1789年 8月27日


アンドレの包帯の上にそっと滑らせた指が鎖骨を辿って肩口までたどりつく。良く引き締まった二の腕の隆起を下へとなぞってから、労わるようにそっと胸に掌を当てる。オスカルが不器用にごつごつと巻いてやった包帯の下にはまだ塞がり切らない銃創があるはずだ。

その上に頬をのせると、急ぎ足になった彼の鼓動が、彼女の鼓動と和音となって響いた。彼にも彼女のように敏感な楽器が確かに埋め込まれている。

オスカルの背に回されたアンドレの掌は熱を込めて静かに円を描いた。愛しい人の体をいたわりたい。なのに、体の奥では愛する人を燃やし尽くしてしまいそうな熱い炎がごうごうと渦巻いている。

こんな熱を抱えていては、どれほど優しい愛撫でも相手を傷つけはしないだろうか。そんな躊躇も、彼らの身体を引き離すには力不足だった。すでに序章のフェルマータは長く長く引き伸ばされ、甘い緊張は限界まで高ぶり、次の指揮棒の一振りを息を詰めて待っている。

薄いヴェールのような雲が月を覆った。天幕が降りるように薄闇が一瞬で地を覆い、一陣の風が二人の足元を通り抜けた。

大きく開いたアンドレの襟元から夜風がシャツに入り込み、背中ではたはたと薄い布地を膨らませる。風にアンドレを奪い去られるような恐怖に駆られ、オスカルは思わずはためく布地を鷲掴みした。だめだ、どこにも行かせない!それが合図となった。

張り詰めた緊張がここぞとばかりにはじけ飛び、アンドレは堪えきれずに熱い吐息を吐くと、オスカルの額に燃える唇を押しあてた。二つの楽器の弦は、ついに鳴り止まぬ大共鳴を始めた。

熱い衝撃がオスカルの額から足元まで走り抜け、体が宙に吸い込まれるような浮遊感に天地の区別がつかなくなる。もっと強く激しく、しっかりと押さえつけて欲しくて彼の背中に両腕を廻す。応えるアンドレはオスカルを強く抱きしめ、目蓋を優しく食んだ。

熱いうずきがオスカルの胸を揺さぶり、彼女は焦れた。もっと強く!一度合わせた肌は、もう一瞬たりとも離れがたい。外気すら二人の間に立ち入らせたくない。

触れ合う肌が熱を帯びる。胸はいよいよ強く重なり合い、鼓動と呼吸が潮騒にも似たハーモニーを荒っぽく奏で始める。肌を離さないまま求め合う唇どうしがゆっくりと近づき、やがて彼女の上唇と彼の下唇が互い違いに静かに合わされた。

唇の形を崩さぬように、触れるか触れないかの距離で柔らかな稜線を互いに何度も確かめ合った。触れたところから溶けてしまいそうに熱いものが体に流れ込む。一気に燃え上がらないように抑制しようとしても、喉の奥から漏れ出る熱い吐息は炎のようだ。

こわい。激しすぎる。

一度抑制を解き放ってしまえば、傷ついた身体のことなど忘れて相手を焼き尽くすまで止めることはできないだろう。二人は必死に濁流を堰き止めようとした。しかしぶつかり合う二人の膝頭は絡み合いながら火花を散らす。

オスカルの背に置かれた大きな掌は、肌と薄絹の間に羽一枚分の隙間を空けて、そよ風より優しく滑っていく。しかし抑えに抑えた愛撫こそオスカルをより熱く煽り立てることを彼は知っているのだろうか。

仕草の優しさとは不釣合いなほど熱を持った掌は、肌を溶かして早鐘を打つ彼女の心臓を直に愛撫しているようで、彼女は崩れ落ちそうになる膝に必死で力を込めた。

離れ難い唇が何度も合わさるその都度、支えを求めるオスカルが握りしめたアンドレのシャツが強く引かれた。

そうこうするうちに大きく開いていた前合わせがアンドレの右肩を滑り落ち、不安定に揺れるシャツの裾から手を放したオスカルは伸び上がって無傷な右肩の上に腕をまわし、彼の首を強く抱いた。それがアンドレに火を付けた。

アンドレは爆発的にオスカルの腰を引き寄せ、自分の胸に取り込まんとばかりに愛しいものを抱きしめた。囁き合うように触れ合っていた唇が強く重ねられる。やっとの思いで一度は僅かに離したが、その僅かな隙間からアンドレが降伏を宣言した。

「だめだ、オスカル、捕まった」

彼がそう言い終わるか終わらぬうちに、二人のくちづけは火を噴いた。深く強く貪るようなくちづけが嵐のように抑制をなぎ倒す。熱い情動が業火となって、未知の領分へと恋人達を押し流す。もう大波に呑まれるより他に、二人にできることはなかった。

抱擁はますます強く、熱く、激しさを深めていくのに、与えられれば与えられるほど、耐え難いほどの飢餓感が恋人達を追い立て、二人は際限なく相手を求めた。

くちづけが頭の芯を溶かすほど熱く燃えても、なぜかもどかしさが容赦なく襲ってくる。何かが圧倒的に足りない。決定的な何かを手に入れるまで、気の遠くなりそうな飢餓感は収まらないのだ。その何かはとてつもなく甘いはず。

溺れる者が息継ぎでもするように、アンドレが無理やりくちづけに休止符を打った。ここで一旦区切りをつけないと、屋外にいることすら忘れて一気に燃え尽きてしまいそうだった。持ちうる限りの意思を総動員して唇を離すと、アンドレは弾む息を整えながら、茶目っ気たっぷりにウィンクして見せた。

「約束どおり、刃物は使わないでくれるんだよな?」

オスカルは頬を上気させたまま、銀河の果てまですっ飛んだ意識をかろうじて引っ張り戻したが、彼の言わんとする意味がすぐに思いつかず、怪訝そうに眉をアンシンメトリーに吊り上げた。

アンドレは恋人が美しい造作を惜しげもなく歪ませる様を、掌を通してリアルに感じ取った。感情をそのまま豊かに表情に現す時の彼女はことさら美しい。

心がどれ程揺れていようとも公では完璧に制御できる彼女だが、アンドレの前では、雄弁なる表情を見せてくれる。それは昔から彼だけの特権だった。その特権は八つ当たりのおまけがつくことしばしばだったが、そんなのはお安い必要経費だった。

オスカルはアンドレの掌に挟まれたまま、さらに眉を吊り上げた。刃物の件を思い出したらしい。

「刃物さえ使わなければいいんだな?」

オスカルが切り返す。きっと挑戦的な光を青い瞳にたぎらせているに違いない。恥じらいで頬を朱に染めたまま不適な鋭い眼光を放つアンバランスな取り合わせは、きっとぞくぞくするほど魅惑的だ。ああ、素直な愛情表現と不思議に同居する強情な憎まれ口。どれもこれもを愛している。

彼女の生き生きとした表情が、刻一刻と変化するさまをただ見惚れていられるなら、どんな代償でも支払うものを。ああ、今夜の彼女を見たい。はち切れんばかりの悲痛な望みが、アンドレの防壁を突き破ってこみ上げた。

「刃物の方が、まだ安全だったかもな」

腰に回されていたオスカルの手を取ると、細い指先を一本一本確かめてから、アンドレは丁寧にくちづけた。

「おれを仕留めるには、この指先の方が遥かに有効だ」

柔らかな髪、触れると吸い付くほどきめ細やかな肌、ベルベットのようなアルトの声、酔わずにはいられない甘い香り。美しいと形容するのが陳腐なほどの豪奢な美貌は見えなくてもわかる。彼女が美しいのは表層だけでなく、魂そのものから輝いているからだ。

ああ、だけど。もう一度見たい。見たくて、会いたくて、狂いそうだった。言葉を呑み込んだアンドレの頬に、涙が一筋伝い、オスカルの指を濡らした。

「アンドレ・・・?」

自分を余裕で翻弄していたはずのアンドレの涙にオスカルは幸せなまどろみから一気に目覚めたような気がした。たった一筋ではあったけれど、何か重いものがぎっしりと詰まった涙であることはすぐわかる。

「何でもないよ」

そう言って微笑むアンドレのわき腹をオスカルはつねり上げた。皮膚しかつまむものがないから、かなり痛いはずだ。

「いてて、ほら危険な指だ」
「誤魔化すな、何故泣く」

アンドレは困ったように微笑んだ。
「泣くほど愛しているってこと」

オスカルが良く知るその微笑みは、本当は泣きたい時に彼が無理やり見せる笑顔だった。はるか昔、母恋しさに隠れて泣いていた少年は、腫れぼったい目のまま同じようによく微笑んだものだ。

「泣くほど愛しているのに、それが何でもないだと?」
「え・・・?あ・・・りゃ?ほ、ほんとだ、失礼」

誤魔化しを指摘されて慌てるアンドレを見て、オスカルは最初の夫婦のルールを決めた。何でもない、は禁句にする。特にアンドレは彼女のそばにいるために、気が遠くなるほどの思いを何でもないと切り捨てて来たのだ。

「ふむ、この結婚は、考え直さなければならないようだな」
「うわお、それだけは勘弁してくれ」
「では、わたしが納得するように・・・」
「はいはい、ちゃんと説明を・・・」
「違う!悲しい時はちゃんと真面目に泣け!」
「・・・・・・!」

アンドレには手痛い急所への一撃だった。彼女に悲しみを預けろと?もう思い出せないほどの昔から、アンドレはその逆の立場にいることしか知らなかった。

たった一人の肉親である祖母を亡くした時は、彼女と共に泣いた。それはふたり共有できる悲しみだったから分かち合えた。しかし、自分が背負うべき悲嘆を彼女にぶつけるなど、アンドレの手に余る。試練と言ってもいいくらいだ。

アンドレは衝撃からよろよろと体勢を立て直すと、もう一度オスカルを抱き寄せ、ふわふわと鼻先をくすぐる柔らかな髪に頬を預けた。

「本当に泣いちゃうぞ」
おどけた振りでもしなければ、こみ上げるものに屈してしまいそうだった。お前が見たくてどうにかなりそうだと正直に白状して子供のように泣けたなら、きっと楽になるのだろう。

が、一人で耐えることに慣れすぎたアンドレには未知の領分である。オスカルの求めに応じるにはまだまだ勇気が足りなかった。

往生際悪く涙を隠す彼への抗議の印か、オスカルはアンドレを力任せに抱きしめついでにごつんと額をぶつけて黙りこくった。アンドレは、熱さの残った手でオスカルの髪を梳き、込められるだけの気持ちを込めて、大事な爆弾妻を抱きしめた。

「おれは、とんでもない宝物を授かったんだ。この先どれほど長く一緒にいても、見えないおれは生涯おまえの姿に焦がれ続けるだろう。こんなラッキーな男はそうはいない。そう思って泣けたんだ、オスカル」

決して強がっている訳ではなく、ただ泣いた理由を裏返して伝えてみた。納得してくれるかどうか分からないが、これが今の彼の精一杯だった。

勘弁してくれるだろうか。アンドレはすっぽりと自分の胸に顔を埋めてしまったオスカルをちょいと離してみる。

「オ・・・スカル?」

果たして彼女の方が大粒の涙をこぼして泣いていた。
「おれが・・・泣かせた?」
「ふ、ふん、手本だ。よく見ておけ。そこの手間のかかる男」

ああ、もうだめだ。それじゃ、減らず口の手本じゃないか。今度は愛しくて気がふれそうだ。

「愛しているよ」
「何だ唐突に」
「素直になる手本」
「嫌味な奴だ」

花嫁は素直でない自覚はあるらしいがボディランゲージは真っ正直だ。そっと抱き寄せる婿さんの背中に花嫁の両腕がしっかりとまわされ、涙は温かく分厚い包帯を濡らす。

「ずっとおまえに焦がれ続ける、ずっとだ」
「本当だな」
「誓うよ、何度でも」
「もしも、わたしが先に・・・」

ふいにオスカルの唇が塞がれた。それを口に出すのはもう少し待って欲しい。いつか迎えなければならない日のことは常に頭を離れないけれど、口に出す準備はまだできていない。

それすら言葉にできないできないアンドレは、涙で滑る唇を何度も包み込んでは、吸い取るように慈しみを込めてくちづけを繰り返した。

一滴の涙すら残さぬよう、丁寧に優しく包み込む。オスカルの唇から涙の味が消えると、涙の跡を追って頬にくちづけた。新たな涙が止め処なく新しい路をつけると、アンドレは飽くことなくその跡を追いかけ、頬に熱い唇をつけたまま囁いた。

「いいか、ずっとだ。何が起きても起きなくても」
「ずっと・・・」
「そう言ったろう?いつまでも、おまえを想い続ける」

アンドレはオスカルの左手を取った。薬指には昨日贈られた指輪が控えめに月光を跳ね返している。オスカルは指輪に刻まれたメッセージを思い出し、指ごとくちづけると、また泣いた。

アンドレは、言葉通りにするに違いない。たとえ彼女の言うもしもの時が訪れようとも。それが嬉しくて、彼のために悲しい。

「おい、おい、何だよ、おれ何だかもの凄く悪い奴になった気分だぞ」
涙の止まらなくなったオスカルに、半分弱り、半分おどけてアンドレが笑う。

「悪いとも、極悪だ」
「そうか?でも誰が見ても、襲われているのはおれの方に見えるよ?ほら、こんな姿にされてしまった」
「・・・・・・!」

アンドレにそう言われて見れば、彼の右肩はすっかり肌蹴け、シャツは半分だけが左肩にかろうじてかかり、ぶら下がって揺れていた。それが自分の仕業だと思い当たったオスカルは瞬間沸騰し、思わずアンドレの胸から離れようとした。
アンドレの右腕はそれを許さず彼女の腰を再びがっちりと捕らえた。

「遠慮しないで、続きを是非」
「ばっ・・・!」

気の毒に、オスカルはまだ収まらない涙が頬の上でしゅうしゅうと湯気を立てそうなほど赤火している。何と男の狩猟本能をかき立ててくれる女の反応をしてくれるのだろう。

アンドレは大いにそそられたが、相手は長年男どもを率いて来た凄腕の准将である。そんな彼女にしてみれば、このいかにも女らしい自らの反応は自己イメージ崩壊の危機かも知れない。婿さんは少々ゆき過ぎだったかなと反省した。

「ごめん、つい調子に乗ってしまった。満月のせいかな?」

返事がない。怒らせてしまったか。仕方なくアンドレが脱げたシャツに右腕を通そうとした時、おもむろにオスカルの手がアンドレの左肩にかかった。オスカルは一言もなく、シャツの襟元を掴むと、片方だけ通されていた袖を静かに肩口からはずしてから一気に引き抜いた。

「オスカル?」
「動くな」

まるで銃を突きつけるような口ぶりの花嫁は、すっかり婿殿のシャツを剥いでしまった。

「望みどおり、刃物は使わなかった。文句はあるまい」
「は、はい、ないです」

一体何をしようとしている?新婚二日目の夜にして、衣服をはぎ取る目的と言えばただ一つしかない。…普通は。なのに、追いはぎに武器を突きつけられて身ぐるみ剥がされている気分です、奥様。

怒っているのか、挑戦的な目をしているのか?アンドレはあまりにも意外極まりない彼女の行動にその表情が想像できずうろたえた。そんなことは見えなくなってから初めてだ。

一方、脱がせたシャツを手にしたまま、オスカルの手は休まずアンドレのキュロットの脇ボタンにまで伸びた。
「え?」

アンドレには眩暈がしそうな展開になって来た。いや、いや、目など回している場合ではない。何とかしなければ。いや、何とかしてしまうのは・・・。勿体なさすぎる。

「ちょ、ちょっと待てオスカル」
「うん?まだ注文があるのか」
「い、いえ、ないです。・・・じゃなくて、オスカル、外では駄目だ」
「何故?」

何故え?おまえ本当にオスカルか?満月のせいでオオカミになったとか?などとアンドレが泡を吹いている隙に、ボタンはたて続けに三つ外された。

「わっ、とっとっ!」
慌てたアンドレは両手でキュロットのウェスト部分を押さえた。


「何を押さえている。それでは脱げないぞ」
「あ、あのねえッ」

オスカルが積極的なのは大歓迎だけど、何かとんでもなく情けない姿じゃないか、おれ。とにかくまず家に入ろうとオスカルを説得するべく、アンドレはオスカルの両肩に手を置いた。

「わ、わかったからオスカ・・・」

すると当然ながら、押さえを失ったキュロットが足下に落ちた。片手にしておけばよかったと後悔したが遅かった。

「・・・うっ!」
「そら、さっさと足を抜け」

そう言われても、裾ボタンは掛かったままだから、キュロットは膝下から惨めにぶら下がったままだ。靴も履いたままだしどうせよと言うんだ?

どうせなら脱がす順番を考えてスマートに襲って欲しいと願うのは、新米花嫁には要求が過ぎるだろうか。うん…月旅行より無理だな。おれも忘れていることが多いけれど、一応は元伯爵令嬢だし。

「オスカル、あの・・・それは家に入ってからに・・・」

アンドレはあたふたとキュロットを引っ張り上げた。オスカルは別段止めようともせずに、一見冷静に見守っているようだった。実はアンドレに見えていないだけで、本当のところは真っ赤な顔して視線を脇に外していたのだが。

「では、とりあえずシャツだけいただいていこう」
「は?」

アンドレはもたもたとキュロットのボタンをかけながら、また訳がわからないといった顔つきをした。

「おまえと違ってわたしには初めての経験だからな、覚悟しておけ」
え? そ、そう・・・でしたっけ?奥方さま??

何とささやかな自信を無くすことを言ってくれるんだ。しかも、おまえと違ってとはどういう意味だ?いや、そこは突っ込むには危険だ、やめておこう。

ますますもって混乱するアンドレの様子にオスカルはしてやったりと溜飲を下げた。ここまでとっちめてやれたら上等だ。実は恥ずかしくて心臓が激しく踊りまくっているのだが、それを差し引いてもおつりがくる勝利感。

またキュロットが下がってこないよう、落ち着かない様子で点検しているアンドレをそこに残したまま、オスカルはすたすたと家へ歩き出した。そして振り返りさまに怒鳴る。

「で、洗濯の手順としては、叩いてから濯ぐのか?その逆か?」
「せ、洗濯う?」

「いくら素手でも初めてのことだ、加減を知らないからな。大穴があくくらいは大目に見ておけ、オートクチュール御用達の大男!」

「お、おい、待ってくれ、洗濯って何のことだよ!」
「まだ大鍋に湯がたっぷりあったな。あれで煮てみるのはどうだ、きっと綺麗になるぞ」

オスカルは後を追うアンドレに高らかに笑い声をあげた。体の芯にはまだ熱い火種が燻っている。それを一旦脇へ置いても、このくらいの返礼はしてやってもいいだろう。アンドレはというと、慌てて後を追おうとして転がる木桶に蹴つまづいた。

「うわっと!」
「あはは、先に行くぞ」

やれやれ、と肩をすくめたアンドレは、足元の木桶を拾い上げた。散々期待させておいて、オスカルのやつ。いや、おれが勝手に読み違えただけか。傷が治るまでは、というのは本気だったのだな。

さっきからの流れで洗濯にたどり着くなんて嘘みたいだけれど、あいつのことだから、本気で洗濯に挑戦しようとしているんだろう。妙に真面目だし、もともとお嬢様だから夜の洗濯があまり一般的じゃないことなど知るはずはないのだ。

洗濯もいいけれど、火がついてしまった身体をどうしてくれるんだ。と抗議するには花婿もまだ新米過ぎた。オスカルを相手に普通の夫婦のような生活を期待しても始まらない。

これが彼女にとって重要な一歩ならば、耐えてみせよう、耐えてみせるとも。奇想天外、何でも結構、おまえに夢中、ほとんどやけくそ。

アンドレは、新婚一夜目の受難に続き、二夜目が洗濯に費やされる悲劇を健気に受け入れた。ま、幸せな悲劇だし。

「お~い、洗濯なら風呂の残り湯で十分だぞ。鍋の湯は美味いカフェを入れてやるから、そのままにしておいてくれ」

返事はなかったが、聞こえているはずだ。一足先にポーチを上がるオスカルの軽快な足音が聞こえた。アンドレはオスカルの後を追って、数段の石段を勢いよく蹴り、ポーチに上がった。すると、いきなり誰かにぶつかった。

「お?」

彼女は屋内には入らず、ポーチで腕組み仁王立ちしていたのだ。
「馬鹿か、おまえは」
「・・・・・・?」
気のせいか声が勝ち誇っている。

「どこの世界に新婚第二夜を洗濯して過ごすカップルがいる?」
「こ・・・こ?」
にいると今さっき覚悟を決めたのですが、奥様!

馬鹿正直に言葉通り受け取ったアンドレは、心底混乱しているようで、落ち着きなく次の彼女の言葉を待っている。

まだ担がれたことに気づかないのか。どう種明かしをしてやろうか。それは考えるだけでも楽しい作業だったが、劇的な演出を考えているうちに、オスカルは堪えきれず笑い出した。

「あーっははは、アンドレ、傑作だ」
「?」

見えなくても、オスカルが腹を押さえ、体を二つ折りにして笑いこけていることがわかる。さっきまで大泣きしていたくせに、忙しいことだ。オスカルは、何かを言おうとするが、笑いで息が続かないらしい。

「おい、おいそんなに笑って大丈夫か」

律儀に心配するアンドレの首に両腕を回し、オスカルは体を預けて笑い続けた。釈然としないまま、アンドレはオスカルの呼吸器への負担を心配して背をさする。くっくっと震える彼女の背中を撫でているうちに、さすがのアンドレにも事情がのみ込めてきた。

「オスカル…、おまえは…、まさか始めからわかっていて…!」
「ふふふ、おまえは最高だ、アンドレ」

オスカルはアンドレの頬を両手で挟み、嬉しそうに代わる代わる左右にキスをする。

「やったなっ!どこで、そんな芸当を身につけたっ!」
「芸当?心外な。ヴェルサイユではこのくらい一般教養だ」

オスカルはアンドレの首に戻した両腕で彼をぐい、と引き寄せて額を合わせる。そして、楽しくて仕方ない、と言わんばかりにもう一つ鼻にキスをした。

アンドレは危うくその場にへたり込みそうになったが、健気に耐えた。オスカルが嬉しいなら婿殿はどう料理されたっていいのである。改めて抱きしめ、目元にキスの雨を降らす。笑い続ける彼女の頬にはまだ涙の味が残っていた。

「本当に…ヴェルサイユでならこれくらいの駆け引きは子供だましだろうけど…。それでもおまえがそれをおれに行使するなんて…」
「ふふ、おまえにだけだ、惚れなおせ」

「ああ、惚れたとも。後悔するな、オスカル」
「さあ、カフェを先に入れてもらうかな。洗濯はその後だ」
「ふ・・・ん、火傷するくらいうんと熱くしてやるよ」

丁度いい具合に上半身裸だったアンドレはオスカルの頭を胸にかき抱き、耳に熱い唇を寄せて囁いた。オスカルの亭主を務めるならば、このくらいの立ち直りの速さは必須である。その点彼は合格だ。

「せ、洗濯を先にするっ!」
実は婿殿の裸にはまだ慣れていないオスカルの笑い声は、途端に上ずった。彼女の髪に指を差し入れ持ち上げると、アンドレはうなじに唇を移動する。

「そうか、今夜は洗濯。本当にそれでいいんだな」

首の付け根に軽く歯を立てられたオスカルはぞくりと体中に走り抜ける甘い刺激に息を呑んだ。数刻の間が空いてから、怒ったような小声が返ってきた。

「そんなことをしてみろ、本当に考え直してやる」

アンドレは唇をつけた反対側の髪もかき上げた。桃の葉の香りがしっとりとした熱気に乗って立ち上り、鼻腔をくすぐる。手に余る豊かな髪束は、滑るように彼女の肩をするりと越えた。

あらわになった項を指で愛撫し耳朶を唇ではさむと、オスカルの体が全体でぴくんと小さく跳ねた。

「ならばどうして欲しい?」

オスカルの肌に直接アンドレの声が低く響く。

「決まってる」

オスカルがやっと搾り出した言葉は吐息ばかりで声にならない。

「言ってくれないと、俺はまた勘違いするぞ」

ぎゅうむ、とオスカルがアンドレの足を踏んだ。そして彼のつま先に乗ったまま伸び上がると、彼の唇にそっと自分の唇を重ね、動きだけで伝えた。

「続きだ」

唇が強く合わさり、くちづけが際限なく深くなる。不安定な足場のオスカルの腰をアンドレがしっかりと支え、二人にしか聞こえない大音響が重なり合った胸から沸き起こった。長いインターバルを経て、第一楽章がようやく幕を開けたのだ。唇は塞がってしまったが、もう言葉はたったひとつで事足りる。

「愛している」

愛は始めからあった。友情だとか兄妹愛だとか、わざわざ名をつける必要のない広大な愛が二人の命の水源を満たしていた。水源を共にする二本の支流が出会ってから年月を重ねるうちに一本の本流となり、川岸を浸食しては大河に成長した。時に大きく蛇行しながら。

岩に砕かれ激しく水飛沫をあげることはあっても、大河はもうどんな山脈にも谷にも分断されないだろう。流れを止めることもないだろう。いつか洋々たる海原に注ぎ込み、全ての命と一つとなり、全てのものを生み出すものとなるまで。

けれど、水面に新しく浮かべた恋歌は、まだ序曲が終わったばかり。恋歌は、奏者と楽器がつむぎ出す無限のバリエーションを奏でるだろう。どれ程完璧なハーモニーに聞こえても、終わりのない高みへ、高みへと昇り続けるだろう。                 

主題は、愛。

月が再び雲のヴェールを払い、夜を照らし上げる。一つになった人影は、その明るい光から逃れるように、音もなく家屋に消えた。狼の遠吠えが遠く聞こえる。別の吠え声が長く尾を引いて応えるように後を追う。互いを呼び合う物悲しい響きが重なり合って風に乗った。

長く伸びる遠吠えの間隔が近づき、重なり合うようになった頃、石の家の窓を淡く照らしていた蝋燭はいつの間にか消えていた。




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