。

「色…と申しますと?」
恐る恐るアンドレが聞き返す。警戒モード五段階中レベル五といったところか。態度は慎重かつ丁寧。ムッカつく。以前なら悪ノリには悪ノリで相手してくれたじゃないか。オスカルは目蓋を半分だけ閉じてからゆっくり重そうに持ち上げて、アンドレを上目遣いでチラ見した。

「それを…わたしに言わせるのか?わたしに恥をかけ、と?」

ただの口から出まかせだった。別に何か要求するつもりではなく、絡んでやりたいだけだった。しかし、困った様子で口角だけで笑みをつくるアンドレを見るときゅっと胸が締め付けられ、切なくなった。

―わたしに言わせる気か…?もう言ってはくれないのか?―

ただの悪ふざけの一言が、突然彼女の頭の中でスパークする。
幾重にも声が重なりこだまし、オスカルは混乱した。
何を言って欲しいのだ、わたしは。
何が、欲しいのだ。
わからない。
でも何かがどうしようもなく足りない。

アンドレが執務机に片手をついて身を屈め、気遣わしげに小首を傾げた。
「オスカル?もしかして具合でも悪いか?」
本気で心配している様子だ。

そんな彼がかえってオスカルの怒りを煽った。身勝手な八つ当たりの的にされていながらなぜわたしに優しくする!ああ、具合は悪いとも。おまえの見当違いの優しさがむっかついてな!

「熱でもあるか?頭痛は?」

怒れるゼウス像のように銅像と化したオスカルに、思わず、といった仕草でアンドレが腕を伸ばし、彼女の額に指をあてようとしたが、彼の手はオスカルの前髪を掠めたところで宙を切り、思い直したように引っこめられた。
これにオスカルはキレた。

バン!
オスカルが力任せに執務机をブッ叩いた。書類は舞い上がり、気の毒な衛兵隊仕様銅マグが跳ね上がり、鈍い金属音をたてて床に転がった。
「おっ、おまえは…!」
そこまでは怒鳴ったオスカルだったが、その先は言葉に出せなかった。

おまえはもう私に触れてもくれないのか。
おやすみのキスもしてくれないし、
背中をさすってもくれないし、
胸も貸してくれない。
肩を抱いてくれることもないし、
抱き合って笑い転げることもない。
わたしの前でまるで隙を見せなくなった。
前は隙だらけだったくせに。
だらしのない姿も見せたじゃないか。
それでいてそんなに優しいなんて、反則だ!

机に叩きつけた手が痛かった。
口にできない言葉たちが胸の中で出口を求めて大暴れする。
そんな風に思っていたのか、わたしは。

じんじんと疼く右手の上に、両肩からするりと落ちた髪がゆらゆらゆれている。荒い息づかいにあわせ、肩が上下する。

「オスカル、手を見せて」
ゆっくりと視線を机上に戻すと、温かい大きな手が真っ赤に腫れたオスカルの右掌をそっと開き、やさしく撫でさすっている。

「ああ、これは冷やさないとだめだ」

振り仰ぐと、長いまつ毛を伏せて彼女の掌に落としていた彼の視線が、ゆっくりと彼女のそれに追いついた。漆黒に濡れた瞳には怒りの欠片すらなく、ただ彼女を慈しんでいる。オスカルは凍りついたように、その瞳に捕らわれた。

見詰め合ったのは一秒にも満たなかっただろう。彼が手を握ってくれている。どうにも押し留められない熱い塊が胸の奥からこみ上げ、猛烈な勢いで目蓋の奥に向かい、オスカルは我にかえった。

だめだ、押さえきれない。

「出て行け」
「オスカル…」
「頼むから出て行ってくれ!」
「……」

アンドレは静かに背を向けた。司令官室の扉の前まで来ると、半分ほど振り向いて見たが、うつむいた彼女の表情は肩から落ちた髪に隠れてよく見えない。

「一時間でいいか?」

返事はない。

「身体を温めた方がいい。湯たんぽを用意して来るよ。それから掌には氷嚢」

また返事はなかった。アンドレはしばらく待ってから、扉を開けそっと廊下に出た。扉を閉める直前になって小さくかすれた声が聞こえた。
「うん」

アンドレは足を止めた。オスカルが後悔しまくっているのは明らかだった。何がいけなかったのか見当もつかないが、彼女自身はちゃんと自分の行動の意味をわかっているに違いない。時間が経てば落ち着いて自分を取り戻すだろう。

『今日から気をつけて差し上げて』とメイド頭のマルタに今朝耳打ちされた。大の男だって尻をまくって逃げ出したくなるような責務を日々こなしているのだ。体調不良にストレスやら色々重なったに違いないが、アンドレに八つ当たりすることで対外的には完璧な上官としての判断力を発揮できる彼女だ。ちゃんと正しい的を選んだオスカルにアンドレは微笑んだ。

「気にするな」
言外におれも気にしないから、というニュアンスを滲ませる。オスカルは顔を上げないまま、かすかに身じろぎすると、やっと聞こえる程度に言った。
「決裁は、した」

つまり、オスカルの筆跡でとっととサインしろ、ということだ。
「うん、メルシ」
思わず駆け戻って抱きしめてしまいそうな自分をアンドレは押さえつけた。そして静かに扉を閉めてから頭を抱える。

オスカルが何かの葛藤に見舞われたとき、髪の長かった頃のアンドレなら、黙って彼女の肩を抱き傍にいただろう。オスカルはしばらく悪態をついたり時には少々暴れたりするが、やがて静かになり、アンドレの腰に腕をまわして頭を預けるのが常だった。

頃合いを見計らってぽんぽんと背中を叩いてやると、やがて照れくさそうな笑みが戻る。

そんな風に彼女に触れることができなくなったのは自分のせいだ。アンドレはこん、と額を閉じた扉に打ち付けた。

彼女はもうそんな触れ合いなど望んでいないはずだ。なのに、この湧きあがる罪悪感は何だろう。思い上がるな。彼女が自分を求めてくれているように感じるなんて。アンドレはきつく両拳を握り締めた。

WEB CLAP



WEBCLAPにコメントを下さるお客様へ
コメントにはいつも元気を頂いています。もう、本当に嬉しいです。
で、使用しているこのシステム、どの作についてのコメントなのか、見分けがつかない構造になっているのです。もし良かったら、どの作に対する感想、ご意見なのか、ちょっとメモって下さると、もっと嬉しいです。ありがとうございます。