22.同じ空の下4

2020/08/10(月) 暁シリーズ
同じ空の下synchronicity4  1789年8月1日


「ほう、思った以上に回復している」
一通り肘や手首、手指の屈伸やら捻りやらの動作を俺に指示し、左肩から指先までの皮膚感覚を、針の先端で刺激しながら確認すると、男は満足そうに頷いた。

この男とは一度ヴェルサイユで会ったことがあるらしい。俺は一度会った人間の顔は忘れない。宮廷でうごめく見えざる策謀の触手からオスカルを守るために身につけた技能だったが、視力を失った今では何の役にも立たない。

そのかわり、今では声と匂いと歩き方の癖が人を識別する重要な情報だ。男の声は胸の中でよく共鳴する深みのあるバリトンだった。彼に職業の選択の自由があったなら、オペラ座に詰める御婦人を束にして卒倒させるだろう。

上背は俺より頭半分低いが、俺を診察する時に触れる腕の感じでは、俺の倍くらいは筋肉が詰まっているマッチョな体つきをしていると思う。まさか触らせてくれとも言えないから想像するしかないけれど、立派な胸板をしているに違いない。足音の重さからも、彼が大男なのがよくわかる。年は五十に手が届こうとする頃だろうか。

ふいに機嫌よく俺の包帯を外していた男の手が止まった。

「これは・・・。激しく動いているようだな。脇の下の傷が開いて壊死を起こしている」
「・・・すみません。気をつけていたつもりなのですが」。
「気をつけるも何も、君はまだ安静にすべき状態なんだよ。傷は縫合しなおさねばならん。阿片を使うかね?」
「いえ、眠ってしまうわけにはいかないのでこのままお願いします」
「あきれた男だ」

自分でそう望んだものの、さすがに阿片なしの縫合は痛かった。傷が良くならないのは自業自得だから、革を噛みしめ、一声も声を漏らさず耐えた。

何とか頑張れたのは、彼の仕事が手際よく熟練しているからに他ならないが、俺は余程恨めしそうな顔つきでも見せたのだろう。処置を終え、片付けを命じられた助手が手術用具の金属音を立てるだけで、ついぴくりと反応してしまう俺に、シャルルはやれやれとあきれ果てた笑いを投げてよこした。

「どうしても動かずにはいられないのなら、傷が塞がるまで肩をギプスで固定してしまったらどうだ?肩関節は体中で一番動きが大きいから、その調子で動いていれば、いつまでも塞がらんぞ」

視力のハンデと、時間の不足と、体力低下に焦れている俺は、さらに左腕の自由を制限すると聞いて躊躇した。もっともこのシャルルに出会うことがなければ、俺の左腕は銃創の後遺症で麻痺したままでいたのだから、我ながら欲を張るにも程があるとは思う。

「ギプスはいやか。我慢強いのか、こらえ性がないのか、どうもよくわからん男だな、君は」

会うのは今日で三回目。この短い付き合いにしては、俺が譲らないのをよくわかっていらっしゃると思うがな。あとの処置は助手に任せ、シャルルは俺を説得しようなどという無駄な努力をあっさりと放棄して木のスツールに乱暴に腰を降ろした。縄で編んだ座面がぎりっときしむ。

「感謝しています。あなたはパリの外科医の誰もが気づかなかった原因を見つけてくれた」
「私ほど人間の体の仕組みをつぶさに見てきた者はいないし、先祖代々受け継いできた知識も膨大だ。大声では言えんが、そんじょそこらの外科医よりは信用に足るぞ」
「勿体ないことです。そのあなたの知識を偏見に閉じ込めて、医学生に還元しようとしないなんて。医科アカデミーはあなたを客員講師として迎え入れるべきです。それをしないなんて、損失と言うしかない」
「偏見・・・。君は偏見だ、と言うのかね」
「そうでなければ、何です?」

ぎしっとまた椅子がきしむ音が聞こえた。シャルルが身を乗り出したらしい。そうか、俺には当たり前に偏見と思えるけれど、世間一般では常識なのだった。俺も一つや二つは抱えているそれは、道端の雑草と変わらぬくらい日常の風景に溶け込んでいるのだ。そう思うと気が楽になる。

「ほう、言い切るね。それもオスカル・フランソワに長年仕えて学んだ洞察か?」
「さあ、どうでしょう。俺は彼女の肋骨でできているようなものですから。ただ少し手を抜かれたらしくて、原料の割りに出来がいまいちなもので」
それを聞いてシャルルは大声で笑い出し、俺の頭を嬉しそうに叩いた。・・・痛い。

「そいつは羨ましいね。汝がために我創られたり、か。肋骨どころか、爪の先でもいいからあやかりたいものだ」

あまり痛かったので、俺は思い切り抗議を込めて睨んでやった。ガンを飛ばす方向は当てずっぽうで迫力に欠けるが致し方ない。シャルルはちゃんと気づいていて、さほど申し訳なくなさそうに謝った。

「やあ、悪かった。痛かったな。ところで肋骨で思い出したが、君はジョン・ミルトンの『失楽園』を読んだことがあるかね?」
「ええ、まだ子供の頃でしたが、オスカルと一緒に」
「ほほほう、子供の頃に。それはまた早熟な。よく親御さんが許したね。異教徒の著書だぞ」

「ええ、ですから鍵のかかる書棚に納められていたんです。それはすなわち俺らに読め、と命令しているようなものでしたから」
「はっは、成る程。では、ミルトンが『失楽園』を口述で書いたことは知っているかね」
「いえ、何故です?」

もう一度椅子が鈍く鳴り、シャルルが座りなおしたのがわかった。そして、からかうような口調は、年少者へ言い聞かせるようにゆっくりになり、声は深い低温になった。

「ミルトンは過労で失明したと言われているが、堕落した教会制度を糾弾したがために、失明は天罰だと酷く非難された。それに対してミルトンは、失明という逆境を乗り越えることのできる自分は不幸ではなく、勝利者である、と宣言したということだ。

「失楽園」も、彼が盲目になってから書いたものだ。そのミルトンが若かった頃に、獄中のガリレオ・ガリレイから天文学を教わったと言う逸話がある。その時のガリレオもすでに盲目だったが、学問への情熱は衰えることなく若者に向けられた」

彼はそこで言葉を切り、俺はもう一発くらい叩かれてもいいと思った。

「もし知らなかったなら、教えてやりたいと思っただけだ。深い意味はない」

温かくて大きな男だ。俺が妙に安心して我侭を言えるのは、彼が積み重ねた人生の厚みに、いい意味で圧倒されているからだろう。鼻の奥で、あまりお呼びじゃないじんじんした痺れが沸き起こった。やばい。俺は何度か声を出そうとしては息が詰まり、大分時間をかけてからようやく答えた。

「・・・知りませんでした。ありがとうございます。では盲目の『闘士サムソン』も・・・?」
「そう、晩年の口述作品だな。私はカトリックだが、清教徒にも一票くらい投じてやりたくなるじゃないか」

俺はそれ以上の言葉を失い、微笑み返すのが精一杯になってしまった。気持ちのいい沈黙が訪れた。俺は目を閉じてそれを黙って味わう。見えなくても、目を閉じることで気持ちが落ち着いて内面に向かうのは変わらない。

シャルルはそのまま俺を放っておいてくれた。でかいわりには神経の細かい男だ。頃合いを見はからってのことだろう、しばらくしてシャルルの奥さんらしい軽い足音と衣擦れの音が近づいてきた。

「うちの人は普段無口な分、たまに気に入った人を見つけると際限なく喋るから、せいぜい気をつけることね、そろそろ起きられるかしら」
あっという間に奥さんの声が近くに聞こえ、香ばしいカフェの香りがあたりに立ち込めた。

正規の医師ではないが、経験医として医療行為を施しているシャルルの家は、カフェの香りに象徴されるように温かな雰囲気に包まれている。奥さんと数名の助手が住む家は、庶民としてはかなり裕福な暮らしが見て取れる大きな石造りの三階立てだ。離れも三棟あり、厩や家畜小屋まである。敷地内の畑では、野菜も自足しているそうだ。

「我慢強いお客さん、一服なさいな」
奥さんがカタンと音を立ててカップを二つ、テーブルに置いてくれた。香りの高さがが素晴らしい、丁寧に入れられたカフェだ。前回ここを訪れた時もご馳走になったが、美味なカフェの抽出なら誰にも負けない俺の自信を揺るがす名手登場に大いに慌てたものだ。俺の職業病の根は深い。

まあ、そんなことはどうでもいい。折角の心遣いだ。香りが逃げてしまう前に味わうべく、俺は治療台から慎重に身を起こした。切るような痛みはどうやら自制内に落ち着いていた。

年上らしいこの奥さんも、鮮やかな手際でシャルルの治療行為を補佐している。シャルルを主幹に、厳しく訓練され、規律良く統制されている空気が隅々まで満ちているこの家では、誰もが誇りをもって役割分担をしているのだ。同時に、落ち着いた心休まる空間が矛盾することなく同居していて、とても心地よい。

しかし、一歩外に出れば、この家の住人は孤立する。王室からの命を受け、正式に法を執行する公の役人として、なくてはならない存在であるはずのシャルルとその家族は、その役割ゆえに、教会でも、教区の寄り合いでも、学校でも、商店でも、激しい差別を受けている。

一目で役職がわかる刺繍の入った衣装の着用が義務付けられているシャルルと家族に、人は話しかけることもせず、品物を売ることを嫌がり、道を開ける。敬意を表してではなく、シャルルの衣服の一部にでも間違って触れて、死神に取り付かれでもすれば大変だからだ。

ムッシュウ・ド・パリと呼ばれるシャルル・アンリ・サンソンはパリの死刑執行人であり、彼の胴着に縫い取られた図案は絞首台だった。



俺が彼の家を訪ねたのは、自分の治療を求めたからではなかった。労咳という病をより詳しく知るために、俺は市内の医師宅を訪ね歩いていたのだ。医師によって見解が分かれることに希望を見出し、どこかに解決策を持つ医師が存在するのではないかと期待して。

しかし、集める症例の母集団が増えれば増えるほど、劇的な回復や長期的に病状をコントロールできた症例は少数派になっていく。行き詰まりを覚えた俺はシャルルを訪ねた。

外科医である彼は労咳は専門外だろうが、差別を受けながらも医師としての評判の高さを変わらず維持している変り種のムッシュウ・ド・パリ。既成概念の枠を超えた、何か俺にとって有用な知識か情報を持っていはしないか。どれほど小さなものでも、希望という希望はしらみつぶしに当たってみたかった。

見るからにぼろぼろの俺を見て、シャルルは当然俺が患者としてやって来たと思ったらしい。第一、必要がなければ係わり合いになりたくない忌むべき一家であるサンソン家に、患者として治療を求める客以外の訪問者はいない。

ところが、一方の俺は左腕の麻痺に苦んでいたにもかかわらず、経験豊かな外科医師を前にして助けを求めることなど思いつきもしなかった。俺の頭にはオスカルのこと以外に考える余地がなかったのだ。

そこで当然のように対話にすれ違いが生じた。互いに全く異なった前提で相手の言葉を理解しようとしていたのだから。その軌道修正を図るために、俺は少々込み入ったいきさつを、最初から話す羽目になった。オスカルの名は明かさずに事情を話すつもりが、対話を進めていくらも経たないうちに、そうもいかなくなってしまった。

俺とは初見ではないようだと、最初に会った時から訝しがっていたシャルルが、記憶の底からその根拠を堀り起こしたからだ。正確には、彼が見覚えていたのは俺ではなく、オスカルの方だった。

彼がヴェルサイユに国王陛下を訪問した時に、オスカルは当然のごとく謁見の間で警護にあたっていた。彼が謁見を終えた帰り際、衛兵交代の時間を知らせに来た俺がオスカルと一緒にいるところを見て、ついでに俺も覚えていたというわけだ。

当時とはかなり姿の違う俺をよく見分けたものだが、間違いなく俺が当時の近衛連隊長付き従者と知ると、シャルルは俺に何度も確認し、興奮状態に陥った。オスカルの美しい立ち姿はシャルルに強烈な印象を残したが、それ以上にオスカルは彼の心に深く踏み込んだのだそうだ。

その日、控えの間で長く待たされることになったシャルルは、待ち時間をオスカルと会話して過ごした。その時彼女が何気なく発した言葉に、絶望の縁から引き上げられたような光明を見つけたと、彼は熱っぽく語った。

俺はそのやり取りを知らなかったが、オスカルが興味深気に『さっき、ムッシュウ・ド・パリに会ったぞ』と言っていたことはよく覚えている。

『首飾り事件』で有罪となったジャンヌが鞭打ちと焼き鏝の刑を受け投獄されたばかりの頃だった。犯した罪の結果であれど、ロザリーの姉の受刑に、どうにも消化しきれぬやり切れなさを、ロザリーはもとより、オスカルも俺もそれぞれが抱えていた。

そんな時だったから、謁見に現れた『ムッシュウ・ド・パリ』にオスカルは純粋に興味を引かれ、話しかけた。残酷非道な死神の使者として、誰も進んで話しかけたりしたがらない人物に。

王命による死刑執行を、如何なる心構えで受け止めるのか。哀れみの感情や罪の意識に耐えられなくなることはないのか。その時はどのようにそれを制御するのか。

オスカルの真剣な問いは、好奇心や蔑みではなく、純粋な求道者のそれだった。同じ葛藤を抱える者として、シャルルもそれを言外に感じ取り、問われるままに答えたという。

彼が負っている過酷な役割は、どれほど経験を積んでも、その責任を果たすたびに魂が削がれ、血を流すのだと。斬首や、今は禁止された車裂きの刑など幾つも経験した身であったが、初めて女性の肌ーそれがジャンヌ・ド・ラ・モットだったわけだがーに鞭と焼き鏝を与えなければならなかったことで、シャルルは自分にも非道の烙印を受けたように打ちひしがれていたことなども。

もしそれが本当なら。心に城壁を築いて感覚を遮断することなく、むき出しのままの心でともに刃を受けていると言うのなら。それではまるで、オスカルの在りようではないか。

『ぶしつけな質問を許してください。わたしは国王陛下の名の下で人を殺傷する権限と義務を負うようになってから、いくら年月を重ねても、未だに義務と責任と感情を折り合わせることができないのです。ですから、貴殿の心中をお聞きしたい誘惑に勝つことは出来なかった。正直な胸の内を見せて頂き感謝します。同じ空の下で、究極の同業者である貴殿が、今日もそれに耐えて勤めをはたしている。これからの責務を貫くうえで、どれ程そのことがわたしに力を添えてくれることか。お会いできて幸運でした。どうか、ご家族ともどもお健やかに』

オスカルは話を聞き終わると、そう言って手を差し出したそうだ。
オスカルにしてみればごく素直に思うままを述べただけだったのだろうが、そのさり気なさがシャルルを激しく揺さぶった。

「王国治政の一端であるのに、我が一族はずっと嫌悪され恥辱にまみれてきた。サンソン家一族は好むと好まざるとにかかわらず、息子は処刑人になり、娘は処刑人に嫁がせねばならない定めを負っている。

だから、我々一族以外の誰もこの役割を担わず済むのだ。しかし、手を汚す者がいるからこそ、身奇麗でいられるという簡単な真実を知る者の何と少ないことか。処刑を見物に集まった群衆がどれ程血を見て熱狂するか、知っているかね?

観劇か祭り見物でもするように拍手喝采する群集の好奇と歓喜に満ちた様の方が、よほど浅ましく背筋が凍る図ではないかね。私を呪われた死神と指さす者たちこそ、処刑の血に飢え、沸き返る群集の一人一人なのだ」

初めて彼を訪ねた日、ほとんど初対面の俺に、シャルルは我を忘れて熱弁をふるった。俺自身は彼となんら接点があったわけではない。オスカルの従者だった男が目の前にいる、それだけのことが彼の堰き止められたものを解放した。それほど、オスカルが彼に残した印象は鮮烈だったのだ。

「軍人の役目と、私の役目の一体どこが違うのか。それなのに、与えられる栄誉の違いはどうだ。徴兵されたばかりの新兵も、サン・ルイ勲章をぶら下げた将軍も、処刑人を下等市民と見下している。いや市民権など我々一族にあったためしなどなかったがね」

シャルルは一旦息をつくと、一気に溢れさせてしまった激語に自分でも驚いたふうに自嘲し、俺はかける言葉を知らず、新米の聴罪聴聞僧のようにただ聞き入るばかりだった。

人間未満の生き物と見下げられることは、視力を失ってから俺もしばしば経験することとなったから、ある程度理解できる。だが彼は、多分俺よりも何倍、いや何十倍も容赦ない残酷な蔑みに耐えてきたのだろう。経験して初めてわかる現実を、俺が今つぶさに実感しているだけに、彼の苦悩に対して生半可な言葉をかけることなどとてもできなかった。

しばらくの沈黙のうち、呼吸を整えたシャルルは一言一言を噛み締めるように言葉を繋いだ。

「あの方は・・・、一体どこであのような感性を身につけられたのか・・・。私を同業の者と呼び、敬意まで表してくれた。あんな軍人は初めてだった。見るからに由緒ある帯剣貴族であるのに。

あの日、私は国王陛下にある請願を申し立てに行ったのだ。私と後継者の呼び名を変えてもらえるように。侮蔑語であるBourreau(ブロー)の使用禁止をね。国王陛下は聞き入れてくださった。

だが、その日の最大の収穫は、ひとりの美しい近衛兵が私にくれた贈り物だった。私たち一族外の人間が正当に評価してくれている。それどころか、こんな私の存在がいくばくかの支えになるとまで言ってくれた。

医療行為を通した人との繋がりで何とか正気を保ってきたが、王令を遂行する私の使命をきちんと見てくれる人がいる・・・!あの方が初めてだ!たとえこの世にたった一人であっても、そんな人間がいることを知った。以来、ことあるごとにあの方を思い出しては、支えにしてきたのは、私の方だ」

そして、俺の訪問目的を聞き出したシャルルは、出来る限りの支援を約束し、俺の動かない左腕を診てやろうと申し出てくれたのだった。

オスカルに関しては、いろいろ助言をくれた。俺の集めた症例を非常に興味深いと評しながら、幾つかの欠陥を指摘してくれた。一つは裕福な階層と、貧しい階層を分けて検討すること。療養環境の全く違う対象を一緒に論じてはいけない。さらに欲を言えば、転地療養組と都市滞在組、罹患時の条件ーすなわち就労状況、労咳以外の既往歴、住環境、年齢、家族構成等ーごとに分類して予後の良し悪しとの相関を調べること。

それから、医師以外に労咳患者の世話の経験豊富な者からも情報を集めること。医師の診察を受けられるのは、ある程度以上の収入がある層に限られてくるが、往々にして貧困層への奉仕を担う修道院に、経験豊富な尼僧を見つけることができる。実際の看護者は、医師の持つアカデミックな知識とは別の経験に基づいた知識を持っており、それは決してあなどれないこと。

そして、予後が良好だった症例に学ぶだけではなく、予後不良例からは負の条件が読み取れることを忘れないこと。こちらの方が症例が多いのだから、より正確な要素が引き出せるだろうと。

また、サンソン家が代々研究してきた薬草の知識が詰まった書物は、本来なら門外不出なのだが必要に応じて写しをとっても構わない。先祖代々の薬草を仕入先であるソーにある薬草園へも近々紹介してくれると、約束してくれた。

俺の動かなかった腕も、丁寧に調べてくれた。銃弾を受けた鎖骨が真っ二つに砕かれたあとの整復が不完全だったために、偏位した骨端が、鎖骨の真下にあるという太く複雑な神経の束を圧迫していることを発見してくれた。

思い出したくないほどの痛みだったが、シャルルが鎖骨を整復しなおしてくれ、ちょいとメスも入れて元に戻せない細かな骨片を取り除いてくれた。その後一時的に酷い熱を持った腫れに見舞われて腕はなおさら動かなくなったが、その腫れが引いていくにつれ、見る間に腕から指先まで感覚が戻ってきた。彼の見立ては見事に的中していたのだった。

今日はその経過報告のつもりだったが、追加の治療を受けることになってしまった。おまけに前回と同じく、シャルルは一切治療費を請求しなかった。そればかりか支払いたいと言う俺の申し出を頑固なまでに拒否するのだった。

彼に言わせれば、オスカルの役に立てることこそが何よりの報酬であり、オスカルを通して革命に貢献する機会を得ることは喜びなのだそうだ。だが彼が革命に貢献したいなどとは、どういうことなのだろう。

「あなたは、国王陛下に忠誠を誓っていたのではなかったですか?革命を支持されるのですか?」

オスカルではないけれど、この男には単刀直入に切り込んでみたくなる。うわべを取り繕った言葉のヴェールなど、侮蔑に常時晒されているこの男には返ってうっとおしいだろう。この男が純粋な王党派であると知りつつも、事情をかなり詳しいところまで話して助けを求めたのは、彼がオスカルに絶対的な信頼を寄せていることを俺が感じ取ったからだが、やはり立場上の違いははっきり知っておきたかった。

「いかにも私は国王の法の執行者であり、そのことに自負も誇りも持っている。国王陛下は公平なお方だから、警察機構や軍と同じく私の地位を正当に評価してくださる。そうでなければ、狂うことなくこの宿命を受け入れることなどできはしない。

だが、あまりにも、あまりにも長い間不当な差別に耐えてきた。父も叔父も祖父も曾祖父も、その妻も娘も。一族内で婚姻を繰りかえし、他の職で生きる術を持たず、市民と扱われたことなどない。人間ですらなかったのだ」

チェロとバイオリンをたしなむ彼は音楽家になりたかったが、学校に行けなかった。素性を隠して家族から遠く離れた地で学ぼうとした試みはことごとく放校、と言う形で失敗した。職業を告げぬまま一緒に会食した貴婦人からは、後から不敬罪で訴えられた。裁判では、誰も彼の弁護を引き受けようとせず、彼は自らを弁護しなければならなかった。

「法の前での自由と平等。それを誰もが享受できる時代を革命が呼ぶのなら。フランス人の誰よりもそんな時代を待ち焦がれていたのは、他でもないこの私だ。王制の神聖を疑うわけではないが、人間としての尊厳を、ついに手にできるのではと期待せずにはいられない。矛盾して聞こえるかね?」

そんなシャルルが、聞こえてくる革命の標語、「自由、平等、博愛」に揺さぶられないはずはなかったのだ。

突き詰めれば、王を神格化、絶対化するなら、理論上平等などあり得ない。議会が紛糾しているのもまさしく王の扱いをめぐってのことだし、今後憲法が制定される経過途上にも、その矛盾が浮き上がってくるだろう。けれど。

「確かに矛盾していますね」
「ふふん、正直に言ってくれる」
「でも、理念や信念、価値観、情熱の全てが、一人の人間の中で理路整然と整合していることの方が変です。人間ですから、いくつも矛盾したものを抱えていて当然でしょう。貴方の気持ちはよくわかります。俺なんかもっとしっちゃかめっちゃかですから」

「では、私を信頼すると?王党派には変わりはないぞ」
「心証を害されたなら、謝ります。オスカルを利用しようと手ぐすね引いている者は王党派、革命派どちらにもいます。ですから慎重にならざるを得ません。でも、貴方が人が平等に扱われる社会への変容を望んでいることがわかったので、充分です。俺たちは同志です」

シャルルは、冷えてしまったカフェを飲み干して、かたんとテーブルに置いたきり、何も言わない。小さな靴音と衣擦れが、シャルルの奥さんマリー・アンヌが彼の肩を抱いたことを教えてくれた。

「同志か・・・。党派を超えて、あり得るかね」
シャルルの声は震えていて、くぐもっていた。
「自由と平等。同じものに価値を置き、オスカルに心酔している。同士ですよ」

自然に笑みが浮んだ。矛盾はいいものだ。人は憲法や法律ではないのだから、思想や文化を越えて友情を育んでいいのだ。そして俺はふと旦那様を思った。

「君に会えて良かったよ」
「俺も、同じです」
「一々、手厳しいな、君は」

ついに、シャルルが鼻をすすった。ついにったって、別に俺が意図したわけではないのだが。会えて嬉しいと、家族以外の人物から言われることのない彼の立場の厳しさが改めて身にしみた。

いとまを告げようとした時、シャルルは俺にもう一つ約束してくれた。
「肩を大事にして早く治せ。そうしたら、君に呼吸補助と排痰の手技を教えてやる」
「はい・・・たん?」
「肋骨は動かんものだと思うだろう。だが違う。肋骨ごと胸部を動かしてやると、強制的に肺に空気を送り込むことができる。痰を排出させてやることもできる。労咳の直接的な治療ではないが、痰や血が気管に詰まった時の応急処置として使えるぞ。いつも傍にいる人間がその技術を知っていれば、少なくとも喀血時の一時的な呼吸困難で命を落とすことはなくなるだろう。どうだ、簡単な技術ではないが、覚える気はあるかね?」

考えるまでもない。即答した。
「お願いします!」
そして甚だしく現金なことに。
君の人なりを最初から知っていれば、この手も最初から使ったんだがな、と笑うシャルルに、俺は結局肩を固定してもらったのだった。

オスカル。俺は望みを捨てない。こうして少しずつでも前進してみせる。会えないけれど、おまえもどうか、希望を捨てないで待っていてくれ。
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