1789年8月4日
階段を駆け下りながら撃鉄を起こす。ホールから右に伸びる回廊に入ったところから、少女の声がかすかにもれ聞こえる。激しく抵抗を試みる体動音。よし、まだ殺されてはいないし、致命傷も負っていない。賊は彼女の抵抗を封じ込めようとしているが、とりあえず危害を加える意図はないと見た。
一旦階段の踊り場隅に身を潜め、様子をうかがうと、暴れるリュシェンヌに手を焼いた賊が小さく舌打ちした。激しく抵抗を続ける少女に賊が業を煮やさないかと気は焦るが、下手に火器を使えば少女に傷をつける恐れがある。
足音からして幸い相手は一人。ならば少女が暴れまくる騒ぎに乗じて傍へ近づき、素手で取り押さえてやる。わたしは階段を三段飛ばしで駆け下りるとホールに飛び降りた。
わたしが回廊に進むより先に、一つになった人影がもみ合うようにホールに出てくるのが見えた。ふん、飛んで火に入るおあつらえ向きな展開だ。
「覚悟しなさい、このぉ…変態っ!」
抑制を振り切ったらしい少女が声を張り上げると同時にわたしは大きな方の人影の後ろに回り込み、足をすくった。すかさず侵入者を腹這いに床に押し倒し、足をかけると腕をねじ上げた。男はたまりかねて声を上げた。
「うわっ、止めろって!」
え?
ごとっ。
これはわたしがピストルを床に取り落とした音。ねじり上げようとした手首を掴んだまま、わたしは呆気に取られて静止した。どおりででかい図体のわりには扱い易かったはずだ。余計な先入観がなければ手を掴んだだけでわかったはず。それにしても、足の下の固い感触は何だ?
「こ・・・今度こそ許さないわよ!こんのぉ、間男っ~!」
しかし、そのままのんびりと腑抜けている場合ではなかった。一緒にひっくり返ったリュシェンヌが、スカートの裾を踏んづけながらよろよろと立ち上がり、両手で持った何かをまさに振り降ろさんとしていたのだ。
「待て、リュシェンヌ!」
「止めろ!」
わたしは急いで少女の腕を掴んで止めた。同時に足の裏で声が響くのを感じ、まだ男を足蹴にしていたことを思い出して慌てて足をどけた。少女の手を離れ、大音響をたてて床に転がったのは、フライパンのようだった。
「オ、オスカルさま…?」
「大丈夫だ、灯りを持ってきてくれ、リュシェンヌ」
「でも…」
床に転がった人影がもそもそと大儀そうに半身を起こすと、リュシェンヌはさきほどの勇気は何処へやら、震え上がってわたしの腕にしがみついた。
「心配するな、賊ではない」
顎で男の方をしゃくって見せるが、こう暗くては判別は無理か。起き上がろうとしている男が、肩をすくめるような仕草をしたのが気配でわかった。
「や…あ、間男はお呼びじゃない?」
「きゃ~~っ、きゃ~~っ!オスカルさまっ、やっぱり間男ですっ」
馬鹿。
「あいにくこの屋敷には独身女性しかいないのでね、それは無理だな」
リュシェンヌの背をぽんぽんと叩いて落ち着かせてから、闖入者の手を探って引き上げてやった。その手はわたしの背に回り腰を強く抱き寄せた。頬が寄せられ、このまま合わせた胸に埋もれてしまいたいと思ったが、瞬きひとつする間にそれは離れた。
一瞬触れ合った胸は、軍服の釦がかからないほど分厚い包帯で覆われ、石膏のようなもので固められていた。傷が悪化したのだろうか。ことによってはベッドに括りつけて監禁してやらねばなるまい。
「この屋敷は衛兵が周囲を固めている。おまえの悲鳴で兵士に踏み込まれては困る、と思っただけだろう、そうだな、アンドレ」
「…ええっ!うそ…!」
「脅かして悪かった。まさかこんな時間に誰か起きているとは思わなかったんだ」
「そんな、わ、わたし…フライパンで…」
「頭にまで届かなかったんだろ。お陰で命拾いしたよ。背中はたまたま包帯で防護してあったから」
「ごっ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「紛らわしいまねをしたおまえが悪い」
「そうそう、おれが悪い。気にするな、リュシェンヌ。なかなか勇敢だったよ」
「だが、約束しておくれ。ひとりで不審者を撃退しようとしないと。今回は間違いだったから良かったものの、本物の賊だったらおまえの命にかかわるぞ」
「は、はい、オスカルさま」
リュシェンヌは、わたしの居室に戻ってからも、ごめんなさいを連呼し、湿布だの冷水だの軟膏だの、およそ考え付く限りの手当てをしようとした。
灯りの下で見ると、アンドレの厚く巻かれた包帯の胸に僅かに血が滲んでいたが、リュシェンヌがフライパンで与えた一撃のせいとは思えない。多分激しく動いたためか、わたしが床に叩きつけたせいだ。
それでも食い下がる真面目な少女に心配せず休むよう説得するのに小半時をかけた後、様子を見に来たアガットに少女を託した。少女はアガットに背を押されてなお、振り向きつつ下がって行った。
「さて、オスカル」
扉が閉まった後、足音が遠ざかるのを確認すると、初めてこの部屋に入るアンドレは手探りでわたしを探した。彼の明るい声と危なげな仕草のギャップが悲しい。いつか慣れる日が来るのだろうか。
「明日もあさってもないっ」
やっと会えたというのに、わたしはやさしい言葉をかけるどころか、一喝する始末だった。声を頼りにアンドレがわたしを探り当て、掌がそっと頬に添えられても、わたしはただ木偶の坊のように立ち尽くすことしかできなかった。滅茶苦茶な感情の塊が膨れ上がった。
ばかやろう、ばかやろう、ばかやろう、大ばかやろう!見えないくせに何て危険を冒す、来るなら知らせろ、侵入するならもっと上手くやれ、床に叩きつけてしまったではないか、腕をねじ上げた拍子に傷口がどうかしなかったか、踏みつけてしまったぞ、発砲してしまったらどうするんだ、何故包帯が増えている、肩の添え木は何だ、前はそんなものなかったぞ、自分ばっかり落ち着いているな、何故今日なんだ、何かあったのか・・・・・・!
アンドレは途方に暮れたように微笑んだ。わたしの表情を読み取ろうとする指先がゆっくりと頬から目蓋をなぞっている。わたしが俯いたまま微動だにしないので、困り果てて呟いた。
「弱ったな、だんまりか」
違う、困らせたいのではない。言いたいことが怒涛のよう渦巻いて胸が張り裂けそうなんだ。
わたしは、アンドレの手首をむんずと掴むと、奥の寝室に引っ張って行った。行き先が見えないアンドレは訝しげについて来る。そしてわたしにいきなり突き飛ばされた彼は、見えない瞳を大きく見開いたまま寝台に背中から沈んだ。そこでわたしがようやく発した一言がこれだからいやになる。
「脱げ」
「は?」
「上着とシャツを脱げ!」
何がは?だ。わたしはいっぱいいっぱいなんだ、説明など求めるな。アンドレは仰向けにひっくり返ったまま、一生懸命自分が置かれている状況を把握しようとしている。一応言われた通りに苦労して怪我のない側の片袖を抜いては動きを止め、わたしに問いかけるような面差しを向けた。
わたしが何も言わないでいると、そのまま命令に従うべきか真剣に悩んでいる。そんな風に混乱するアンドレを見ていたら、わたしの方が少し落ち着いてきた。片方が慌てると、もう片方は無理にでも落ち着こうとする。うん、長年培ってきた役割分担は良くできている。
「あ、あの…、素直に喜んでいいの…かな?」
なにを勘違いしている。喜びたければそうするがいい。見たところは警戒心丸出しじゃないか。それはそれでキュートだが、おまえの予想は多分はずれだぞ。
「傷を見せろ」
「ああ、傷…ね…」
アンドレは当てが外れたものの、少し安堵したような顔つきをした。外れて安心するとは失敬な。わたしはやっと引っかかっているだけの彼の軍服の上着を引き抜いた。
「その包帯と太い添え木は何だ。前にはしていなかったろう。何があった、どこか悪化でもしたのか?」
それに、たった一週間あまりで痩せた。アンドレ、おまえはわたしのものだろう。ぞんざいに扱ったら承知しない。わたしの気迫に圧されたアンドレは、決まり悪そうに口を開いた。
「うん、実は…最悪なことに」
ところが、アンドレはそう言ったきり、寝台に大の字になったまま目を閉じて黙ってしまった。驚いてひたひたと頬を叩いてみたが反応がない。呼吸は乱れていないし、脈もやや早いものの病的ではないが、ちょっと待て。嫌だぞ、おまえが倒れるのは。
「アンドレ?」
返事はない。顔にかかった髪をかきあげて額と額をつけて見た。多少熱っぽい気もする。もう一度顔色を見ようと額を離そうとしたが、わたしの頭はびくともしなかった。
「?」
持ち上がらないはずもはず、アンドレの自由になる右腕がしっかりとわたしの背に回されて、大きな掌が後頭部をがっちりと押さえ込んでいる。
「な…っ、アンドレ…」
「会いたかった、オスカル」
アンドレはわたしを強く引き寄せると、耳元で低く囁いた。最後まで聞き終わらないうちに、わたしは彼の首元に埋もれ落ち、溶けた。なるほど、再会の挨拶は素直にスキンシップから始めれば良かったのだな。
そんなことに思い至らないほど、怒りも喜びも区別がつかなくなるほど、愛の言葉も忘れてしまうほど。
わたしはおまえに会える日を待ち焦がれていたんだ。
さっきまでの戸惑いが嘘のようだ。わたしの腕は考える間もなくアンドレの体を抱きしめた。もどかしげにわたしの髪をまさぐり、頭を抱きこみ、肩から背に腕をまわすアンドレは、一本しか自由にならない腕に焦れるようにわたしの背中をもどかしげに愛撫した。
彼の熱がわたしの奥深くまで流れ込み、何かに引火した。熱いものと切ないものが入リ混じって全身を駆け巡る。堪えきれずに漏れる吐息。大きく上下する胸をあわせ、ふたりとも同じ思いだったことを知った。会いたかった、会いたかった、会いたくてどうにかなりそうだった。
「わたしも…」
「しっ」
餓えにも似た激しい情動が身体の芯から突き上げる。何か言おうにも言葉にならない。アンドレはそれを知ってか知らずかわたしを制止し、強く抱きしめる。そして、添え木と石膏で固められたアンドレの左肩と胸をかばうようにしているわたしにふっと微笑むと、わたしを抱いたままゆっくり体を反転した。
アンドレの左肩を上にして、横向きで抱き合う姿勢になるがいなや、わたしたちは待ち時間の全てを埋め尽くさんとばかりに貧欲に唇を求め合った。
くちづけは、どうして心臓を鷲づかみにして、体中を燃え上がらせるのだろう。別々の体で生きる定めが耐え切れなくなる時、くちづけは魂の片割れと結びつけてくれる。
パリに出て来てから初めて交わす、恋人の官能を呼び起こすくちづけだった。離れ離れで過ごした乾いた時間が、みるみるうちに瑞々しく命を帯びる。
一度唇を離した後も、もう二度と身を離すまいとばかりにわたしたちは抱き合っていた。触れ合う肌がじんじんと痺れ呼吸がかき乱れる。思い出したように何度も唇を重ね、顔中を、首元を、手の甲を、およそ衣服から出ている素肌を全てくちづけで埋め尽くすと、ようやく人心地ついたようにアンドレが耳元で囁いた。
「危ないところだった」
そして、もうひとつ唇にキスをくれる。
「何が?」
アンドレはまたわたしの唇に自分の唇を乗せて、くすくすと笑った。
「あと一分遅ければ、おれはおまえに焦がれ死にするところだった」
ようやく落ち着いたわたしも、笑いながら彼の下唇を甘噛みし返した。
「おまえがもう少し上手く忍び込めば、最初からこうして可愛がってやったものを」
「上手くやったさ、おれを誰だと思っている」
「間男?」
「…リュシェンヌには間男の正しい定義を教えてやってくれな」
「では変態だったか。おまえ、彼女に何をした…うわっぷ」
再びキスの雨。合間に他愛のない会話を挟んで笑い合う。人生の中に、ところどころ宝石のような至福の時間が許されているならば、今夜わたしたちはそのうちの一粒を味わっているに違いない。
「少女にバックを取られたくせにうまくやったとはな。だらしがないぞ」
「後ろにいたのは気づいたよ。おれを見分けていると思った。まさか襲ってくるとは…。おまえこそ、勝手に部屋変えただろう、だからしくじったんだ!ああああ、せっかくドラマティックな演出を考えて来たのにお陰で感動的な再会が台無しだ。」
「ほお、どんな?」
「え?えっとまず最初に…」
今考えているな。ふん、その間でわかる。
「この部屋は司令部と、遠くにサン・トノレ街が一望できるから変えた」
アンドレはわたしの言葉がにわかに理解できない様子で瞳を大きく見開いた。その様子にわたしは懐かしいどんぐりまなこを思い出した。お日さまと夏草の香りと水飛沫とばあやのお小言で日が暮れた遠い日々を。
「司令部…?」
返事のかわりに、彼のギブスから出ている左手を握り、右手をわたしの頬に当てがって頷いて見せた。アンドレは言葉の意味を咀嚼するかのようにしばらく黙っていたが、やがて眉根を歪ませたと思うと、破顔一笑した。
それから、言葉にならないと言いたげに首を左右に小さく振ると、わたしの首元に顔を埋め、何度も小さくわたしの名を呼んだ。
さっきの燃えるような抱擁とくちづけで、わたしがどれほどおまえを待ちわびていたか、わからないのか。初めて好きだと聞かされた少年のように、喜びを表現するおまえが愛しくて、少し切ない。
まだ慣れないのか。
それほど、一人で頑張ったのだな。
本当は、弱音のひとつも吐きたかったのだな。
片腕しか使えないおまえに代わって、わたしが夜明けまで抱きしめよう。
「夢じゃないんだ」
アンドレは、それはそれは嬉しそうにわたしの懐に鼻先を預けた。
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