宵は、そろそろ秋の兆しを見せていた。虫の音はどこか物悲しく、天空から吹き降ろす風は時折り冷やりと冷たかったが、オスカルの心はほんのりと温かかった。慣れ親しんだ環境を離れた異郷の地で、こうも心穏やかでいられるのは、キッチンで燃えるストーブの火が暖かいせいではないだろう。

厳しかったこの一月の生活を思えば、この安らぎは別世界だ。安堵のあまり、新婚初夜を寝落ちするという失態までやらかしたくらいだ。

居間のフランス窓は大きく開け放ってあった。薄いベージュに蔦の透かし模様が織り込まれたモスリンのカーテンが裾を膨らませてはひるがえる。入浴後の火照った頬に室内を通り抜ける風が心地よい。

まだ生活感のない居間には古ぼけたオーク材のテーブルがぽつんとひとつ置かれている。その中央には傾いた蝋燭が一本だけ、空ワイン瓶を燭台代わりに灯されている。瓶は流れ落ちる蝋で覆い尽くされ、火が尽きるのは、そう先のことではなさそうだ。

室内の光源はそれだけだったが、天井の高い居間の隅々まで夜目がきいた。それほど明るい月夜だった。

まだ荷解きされていない数個のトランクと、窓枠から斜めに引き伸ばされた影が、赤茶色の素焼きタイルの床に落ちている



オスカルはこの夜、初めて人に世話をやかれず湯浴みした。かつてのメイド頭、マルタが揃えてくれたハーブ入りオイルやローションやら石鹸やらはやたらと種類が豊富で、ビューティサロンの主人にでもなったかとつい失笑したほどだった。用途不明の瓶類の中身は適当にあしらい、初めてにしては及第点と勝手に採点した。

新婚の夫を射落とす美女に磨きあがったかどうかは甚だ怪しいところであるが、洗いざらい余分なものを流し落とした爽快感が心地よかった。一ヶ月以上続いたプライバシーのない生活の後、ようやく手にしたアンドレと二人きりの空間。

入浴に使った素朴な木桶は水漏れしたし、オスカルの長い手足を伸ばすにはいささか寸足らずだったが、アンドレはたっぷりの清潔な湯を用意してくれた。

ガラスのように無色透明な湯は、生活用水の質が悪いパリはもとより、ヴェルサイユですらめったにお目にはかかれない。薔薇の香料入り乳液を湯に落とすのを躊躇してしまうくらい透度の高い湯に肩までゆっくりと浸かることができた。

厩舎を改築したという建物には未使用で放置されていた棟があったので、アンドレがそこを仮の浴室にした。殺風景な空間には違いなかったが、湯に身を任せて時間を忘れると、疲れた心身が見る見るうちに息を吹き返すのがわかった。

おまえの方から呼ばない限りは声を掛けたりしないからのんびりするといい、と言うアンドレに遠慮なく甘え、好きなだけぼんやりした。無骨な石壁の空き部屋艶味わったのは、思いがけない贅沢だった。

すっかり心地よく緩んだオスカルは本棟に戻り、居間を挟んで反対がわの食堂兼厨房を覗いた。試運転だと言ってアンドレが炭火を入れた鉄製ストーブの扉から明かりがもれ、火の粉が弾ける心やすらぐ音が聞こえるが、人の気配がない。

ストーブの足元には木桶が2つ、出番を待つように置かれている。アンドレは次の水を汲みにでも出たのだろう。炉の上にはとりあえず隣家から借りてきた鉄鍋がのせてあり、一杯に張った湯が沸々と湯気を立てていた。もう十分だと止めてやらない限り、彼は一晩中でも湯を沸かし続けるのではないだろうか。

平素は小憎らしいほど無駄のない仕事ぶりを見せる彼だが、たまに非合理極まりないことをしでかすことがある。彼女以外の何も目に入らなくなる時だ。今夜もその病気が出たのやも知れぬ。

ようやく手にした二人だけで過ごせる貴重な一日はこの湯を沸かすために費やされてしまったようなものだった。アンドレはふざけた歌詞をでっちあげたカンツォーネなぞを上機嫌で口ずさみながら古井戸を掘り起こし、一日中幸せそうに働いた。

して、その幸せ者はどこに行ったのだろう。ジャルジェの屋敷とは比べものにならないこの小さな家屋では、大声を上げて探し回らずとも、彼が屋内にいないのは一目瞭然だった。

オスカルはふと心配になる。どれだけ明るい月夜であっても、アンドレにとっては暗闇の世界のはずだ。

『こんな夜更けに一人でどこへ行った』
オスカルは居間に戻り、景気よく開け放たれた掃き出し窓から、ポーチへと出てみた。

陽光の下で見た健康で純朴な田園風景とはうって変わり、手を触れることさえ躊躇われるほど神々しい世界がオスカルの目の前に現れた。

家の前を流れるイレーヌ川のふちには、二本のケヤキが黒い影絵のように並ぶ。その遥か遠く、緩やかな稜線を幾重にも重ねながら地を埋め尽くす麦畑は、緑が黄金色に変わり始める豊穣な深い色合いを見せていた。

その真上には完璧に近い月が天上に向けて上昇しながら煌々と青白い光を降らし、麦穂の海の中心を銀色に照らしていた。渡る風が重たげに首を垂れた麦穂をくすぐると、月光に跳ね返る銀色のさざなみが弓を描いては流れ、消えてゆく。

月などゆっくり眺めたのは思い出せない程昔らしい。幻想的な光景は、浮世の嵐に揉まれ疲れたオスカルの心をしっとりと潤して染み通った。

姿をくらましたくだんの彼も、何やら魔法めいた月光を浴びた拍子に、ついうっかり狼男になぞ変身してしまって、出るに出られず困っているのではなかろうか。そんな現実離れした空想が妙にしっくりくる月夜だ。

どんな姿でも構わないからさっさと出て来くるがいい。満月に変身するくらい、いくらでも大目に見てやろう。それより新婚の花嫁を放置する方が罪が重いぞ、とオスカルは一人ごちてみたが、どうもピンと来ない。

新婚か。

新婚二日目のアンドレは働きづめ、オスカルは手持ち無沙汰になると何くれと彼の仕事の邪魔をした。二十年来変わらず休日といえばそんな風に過ごして来た。一体何が新しいのだ?新米花嫁はやれやれと苦笑して頭を振った。

姿が見えないと、思い出さなくてもいいことまで思い起こしてしまうもので、昼間話題に出たアンリエットとジュリーという名がオスカルの脳内に浮上し、ぴたりと張り付いた。

事も無げに返事をしていたアンドレの様子から、妙な心配をする必要などないことはほぼ確信できるが、あの大男の言ったことが本当なら、アンドレの腕を恋しがって泣く誰かとは、さすがに牝牛や雌鳥ではないだろう。

まあ、いい。ちょっとくらいの嫉妬ならしてみるのも悪くない。初めての経験だったが、膨れた駄々っ子のような甘酸っぱい感覚の正体はすぐにわかった。これでやっと一人前になった、かどうかは知らないが、埒もないヤキモチを焼くだけの余裕ができたのだから、よしとしよう。

ポーチへ出てぐるりと周囲を見回すと、川岸に向かって左手にある井戸の脇に探し人はすぐ見つかった。彼の今日一日の労働の成果である井戸は、こんこんと湧き出るようになった澄んだ水で一杯になっている。

そのすぐ後ろには、畑を区切る膝の高さほどの石垣が組まれていて、アンドレはそこに腰を降ろしていた。脇には木桶と麻布が無造作に置かれている。水浴していたらしい彼は包帯の目立つ裸の上半身に、袖を通さず肩にシャツを引っ掛けているだけの格好だった。

心持ち面をあげ、夜風を正面から受けてはその中から何かを探しているような彼だった。乾ききらない洗い髪を額に揺らし、月光に照らし出された彫刻のような彼の横顔を見ると、オスカルは今立つ場所から一歩も踏み出せなくなった。

声をかけると壊してしまいそうな、ガラス細工に似た危うい空気が、彼の周りに張り詰められている。少し潜めた眉、精一杯見開いた瞳。濃い色の髪を闇に溶け込ませ、彼は虚空を見詰めていた。

同じ幸福な夜を共有しているはずのオスカルの大事な人は、何か別のものに捕らわれているようだった。

そうか。

ああして、彼は一人で耐えてきたのだ。一人で過ごす夜の時間に、あんな風に抱えるものをやり過ごして、諦めて。

祖母の死を知った夜、アンドレはオスカルの胸で素直に嘆き、号泣した。その時以来彼は崩れない。彼女の健康に関しては強引な行動に出ることもあったが、結婚の約束をしてからの彼はいつも優しく穏やかな笑顔を見せていた。

傷ついた身体と、見えないことを補う凄まじいまでの努力の痕跡をおくびにも出さずに。そう言えば、見えなくなったことを、彼が彼女の前で嘆いたことがあったろうか。

否。   否。

迫り来る暗闇の世界への恐怖を彼は幾晩も一人で耐えたのだ。彼が自分に向ける笑顔を準備していることをオスカルは悟った。何年も、何十年も、呼吸するかのごとく彼はそうして来たのだろう。

作り物ではなく、本物の笑顔を彼女に向けるために。ならば、それに見合うだけのものを彼に与えたい。たった一人で彼が耐えては昇華してきたものの重みは、到底計り知れるものではないけれど、これから先は一人で苦しませてなるものか。

痛みの独り占めは許さないと、目の前の甘え下手な男によくよく叩き込んでやるのだ。

敵は簡単に弱みを預けてなどくれないだろう。水臭さなら向かうところ敵なしの幼馴染は、筋金入りのばあやの秘蔵っ子なのだ。いいだろう、相手にとって不足はない。沸き立つ闘争意欲に肩が震えるのは武者震いだ。

と、一応は強がってみたものの、一人で何かをやり過ごそうとしている彼の姿を見ると、オスカルは居合わせてはいけない所へ来てしまった間の悪さを後悔した。

今夜のところは彼が切り替えを終えるまで一人にしてやるべきなのだろう。そうは言っても足音一つ、敏感に捉える彼を前にして、オスカルは立ち去ろうにも動きがとれなくなった。

「桃の葉のいい匂いがする」

いきなりアンドレの声が静寂を破った。しまった、風向きまで考えていなかった。と、彼女は思わず半歩引き、うっ、喉の奥でうめき声をたてた。楡の大木の下、僅かに届く月光に半分照らされた彼の高い頬骨と鼻筋は、こわいほど魅惑的だった。

「何を驚いているんだよ?驚くのはおれの方だろ」

彼はガラスの彫刻から一瞬にして無茶苦茶な我が侭をぶつけて甘えたくなる甘いマスクの男に変化した。やはり彼は月夜に変身する。たとえ惚れた弱みを持っていなくても、これにやられない女はどこか変に決まっている。

・・・それはわたしのことか?!かつてのわたし!

オスカルは突然思い当たった。男前などいくらもいるが、この男が身につけてしまった、どれほどの無茶も受け止めてくれそうな雰囲気は危険極まりない。今までいったい何人の女を殺したのだ?わたしは何というリスクを放置していたのだろう。ひょっとしたら、彼が今でも自分だけを見詰めてくれているのは、とてつもない幸運なのではなかろうか。

それに麻痺して甘え放題甘えてきた自覚のある前科者は、反省半分、ちょいと悔しくなった。幼馴染の男の笑顔に、今になって少女のように胸を高鳴らせている自分。そこで、オスカルは言いがかりでしかない悪態をこっそり胸中で吐いてみた。

『その必殺技を今後無差別に振舞ってみろ、血を見るぞ』

             が。

「やっと、二人になれた。ずっと忙しくてごめん」

アンドレは急いで羽織っていたシャツの袖に腕を通し、嬉しそうにオスカルに向かって腕を広げた。彼女の療養環境を整えようと働き詰めだった彼にごめんなどと言われては、照れ隠しの雑言を吐いている場合ではない。褒美に月でも取りに行かねば。

いかにも彼らしいそんな一言も、先回りの過ぎる気遣いも、陽だまりのような眼差しも、四半世紀もの間、オスカルにとってはあたりまえの日常だった。けれど、恋という名の竪琴が胸に埋め込まれてしまってからは、彼の言動一つ一つに縦横無尽にはりめぐる細い弦がうちふるえ、共鳴の大洪水を起こす。

この楽器を奏でることができるのはこの世でたった一人だ。敏感すぎる弦が震え始めると地上の言葉はどれも役不足になる。言葉の代わりにオスカルは彼の隣に腰を降ろし、包帯の胸に吸い込まれるように黙って頭を預けた。

アンドレは手探りで足元の麻布を拾うと、しっとりと水気を含んだ彼女の髪を上から下へと押さえるように丁寧に包んでいった。オスカルは、言葉によらない愛の+伝達手段を豊かに持っている彼を一瞬強く羨んだ。

世話を焼いてくれる手の動きの一つ一つが、愛しい愛しいと詠ってくれる。薄絹を通して伝わってくるやさしい体温が、オスカルがあるべきところに収まっていることを教えてくれる。守り役が、いつから職務でなくなってしまったのか、問うても当の本人だって答えられはしまい。

オスカルとて、負けはしない自負はある。けれど、伝えられない、伝えきれない。こんなに敏感すぎる楽器を抱えてしまっては身がもたない。一生のんびりする暇がない。オスカルはほっと長く息をついて、持て余す幸せな困りごとやり過ごした。

「湯は足りたか?」
「うん」
「木の湯浴み桶なんて初めてだったろ?」
「ふふ、冷たい陶器の湯船より、肌触りは良かったな」
「前向きな発言をありがとう」

交わす言葉など、何でも良かった。彼の声を浴びれば弦が震える。受けては返し、返しては受ける。声音に乗せた慰撫は、思いを乗せ、肌の触れ合いとは別の繊細な場所まで辿り着いては忍び込む。

今夜は五感の全てが全開で愛を感じる。深い森から濃い緑の香りを含んだ風が、時折見計らったようにざわつく胸を冷やしてくれた。ちょうど息が詰まる寸前で。

「いい湯だった。生き返った」
中途半端に濡れたままの髪を優しく扱う手に甘えるように呟くと、くすくすと彼は楽しげな笑った。

「いい匂いがするけど、確か桃の葉はカモミールと一緒に湯に溶かすんじゃなかったっけ?髪のすすぎ水の方はオレンジ精油入りホホバオイルを数滴・・・だったよな?」

せっかくロマンティックな気分になっていたのに、いきなりの無粋な指摘。一度読み上げてやったマルタからの美容手順箋をしっかりと記憶しているのは、いずれ手出助けが必要になると彼が思っている証拠だ。オスカルは妙に落ち着き払った男をかき回してやりたくなった。

「ならば、おまえが一から十まで世話を焼いたらどうだ」
「え?いいの?」

動じる気配も無く嬉しそうな返事が返ってくる。・・・だめだ。挑発に動揺するような可愛げなど持ち合わせていないか。無邪気に喜ばれては後の攻撃が続かない。珍しく応戦してこない彼女へ、彼は追い討ちをかけた。

「ふふ、冗談だよ」

ちょこざいな!何を余裕かましているのだ、もう許せん。オスカルは反撃のターゲットを探してアンドレの両頬をぐい、と押さえた。

アンドレの左顎の付け根に剃り残した数本の髭が予想通り見つかった。見えなくなってからか、負傷してからかは定かではないが、どうもそのあたりが盲点になるらしいことを最近発見したのだ。オスカルは力任せに引き抜いた。

「うわっちっち!」
「おまえこそ世話が焼けるぞ、よし、これでハンサムになった」
「生憎だな、ハンサムは生まれつきだ!」

どっと笑い声があがり、二人は取っ組み合いの真似事に興じる。どうということはないチョッカイのやり取りが、こんなに幸福感を運んでくれるとは知らなかった。

とどのつまり、幸福に気づかなかった年月が長すぎたのだ。いや、心の奥底では知っていた。ずっと深いところで。悪ふざけもじゃれ合いも愛の表現だったから、あれほどまで離れがたく幼少期をすごしたのだ。

極上のじゃれ合いは、月影での恋の語らいにしては場違いなほど賑やかに響き、楡の梢で並んで行儀良く眠る雲雀の夢を端から覚ました。

いくらも騒がないうちに、湯浴み後の心地よい火照りと気だるさが、オスカルの興奮を静かに収めた。討ち取ったのか討ち取らせてもらったのか、オスカルは勝負に満足して再び彼に頭と髪を預ける。面倒をみる側、みられる側とも、いつの間にか安心して収まれる幸せな持ち場がある。丁寧に水分を吸い取られた濡れた金の束は空気を含み、夜風になびき始めていた。

「そろそろ大丈夫かな?」

大切そうに手先で彼女の髪をすくその声で、オスカルの周囲に景色がふわりと戻った。そういえば、腰を降ろしている石垣がごつごつと痛いことにも気づかなかった。月を取りに行くどころか、幸せで浮き上がったオスカルは、どうやら銀河を散歩していたらしい。

握りこぶしを開いて見れば、持ち帰った星屑のひとつやふたつ、光っているのではなかろうか。オスカルは大切な人の満ち足りた微笑を求めて顔を上げた。

楡の梢が重い腕を揺すり、ざわと葉ずれを立てた。みっしりと生い茂った枝葉の隙間をぬって青白い月光が差すと、アンドレの左頬全体に落ちていた影が一瞬さっと消え、彼の表情があらわになった。

オスカルは自分と同じ、宇宙遊泳から帰還したばかりの夢見心地な表情がそこにあると信じていた。が、彼女が見たものは、期待したものとは少し違った。

口元は微笑んでいても、彼はまたあの目をしていた。見えない目で何かを探している焦点の定まらない目。さっき、一人で風に吹かれていた時と同じ。

「アンドレ」

ふと不安を感じて名を呼ぶと、彼の瞳から影りはすっと消えた。
「ん?湯上りにいつまでも夜風はいけないな。中に入ろうか?」
「ああ、少し寒くなった」

オスカルの『寒い』の一言に、できるだけ外気から彼女を遮断しようと、アンドレは急いでオスカルの肩を抱き抱えた。けれど、寒いのは、オスカルのもっと別のところだ。気のせいだったかと思えるほど、彼の笑顔はもとの懐かしい温かみを取り戻している。変わり身の速さが痛々しい。

「あ、そうだ」

使っていた木桶とリネンを拾おうとして、アンドレの手が宙を泳いだ。一度、二度、と目的のものを掴み損なうごとに、彼が笑顔を苦し気にゆがませる。

「待て、私が拾う」
何かを言いたそうな素振りを見せて、アンドレは躊躇しながら手を引いた。
「すまない」

そう言ったのはどちらだったろう。あるいは、双方だったか。それとも声にはならない声が、耳を通さず聞こえたのか。急いで身を屈めたオスカルの髪が、甘い香りをふわりと放ったのを、アンドレは何かに取り残されたような寂しさで追った。

道具を拾うと、二人はそのままどちらからともなく肩と腰を抱き合い、夏草を踏みしめ無言で家路をたどった。オスカルが手にした木桶が、鉄製のハンドルをカタカタと歩調に合わせて小さく鳴らす。オスカルは出来る限りさりげなく足場を選んでアンドレを誘導した。

楡の大木の豊かな緑のひさしを出ると、急に昼間のような明るさが開けた。麦畑から遥か天上高く上った月が、銀砂のような光を分け隔てなく地上に降り注いでいた。

今夜は見事な月夜だと、思わず喉元まで出かかったオスカルだったが、果たして彼の眼は月光を捉えているだろうか。見当のつかないオスカルは言葉を飲み込んだ。互いに寄せ合った体が与え合うぬくもりはこんなに近いのに、アンドレの遠い目が見詰める先は、手の届かない遥か彼方に思えた。

オスカルの歩みが遅くなり、抱いている肩が僅かにしなったので、アンドレは彼女が空を見上げたことを知った。そしてオスカルの視線の先を追うかのように遅れて空を仰ぐと、彼は突然足を止めた。中空に目を彷徨わせ、オスカルを抱く腕に力を込めた。

「オスカル・・・、この真上に月があるか?」
アンドレの声は震えていた。

オスカルは、とっさにアンドレを両腕で抱きしめる準備をしてから彼の望む情報を与える。
「そうだ、丁度おまえが見上げている真上に。狼男が出そうなくらいの満月だ」
「そうか!」

満面の笑みが一瞬見えたと思うと、次の瞬間にはオスカルの視界はアンドレの首元に遮られた。オスカルが腕を差し伸べるよりも早く、アンドレは彼女を思いっきり抱きすくめたのだ。何が起きたのかオスカルが理解する間もなく、木桶は手を離れ、草の上に柔らかな音を立てて転がった。

「ああ、そうか、思い違いではなかったんだ、オスカル!」

耳元で響いたのは予想外の彼の喜びの声。不運続きの幼子がささやかな幸運にいじらしいほど歓喜する様を見るようで、オスカルは切なくなった。

ああ、神よ。子供のように抱きついてくる大男をすっぽりと包み込めるだけの腕と胸を私に与えてください。オスカルは精一杯彼の広い背に腕を回して、大きな躯体を自分の胸に引き寄せた。

「探し物は月だったのか?」
「探し物・・・そんな風に見えた?」

オスカルの耳元でくぐもる声は、途切れ途切れに興奮に息を継いだ。
「一心不乱に何かを追っていた。そう見えた」

アンドレは、自分の胸にがっちりと取り込んだオスカルの両腕を掴んで少し押し離すと、困ったように眉を寄せ、肩をすくめて笑って見せた。

「ばれていたか。日が落ちればおれにとっては朝まで闇だ。ところが、東の空が明るく見えたような気がした。街灯が明るいパリでは夜空なんか気にしたことがなかったから、それが月だとはすぐにはわからなかった。

でも人工でない光が見えていると気づいて、踊りだしたいくらいに嬉しかったんだ。なのに、井戸のところで汗を流していたら、いつの間にか明かりを見失ってしまった。それで、月が見えたと思ったのは気のせいかな、と少々気落ちしていたんだ」

他愛もないことを。悩まずにすぐ聞けばいいのに、と言い切ってしまうには、彼の心の揺れは繊細だ。月など夜空でやっと判別できたところで、日常の不便さは変わりはすまい。それでも、視界に映るものがわずかでも彼は欲しいのだ。

幸せに膨らむオスカル胸の端っこには、時々きゅうっと軋む悲しみがいくつか刺さっていて、アンドレが嬉しそうな時ほど、それがちょいとばかり暴れることがある。今夜もそいつがうずき始めたので、オスカルは慌てて気持ちを立て直した。自分に向けてくれるアンドレのくしゃくしゃの笑顔は本物なのだ。無駄な悲観などしたくない。

そこで、オスカルは思いっきり悪戯っぽく問うてみる。
「アンドレ、尻の具合はどうだ?痛いのではないか?」
「そういえば・・・あれ、感覚がない・・・かも?」

アンドレは素直に振り返り、お尻をさすった。その慌てた様子にオスカルは微笑んだ。何もかも深刻に受け止めてしまうのは止めよう。アンドレがいとしい。それでいい。

「東の空と言ったな。おまえは尻の感覚がなくなるほど長いこと石垣に腰を降ろしていたのだぞ?月はとっくに天高く上がってしまうだろうが。しかも大木の下にいたんだ。月など誰にだって見えはしない」

あれ?と不意を突かれたアンドレは、一瞬頭の中身を全部ぶちまけてしまったように、きょとんとしたが、すぐに重要な事実に思い当たった。

「そうだ・・・あまりおまえがいつまでも出てこないので、待ちくたびれて心配になって・・・。それもこれも、おまえが長風呂だからじゃあないか!」
「実に気持ち良かったぞ、うん」
「そして哀れな新婚の花婿は、尻をさすっている!」

二人して笑い、つつきあった。負い目を持つ身同士、アンタッチャブルな領域をつい過度に作り上げてしまうけど、笑い声に変えてしまうことはこんなに簡単だ。まだお互いに新しい傷に慣れなくて、些細なことでいちいち動揺してしまうけれど、無用な遠慮はすぐに突き崩してしまえることを覚えておけばいい。二人にはそれだけの積み重ねたものがある。

「その前に放置されていたのはわたしの方だ。かわいそうな新婚の花嫁は一日ほったらかされっ放しだった」
「お?さらにその前夜、一人で大爆睡あそばした新婚の花嫁は、取り残された花婿がどこで寝たか、知らんだろ?」
「だから、あれは・・・」

知っているとも、床だ。と、胸を張って威張ることではないのでオスカルは黙った。背中にワラ屑をつけたアンドレを見た時、かなり後ろめたかったのだ。

「ああ、オスカル!」
言い訳する間も与えず、花婿は胸の包帯を気にすることなく花嫁を抱きしめた。

「昨夜はあれでいい夜だったよ。おまえが安らかに深く眠っている。眠りは、きっとおまえを健康に近づけてくれるだろう。だから一晩中おまえの寝息を聞いているのが嬉しかった。今日は夕方になっても熱っぽくならないじゃないか。いい休息のせいだよ。長風呂は心配したけど」

突き抜けた秋空のような晴れ晴れとした笑顔でそんなことを嬉しがるアンドレに、オスカルはまた切なくなった。家族の縁薄かった彼には家庭を持つ幸せを与えてやりたい。なのに、因果な病を抱えた身は、それより遥か以前のところで彼を一喜一憂させている。

それでも。
彼が幸せなのは間違いない。与えてやりたい喜びはもっと違うんだと不満を唱えるには、勿体ないくらいに晴れやかな笑顔を彼女にくれる。

それなら私も。
オスカルは幸せだけを胸いっぱいに吸い込んだ。そこに巣食う病魔は、さぞかし恐ろしい思いをして震え上がったことだろう。

「寝息なら、今夜もとくと聞かせてやろう」
「眠れるならね」

別段深い考えもなく、互いにするりと口に出た一言だった。じゃれ合いの延長で無邪気にそう言い合ってから、はっと二人は同時に息を呑んだ。

その隙に訪れた沈黙に、遠慮がちに遠くで鳴いていたはずのこおろぎの音が急に際立って足元から響いた。愛しげに優しい抱擁を繰り返していた二組の腕と、ぶつかり合う膝頭がぴたりと静止した。

二人の体の芯の奥深く、静かに身を潜めていた火種が小さく炎を噴く音がした。

ことり。

発火した矢を放ったのはどちらが先だったかなど、考えても仕方のないこと。胸の楽器が矢を受けて最奥の弦を揺らした。最初の一音を奏でてしまったが最後、終わりまで演奏を止めることができない特別の弦を。

今夜選んだ恋歌は、始まりこそは遠慮がちな和音でも、山間の渓流が大河となって海に注ぎ込まれるような楽想であることを二人は知っている。

夜はまだ、始まったばかりだった。

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