「で、おまえは決定論と自由意志論争なんかを引き合いにして、あの子に何を吹き込もうとしたんだ?」
「吹き込むはないだろう。つまり、対立関係があるように見える事象でも、神の大きな視点から見れば…」
「あ、前言撤回。聞いたおれが間違っていた」
「おまえは…またしてもわたしの持論を聞かぬつもりだな」
「普段はよおおおーく聞いているだろ?長くなりそうだから今夜はパス」
気に入りのテーブルで頬杖をついていたオスカルは、慌ただしく寝酒用のグラスをセットし終えたアンドレを恨めし気に見上げた。普段、っていつの話だ。よおおおお~く聞いてくれなくなって久しいではないか。
近衛時代は、オスカルの居間で時間を気にせずほろ酔い加減の議論を楽しむのが恒例だった。時間は『おまえがついていながら、お嬢様に夜更かしさせるんじゃないよ、いい加減におし!』とマロンが気にしてくれたので、一任しておけば良かった。
アンドレが仕込んで来た時事ネタをユーモア交えて話すのを聞くのが好きだった。時事ネタからは、政治、経済、文学、哲学、歴史、自然科学、芸術と話題が発展し、気づくとアンドレに熱い講義をぶちかますことしばしばだった。彼は聞き上手でもあるのだ。オスカルが熱弁を振るう話題には何でも興味を持って聞いてくれた。
しかし、一方的な聞き手ではない。遠慮のない反論はするし、鋭い質問を浴びせることもある。オスカルの盲点すら容赦なく指摘するので油断がならないところが面白かった。宮廷には話術もディベートも巧みな貴族はいくらもいたし、教養の高さは実務研鑽が最優先のアンドレとは比較にならないが、彼と議論する方がはるかに楽しかった。
なぜなら、宮廷貴族の教養と話術は権力闘争の武器であったのに対し、当時は意識していなかったが、今思うと―ひと言で言えば―彼との対話は愛だったから。
ロマンティックラブではない方のやつだ。オスカルは彼が質問すれば、彼の理解を深める最善の答え方を全力で探したし、彼は忙しい仕事の合間をぬっては本を読み、オスカルの知的好奇心を刺激する観点を身につける努力を欠かさない。
相手に質の高い会話を楽しませたい、相手の世界観を広げる助力をしたい。それがふたりの議論の背景にある。要は愛なのだ。つまり、会話を通して、究極的には『愛しているよ』と言い合っていたのだ。しつこいようだが、ロマンティックじゃない方の意味で。
あの頃は楽しかった。自室でふたり、夜が更けるまで話したりチェスやカードに興じることに何の抵抗もなかった。ましてや、人目を気にすることなど思いもつかなかった時代。オスカルにとっては、長い片恋の痛みを癒やすのに無くてはならない時間だった。
今思えば、抵抗が無かったのも癒やしを得ていたのも自分だけだった。相方の片恋の傷に知らず塩を擦り込んでいたのだから。それでもなお、あの時間は彼も楽しかったのではと思いたい。彼の楽しそうな笑顔が全て業務用演技だったとは思えない。思いたくもない。
確かめたくても聞くに聞けない疑問をオスカルは心に閉じ込めた。聞いたところで救われるのは自分だけだから。オスカルは、目まぐるしく巡らせた思考を止めて自分に活を入れた。
本当は、同席してくれて助かったと礼を言うつもりだったのだ。確かに、ロザリーのエピソードはジュリの警戒心を解くには効果的だったし、猫の習性になぞらえたのも、オスカルを揶揄いたかった訳ではなく、ジュリをリラックスさせるための巧みな計算だった。オスカルにとっては面白くなかったが。
もっといまいましいのは、アンドレの人を和ませる話術がここまで洗練されたのは、自分の激しい気性と長年付き合って来たせいだという妙な自負だ。自分のために発達した彼の話術が他人に向けられる時、何かを横取りされたような気分になる。
心が狭いと言うなら言え、だ。オスカルは乱暴にアンドレが用意してくれたグラスを取り、煽るものではないはずのワインを煽った。
リュカを連れて来ていないせいか、アンドレはすべき仕事を終えるとさっさとオスカルの居間を辞する構えに入っている。蝋燭の残りの長さを念入りにチェックする手を休めずにオスカルに背を向けたまま、ながら報告する様子は明らかに切り上げ時を測っていた。
「ソフィとポーレットが持ち帰った情報が実に細に入っていてね。才能なのか、女の子のおしゃべり力の威力なのか、おれにはよくわからんが」
「ほう、彼女らは何と?」
「結論から言うと、リュカの父はわからない」
「え?」
照明の確認を終えたアンドレは、暖房の火加減の調整を始め、背を向けたまま報告を続けた。リュカがいないと、とたんによそよそしく距離を取る幼馴染み従者にオスカルは落胆した。性懲りもなく甘えたがっているらしい自分がいる。
しかし、それは表に出してはいけない望みなのだ。もう十分傷つけているから。
「わからないとは、ル・コック亭店主ジャックの子か、息子のポールの子かわからない、という意味だけどね」
これで明日の朝までよし、と火力の点検をし終わったアンドレがオスカルを振り向いた。赤々と燃え上がる暖炉の炎と火の粉を背にしたアンドレの輪郭がくっきりと浮かび上がる。半分影に隠れた彫りの深い面差しに、幼馴染みよりは男を強く感じ、オスカルは息を詰めたが、アンドレは感情を排した報告を淡々と続けた。
「カトリーヌとポールは短い期間、恋人だった。しかし父親のジャックが手を出したらしい。それで父子の関係が悪くなりポールは家を出てしまった」
「カトリーヌを置いて?」
火かき棒とトングをラックに収めるために、再びオスカルに背を向けたアンドレへオスカルはつい声を荒げ、急いで気を取り直した。いけない、自分の寂しさと置いて行かれたカトリーヌの境遇を重ね合わせている。アンドレを責める筋合いはない。
アンドレは淡々とした態度を崩さず、大理石のマントルピースに腕組みをして寄りかかった。
「ポールが父親に乱暴されたカトリーヌを受け入れられなかったのか、カトリーヌの方がポールと距離を置いたのか、女将さんが何らか関与したか。細かい経緯は本人でなければわからない。わかっている事実は、ポールはパリに出て行き、一度も家に戻らず、カトリーヌを迎えには来なかった」
「ふん、なるほど」
じくじくとした憤りがオスカルの腹の底からにじみ出て来る。男女の関係が壊れた時、犠牲になるのは子供だ。身近でまず思い出すのはモーリス。ロザリーもベルナールも同じ理由で不遇な子供時代を送っていた。きっと、珍しいことではないのだろう。そしてリュカ。あの子に何の罪があるというのか。
「ポールが出て行って二月ほど経った頃、元々奥手だったカトリーヌが客を取ろうとして失敗している。よほど性に合わなかったようだ。懐妊が発覚してクビになったのもその頃。後はおまえが知るとおりだよ」
アンドレは、報告を終えるとしばらくオスカルの反応を待っていたが、沈黙という返答が返ってきたので、本日の報告を終えることにした。ひとりで考える時間が必要なのだろう。手早くグラスを回収し、撤収準備に入った。
「じゃあ、おれは下がるよ、おやすみオスカル。頭が焼き切れるまで考えすぎるなよ」
またしても沈黙が返って来たので、アンドレは軽く手を上げて扉を押し開けた。
「アンドレ!」
廊下に一歩踏み出そうとした時、アンドレをオスカルが呼び止めた。振り向くと、暖炉前の肘掛け椅子に両肘と首を預け、顎を天井に向け仰向いた姿勢のままオスカルがじっと見つめている。炎に照らし出される白いくびすじがなまめかしい。金糸が一房背もたれからするりと滑り落ち、炎に透けて輝き揺れている。
やめてくれ。そんな扇情的な格好で、酒に火照った頬と潤んだ瞳で見ないでくれ。自覚はないんだろうが。アンドレは頭を抱えたくなった。
「今日はなぜリュカを連れてこない?」
「マルゴとセシルが先を争って抱いていたから」
「何だと?リュカはわたしの息子だ。わたしを差し置くとはけしからん!」
は?
何を言い出すかと思えば。アンドレはかっくりとうなだれた。大方、リュカの父親探しが残念な結果に終わったので、うっぷんを晴らしたいんだろう。まあ、いっか。八つ当たりで気が済むなら、存分にやってくれ。アンドレは扉をゆっくり閉めながら捨て台詞を吐いた。
「御意。じゃあ明日な、パパ」
「頼んだぞ、ママン」
「?!」
扉がパタン、と軽やかな音を立てて閉まると同時にトレイが床に落ちグラスが割れる音、アンドレの悲鳴が上がった。扉を挟んだ向こうでは、オスカルの高笑いが響く。
「わたしの気に入りのベネチアングラスだ!給与からさっ引いておけとデュポールに言っておこう!」
「減給より、怖いのはおばあちゃんだよ…」
床にしゃがみ込み、グラスの破片を拾い集めながらアンドレは独りごちた。
『本日二度目の全言撤回…。八つ当たりはお手柔らかに頼むよ』
****************
さて、収まらないのはオスカルだけではなく、アマゾネス熟女軍団である。こうなったら父親がどちらかなんぞ関係ない。どちらもカトリーヌを玩び無残に捨てた男だ。かわいいリュカを孤児にして顧みない男だ。マルゴは一心に包丁を研ぎ、マロンは無言で大釜を磨いた。
「むかっ腹が収まらない時はね、単純な反復仕事に集中するのが心を静めるのにいいんだよ」
どーうだか。皮をひん剥いて唐辛子をすり込んで地獄の釜でゆでる準備だろ。孫息子は余計な火の粉を避けるべく、リュカを抱き、自他称父親であるオスカルの部屋へ向かった。リュカとジュリの今後を詰めるためである。
時は11月30日、アドヴェント期間の最初の日曜日。宮殿の王室礼拝堂では、厳かにミサが行われ、オスカルも参列して帰宅したところだ。警備責任者はダグー大佐が引き受けてくれた。来週はオスカルが担当する。
すっかり体が冷え切ったであろうオスカルのために用意したのは、シナモンとオレンジ、グローブを効かせたヴァン・ショーだ。ノエルらしいスパイスの香りが、瑞々しい緑のガーランドとクレーシュで演出されたオスカルの居間を、より一層ノエルらしく彩ることを狙って。
入室を許可されたアンドレは、務めて明るくオスカルに声をかけた。地獄の釜ゆでよりも、リュカのために最善策を考えてやろう。その方が建設的だし、暗い気分が何かの役に立つわけはない。
「やあ、パパ。リュカが来たよ」
やあ、ママン、遅かったな。くらい言うかと思いきや、アンドレはぎょっとして立ちすくんだ。オスカルは、テーブルの上に自身がコレクションしている銃器をずらりと並べ、手入れに熱中している。勘弁してくれ、おまえもか。アンドレは両手が塞がっている関係上、心の中で十字を切った。
片目をすがめて、クリーニングロッドに取り付けたブラシを銃口から挿入していたオスカルがアンドレをちらりと横目で見やり、鼻をひくつかせた。こどもか、おまえ。アンドレは腹の中で苦笑する。
「うん、良い香りだ」
ああ、漂う銃油の匂いのせいで台無しだけどな。テーブルが塞がっているので、アンドレはオスカルの肘掛け椅子の脇に小卓を移動させ、飲み物を並べた。リュカが腕の中で愛らしく伸びをした。
「考えたんだが」
フリントロックの火打ち石の点検を始めたオスカルが、作業の手を止めずにいきなり本題に入る。
「ジャックかポール、どちらが父親かわからないにせよ、一度はチャンスを与えるべきだと思う。リュカには父親の庇護を得る権利があるしな。いくら無責任な父でも、わたし達が勝手にそれを奪うべきではない」
オスカルは火打石を抜いたばかりの短銃を鏡に向け、引き金を引いた。カチリ。
「奴らはいまいましいが、それはわたしの勝手な感情だしな」
標的になったのは、鏡に映っているアンドレだ。言っていることと、やっていることが乖離していないか、オスカル。的を間違えないでくれ。アンドレは鏡の中からオスカルに向かって片掌を上げた。リュカは武器ではないので、抱いたままで。
「おまえならどうする?」
「え?おれ?」
オスカルは、今度はシャルルヴィル・マスケット銃を取り上げ、機敏に180°向きを変えると、直接アンドレの眉間に狙いを定める。
「女が子を残して死んだ。子どもはおまえの子かも知れないし、別の男の子かも知れない。おまえは子の父として引き取るか?」
何てことを。おまえがそれをおれに聞くのか。アンドレは呆然と立ち尽くした。オスカルはただ『女』と言っただけだが、アンドレにとって『女』はオスカル以外に存在しない。
ゆえに、それは想定できる域を超えた仮定だ。なのに、かつての求婚者と北欧の貴公子の姿が浮かんで息ができなくなった。
息継ぎを求め、腕の中の温かいものに目をやると、赤ん坊はふくふくした五本の指を頬のあたりで不器用に曲げ伸ばししながら、口をもぐもぐと動かしている。もし、この子がオスカルが残した子だったら…。アンドレはふと自問したと同時に結論を出している自分に驚いていた。
オスカルが残した子を、愛さずにいられる訳がない。父親がはっきりしなくても、灼熱の嫉妬に焼かれようとも、もしその子に必要とされたなら、いや、されなくても。
「ふふ、何を鯱張っている。そんなに真剣に考えなくともよい。自分の子である可能性がある子どもの存在を知ったジャックとポールのどちらかが、自分の子として慈しむと覚悟を決めたなら、それがリュカの父親だ。それでいいだろう?世の中には…」
アンドレの眉間に銃口を向けたまま、オスカルはゆっくり引き金に指をかけた。
「子への愛が、嫉妬を凌駕する器を持つ男もいるだろうからな。例えば…」
カチリ。引き金が引かれ、アンドレはオスカルの視線に打ち抜かれたようにめまいを覚えた。
「ポールとジャックのうちどちらかがそれほど深い愛を見せるなら、リュカを渡してもいい。どちらの男も背を向けるなら…」
オスカルは俊敏に体の向きを窓に向け、マスケット銃を構えるともう一度引き金を引いた。カチリ。
「リュカはわたしのものだ。父親候補の三番手だしな。わたしが養育環境を整える。もちろん、ジュリの意向に沿った形でだ」
オスカルはアンドレを横目ににやりと笑った。ほ、本当にそれだけで済むのか?銃口はサン・ルイ地区のダンジュー通り方面を向いているじゃないか。アンドレは生唾を飲み込んだ。
「異論は?ん?」
「ヴァン・ショーが冷める」
獲物に狙いをつけた時の鋭い光がオスカルの瞳から消え、眉がひょいと上がったと思うと、オスカルは銃を投げ出し、腹を抱えて笑い出した。
「やっぱりおまえはママン、だ!」
オスカルは笑いながらアンドレの肩に手をかけ体重を預けて来た。リュカがくぐもった鼻声を鳴らし、アンドレの肩越しにのぞき込んだオスカルの方へ顔を向けふにゃりと口元をゆがめた。
おまえは今、おれの心臓を360度ひっくり返すほどかき回したのを知らないだろ。まあ、いいけどね。この恋心に平安が訪れる日なんてはなから諦め済みだ。アンドレは肩にかかるオスカルの重みと体温を慈しむ時間を数秒だけ自分に許すことにした。
リュカがいる時だけ、自然な幼馴染みの距離が戻ってくる。かつては、陽光のようにふんだんに与えられていたことがアンドレには奇跡にも思える。今は、砂漠に降る一時の慈雨となってアンドレの命を繋ぐ大切な瞬間。
耳元で弾けるオスカルの笑い声とふわりと掠める黄金の房の感触、愛おしいぬくもりをアンドレは押し頂くように心の奥に収めると、幼馴染みから身を離した。体の一部を刃物で剥ぐような痛みとともに。
「ほら、座れ」
着座を促されたオスカルは素直にアンドレの肩から身を離したが、彼女の視線が不服そうにアンドレに向かって上向いた瞬間、ふわりとアンドレの全身が名残惜しさに包まれた。しかも、それが自分だけのものでは無く彼女とも共有している感覚のように思えて、アンドレは慌てて振り切った。
意識の一部が繋がっているように、呼吸と感覚を自然とシンクロさせているのが当たり前だった時代は確かにあった。しかし、もう過去のことだ。
「さあ、リュカ、パパのところへ行け」
少しばかり恨みがましさが混じるオスカルの上目遣いをさっくり無視し、アンドレはリュカのふっくらとした頬にビズを落としてから、自称パパ候補の膝に乗せた。
「ほら、パパの方が柔らかくて具合が良いぞ?ママンは飲み物の準備をしないとね」
一瞬生まれた濃密な空気は、きっと気のせいだと言い聞かせるように、アンドレはしなを作ってさえ見せた。パパ役もママン役にも深い意味は無いジョークだよ、と。オスカルがくっくっとくちびるを引き結んだまま笑ったが、アンドレには泣いているように見えた。
「ふっ、パン種のように毎日おおきくなるな」
すっかりリュカ抱く手が慣れたオスカルは、赤ん坊に額を寄せるように俯き、小さな手で頬を叩かれクスクスと肩を振るわせ笑っている。
「ほら、こんなこともあろうかと熱めにしてきて良かったよ。ちょうど飲み頃だ」
ヴァン・ショーを注いだグラスを盆に乗せて差し出す。赤ん坊を膝に乗せたオスカルが、受け取りやすいタイミングで受け取れるように。いや、下手に手渡してうっかり指が触れ合わないように。シナモンがふわりと香る。
「この香りをかぐと、待降節が始まった感じがするな」
目を閉じて香りを楽しみながら、オスカルが何かを懐かしむようにグラスにくちびるをつける。応えるように、きゅるきゅる、とかわいらしい喃語をリュカがたてた。
「そうだな。一年なんてあっという間だ」
「ふふ、おまえは年よりくさいことを言う」
1年を締めくくる待降節が始まると、ふたりは夕べのひと時に一年を振り返り、来年への抱負やら希望を語り合って過ごすのが常だった。
毎年欠かさず続いたその習慣は、ふたりで一緒に振り返るには傷の深すぎる出来事が続いた去年を境に途絶えている。どんな試練もふたりで手を取り合えば乗り越えられるという神話が崩れる日が来るなどと、誰が予想できただろう。
「おまえも付き合え」
オスカルがアンドレにグラスを上げて見せた。降誕祭第一主日の灯の下で、杯を共にできるなど思ってもいなかったアンドレは、当然自分の杯を用意していない。
アンドレは、肩をすくめて居間のキャビネットに常備してあるオスカルのブランデー用のグラスを取り出した。オスカルが手にしている分厚いヴァン・ショー用グラスよりもはるかに上等な、これもヴェネチアグラスである。
主人のグラスを使うなど使用人あるまじきふるまいを簡単にやってしまうあたり、幼馴染の領分が、まだ少々は生き残っているんだな、と少々センチメンタルな気分になる。オスカルはそこには頓着せず、何だそんな小さいやつで、とグラスのサイズにケチをつけた。構わず飲み物を注ぎ、アンドレはグラスを上げた。
「おまえのフランス衛兵隊ヴェルサイユ部隊長就任に乾杯」
オスカルは目を丸くした。数才幼く見えるような、飾らぬ素の表情で。ああ、まだそんな風に心を開いてくれるのか。アンドレは知らず口元をほころばせた。
「去年だぞ」
「うん、でもまだ言っていなかった」
「聞いたか、リュカ。おまえのママンのとぼけようを」
オスカルはリュカに振った。アンドレはグラスを近づける。
「乾杯しないのか?」
「え?ああ、ほら、乾杯」
チン、と透き通ったガラス音がアンドレの持つグラスから響いた。余韻が消える前にアンドレはオスカルに音頭を催促した。
「おまえの番だ」
「わ、わたし?」
「そういう決まりだろ?」
一昨年まではそうだった。交代でその年の出来事を振り返り、ふたりで祝福する。良いことにも悪いことにも乾杯し、前に進むのだ。
「黒い騎士を取り逃がしたことに乾杯」
「あはは、そうだな。でも正体を暴いたぞ、乾杯」
チン。
「ロザリーの嫁入りに乾杯」
「くそ、あいつは本当の盗人だった」
チン。
「アランに勝ったことに乾杯」
「ああ、あれは際どかったな」
チン。
グラス音の響きが消えた。立ったまま乾杯を重ねていたアンドレにオスカルが無言で近くに寄れ、と圧をかけた。アンドレは、オットマンをオスカルの椅子近くに引き寄せ、腰を下ろす。もう少し近く。リュカを抱いたオスカルが瞬き一つで要求する。
互いに手が触れられる距離にオットマンを近づけると、オスカルの指がアンドレの左側の前髪をそっと上げた。閉じたままの左の瞼に、ちり、とアンドレは視線を感じる。うん、わかった、そういうことなら、とオスカルの乾杯のお題が言葉になる前にアンドレが引き取った。
「おまえじゃなくて、良かった。本当におれはそのことが嬉しい。乾杯」
チーン。
オスカルが返す強めのシャンティで、いくつもの複雑にせめぎ合う彼女の思いが伝わって来る。前に進む糧として昇華させるための乾杯だから、良いことも悪いことも主題になる。ならば、自分の犯した暗い罪もその中に含まれるのだろうか。
到底そうは思えなかったが、アンドレは少し冷めたヴァン・ショーを注ぎ足し、恐る恐るそれを口に出した。
「ごめんでは済まない過ちに…」
「どれのことだ?互いにあり過ぎて特定できん」
「オスカル…」
「それでも、今もここで一緒にいられることに、乾杯」
チン。
ふたりはしばらくグラスを合わせたまま、見つめ合った。オスカルのくちびるは柔らかく微笑み、微かにメルシと動いたように見えた。アンドレは言葉を失ったようにグラスを持つ手を膝に置いた。こみ上げる温かい感動に満たされて身動きができなくなったのだ。
俯くアンドレの表情の左側を髪が隠し、何かがきらりと光って落ちた。オスカルは気づかないふりをして、ピッチャーに手を伸ばす。
「どうした、ネタ切れか?まだ、去年の分しか終わっていないぞ。今年の棚卸はこれからだ、アンドレ。リュカがぐずり出す前に終わらせるぞ」
慌てたアンドレはオスカルの腕を制し、ピッチャーを奪取した。オスカルの膝にはリュカがいる。慣れないことをして欲しくない。慣れた手で杯を満たしてもらったオスカルがグラスを上げた。
「質入れされた支給品の剣が戻ったことに乾杯」
「ああ、ブイエ将軍にばれたら大事だった、乾杯」
チン。
「それがきっかけで、衛兵隊を辞めずに済んだことに乾杯」
「あー、良かったな。お前の努力が実を結んだんだよ、良くやった。お疲れさん」
チン。
「舞踏会の大成功に、乾杯」
「大成功?」
「父上は懲りたぞ。成功だ」
「そりゃ、懲りるよ…」
しぶしぶ…チン。
「パリでは九死に一生を得たな」
「生還を祝して、乾杯」
「命がけで得た教訓に…あああ、おれ護衛失格」
「いいから、ほら、乾杯」
チ…ン!
ふたりは、しばし黙ってグラス音が残した余韻の行方を追った。薪の爆ぜる音と、機嫌の良いリュカが喉の奥で鳴らす鳩が鳴くような音に耳を傾ける。この子のおかげで触れるほど近くいられることに、杯を鳴らしたい。ふたりは、無言のまま同時にグラスを上げ、目を見合わせてからくすりと笑った。
チン。
「今のは?」
「さあね」
互いが考えていることや、感じていることが手に取るようにわかる心の同期を、当たり前のように享受できていた関係性は自分の過ちが壊してしまったとアンドレは思っていたが。何度振り切っても戻ってくるこの感覚は、思い過ごしではないのかも知れない。
オスカル、おれたちは今同じ思いを共有していないか?アンドレは、揺れる炎を映すオスカルの瞳をまっすぐに見つめた。
「許されるべきではない過ちを犯したおれを、変わらず側においてくれるおまえに」
アンドレはオスカルに向けてグラスを掲げた。あの過ちに、オスカルが気づいていないはずはない。それなのに、こうして前と変わらぬ距離で酒を酌み交わせるとは。その希有な幸福に、果たして自分は値する人間だろうかと、畏れすら感じる。
『だけど、どうしてもおまえもおれと同じ思いを抱いている気がするのだが、それは思い込みか?』
アンドレの無言の問いに答えるかのように、オスカルも杯を上げた。
「おまえの言う過ちは、果たしておまえのものか、わたしのものか。区別などつかないほど側近くいてくれるおまえに」
チ…ン!
透き通ったシャンティ音が、見えない波紋を広げながら、部屋を満たして消えてゆく。しかし、ふたりを同時に満たした温かいものは、消えずに留まるだろう。ヴァン・ショーはすっかり冷めていたが、ふたりは視線を合わせたまま同時に飲み干した。相方の姿は滲んで見えた。
「おまえがそばにいてくれるから、わたしは自由に動くことができる。わたし一人では何もできない、と前に言ったが」
「覚えているよ。嬉しかった」
「そうではないのだ。いや、それはその通りだが…おっっと!」
今では片腕でもリュカを抱いていられるオスカルだが、突然大きく伸びをした柔らかな赤ん坊の動きは察知できず、重い頭が腕からずり落ちそうになった。持っていたグラスを放り出してオスカルは両腕で子を抱え込み、同時にオスカルごとアンドレが抱きかかえ。
くにゃりとつかみ所のない上に重心が頭に偏る赤ん坊は、ふたりの腕と胸の防壁内から飛び出さずに守られた。目を見合わせてから、ほっと息をつき、ふんかふんかと鼻を鳴らし始めた赤ん坊を慌ててのぞき込む。
その様子を見ている者があったなら、ふたりの動きが寸分違わぬ正確さでシンクロしていることに、驚きの目を見張ったに違いない。一つだけ違ったのは、アンドレの方はグラスも死守していたのだが、些末なことだ。
「あ、泣くぞ、泣くぞアンドレ」
「こっちにかせ、オスカル」
泣く子をあやすには、パパよりもママンの出番だなどと考える間もなく役割を交代し、ひとつの影はふたつに分かたれた。久しぶりに胸いっぱい吸い込んだ懐かしい香りとぬくもりを惜しむ間もなく、火がついたように赤ん坊の泣き声が響き渡る。
ああ、いい子だ、よしよしと赤ん坊の尻を優しく叩きながら、ゆっくりしたリズムで前後左右に重心を移動させているアンドレを、さすがはジャルジェ家乳母の直系だけのことはあると微苦笑しながら、オスカルは一瞬与えられた懐かしい大きな腕と胸の感触を愛おしんだ。
胸が締め付けられる。懐かしいだけでは済まされない切なさに、堪えていた涙が頬を伝って落ちた。言いそびれた一言を、赤ん坊をあやすアンドレの背中にそっと囁いた。
『おまえがいないと、淋しくて死んでしまう』
帯剣貴族ジャルジェ家の次期当主が女であることを誰にも指差し出来ぬよう、積み上げた全ての実績の影にはアンドレがいた。彼の補佐なく、女性の将校に吹く逆風に毅然と立ち向かうことはできなかったと思う。
全て自分の功績と思い込んでいた若く愚かな時代を過ぎた今、いずれ地位や資産の形で彼に報いたいくらい感謝している。しかし、あの時に言いたかったのはそのような意味ではない。
彼なしで生きてはゆけない。
ようやく言えそうだったのに、言いそびれてしまった。オスカルは、こっそりと頬を手の甲で拭った。
リュカは、巧みなあやし手の腕で何度か泣き止みそうになったが、じきに足をばたつかせては全力で盛り返した。アンドレは、ついにお手上げサインをオスカルに送って寄越した。
「これは、腹ぺこだな。一旦乳母に戻して来るよ」
いまだ首の据わらぬ乳児の縦抱きを難なくやってのけるアンドレであっても、腹ぺこには対処できない。ギャン泣き中のリュカを抱えたアンドレは、グラス類の片付けはあとで人をよこすから、とオスカルの部屋を急ぎ出ようとしたが、ふと思いついたように引き返し、オスカルの座る肘掛け椅子の前で片膝をついた。
「キスしてもいいかな?」
間断なく張り上がる乳児の泣き声の合間に、確かにそう聞こえた。え?と訝しがる隙を与えられる間もなく、耳を劈くような泣き声が至近になったと思った瞬間、頬に温かなビズが落とされた。
片側の頬に一度だけの瞬間ビズ。形だけのハグすらなしの。しかし、すっと離れたアンドレを見上げて見れば。たかがビズごときにいちいち断りを入れるような間柄ではなかったはず、と憂えるのが馬鹿馬鹿しくなるほど嬉しそうなアンドレの笑顔があった。
「あれ?ほっぺたが濡れてた。おれと同じ理由かな?」
オスカルは、黙って三度頷いた。
言いそびれてしまった一言は、どうやら言わなくても伝わったようだった。
★ よい子のみなさんは、たとえ銃弾が装填されていなくても、人に銃をむけて引き金を引かないで下さいね ★
「吹き込むはないだろう。つまり、対立関係があるように見える事象でも、神の大きな視点から見れば…」
「あ、前言撤回。聞いたおれが間違っていた」
「おまえは…またしてもわたしの持論を聞かぬつもりだな」
「普段はよおおおーく聞いているだろ?長くなりそうだから今夜はパス」
気に入りのテーブルで頬杖をついていたオスカルは、慌ただしく寝酒用のグラスをセットし終えたアンドレを恨めし気に見上げた。普段、っていつの話だ。よおおおお~く聞いてくれなくなって久しいではないか。
近衛時代は、オスカルの居間で時間を気にせずほろ酔い加減の議論を楽しむのが恒例だった。時間は『おまえがついていながら、お嬢様に夜更かしさせるんじゃないよ、いい加減におし!』とマロンが気にしてくれたので、一任しておけば良かった。
アンドレが仕込んで来た時事ネタをユーモア交えて話すのを聞くのが好きだった。時事ネタからは、政治、経済、文学、哲学、歴史、自然科学、芸術と話題が発展し、気づくとアンドレに熱い講義をぶちかますことしばしばだった。彼は聞き上手でもあるのだ。オスカルが熱弁を振るう話題には何でも興味を持って聞いてくれた。
しかし、一方的な聞き手ではない。遠慮のない反論はするし、鋭い質問を浴びせることもある。オスカルの盲点すら容赦なく指摘するので油断がならないところが面白かった。宮廷には話術もディベートも巧みな貴族はいくらもいたし、教養の高さは実務研鑽が最優先のアンドレとは比較にならないが、彼と議論する方がはるかに楽しかった。
なぜなら、宮廷貴族の教養と話術は権力闘争の武器であったのに対し、当時は意識していなかったが、今思うと―ひと言で言えば―彼との対話は愛だったから。
ロマンティックラブではない方のやつだ。オスカルは彼が質問すれば、彼の理解を深める最善の答え方を全力で探したし、彼は忙しい仕事の合間をぬっては本を読み、オスカルの知的好奇心を刺激する観点を身につける努力を欠かさない。
相手に質の高い会話を楽しませたい、相手の世界観を広げる助力をしたい。それがふたりの議論の背景にある。要は愛なのだ。つまり、会話を通して、究極的には『愛しているよ』と言い合っていたのだ。しつこいようだが、ロマンティックじゃない方の意味で。
あの頃は楽しかった。自室でふたり、夜が更けるまで話したりチェスやカードに興じることに何の抵抗もなかった。ましてや、人目を気にすることなど思いもつかなかった時代。オスカルにとっては、長い片恋の痛みを癒やすのに無くてはならない時間だった。
今思えば、抵抗が無かったのも癒やしを得ていたのも自分だけだった。相方の片恋の傷に知らず塩を擦り込んでいたのだから。それでもなお、あの時間は彼も楽しかったのではと思いたい。彼の楽しそうな笑顔が全て業務用演技だったとは思えない。思いたくもない。
確かめたくても聞くに聞けない疑問をオスカルは心に閉じ込めた。聞いたところで救われるのは自分だけだから。オスカルは、目まぐるしく巡らせた思考を止めて自分に活を入れた。
本当は、同席してくれて助かったと礼を言うつもりだったのだ。確かに、ロザリーのエピソードはジュリの警戒心を解くには効果的だったし、猫の習性になぞらえたのも、オスカルを揶揄いたかった訳ではなく、ジュリをリラックスさせるための巧みな計算だった。オスカルにとっては面白くなかったが。
もっといまいましいのは、アンドレの人を和ませる話術がここまで洗練されたのは、自分の激しい気性と長年付き合って来たせいだという妙な自負だ。自分のために発達した彼の話術が他人に向けられる時、何かを横取りされたような気分になる。
心が狭いと言うなら言え、だ。オスカルは乱暴にアンドレが用意してくれたグラスを取り、煽るものではないはずのワインを煽った。
リュカを連れて来ていないせいか、アンドレはすべき仕事を終えるとさっさとオスカルの居間を辞する構えに入っている。蝋燭の残りの長さを念入りにチェックする手を休めずにオスカルに背を向けたまま、ながら報告する様子は明らかに切り上げ時を測っていた。
「ソフィとポーレットが持ち帰った情報が実に細に入っていてね。才能なのか、女の子のおしゃべり力の威力なのか、おれにはよくわからんが」
「ほう、彼女らは何と?」
「結論から言うと、リュカの父はわからない」
「え?」
照明の確認を終えたアンドレは、暖房の火加減の調整を始め、背を向けたまま報告を続けた。リュカがいないと、とたんによそよそしく距離を取る幼馴染み従者にオスカルは落胆した。性懲りもなく甘えたがっているらしい自分がいる。
しかし、それは表に出してはいけない望みなのだ。もう十分傷つけているから。
「わからないとは、ル・コック亭店主ジャックの子か、息子のポールの子かわからない、という意味だけどね」
これで明日の朝までよし、と火力の点検をし終わったアンドレがオスカルを振り向いた。赤々と燃え上がる暖炉の炎と火の粉を背にしたアンドレの輪郭がくっきりと浮かび上がる。半分影に隠れた彫りの深い面差しに、幼馴染みよりは男を強く感じ、オスカルは息を詰めたが、アンドレは感情を排した報告を淡々と続けた。
「カトリーヌとポールは短い期間、恋人だった。しかし父親のジャックが手を出したらしい。それで父子の関係が悪くなりポールは家を出てしまった」
「カトリーヌを置いて?」
火かき棒とトングをラックに収めるために、再びオスカルに背を向けたアンドレへオスカルはつい声を荒げ、急いで気を取り直した。いけない、自分の寂しさと置いて行かれたカトリーヌの境遇を重ね合わせている。アンドレを責める筋合いはない。
アンドレは淡々とした態度を崩さず、大理石のマントルピースに腕組みをして寄りかかった。
「ポールが父親に乱暴されたカトリーヌを受け入れられなかったのか、カトリーヌの方がポールと距離を置いたのか、女将さんが何らか関与したか。細かい経緯は本人でなければわからない。わかっている事実は、ポールはパリに出て行き、一度も家に戻らず、カトリーヌを迎えには来なかった」
「ふん、なるほど」
じくじくとした憤りがオスカルの腹の底からにじみ出て来る。男女の関係が壊れた時、犠牲になるのは子供だ。身近でまず思い出すのはモーリス。ロザリーもベルナールも同じ理由で不遇な子供時代を送っていた。きっと、珍しいことではないのだろう。そしてリュカ。あの子に何の罪があるというのか。
「ポールが出て行って二月ほど経った頃、元々奥手だったカトリーヌが客を取ろうとして失敗している。よほど性に合わなかったようだ。懐妊が発覚してクビになったのもその頃。後はおまえが知るとおりだよ」
アンドレは、報告を終えるとしばらくオスカルの反応を待っていたが、沈黙という返答が返ってきたので、本日の報告を終えることにした。ひとりで考える時間が必要なのだろう。手早くグラスを回収し、撤収準備に入った。
「じゃあ、おれは下がるよ、おやすみオスカル。頭が焼き切れるまで考えすぎるなよ」
またしても沈黙が返って来たので、アンドレは軽く手を上げて扉を押し開けた。
「アンドレ!」
廊下に一歩踏み出そうとした時、アンドレをオスカルが呼び止めた。振り向くと、暖炉前の肘掛け椅子に両肘と首を預け、顎を天井に向け仰向いた姿勢のままオスカルがじっと見つめている。炎に照らし出される白いくびすじがなまめかしい。金糸が一房背もたれからするりと滑り落ち、炎に透けて輝き揺れている。
やめてくれ。そんな扇情的な格好で、酒に火照った頬と潤んだ瞳で見ないでくれ。自覚はないんだろうが。アンドレは頭を抱えたくなった。
「今日はなぜリュカを連れてこない?」
「マルゴとセシルが先を争って抱いていたから」
「何だと?リュカはわたしの息子だ。わたしを差し置くとはけしからん!」
は?
何を言い出すかと思えば。アンドレはかっくりとうなだれた。大方、リュカの父親探しが残念な結果に終わったので、うっぷんを晴らしたいんだろう。まあ、いっか。八つ当たりで気が済むなら、存分にやってくれ。アンドレは扉をゆっくり閉めながら捨て台詞を吐いた。
「御意。じゃあ明日な、パパ」
「頼んだぞ、ママン」
「?!」
扉がパタン、と軽やかな音を立てて閉まると同時にトレイが床に落ちグラスが割れる音、アンドレの悲鳴が上がった。扉を挟んだ向こうでは、オスカルの高笑いが響く。
「わたしの気に入りのベネチアングラスだ!給与からさっ引いておけとデュポールに言っておこう!」
「減給より、怖いのはおばあちゃんだよ…」
床にしゃがみ込み、グラスの破片を拾い集めながらアンドレは独りごちた。
『本日二度目の全言撤回…。八つ当たりはお手柔らかに頼むよ』
****************
さて、収まらないのはオスカルだけではなく、アマゾネス熟女軍団である。こうなったら父親がどちらかなんぞ関係ない。どちらもカトリーヌを玩び無残に捨てた男だ。かわいいリュカを孤児にして顧みない男だ。マルゴは一心に包丁を研ぎ、マロンは無言で大釜を磨いた。
「むかっ腹が収まらない時はね、単純な反復仕事に集中するのが心を静めるのにいいんだよ」
どーうだか。皮をひん剥いて唐辛子をすり込んで地獄の釜でゆでる準備だろ。孫息子は余計な火の粉を避けるべく、リュカを抱き、自他称父親であるオスカルの部屋へ向かった。リュカとジュリの今後を詰めるためである。
時は11月30日、アドヴェント期間の最初の日曜日。宮殿の王室礼拝堂では、厳かにミサが行われ、オスカルも参列して帰宅したところだ。警備責任者はダグー大佐が引き受けてくれた。来週はオスカルが担当する。
すっかり体が冷え切ったであろうオスカルのために用意したのは、シナモンとオレンジ、グローブを効かせたヴァン・ショーだ。ノエルらしいスパイスの香りが、瑞々しい緑のガーランドとクレーシュで演出されたオスカルの居間を、より一層ノエルらしく彩ることを狙って。
入室を許可されたアンドレは、務めて明るくオスカルに声をかけた。地獄の釜ゆでよりも、リュカのために最善策を考えてやろう。その方が建設的だし、暗い気分が何かの役に立つわけはない。
「やあ、パパ。リュカが来たよ」
やあ、ママン、遅かったな。くらい言うかと思いきや、アンドレはぎょっとして立ちすくんだ。オスカルは、テーブルの上に自身がコレクションしている銃器をずらりと並べ、手入れに熱中している。勘弁してくれ、おまえもか。アンドレは両手が塞がっている関係上、心の中で十字を切った。
片目をすがめて、クリーニングロッドに取り付けたブラシを銃口から挿入していたオスカルがアンドレをちらりと横目で見やり、鼻をひくつかせた。こどもか、おまえ。アンドレは腹の中で苦笑する。
「うん、良い香りだ」
ああ、漂う銃油の匂いのせいで台無しだけどな。テーブルが塞がっているので、アンドレはオスカルの肘掛け椅子の脇に小卓を移動させ、飲み物を並べた。リュカが腕の中で愛らしく伸びをした。
「考えたんだが」
フリントロックの火打ち石の点検を始めたオスカルが、作業の手を止めずにいきなり本題に入る。
「ジャックかポール、どちらが父親かわからないにせよ、一度はチャンスを与えるべきだと思う。リュカには父親の庇護を得る権利があるしな。いくら無責任な父でも、わたし達が勝手にそれを奪うべきではない」
オスカルは火打石を抜いたばかりの短銃を鏡に向け、引き金を引いた。カチリ。
「奴らはいまいましいが、それはわたしの勝手な感情だしな」
標的になったのは、鏡に映っているアンドレだ。言っていることと、やっていることが乖離していないか、オスカル。的を間違えないでくれ。アンドレは鏡の中からオスカルに向かって片掌を上げた。リュカは武器ではないので、抱いたままで。
「おまえならどうする?」
「え?おれ?」
オスカルは、今度はシャルルヴィル・マスケット銃を取り上げ、機敏に180°向きを変えると、直接アンドレの眉間に狙いを定める。
「女が子を残して死んだ。子どもはおまえの子かも知れないし、別の男の子かも知れない。おまえは子の父として引き取るか?」
何てことを。おまえがそれをおれに聞くのか。アンドレは呆然と立ち尽くした。オスカルはただ『女』と言っただけだが、アンドレにとって『女』はオスカル以外に存在しない。
ゆえに、それは想定できる域を超えた仮定だ。なのに、かつての求婚者と北欧の貴公子の姿が浮かんで息ができなくなった。
息継ぎを求め、腕の中の温かいものに目をやると、赤ん坊はふくふくした五本の指を頬のあたりで不器用に曲げ伸ばししながら、口をもぐもぐと動かしている。もし、この子がオスカルが残した子だったら…。アンドレはふと自問したと同時に結論を出している自分に驚いていた。
オスカルが残した子を、愛さずにいられる訳がない。父親がはっきりしなくても、灼熱の嫉妬に焼かれようとも、もしその子に必要とされたなら、いや、されなくても。
「ふふ、何を鯱張っている。そんなに真剣に考えなくともよい。自分の子である可能性がある子どもの存在を知ったジャックとポールのどちらかが、自分の子として慈しむと覚悟を決めたなら、それがリュカの父親だ。それでいいだろう?世の中には…」
アンドレの眉間に銃口を向けたまま、オスカルはゆっくり引き金に指をかけた。
「子への愛が、嫉妬を凌駕する器を持つ男もいるだろうからな。例えば…」
カチリ。引き金が引かれ、アンドレはオスカルの視線に打ち抜かれたようにめまいを覚えた。
「ポールとジャックのうちどちらかがそれほど深い愛を見せるなら、リュカを渡してもいい。どちらの男も背を向けるなら…」
オスカルは俊敏に体の向きを窓に向け、マスケット銃を構えるともう一度引き金を引いた。カチリ。
「リュカはわたしのものだ。父親候補の三番手だしな。わたしが養育環境を整える。もちろん、ジュリの意向に沿った形でだ」
オスカルはアンドレを横目ににやりと笑った。ほ、本当にそれだけで済むのか?銃口はサン・ルイ地区のダンジュー通り方面を向いているじゃないか。アンドレは生唾を飲み込んだ。
「異論は?ん?」
「ヴァン・ショーが冷める」
獲物に狙いをつけた時の鋭い光がオスカルの瞳から消え、眉がひょいと上がったと思うと、オスカルは銃を投げ出し、腹を抱えて笑い出した。
「やっぱりおまえはママン、だ!」
オスカルは笑いながらアンドレの肩に手をかけ体重を預けて来た。リュカがくぐもった鼻声を鳴らし、アンドレの肩越しにのぞき込んだオスカルの方へ顔を向けふにゃりと口元をゆがめた。
おまえは今、おれの心臓を360度ひっくり返すほどかき回したのを知らないだろ。まあ、いいけどね。この恋心に平安が訪れる日なんてはなから諦め済みだ。アンドレは肩にかかるオスカルの重みと体温を慈しむ時間を数秒だけ自分に許すことにした。
リュカがいる時だけ、自然な幼馴染みの距離が戻ってくる。かつては、陽光のようにふんだんに与えられていたことがアンドレには奇跡にも思える。今は、砂漠に降る一時の慈雨となってアンドレの命を繋ぐ大切な瞬間。
耳元で弾けるオスカルの笑い声とふわりと掠める黄金の房の感触、愛おしいぬくもりをアンドレは押し頂くように心の奥に収めると、幼馴染みから身を離した。体の一部を刃物で剥ぐような痛みとともに。
「ほら、座れ」
着座を促されたオスカルは素直にアンドレの肩から身を離したが、彼女の視線が不服そうにアンドレに向かって上向いた瞬間、ふわりとアンドレの全身が名残惜しさに包まれた。しかも、それが自分だけのものでは無く彼女とも共有している感覚のように思えて、アンドレは慌てて振り切った。
意識の一部が繋がっているように、呼吸と感覚を自然とシンクロさせているのが当たり前だった時代は確かにあった。しかし、もう過去のことだ。
「さあ、リュカ、パパのところへ行け」
少しばかり恨みがましさが混じるオスカルの上目遣いをさっくり無視し、アンドレはリュカのふっくらとした頬にビズを落としてから、自称パパ候補の膝に乗せた。
「ほら、パパの方が柔らかくて具合が良いぞ?ママンは飲み物の準備をしないとね」
一瞬生まれた濃密な空気は、きっと気のせいだと言い聞かせるように、アンドレはしなを作ってさえ見せた。パパ役もママン役にも深い意味は無いジョークだよ、と。オスカルがくっくっとくちびるを引き結んだまま笑ったが、アンドレには泣いているように見えた。
「ふっ、パン種のように毎日おおきくなるな」
すっかりリュカ抱く手が慣れたオスカルは、赤ん坊に額を寄せるように俯き、小さな手で頬を叩かれクスクスと肩を振るわせ笑っている。
「ほら、こんなこともあろうかと熱めにしてきて良かったよ。ちょうど飲み頃だ」
ヴァン・ショーを注いだグラスを盆に乗せて差し出す。赤ん坊を膝に乗せたオスカルが、受け取りやすいタイミングで受け取れるように。いや、下手に手渡してうっかり指が触れ合わないように。シナモンがふわりと香る。
「この香りをかぐと、待降節が始まった感じがするな」
目を閉じて香りを楽しみながら、オスカルが何かを懐かしむようにグラスにくちびるをつける。応えるように、きゅるきゅる、とかわいらしい喃語をリュカがたてた。
「そうだな。一年なんてあっという間だ」
「ふふ、おまえは年よりくさいことを言う」
1年を締めくくる待降節が始まると、ふたりは夕べのひと時に一年を振り返り、来年への抱負やら希望を語り合って過ごすのが常だった。
毎年欠かさず続いたその習慣は、ふたりで一緒に振り返るには傷の深すぎる出来事が続いた去年を境に途絶えている。どんな試練もふたりで手を取り合えば乗り越えられるという神話が崩れる日が来るなどと、誰が予想できただろう。
「おまえも付き合え」
オスカルがアンドレにグラスを上げて見せた。降誕祭第一主日の灯の下で、杯を共にできるなど思ってもいなかったアンドレは、当然自分の杯を用意していない。
アンドレは、肩をすくめて居間のキャビネットに常備してあるオスカルのブランデー用のグラスを取り出した。オスカルが手にしている分厚いヴァン・ショー用グラスよりもはるかに上等な、これもヴェネチアグラスである。
主人のグラスを使うなど使用人あるまじきふるまいを簡単にやってしまうあたり、幼馴染の領分が、まだ少々は生き残っているんだな、と少々センチメンタルな気分になる。オスカルはそこには頓着せず、何だそんな小さいやつで、とグラスのサイズにケチをつけた。構わず飲み物を注ぎ、アンドレはグラスを上げた。
「おまえのフランス衛兵隊ヴェルサイユ部隊長就任に乾杯」
オスカルは目を丸くした。数才幼く見えるような、飾らぬ素の表情で。ああ、まだそんな風に心を開いてくれるのか。アンドレは知らず口元をほころばせた。
「去年だぞ」
「うん、でもまだ言っていなかった」
「聞いたか、リュカ。おまえのママンのとぼけようを」
オスカルはリュカに振った。アンドレはグラスを近づける。
「乾杯しないのか?」
「え?ああ、ほら、乾杯」
チン、と透き通ったガラス音がアンドレの持つグラスから響いた。余韻が消える前にアンドレはオスカルに音頭を催促した。
「おまえの番だ」
「わ、わたし?」
「そういう決まりだろ?」
一昨年まではそうだった。交代でその年の出来事を振り返り、ふたりで祝福する。良いことにも悪いことにも乾杯し、前に進むのだ。
「黒い騎士を取り逃がしたことに乾杯」
「あはは、そうだな。でも正体を暴いたぞ、乾杯」
チン。
「ロザリーの嫁入りに乾杯」
「くそ、あいつは本当の盗人だった」
チン。
「アランに勝ったことに乾杯」
「ああ、あれは際どかったな」
チン。
グラス音の響きが消えた。立ったまま乾杯を重ねていたアンドレにオスカルが無言で近くに寄れ、と圧をかけた。アンドレは、オットマンをオスカルの椅子近くに引き寄せ、腰を下ろす。もう少し近く。リュカを抱いたオスカルが瞬き一つで要求する。
互いに手が触れられる距離にオットマンを近づけると、オスカルの指がアンドレの左側の前髪をそっと上げた。閉じたままの左の瞼に、ちり、とアンドレは視線を感じる。うん、わかった、そういうことなら、とオスカルの乾杯のお題が言葉になる前にアンドレが引き取った。
「おまえじゃなくて、良かった。本当におれはそのことが嬉しい。乾杯」
チーン。
オスカルが返す強めのシャンティで、いくつもの複雑にせめぎ合う彼女の思いが伝わって来る。前に進む糧として昇華させるための乾杯だから、良いことも悪いことも主題になる。ならば、自分の犯した暗い罪もその中に含まれるのだろうか。
到底そうは思えなかったが、アンドレは少し冷めたヴァン・ショーを注ぎ足し、恐る恐るそれを口に出した。
「ごめんでは済まない過ちに…」
「どれのことだ?互いにあり過ぎて特定できん」
「オスカル…」
「それでも、今もここで一緒にいられることに、乾杯」
チン。
ふたりはしばらくグラスを合わせたまま、見つめ合った。オスカルのくちびるは柔らかく微笑み、微かにメルシと動いたように見えた。アンドレは言葉を失ったようにグラスを持つ手を膝に置いた。こみ上げる温かい感動に満たされて身動きができなくなったのだ。
俯くアンドレの表情の左側を髪が隠し、何かがきらりと光って落ちた。オスカルは気づかないふりをして、ピッチャーに手を伸ばす。
「どうした、ネタ切れか?まだ、去年の分しか終わっていないぞ。今年の棚卸はこれからだ、アンドレ。リュカがぐずり出す前に終わらせるぞ」
慌てたアンドレはオスカルの腕を制し、ピッチャーを奪取した。オスカルの膝にはリュカがいる。慣れないことをして欲しくない。慣れた手で杯を満たしてもらったオスカルがグラスを上げた。
「質入れされた支給品の剣が戻ったことに乾杯」
「ああ、ブイエ将軍にばれたら大事だった、乾杯」
チン。
「それがきっかけで、衛兵隊を辞めずに済んだことに乾杯」
「あー、良かったな。お前の努力が実を結んだんだよ、良くやった。お疲れさん」
チン。
「舞踏会の大成功に、乾杯」
「大成功?」
「父上は懲りたぞ。成功だ」
「そりゃ、懲りるよ…」
しぶしぶ…チン。
「パリでは九死に一生を得たな」
「生還を祝して、乾杯」
「命がけで得た教訓に…あああ、おれ護衛失格」
「いいから、ほら、乾杯」
チ…ン!
ふたりは、しばし黙ってグラス音が残した余韻の行方を追った。薪の爆ぜる音と、機嫌の良いリュカが喉の奥で鳴らす鳩が鳴くような音に耳を傾ける。この子のおかげで触れるほど近くいられることに、杯を鳴らしたい。ふたりは、無言のまま同時にグラスを上げ、目を見合わせてからくすりと笑った。
チン。
「今のは?」
「さあね」
互いが考えていることや、感じていることが手に取るようにわかる心の同期を、当たり前のように享受できていた関係性は自分の過ちが壊してしまったとアンドレは思っていたが。何度振り切っても戻ってくるこの感覚は、思い過ごしではないのかも知れない。
オスカル、おれたちは今同じ思いを共有していないか?アンドレは、揺れる炎を映すオスカルの瞳をまっすぐに見つめた。
「許されるべきではない過ちを犯したおれを、変わらず側においてくれるおまえに」
アンドレはオスカルに向けてグラスを掲げた。あの過ちに、オスカルが気づいていないはずはない。それなのに、こうして前と変わらぬ距離で酒を酌み交わせるとは。その希有な幸福に、果たして自分は値する人間だろうかと、畏れすら感じる。
『だけど、どうしてもおまえもおれと同じ思いを抱いている気がするのだが、それは思い込みか?』
アンドレの無言の問いに答えるかのように、オスカルも杯を上げた。
「おまえの言う過ちは、果たしておまえのものか、わたしのものか。区別などつかないほど側近くいてくれるおまえに」
チ…ン!
透き通ったシャンティ音が、見えない波紋を広げながら、部屋を満たして消えてゆく。しかし、ふたりを同時に満たした温かいものは、消えずに留まるだろう。ヴァン・ショーはすっかり冷めていたが、ふたりは視線を合わせたまま同時に飲み干した。相方の姿は滲んで見えた。
「おまえがそばにいてくれるから、わたしは自由に動くことができる。わたし一人では何もできない、と前に言ったが」
「覚えているよ。嬉しかった」
「そうではないのだ。いや、それはその通りだが…おっっと!」
今では片腕でもリュカを抱いていられるオスカルだが、突然大きく伸びをした柔らかな赤ん坊の動きは察知できず、重い頭が腕からずり落ちそうになった。持っていたグラスを放り出してオスカルは両腕で子を抱え込み、同時にオスカルごとアンドレが抱きかかえ。
くにゃりとつかみ所のない上に重心が頭に偏る赤ん坊は、ふたりの腕と胸の防壁内から飛び出さずに守られた。目を見合わせてから、ほっと息をつき、ふんかふんかと鼻を鳴らし始めた赤ん坊を慌ててのぞき込む。
その様子を見ている者があったなら、ふたりの動きが寸分違わぬ正確さでシンクロしていることに、驚きの目を見張ったに違いない。一つだけ違ったのは、アンドレの方はグラスも死守していたのだが、些末なことだ。
「あ、泣くぞ、泣くぞアンドレ」
「こっちにかせ、オスカル」
泣く子をあやすには、パパよりもママンの出番だなどと考える間もなく役割を交代し、ひとつの影はふたつに分かたれた。久しぶりに胸いっぱい吸い込んだ懐かしい香りとぬくもりを惜しむ間もなく、火がついたように赤ん坊の泣き声が響き渡る。
ああ、いい子だ、よしよしと赤ん坊の尻を優しく叩きながら、ゆっくりしたリズムで前後左右に重心を移動させているアンドレを、さすがはジャルジェ家乳母の直系だけのことはあると微苦笑しながら、オスカルは一瞬与えられた懐かしい大きな腕と胸の感触を愛おしんだ。
胸が締め付けられる。懐かしいだけでは済まされない切なさに、堪えていた涙が頬を伝って落ちた。言いそびれた一言を、赤ん坊をあやすアンドレの背中にそっと囁いた。
『おまえがいないと、淋しくて死んでしまう』
帯剣貴族ジャルジェ家の次期当主が女であることを誰にも指差し出来ぬよう、積み上げた全ての実績の影にはアンドレがいた。彼の補佐なく、女性の将校に吹く逆風に毅然と立ち向かうことはできなかったと思う。
全て自分の功績と思い込んでいた若く愚かな時代を過ぎた今、いずれ地位や資産の形で彼に報いたいくらい感謝している。しかし、あの時に言いたかったのはそのような意味ではない。
彼なしで生きてはゆけない。
ようやく言えそうだったのに、言いそびれてしまった。オスカルは、こっそりと頬を手の甲で拭った。
リュカは、巧みなあやし手の腕で何度か泣き止みそうになったが、じきに足をばたつかせては全力で盛り返した。アンドレは、ついにお手上げサインをオスカルに送って寄越した。
「これは、腹ぺこだな。一旦乳母に戻して来るよ」
いまだ首の据わらぬ乳児の縦抱きを難なくやってのけるアンドレであっても、腹ぺこには対処できない。ギャン泣き中のリュカを抱えたアンドレは、グラス類の片付けはあとで人をよこすから、とオスカルの部屋を急ぎ出ようとしたが、ふと思いついたように引き返し、オスカルの座る肘掛け椅子の前で片膝をついた。
「キスしてもいいかな?」
間断なく張り上がる乳児の泣き声の合間に、確かにそう聞こえた。え?と訝しがる隙を与えられる間もなく、耳を劈くような泣き声が至近になったと思った瞬間、頬に温かなビズが落とされた。
片側の頬に一度だけの瞬間ビズ。形だけのハグすらなしの。しかし、すっと離れたアンドレを見上げて見れば。たかがビズごときにいちいち断りを入れるような間柄ではなかったはず、と憂えるのが馬鹿馬鹿しくなるほど嬉しそうなアンドレの笑顔があった。
「あれ?ほっぺたが濡れてた。おれと同じ理由かな?」
オスカルは、黙って三度頷いた。
言いそびれてしまった一言は、どうやら言わなくても伝わったようだった。
★ よい子のみなさんは、たとえ銃弾が装填されていなくても、人に銃をむけて引き金を引かないで下さいね ★
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COMMENT
お待ちしてましたあ!
オスカルさまの子だったら…
もちろん育てるでしょう、アンドレは(^.^)
オスカルさま、つくづく罪な女です。
深い深い愛を抱えた男に…聞いちゃうんだなあ~脳裏にちらつく2人の男の影がまた(^^;
もうこのもだもだがたまりませんが、
会話全てにロマンチックラブがほの見えます。
パパとママン、もうどちらがどちらの役割でもサイコーですね。
『おまえがいないと、淋しくて死んでしまう』彼女の思いがステキすぎます。
愛しているといえるまであと少しなのでしょうか?
天使のもたらした彼らの幸せな時間。
読んでいて幸せな気分になりました。
ありがとうございます。
オスカルさまの子だったら…
もちろん育てるでしょう、アンドレは(^.^)
オスカルさま、つくづく罪な女です。
深い深い愛を抱えた男に…聞いちゃうんだなあ~脳裏にちらつく2人の男の影がまた(^^;
もうこのもだもだがたまりませんが、
会話全てにロマンチックラブがほの見えます。
パパとママン、もうどちらがどちらの役割でもサイコーですね。
『おまえがいないと、淋しくて死んでしまう』彼女の思いがステキすぎます。
愛しているといえるまであと少しなのでしょうか?
天使のもたらした彼らの幸せな時間。
読んでいて幸せな気分になりました。
ありがとうございます。
待っていて下さってありがとうございます!
オスカルさまって、愛は一杯持っているけれど、無自覚な罪作りますよね。A氏にはそこも魅力の一つなんでしょう。本人は、A氏に「おまえは大きな愛の器を持つ男だ」と言いたいだけなんですけど。極限状態にならないと、ストレートな物言いしませんから。
見え隠れするロマンチックラブ要素、感じて下さって嬉しいです。わからない、から愛しているまで道のりは長いです。ロマンチックラブではない方のラブも深いだけに、もだもだする二人です。
オスカルさまって、愛は一杯持っているけれど、無自覚な罪作りますよね。A氏にはそこも魅力の一つなんでしょう。本人は、A氏に「おまえは大きな愛の器を持つ男だ」と言いたいだけなんですけど。極限状態にならないと、ストレートな物言いしませんから。
見え隠れするロマンチックラブ要素、感じて下さって嬉しいです。わからない、から愛しているまで道のりは長いです。ロマンチックラブではない方のラブも深いだけに、もだもだする二人です。
天使の寄り道9拝読しました。
アンドレのママン姿が妙に板についてそうで 想像するに難くないのが何とも(笑)
オスカル様ぁ それ聞いちゃダメですって💦
挙句二人ともお互いが必要で離れられないのですもん。答えは既にあるのに伝えられないモダモダがじれったいですねぇ。時代背景?そんなのお得意の大暴れでぶっ壊しておしまいになって!(その癖不器用で少女の所があるからもう~!✨となります)
次のお話が楽しみです。とはいえお忙しい時期ですのでご無理はなさらずご自愛の上 お過ごしくださいね。
アンドレのママン姿が妙に板についてそうで 想像するに難くないのが何とも(笑)
オスカル様ぁ それ聞いちゃダメですって💦
挙句二人ともお互いが必要で離れられないのですもん。答えは既にあるのに伝えられないモダモダがじれったいですねぇ。時代背景?そんなのお得意の大暴れでぶっ壊しておしまいになって!(その癖不器用で少女の所があるからもう~!✨となります)
次のお話が楽しみです。とはいえお忙しい時期ですのでご無理はなさらずご自愛の上 お過ごしくださいね。
瀬津瑜さま
この忙しい時期にお寄り下さってありがとうございます!
アンドレの子守り姿、自然に想像できちゃいますよね。
そう、すでにある答えを答え合わせできないのは、時代背景の重さは無視できないですよね。私的には、それ以上にロマンティックラブではない方のラブがディ―プなせいで、もだもだが続いちゃうんだろうと思っています。
瀬津瑜さまも、無理なくお付合い下さいね。
この忙しい時期にお寄り下さってありがとうございます!
アンドレの子守り姿、自然に想像できちゃいますよね。
そう、すでにある答えを答え合わせできないのは、時代背景の重さは無視できないですよね。私的には、それ以上にロマンティックラブではない方のラブがディ―プなせいで、もだもだが続いちゃうんだろうと思っています。
瀬津瑜さまも、無理なくお付合い下さいね。
COMMENT EDIT FORM