1789年8月5日
恋人の体温を十分に味わい、一息つくと、アンドレはわたしの髪に顔を埋めたまま、ぽつりと言った。
「議会は、封建制の全面廃止を可決したぞ」
やっと取り戻した甘い時間には似つかわしくない話題だったけれど、聞き捨てならない報告。わたしは思わず身を起こした。
「いつだ!」
「ほんの三時間前。徹夜覚悟の白熱した議論のあと、午前二時になってようやく通過した。凄い熱気だったよ」
「ヴェルサイユへ行ってきたのか!」
「うん、べルナールと。あいつの情報収集力は凄いよ。今夜何か重大な決定を通す為に謀議があったらしいから議会を傍聴に行くと言うので、一緒に行った」
ヴェルサイユ。わたしをおびき寄せるために一番効果的な囮はおまえだと知る者は多い。しかも、その傷ついた体で夜通しの議会を傍聴し、休む間もなくその足でパリに戻ってきたのか。体温が急に下がったような気がした。
居間に残した燭台のぼんやりとした灯りが開け放した扉から寝室へ差し込んでいる。わたしの傍らで横向きになって右肘で頭を支えたアンドレが、少々困った風に眉尻を下げるのが見えた。
彼は叱られる前によくこんな顔をする。けれど、今夜はカミナリを落とす気分にはなれなかった。おまえをようやく取り返した夜なのだ。わたしはアンドレの懐にもぐり込んで、息を詰まらせながらやっと言った。
「頼むから…アンドレ…」
「オ…スカル?」
てっきり怒られると予測していたのだろう。アンドレは見えない目を見開くと、動かせない左腕の代わりに首をもたげてわたしの頭の上に頬を乗せた。
「ごめん、約束違反だった」
「銃創後の敗血症のこわさを知っているな?簡単に死ぬぞ」
「ああ、悪かった」
「わたしを行かず後家にしたら…」
「うん…したら?」
「殺す」
アンドレは一瞬息を呑んでから、わたしの髪の生え際に熱い唇を幾度も慈しむように押し当てた。耳元へとくちづけを滑らせると、感極まったように囁いた。
「強烈な愛の告白だな」
ああ、一生言っていろ。その通りだとも。
アンドレはギプスを着けた経緯を話してくれたが、わたしは傷のほうが気がかりだった。銃創は刃傷よりも厄介で、負傷して何日もたってから、瘡の毒素が体中を回って死に至らしめることがまま起きる。
特に体力の落ちた時が危険なので、あまりに消耗する活動はして欲しくない。アンドレは器用に右腕を私の首下に通し、片腕でわたしをしっかりと抱きしめてから、何度もごめんと額へこめかみへキスを繰り返した。
わたしは硬く塗り込められたギプスの胸に隈なく指を滑らせ、抗議の印にあちこちを爪で弾いた。アンドレは済まなそうに私の指を追っていたが、わたしの手が止まるとその指先を握りしめ、今夜の議事一部始終を話してくれた。
確かにリスクを冒すだけの価値があるとアンドレが判断しただけの内容で、結局わたしも興奮の内に聞き入った。
自由主義貴族として知られているノアイユ子爵とエギヨン公が動議を投じたことから議論が白熱した。特権階級に与えられた諸権利、教会の十分の一税、あらゆる領主税、領主権、奴隷制度の名残である賦役や死手権、貴族の免税特権などの撤廃が、堰を切ったように次々に提案され、それが満場の拍手をもって受け入れられたと言う。
「何かが爆発したようだった。裏に仕掛け人がいる気配は感じたけれど、ただ議員が煽りに踊らされていると片付けてしまうには説明しきれないエネルギーがあった。古い特権よりも、もっと普遍的な法に希望を持つ議員が貴族の中から生まれるのを目の当たりにして、感動したな」
アンドレの声が、心なしか静かに興奮している。それはそうだろう。第三身分と同席するしないの低レベルな争いしかできなかったのはたった二ヶ月前のことだ。
「そんなことが…。代議員達自ら特権を手放そうとしたと…?信じられない」
チュルゴーにしろネッケルにしろカロンヌにしろ、それぞれ着眼点の違う歴代財務総監全てが、財政破綻を救うには上位二階級の特権を制限するという同じ結論に帰着したのだ。それ以外に国を立て直す手段がないことは明白であるにも関わらず。
国益よりも個人の既得権に執着するあまり、ことごとく財政改革を潰して来たのは一体誰だったかを思うと、にわかには信じがたい。
「確かに神がかり的な雰囲気はあった。集団催眠状態だったのかも知れない。たとえそうだとしても…」
アンドレは言葉を切ると、わたしの髪を生え際からゆっくりと梳き始めた。わたしにはこっちの方がよっぽど催眠効果があるから要注意だ。引き込まれないように、わたしはアンドレの放つ一言一言に集中した。
「いくら扇動が巧みでも、盛り上がった愛国的雰囲気に酔っていたとしても、全く意に反する提案だったら、どこかで抑制が働かないだろうか?今頃になって後悔で真っ青になっている議員もいるだろうけど」
アンドレの手が止まり、わたしの頬を包む。見えなくなっても、アンドレの眼差しがわたしを射止める力は変わらない。
「おれは、誰もが真理を求める心を持っていると思いたい。扇動や、集団陶酔が引き金だったとしても、もともと各人が純粋な良心を奥底に隠し持っていたからこそ、この結果が生まれたのだと」
アンドレの声が、幾分うわずった。普段なら政治に関して熱くなるのはわたしの方で、アンドレは中立姿勢を保つのに珍しいことだ。
その彼を熱くさせる何かがあったのなら。国民議会は、確かに無私の立場で国民全体の幸福のために力を尽くそうと心を合わせたのだ。
バスティーユ以来、疑心暗鬼から頻発する暴力行為がエスカレートして行く中、一度は見えたはずだった祖国の行く末が、次第に暗い霧に覆われていくようで辛かった。けれど、革命の源泉からはちゃんと人間愛が湧き出ている、とアンドレは言っているのだ。たとえ、水脈が地中深く埋もれてしまっていても。
砂稜にオアシスの影を認めたキャラバン隊長の気分とはこんな感じだろうか。嬉しくて、アンドレの掌の中で微笑むと、アンドレも照れたように笑った。
なのにわたしの口には天邪鬼が住んでいるらしい。
「その場にいなかった者の冷静な意見を聞きたいか?辛口だぞ?」
「どうぞ」
アンドレは反論されるのさえ嬉しそうだ。
「人は弱いものだ。おまえの言う通りだったとしても、時間が経つにつれ、保身欲が盛り返して来るかも知れん」
「そうだな」
「それに法令は国王の裁可を待たねばならない」
「知ってる」
「国王陛下御自身“その場”におられなかった。そして陛下に意見する側近は、沢山の失いたくない特権を持っている。陛下は国民同様、臣下も大事にされる方だ。となれば…」
「裁可はされないか、さもなくば条件付きか」
別にアンドレをやり込めたいわけではなかった。わたし自身、彼の思った通りであって欲しいのだから。本当は素直に歓声を上げたいのに、予防線を張らずにはいられない。アンドレに、力強く大丈夫と肯定して欲しかった。
長々とため息を漏らしたわたしの気持ちを測るように、アンドレはわたしの髪を再び愛撫し始める。わたしは目を閉じて頭を預けた。
「それでもいいんだ、オスカル」
髪の一房に口をつけ、頬ずりをすると、アンドレは一息置いた。静かな間。わたしはすっかり安心してアンドレの次の言葉を待った。
「バスティーユ以来、暴力は合法化されたかのようだ。持てる者は守るため、持たざる者は奪うために。でも今夜おれが見たのは、見返りなしに与えることで祖国を救おうとする姿だった。
オスカル、そんな一面も、破壊と奪い合いの中にちゃんと存在するんだ。それがあれば、裁可など一度や二度されなくても、いくらでもやり直せる」
アンドレの言葉に歓喜が込み上げた。そうだ、わたしが聞きたかったのはそれだ。ああ、アンドレ、どれほどおまえが好きか。大好き過ぎて苦しいぞ、この野郎。おまえの魂のあり方はわたしのオアシスだ。
「うん…、覚えておこう。くじけそうになったら思い出せるように」
アンドレは目を細め、目尻に皺を寄せた。
「どうしても、真っ先におまえに知らせたかったんだ。心配かけて悪かった」
全くだ。何と希望を与えてくれる知らせだろう。
「わたしも立ち会いたかった、アンドレ」
そう言って、アンドレの首に左腕をまわそうとするわたしを押しとどめると、アンドレはとっておきの秘密を打ち明けるのが待ちきれない子供の顔つきでわたしの目を下からのぞき込む仕草をした。
あまりにも巧みに見えているように振舞う彼が痛々しい。
「おれがそこで何を思ったか、教えるか?」
「まだ他にあるのか」
アンドレは満面に笑みを湛えた。
「やっぱりおまえが最高」
そう言う当人が、最高の笑顔を見せた。見とれる間も与えられず、わたしは嬉しそうに笑うアンドレにくしゃくしゃと頭をもみくちゃにされた。二人で絡み合って一回転した。こらこら、傷に障ったらどうする。
「いってえ」
「そら、見たことか。静かにしてろ」
「これが静かにしていられるか?おれのオスカルは、集団で酔いしれる仲間なんかなくてもとっくに自ら特権を手放したぞ。見たか二番煎じ野郎ども、遅いぞってもう少しで大声で野次るところだったのに?」
見えているかのように悪戯っぽく目配せを飛ばし、アンドレは再びわたしに挑みかかる。じゃれつく仔犬にしてはちと大きすぎるが、ちぎれんばかりに振られている尾っぽが見えるようだ。
すぐに傷のことを忘れてしまうらしい恋人をおとなしくさせるべく、わたしは彼を仰向けに組み伏せた。アンドレは降参を表明しながら、まだ笑っていた。ふと彼の胸元に目を落とすと、目前にギプスの中で窮屈そうに上下する胸が迫り、ドキドキしてしまった。
いつの間にか、部屋が随分と明るくなり、壁紙の模様も、羽目板の飾りも見分けられるようになっていた。白み始めた空が、カーテンの隙間からぼうっと浮かび上がっている。夜明けが近い。急に隙間風に吹かれたような寂しさに襲われた。時間は止まってはくれなかったのだ。
「勿論大人しくしていたのだろうな」
「うん、堪えた。褒めてくれ」
笑いを漏らしながらそっとくちづけると、無言でもう一度とアンドレが催促した。アンドレの右手が私のうなじに回され、わたしは彼の願いに応えた。逢瀬の終りに、くちづけに危険な甘さを挟み込む。離れがたく唇を重ね合うわたしたちを戒めるように、朝課の鐘が幾重にも建物にこだまし合って響いた。
アンドレが僅かに唇を離した。
「サン・ラザール修道院の朝課の予鈴だ。そろそろ行かないと人目につく」
「アンドレ」
わたしは、ずいぶんと悲壮な声を出したに違いない。アンドレも辛そうに眉根を寄せる。
「あ、でももう少し…燃料補給…」
このまま、彼をここに置いておけたら。疲れた体をゆっくり休ませてやれたら。わたしは一日中飽きずにこいつの寝顔を眺めていることだろう。
「わたしのアンドレは馬鹿正直すぎて、上司が欠勤させてやると言っても通じないのだろうな」
今日一日彼を手元に置いて置くためなら、わたしは考え付く限りの馬鹿げた仕業をやってのけるだろう。恋情におぼれた人間がおろかな振る舞いを繰り返すのはこういうわけか。おめでとう、わたしもついに一人前になったということだ。
「感動…。もう一度言ってくれないか」
「馬鹿正直」
「違う、そこじゃない」
「上司公認の…」
「わかっているくせに、焦らすなよ」
「わたしの…アンドレ!」
今日は傍にいて欲しいと強く引き止めたなら、アンドレが望みを叶えてくれることをわたしは知っている。だからこそ、それはできない。彼が司令部で努力を重ねているのはわたしのためだけではない。
盲目の彼が新たな仕事やり方を再構築することは、彼を精神的に生かすために不可欠なのだ。わたしは彼を庇護することもできたが、彼にチャンス与える方を選んだのだ。彼の努力をわたしの自己中な憐憫で台無しになどしたくない。増して、このわたしの寂しさを埋めるために。
「行くよ。おまえの所在を伏せるために協力してくれている連中の厚意を無駄にはできない」
首にまわされたわたしの腕に右手を添えてアンドレがキーワードを発した。そうだった、じきにわたしは職務へ戻るが、今誰かに見られたら、明らかに人目を忍ぶ密会と映る。あらぬ憶測を呼ぶ材料を提供すれば、ベルナールを始め協力者の努力が塵に帰す。
「離れているのもあともう少しだ、今は体を休めておけ」
「おまえもだ、もう無茶はするな」
「しないよ、約束する」
「ギプスを外す時はわたしも行く。いいな」
「そりゃあ、シャルル・アンリが心臓麻痺起こすぞ」
一言言葉を交わすごとにキスを降らせ合っていたわたしたちは、つと飛び出た名に鼻先を触れ合わせたまま静止した。
「職業選択の自由も討議されたと言ったな?」
「ああ」
「おまえの腕を取り戻してくれた彼に…改革の波が届けばいいが」
「そう…だな」
再び修道院朝課の本鈴が響いた。アンドレは今度こそ身を起こし、上着を手に取ろうと宙を探った。上着は寝台の下に落ちていたが、わたしがそれを拾ってやれば、アンドレはどう感じるだろうと思い悩んでいるうちに、彼はそれを見つけ出して拾い上げた。
「これをおまえに預けていくよ」
アンドレは軍服の内ポケットから何やら紙片を取り出すと、わたしに手渡した。
「これは…告解証書じゃないか」
「使い道はおまえの思う通りに」
寝台に並んで腰をかけたまま、わたしたちはもう一度抱擁し合った。
「わたしも、用意しなければいけないな」
「慌てることはない。おまえはきっとおれほど時間がかからないから」
面白そうにアンドレがわたしの額を指でつつく。わざと明るい表情をつくっているのがまる分かりだったが、愛しているから騙されてやることにした。わたしもヤキがまわったものだ。
「どれだけ時間がかかったのかは聞かないでおいてやる」
「かいつまんだからね、腹が減る前に終えたよ」
「何だと!けしからん、もう一度やり直して来い」
「おれが罪をすべて懺悔し終わるのを待っていたら、おまえは行かず後家になっちゃうぞ」
***********
アンドレがやっと思い切りをつけて館を出て行った後、わたしは何度も彼が置いていった証書を見返した。これは正式な結婚に必要となる書類の一つで、実際に手にとって見ると、わたしたちは本当に結婚するのだという実感が湧いてくる。
もうどこへも嫁がないぞ、とアンドレに宣言したのは、ほんの二月ほど前だというのに。そうだ、わたしも告解で懺悔しよう。『おまえのところ以外には』と言いそびれてしまったことを。
スポンサードリンク