誰も、一言も返さなかった。アンドレですら、オスカルの意図を計りかねた。オスカルの低い声は、有無を言わさぬひとつの信念そのものだった。
オスカルは、しばらく兵士の反応を待ったが誰も反応する様子はない。誰にも解いてもらえない謎かけを出し続けたスフィンクスのように、オスカルは静まり返った兵士達を端から端まで一人残らず見渡したが、勇気あるオイディプスの登場は望み薄のようだ。
オスカルは馬鹿馬鹿しくてやっていられんと言わんばかりに小さく肩をすくめて見せると、煩そうに豊かな髪をばさっと後ろに払った。
「大体、女がただ漫然と男に幸せにしてもらうのを待っているとでも思うのか?人生の一大事をなぜ誰かに丸投げせねばならんのだ」
兵士らに騒めきが戻った。オスカルは一瞬ちらりとアンドレを視界の端に捉えてから、やや語勢を柔らかく落としてフランソワ一人に語りかけた。
「フランソワ」
「は、はい」
今、目が覚めたかのようにフランソワは姿勢を伸ばして返答する。
「おまえは、ヴィルナを愛している、そうだな?それはどれほどの深い思いなのだ?」
フランソワは、思わずたじろぎ一歩下がった。大勢の兵士の目前で愛の深さを答えねばならないのか。先ほどから横暴なことばかり要求する隊長を、フランソワは、きっと唇を噛みしめ見返した。そして、意外なものを見た。
オスカルの碧い瞳が潤んでいる?フランソワは目を瞬き、もう一度見直したが間違いない。オスカルだけが存在するするスペースに知らず引き込まれ、フランソワの世界から野次馬が消えた。
「始めは…誰にも、触らせたくない、どこにもやりたくない、と思っていました。でも今は、彼女がおれのものになるとかならないとか関係なく・・・何が彼女に起きても、好きです。だから、苦しめたくない。好きでも黙って見送ってやりたいです」
オスカルはさらに畳みかけるように問う。
「真に心の底からそう思っているか?見返りなくとも彼女の幸せを願っているか?」
「はい」
これから何が始まるのか、戸惑いを隠しきれないフランソワだが、このオスカルの問いには迷いなく即答した。オスカルも深く頷き、フランソワの思いをしっかりと受け止める。真剣な表情がほころんだ。
「いいか、おまえが心から彼女を愛しているのなら、それが魂からのまことなら、彼女にはそれを知る権利がある。それは彼女の掛け替えのない財産だからだ。誰もそれを彼女から奪ってはならない。たとえおまえであっても」
わかったような、わからないような面持で、幼さの残る頬を薄く染めたフランソワはオスカルの言葉と眼差しに捕らわれた。他の兵士も微動だにせずオスカルの次の言葉を待っている。
アンドレだけが表向きは無表情ながら、心の奥深いところで小魚が水面で跳ねたように響くものがあった。彼から広がる水紋のような感情の波がオスカルの心臓にも届き、鼓動がすこし早くなった。熱い想いがあふれ出す。
「まことの愛がどれほど人に力を与えるか、考えてみるがいい。たとえ傍にいなくても、世界のどこかで確実に自分を深く愛してくれている人間がいるという事実は、力にはならないか?人生の試練に立ち向かう支えにはならないか?
ヴィルナの原動力は間違いなく家族の存在だろう。だが、誰に嫁ごうと、どうあろうと、ありのままの彼女を変わらず愛するおまえの存在がなぜ彼女を苦しめるなどと思うのだ」
フランソワはオスカルの一言一言を逃すまいと聞き入っていた。知らず知らずのうちに両拳を強く握っている。オスカルに対して抱いていた怒りは、いつの間にか熱い他の何かに形を変えて体中のあちこちからふつふつと力が湧き出している。
「いいか、女を自分の手で幸せにできるなどと思い上がるな。愛を受け入れるか、愛を糧に幸せを選ぶか、生きる力とするか、利用して切り捨てるか、重荷と捉え遺棄するか、選択肢は受け取る側にある。男でも、女でも、愛はただ与えることが全てだ」
朝の兵舎前。馬繋場に集まった非番の兵士たちは静まり返ったままだ。アンドレが繋いだ二頭の馬が鼻を鳴らし、蹄で地面を蹴る音が時折響く。寝起きで薄着の兵士らは寒さに震えながらも誰一人立ち去ろうとせず、オスカルから目を離せない。
「フランソワ、ヴィルナがおまえに愛を返すか返さぬか、それは彼女が決めることだ。彼女がどちらを選ぶにせよ、あの娘はおまえの愛を大切な宝として心に抱き、生きる力に変えることのできる強い人間ではないのか?それなのにおまえは、おまえだけが持つ一番尊く美しいものを彼女に与えぬまま、厳しい修道院へ黙って見送るのか?」
一番美しく尊いものを自分は持っている、と隊長が言ってくれている。自分は何もできない、何も持たない無力な男ではないと。一粒の涙が頬を熱く焼いてから落ちた。本当に自分もそう思っていいのだろうか。フランソワはおずおずとオスカルに問い返した。
「隊長…。おれは…ヴィルナに何もしてやれないから、だから黙って行かせてやらないと…って…」
「何かをして欲しい、と求められたか?そんなやわな娘ではないだろう?」
その通りだった。自分で考え、自分で決め、自分から立ち上がる彼女だから、だから余計に。
「ヴィルナの家族ごと面倒見てやれないなら、…好きなだけじゃ何の意味もないって思っていました…」
でも、そうではなかった?少なくても隊長はそう言っている。いや、むしろ、『好き』が一番重要であり力の源になる、と。それは美しく尊いと。体中が燃えたぎるように熱くなる。
「おまえの無償の愛が無意味だなどと言った奴がいるのか?わたしの目の前にそいつを連れて来い。二度と朝日が拝めないようにしてやる」
そう憤りながらも挑戦的な笑み浮かべる自信たっぷりのオスカルがフランソワの心を揺さぶった。ああ、隊長は本気でそう信じてくれているんだ。だったら、おれも自分を信じられるかも知れない。
今や、体中に漲るこの熱いもの。これがおれが持っている力なんだ。おれは無力なんかじゃないんだ!次から次へと頬に涙筋をつける熱い涙がフランソワの顎からしずくになって地面に吸い込まれていった。
『陽気で気安い幼馴染のまま、気持ちの上で支えてやれ。それがおまえが彼女にできる最良だ』
『さもなくば、彼女の身に何が起きようと変わらず愛し抜く覚悟ができるなら、気持ちを伝えればいい。ありのままの彼女を受け入れられる男になってから彼女の前に立て』
アンドレもそう言った。彼の言葉をフランソワは今ようやく理解したような気がした。こういう意味だったんだ。今のおれは、ヴィルナの前に立ってもいいんだ。いや、立たなきゃいけない。
しん、と静まり返った兵士の中から、あちらこちらで身じろぎするざわめきが起こった。誰かがフランソワの名をおそるおそる呼ぶ。違う誰かも彼の名を口にする。ざわめきは次第に大きくなり、ついに一人の兵士がはっきりと叫んだ。
「フランソワ、行けよ」
ラサールだった。それが呼び水となり次々と兵士が劇を飛ばし始めた。
「行け、フランソワ!」
「そうだ!行って来い。行ってちゃんと告白して来るんだ!」
兵舎前には次々と寝ぼけ眼の兵士の数が増え、騒然となった。そんな中でフランソワは今や兵士たちにもみくちゃにされ、激励され、頭を乱暴に叩かれている。騒ぎから少し離れた場所で、ただ一人呆然と立ち尽くすアンドレの奥耳にオスカルの言葉が繰り返し響く。
『それがまことの愛ならば、彼女の掛け替えのない財産になる。彼女が愛を返すかどうかなど関係なく』
「隊長、行きます!おれ行って来ます!」
半ば兵士らに運ばれるようにしてオスカルの前に進み出たフランソワが宣言した。涙の乾かぬ頬は高揚し、握りしめた両拳は震えているが断固とした意思が見える。
「よし、行って来い」
応えるオスカルも大きく頷き、兵士らが大きく歓声を上げた。
「アンドレ!」
オスカルに大声で呼ばれ、アンドレの内に向かっていた意識は急激に現実に引き戻された。
「準備を手伝ってやれ」
オスカルが自分の愛馬に首をしゃくる。白馬は兵士の歓声にやや神経質になって何度も首を大きく振っている。
何か自分にとって、とてつもなく重要なことを言っていたオスカル。それが腹に落ちるまであともう少しのところだったアンドレは、はっと我に返った。何だ、何が起きている?おれは何をしていた?大急ぎで頭の中を再編成する。朝の兵舎前、午後の予定、オスカルの暴走、フランソワの涙、二頭の馬。そうだ、馬!
「オスカル、フランソワにおまえの馬は無理だ。おれが乗って来たデュランダルなら性質が穏やかだから、こっちにしよう」
アンドレは冷静を装い提案した。未だにオスカルの意味深な言葉が心臓の鼓動を追い立てて止まない。
「いや、わたしのエル・ドールだ」
そう言い張るオスカルも心持ち頬が染まっているような気がして、アンドレの胸はまた早くなる。
「フランソワのもう一つの望みを忘れたか?彼は美しい記憶を彼女に残したいのだ。昔から王子さまは白馬に跨って登場すると相場が決まっているだろう?愛の告白は白馬の上から鮮烈にするんだ。いいな、フランソワ」
「は、はいっ!」
フランソワは直立不動で返答し、アンドレは増々混乱した。無茶な要求をアンドレに突き付けてからぷいっと横を向いてしまったオスカルの目の下はやはり薔薇色に染まっている。
「王子様…ね…」
今日は朝から思いがけないセリフを100年分は聞いた気がするアンドレだった。
🐎 ♥ 🐎 ♥ 🐎 ♥
「いいか、エル・ドールは恐ろしく気位が高い。怖がっているところを気取られるな。騎手が怖気づいていると、こいつは騎手を信用できずに振り落とすぞ。仕込みは万全だから、確信を持って御すればちゃんと従うはずだ」
「う…うん、頑張るよ」
「重心はいつもより前に置くようにしろ、いいな」
「わかった。気位が高いから隊長の馬なんだね」
「しっ!聞こえるぞ。実はその通りだ」
勿論地獄耳の隊長様にはちゃんと聞こえていたが、黙って腕を組み、少し離れたところから自分の愛馬にフランソワが跨る様子をじっと見つめている。
怖がるなと言われたそばからがちがちに緊張したフランソワが、大きく鞍を跨いだ勢いが余り、反対側から落ちてしまった。アンドレが急いでフランソワの落ちた側に回る。
「う~っ、いってて」
「おい、大丈夫か。やっぱり馬を変えたほうが」
地面に仰向けになって腰をさするフランソワと助け起こしに駆け寄ったアンドレにオスカルが歩み寄る。二人を照らした朝日がふわりとしたものに遮られれた。
「た…隊長…」
オスカルの表情は逆光で良く見えなかったが、豪華にゆれる金色の髪が朝日に透けて眩しかった。
「ふふん、見ろ。落馬も恋も落ちるものだ。逆立ちしたって途中では止められまい。腹を括ってがっつり決めて来い」
「はい!」
よく見えなかったが、どうやらフランソワは隊長のウィンクをもらったようだ。心臓はもうビリヤード台の上ではじけ飛ぶ玉より激しくもんどり打っている。
「おっと、尻についた泥ははたいて行けよ」
「はいっ!」
再び力強く隊長に背中を押され、今度こそフランソワは白馬に跨り、彼の尻の泥をはたいてやったアンドレは巻き上がった埃に咳き込みながらオスカルを見たが、やはり隊長殿はアンドレからついと目を逸らす。
何だか可愛いな、の一言をアンドレは胸の内だけでつぶやき、ついついきゅんきゅんと甘くよじれる心臓には『あまり勘違いしないように』と牽制した。
馬が興奮するから静かにしていろ、とお達しを受けた野次馬兵士が一応は静かに見守る中、足慣らしに兵営を一回りしたフランソワにアンドレは門の閂を開けてやった。今のところ、エル・ドールは大人しくフランソワの指示に従っている。
「サン・ジェルマンへは王宮沿いに真っすぐ北上するルートが最短距離だ。慎重に馬を走らせても30分はかからないから、確実におまえの方が早く目的地に着く。だから、慌てず修道院へ向かい、修道院からパリへ向かってヴィルナの進行方向とは逆に走れ。サン・ジェルマンからパリへは何本か街道が走っているが、馬車が安全に通れる道はひとつだ。大丈夫、必ず会える」
アンドレは、フランソワに道順を再確認した。
「う、うん。修道院からは東へ向かうんだね」
「そうだ。だが、自信がなかったら修道院近くで待ってもいい。その場の状況で判断しろ。とにかく、ヴィルナを乗せた馬車が修道院の門を潜ってしまったら最後、会えなくなるからな。急げ、フランソワ」
「うん、ありがとう。行ってくる!」
フランソワは馬の腹に拍車を入れた。見送りの兵士の一番前にオスカルがいる。振り返ると、大きく頷いて身振りで『行け!』と後押ししてくれた。フランソワは目的以外のことは何も考えないように集中した。
心臓はどくどくと最高速度で高鳴り、身体は燃えるように熱いが、身体の外側のどこか一点から静かにそんな自分を信頼して見つめる別の自分がいるように感じられる。
隊長の白馬は、練習用に乗っていた老馬より一回り大きく、美しい白い毛並みの下にみっしりと分厚い筋肉が透けて見える。パワーも格段に強そうだ。
この馬に騎手の指示に従っていれば安全だと信頼してもらわなければならない。自信がないとか、技術が未熟だなどと考えている余地はないし、意味もない。馬はフランソワの指示通り、並足になった。
よし、行くぞ。必ず追いついて見せる。フランソワがもう一度馬に拍車をかけると、気位が高いと言われた白馬はぐんと速度を上げ、初心な騎手を驚かせた。何て加速パワーだ!馬によってこんなに違うなんて!打てば響くように指示に従う反応の迅速さも格段に違う。アンドレによく言われた言葉が思い出される。
『おまえ、そんなにおどおど手綱を引いているとな、ちょっと走って見るのはどうでしょうか?そろそろ止まってくださいませんか?ってお伺いを立てられているみたいで馬が不安がるぞ。こいつの言うこと聞いていて大丈夫なんだろうかってさ』
こういうことか!心持が違うだけで、馬はこんなに騎手の意図に即応してくれるんだ。なんて気持ちがいいんだろう。わかったよアンドレ。おまえもありがとうエル・ドール。
フランソワは馬の首を軽く叩いて一時の相棒に感謝の意を伝え、前を向いた。待っていてヴィルナ、今行くから!
🌞 🐎 🌞 🐎 🌞 🐎
フランソワが騎乗した姿は瞬く間に見えなくなった。兵士達のやんややんやの大喝采を後ろに聞きながら、アンドレは放心したようにフランソワの残した土埃が地面に落ちて行く様子を見詰めていた。
従卒として絶え間なく働いている頭脳の一部が、今日の午後スケジュールを忙しく参照し、エル・ドールの代わりに衛兵隊の馬の鞍をつけるべきか、このままジャルジェ家に代わりの馬を連れに戻るべきか激闘しているが、何だか他人事のようだった。
おまえ達はいつまでも油を売っていないで解散しろ!とオスカルが兵に命令している声も遠くに聞こえる。アンドレは心が大きく揺さぶられた後の空っぽな空間の中いた。
オスカルの言葉はフランソワに向けたもので、自分とは前提が違う。だから、妙な考え違いをするべきではない、といくら理性が警告しても、心は猛烈に感動してしまったのだ。どうしようもないほどに。
「アンドレ」
おそらく、今までの生涯を通して自分の名前を一番数多く呼んだのはオスカルだ。
「アンドレ!」
主従の関係だから当たり前なのだろうか?立場上は主であるオスカルの名を一番数多く呼んだのも自分であるはずだ。それが何を意味するか。呼べば必ず応えてくれるという信頼と・・・
「アンドレ!!!」
それが喜びであれ試練であれ、何かあるたびに一番最初に分かち合いたい相手として存在し合い、呼び合ったのだ。だから・・・
「アンドレ~ッ!!!」
もう何度目かにアンドレが我に返ると、すぐ目の前に愛しのお嬢様が今にも太刀を抜かんばかりに逆上していた。
「さっきから呼んでおろうが、聞こえんのか!」
「あ・・・」
「な~~にがあ”・・・だ!惚けるのも大概にしろ!」
お嬢様は肩ではあはあ息切れまでしている。心なしか湯気まで立っているような。
「す、済まなかった。そろそろ本部に戻ろうか」
焦点の定まらない目を何度か強く瞬くと、アンドレは本部へ戻るべく身体の向きを変えた。
「アンドレ」
再びドスの効いた声で名を呼ばれた。出会ってこの方何千万兆回目かに。だからこそ、それだけでわかってしまう。これから言い渡されるミッションは自分の運命を左右する。
・・・かも。
「フランソワを追え。早くしろ」
「えっ?」
「当たり前だろう!追いついたら伴走してフランソワ本人とわたしの馬とすれ違う全ての通行人の安全を確保しろ」
おまえ・・・、自信たっぷりは見せかけで実はビビっているな。アンドレの腹の底からふつふつと笑いが湧いてくる。可愛いな、と下がりそうになる目尻を引き締めポーカーフェイスでやり過ごした。
「エル・ドールにデュランダルで追いつける訳がないだろう?」
「なあに、騎手がわたしより重い上にへっぽこだ。まだ追いつける」
「わかった、やって見る。その代り今日の午後の移動手段を今から・・・」
「分かっている。わたしを誰だと思っている。天下のオスカル・フランソワ様がそのくらいのこと考えつかないとでも思っているのか!」
『思っているよ』
アンドレは腹の中でお答えする。点火(誤変換ではない♡)のオスカル・フランソワ様だからこそ、心よりご心配申し上げているのだ。
移動手段や時間配分段取りはもとより、午前中の内にオスカルの怒りに火をつけそうな議題の資料と幕僚の予想意見を事前に整理してオスカルに精神的な準備をする時間を作りたかった。
「早く行け!」
追い立てられたアンドレは走りながら後ろ髪引かれる思いで振り返った。一人残して今日一日大丈夫だろうか。オスカルは大仰に腕組みし、肩を怒らせたそのままの姿で立っている。ほんのり紅色に染まっている美しい怒り顔は本当に怒りのせいなのか。
デュランダルに跨ると、アンドレは場首を返し、オスカルの前に舞い戻った。
「行ってくるよ」
本当は馬上からお嬢様を見下ろす位置から話しかけるなど言語道断、無礼以外の何物でもない。それでも、潤んで熱っぽい目元の訳を知りたい、いや、訳などどうでもいいからただ黙って抱きしめてくちづけたい。
罪深い衝動だ。なのに、何故かそれを抑えることこそ罪であるように、熱い鼓動がアンドレを駆り立てる。馬上にいてよかった。さもなくば衛兵隊士の目の前で彼女を抱きしめてしまっただろう。
アンドレを見上げるオスカルの口角が上がり、一層蒼い瞳が潤んだように見えた。
「うん、行って来い。元はおまえが始めたのだ。行って見届けて来い。わたしの女としての幸福論は少数派かも知れんが、それが正しいかどうか、その目でしかと検証して来てくれ」
表層だけをさらっと聞き流せ、とアンドレは自分を戒めた。どうして、おれの制御を解いてしまうようなことを言う?おれが罪びとなら、おまえもそうなのか?そうだ、これ以上ここに留まれば自分が抑えられなくなる。アンドレは黙って頷いた。
「少数派でもな、自信はあるんだぞ」
オスカルは悪戯っぽく笑うと、間髪入れずに馬の尻を叩いた。
「行け!」
アンドレは大きく馬首を廻すと今度は振り向かずに『了解』の印に親指を立てて見せ、走り去った。見る間に小さくなる騎乗の人を見送りながらオスカルはひとりごちた。
「おまえこそ、湾曲な言い回しが通用しない男になったな」
言い回しだけではない。見つめ合う瞳に愛が零れても、言葉にするより先に愛しさの引力が肌を引き寄せ合っても、あの男は心の声よりも徳義に従うのだろう。元々意思疎通の大半を非言語で操ってきた二人だからこそ、それはある意味試練となるだろう。
「自業自得だ、仕方ない。おまえも、わたしも」
オスカルは本部へ戻るべく門戸に背を向けた。まだ遠巻きにオスカルを見守っていた兵士が数人、慌てて逃げるように兵舎へ駆け戻って行く。彼らを見送ると、オスカルは空を仰いだ。びっしりと空を埋め尽くす冬の曇のすき間から、高く上った朝日がいく筋かの天使の梯子を地上に下ろしている。
「わたしも早いうちに決着をつけてやらねばなるまいな」
ずばり、直接的な表現を与えられない限り、己を理性に閉じ込め続ける男のために言葉を選ぼう。今朝の太陽のように、理性の隙間から愛をほとばしらせている男のために、今やオスカルの胸いっぱいに溢れる温かく切ないものに名前を付けて。
(完)
オスカルは、しばらく兵士の反応を待ったが誰も反応する様子はない。誰にも解いてもらえない謎かけを出し続けたスフィンクスのように、オスカルは静まり返った兵士達を端から端まで一人残らず見渡したが、勇気あるオイディプスの登場は望み薄のようだ。
オスカルは馬鹿馬鹿しくてやっていられんと言わんばかりに小さく肩をすくめて見せると、煩そうに豊かな髪をばさっと後ろに払った。
「大体、女がただ漫然と男に幸せにしてもらうのを待っているとでも思うのか?人生の一大事をなぜ誰かに丸投げせねばならんのだ」
兵士らに騒めきが戻った。オスカルは一瞬ちらりとアンドレを視界の端に捉えてから、やや語勢を柔らかく落としてフランソワ一人に語りかけた。
「フランソワ」
「は、はい」
今、目が覚めたかのようにフランソワは姿勢を伸ばして返答する。
「おまえは、ヴィルナを愛している、そうだな?それはどれほどの深い思いなのだ?」
フランソワは、思わずたじろぎ一歩下がった。大勢の兵士の目前で愛の深さを答えねばならないのか。先ほどから横暴なことばかり要求する隊長を、フランソワは、きっと唇を噛みしめ見返した。そして、意外なものを見た。
オスカルの碧い瞳が潤んでいる?フランソワは目を瞬き、もう一度見直したが間違いない。オスカルだけが存在するするスペースに知らず引き込まれ、フランソワの世界から野次馬が消えた。
「始めは…誰にも、触らせたくない、どこにもやりたくない、と思っていました。でも今は、彼女がおれのものになるとかならないとか関係なく・・・何が彼女に起きても、好きです。だから、苦しめたくない。好きでも黙って見送ってやりたいです」
オスカルはさらに畳みかけるように問う。
「真に心の底からそう思っているか?見返りなくとも彼女の幸せを願っているか?」
「はい」
これから何が始まるのか、戸惑いを隠しきれないフランソワだが、このオスカルの問いには迷いなく即答した。オスカルも深く頷き、フランソワの思いをしっかりと受け止める。真剣な表情がほころんだ。
「いいか、おまえが心から彼女を愛しているのなら、それが魂からのまことなら、彼女にはそれを知る権利がある。それは彼女の掛け替えのない財産だからだ。誰もそれを彼女から奪ってはならない。たとえおまえであっても」
わかったような、わからないような面持で、幼さの残る頬を薄く染めたフランソワはオスカルの言葉と眼差しに捕らわれた。他の兵士も微動だにせずオスカルの次の言葉を待っている。
アンドレだけが表向きは無表情ながら、心の奥深いところで小魚が水面で跳ねたように響くものがあった。彼から広がる水紋のような感情の波がオスカルの心臓にも届き、鼓動がすこし早くなった。熱い想いがあふれ出す。
「まことの愛がどれほど人に力を与えるか、考えてみるがいい。たとえ傍にいなくても、世界のどこかで確実に自分を深く愛してくれている人間がいるという事実は、力にはならないか?人生の試練に立ち向かう支えにはならないか?
ヴィルナの原動力は間違いなく家族の存在だろう。だが、誰に嫁ごうと、どうあろうと、ありのままの彼女を変わらず愛するおまえの存在がなぜ彼女を苦しめるなどと思うのだ」
フランソワはオスカルの一言一言を逃すまいと聞き入っていた。知らず知らずのうちに両拳を強く握っている。オスカルに対して抱いていた怒りは、いつの間にか熱い他の何かに形を変えて体中のあちこちからふつふつと力が湧き出している。
「いいか、女を自分の手で幸せにできるなどと思い上がるな。愛を受け入れるか、愛を糧に幸せを選ぶか、生きる力とするか、利用して切り捨てるか、重荷と捉え遺棄するか、選択肢は受け取る側にある。男でも、女でも、愛はただ与えることが全てだ」
朝の兵舎前。馬繋場に集まった非番の兵士たちは静まり返ったままだ。アンドレが繋いだ二頭の馬が鼻を鳴らし、蹄で地面を蹴る音が時折響く。寝起きで薄着の兵士らは寒さに震えながらも誰一人立ち去ろうとせず、オスカルから目を離せない。
「フランソワ、ヴィルナがおまえに愛を返すか返さぬか、それは彼女が決めることだ。彼女がどちらを選ぶにせよ、あの娘はおまえの愛を大切な宝として心に抱き、生きる力に変えることのできる強い人間ではないのか?それなのにおまえは、おまえだけが持つ一番尊く美しいものを彼女に与えぬまま、厳しい修道院へ黙って見送るのか?」
一番美しく尊いものを自分は持っている、と隊長が言ってくれている。自分は何もできない、何も持たない無力な男ではないと。一粒の涙が頬を熱く焼いてから落ちた。本当に自分もそう思っていいのだろうか。フランソワはおずおずとオスカルに問い返した。
「隊長…。おれは…ヴィルナに何もしてやれないから、だから黙って行かせてやらないと…って…」
「何かをして欲しい、と求められたか?そんなやわな娘ではないだろう?」
その通りだった。自分で考え、自分で決め、自分から立ち上がる彼女だから、だから余計に。
「ヴィルナの家族ごと面倒見てやれないなら、…好きなだけじゃ何の意味もないって思っていました…」
でも、そうではなかった?少なくても隊長はそう言っている。いや、むしろ、『好き』が一番重要であり力の源になる、と。それは美しく尊いと。体中が燃えたぎるように熱くなる。
「おまえの無償の愛が無意味だなどと言った奴がいるのか?わたしの目の前にそいつを連れて来い。二度と朝日が拝めないようにしてやる」
そう憤りながらも挑戦的な笑み浮かべる自信たっぷりのオスカルがフランソワの心を揺さぶった。ああ、隊長は本気でそう信じてくれているんだ。だったら、おれも自分を信じられるかも知れない。
今や、体中に漲るこの熱いもの。これがおれが持っている力なんだ。おれは無力なんかじゃないんだ!次から次へと頬に涙筋をつける熱い涙がフランソワの顎からしずくになって地面に吸い込まれていった。
『陽気で気安い幼馴染のまま、気持ちの上で支えてやれ。それがおまえが彼女にできる最良だ』
『さもなくば、彼女の身に何が起きようと変わらず愛し抜く覚悟ができるなら、気持ちを伝えればいい。ありのままの彼女を受け入れられる男になってから彼女の前に立て』
アンドレもそう言った。彼の言葉をフランソワは今ようやく理解したような気がした。こういう意味だったんだ。今のおれは、ヴィルナの前に立ってもいいんだ。いや、立たなきゃいけない。
しん、と静まり返った兵士の中から、あちらこちらで身じろぎするざわめきが起こった。誰かがフランソワの名をおそるおそる呼ぶ。違う誰かも彼の名を口にする。ざわめきは次第に大きくなり、ついに一人の兵士がはっきりと叫んだ。
「フランソワ、行けよ」
ラサールだった。それが呼び水となり次々と兵士が劇を飛ばし始めた。
「行け、フランソワ!」
「そうだ!行って来い。行ってちゃんと告白して来るんだ!」
兵舎前には次々と寝ぼけ眼の兵士の数が増え、騒然となった。そんな中でフランソワは今や兵士たちにもみくちゃにされ、激励され、頭を乱暴に叩かれている。騒ぎから少し離れた場所で、ただ一人呆然と立ち尽くすアンドレの奥耳にオスカルの言葉が繰り返し響く。
『それがまことの愛ならば、彼女の掛け替えのない財産になる。彼女が愛を返すかどうかなど関係なく』
「隊長、行きます!おれ行って来ます!」
半ば兵士らに運ばれるようにしてオスカルの前に進み出たフランソワが宣言した。涙の乾かぬ頬は高揚し、握りしめた両拳は震えているが断固とした意思が見える。
「よし、行って来い」
応えるオスカルも大きく頷き、兵士らが大きく歓声を上げた。
「アンドレ!」
オスカルに大声で呼ばれ、アンドレの内に向かっていた意識は急激に現実に引き戻された。
「準備を手伝ってやれ」
オスカルが自分の愛馬に首をしゃくる。白馬は兵士の歓声にやや神経質になって何度も首を大きく振っている。
何か自分にとって、とてつもなく重要なことを言っていたオスカル。それが腹に落ちるまであともう少しのところだったアンドレは、はっと我に返った。何だ、何が起きている?おれは何をしていた?大急ぎで頭の中を再編成する。朝の兵舎前、午後の予定、オスカルの暴走、フランソワの涙、二頭の馬。そうだ、馬!
「オスカル、フランソワにおまえの馬は無理だ。おれが乗って来たデュランダルなら性質が穏やかだから、こっちにしよう」
アンドレは冷静を装い提案した。未だにオスカルの意味深な言葉が心臓の鼓動を追い立てて止まない。
「いや、わたしのエル・ドールだ」
そう言い張るオスカルも心持ち頬が染まっているような気がして、アンドレの胸はまた早くなる。
「フランソワのもう一つの望みを忘れたか?彼は美しい記憶を彼女に残したいのだ。昔から王子さまは白馬に跨って登場すると相場が決まっているだろう?愛の告白は白馬の上から鮮烈にするんだ。いいな、フランソワ」
「は、はいっ!」
フランソワは直立不動で返答し、アンドレは増々混乱した。無茶な要求をアンドレに突き付けてからぷいっと横を向いてしまったオスカルの目の下はやはり薔薇色に染まっている。
「王子様…ね…」
今日は朝から思いがけないセリフを100年分は聞いた気がするアンドレだった。
🐎 ♥ 🐎 ♥ 🐎 ♥
「いいか、エル・ドールは恐ろしく気位が高い。怖がっているところを気取られるな。騎手が怖気づいていると、こいつは騎手を信用できずに振り落とすぞ。仕込みは万全だから、確信を持って御すればちゃんと従うはずだ」
「う…うん、頑張るよ」
「重心はいつもより前に置くようにしろ、いいな」
「わかった。気位が高いから隊長の馬なんだね」
「しっ!聞こえるぞ。実はその通りだ」
勿論地獄耳の隊長様にはちゃんと聞こえていたが、黙って腕を組み、少し離れたところから自分の愛馬にフランソワが跨る様子をじっと見つめている。
怖がるなと言われたそばからがちがちに緊張したフランソワが、大きく鞍を跨いだ勢いが余り、反対側から落ちてしまった。アンドレが急いでフランソワの落ちた側に回る。
「う~っ、いってて」
「おい、大丈夫か。やっぱり馬を変えたほうが」
地面に仰向けになって腰をさするフランソワと助け起こしに駆け寄ったアンドレにオスカルが歩み寄る。二人を照らした朝日がふわりとしたものに遮られれた。
「た…隊長…」
オスカルの表情は逆光で良く見えなかったが、豪華にゆれる金色の髪が朝日に透けて眩しかった。
「ふふん、見ろ。落馬も恋も落ちるものだ。逆立ちしたって途中では止められまい。腹を括ってがっつり決めて来い」
「はい!」
よく見えなかったが、どうやらフランソワは隊長のウィンクをもらったようだ。心臓はもうビリヤード台の上ではじけ飛ぶ玉より激しくもんどり打っている。
「おっと、尻についた泥ははたいて行けよ」
「はいっ!」
再び力強く隊長に背中を押され、今度こそフランソワは白馬に跨り、彼の尻の泥をはたいてやったアンドレは巻き上がった埃に咳き込みながらオスカルを見たが、やはり隊長殿はアンドレからついと目を逸らす。
何だか可愛いな、の一言をアンドレは胸の内だけでつぶやき、ついついきゅんきゅんと甘くよじれる心臓には『あまり勘違いしないように』と牽制した。
馬が興奮するから静かにしていろ、とお達しを受けた野次馬兵士が一応は静かに見守る中、足慣らしに兵営を一回りしたフランソワにアンドレは門の閂を開けてやった。今のところ、エル・ドールは大人しくフランソワの指示に従っている。
「サン・ジェルマンへは王宮沿いに真っすぐ北上するルートが最短距離だ。慎重に馬を走らせても30分はかからないから、確実におまえの方が早く目的地に着く。だから、慌てず修道院へ向かい、修道院からパリへ向かってヴィルナの進行方向とは逆に走れ。サン・ジェルマンからパリへは何本か街道が走っているが、馬車が安全に通れる道はひとつだ。大丈夫、必ず会える」
アンドレは、フランソワに道順を再確認した。
「う、うん。修道院からは東へ向かうんだね」
「そうだ。だが、自信がなかったら修道院近くで待ってもいい。その場の状況で判断しろ。とにかく、ヴィルナを乗せた馬車が修道院の門を潜ってしまったら最後、会えなくなるからな。急げ、フランソワ」
「うん、ありがとう。行ってくる!」
フランソワは馬の腹に拍車を入れた。見送りの兵士の一番前にオスカルがいる。振り返ると、大きく頷いて身振りで『行け!』と後押ししてくれた。フランソワは目的以外のことは何も考えないように集中した。
心臓はどくどくと最高速度で高鳴り、身体は燃えるように熱いが、身体の外側のどこか一点から静かにそんな自分を信頼して見つめる別の自分がいるように感じられる。
隊長の白馬は、練習用に乗っていた老馬より一回り大きく、美しい白い毛並みの下にみっしりと分厚い筋肉が透けて見える。パワーも格段に強そうだ。
この馬に騎手の指示に従っていれば安全だと信頼してもらわなければならない。自信がないとか、技術が未熟だなどと考えている余地はないし、意味もない。馬はフランソワの指示通り、並足になった。
よし、行くぞ。必ず追いついて見せる。フランソワがもう一度馬に拍車をかけると、気位が高いと言われた白馬はぐんと速度を上げ、初心な騎手を驚かせた。何て加速パワーだ!馬によってこんなに違うなんて!打てば響くように指示に従う反応の迅速さも格段に違う。アンドレによく言われた言葉が思い出される。
『おまえ、そんなにおどおど手綱を引いているとな、ちょっと走って見るのはどうでしょうか?そろそろ止まってくださいませんか?ってお伺いを立てられているみたいで馬が不安がるぞ。こいつの言うこと聞いていて大丈夫なんだろうかってさ』
こういうことか!心持が違うだけで、馬はこんなに騎手の意図に即応してくれるんだ。なんて気持ちがいいんだろう。わかったよアンドレ。おまえもありがとうエル・ドール。
フランソワは馬の首を軽く叩いて一時の相棒に感謝の意を伝え、前を向いた。待っていてヴィルナ、今行くから!
🌞 🐎 🌞 🐎 🌞 🐎
フランソワが騎乗した姿は瞬く間に見えなくなった。兵士達のやんややんやの大喝采を後ろに聞きながら、アンドレは放心したようにフランソワの残した土埃が地面に落ちて行く様子を見詰めていた。
従卒として絶え間なく働いている頭脳の一部が、今日の午後スケジュールを忙しく参照し、エル・ドールの代わりに衛兵隊の馬の鞍をつけるべきか、このままジャルジェ家に代わりの馬を連れに戻るべきか激闘しているが、何だか他人事のようだった。
おまえ達はいつまでも油を売っていないで解散しろ!とオスカルが兵に命令している声も遠くに聞こえる。アンドレは心が大きく揺さぶられた後の空っぽな空間の中いた。
オスカルの言葉はフランソワに向けたもので、自分とは前提が違う。だから、妙な考え違いをするべきではない、といくら理性が警告しても、心は猛烈に感動してしまったのだ。どうしようもないほどに。
「アンドレ」
おそらく、今までの生涯を通して自分の名前を一番数多く呼んだのはオスカルだ。
「アンドレ!」
主従の関係だから当たり前なのだろうか?立場上は主であるオスカルの名を一番数多く呼んだのも自分であるはずだ。それが何を意味するか。呼べば必ず応えてくれるという信頼と・・・
「アンドレ!!!」
それが喜びであれ試練であれ、何かあるたびに一番最初に分かち合いたい相手として存在し合い、呼び合ったのだ。だから・・・
「アンドレ~ッ!!!」
もう何度目かにアンドレが我に返ると、すぐ目の前に愛しのお嬢様が今にも太刀を抜かんばかりに逆上していた。
「さっきから呼んでおろうが、聞こえんのか!」
「あ・・・」
「な~~にがあ”・・・だ!惚けるのも大概にしろ!」
お嬢様は肩ではあはあ息切れまでしている。心なしか湯気まで立っているような。
「す、済まなかった。そろそろ本部に戻ろうか」
焦点の定まらない目を何度か強く瞬くと、アンドレは本部へ戻るべく身体の向きを変えた。
「アンドレ」
再びドスの効いた声で名を呼ばれた。出会ってこの方何千万兆回目かに。だからこそ、それだけでわかってしまう。これから言い渡されるミッションは自分の運命を左右する。
・・・かも。
「フランソワを追え。早くしろ」
「えっ?」
「当たり前だろう!追いついたら伴走してフランソワ本人とわたしの馬とすれ違う全ての通行人の安全を確保しろ」
おまえ・・・、自信たっぷりは見せかけで実はビビっているな。アンドレの腹の底からふつふつと笑いが湧いてくる。可愛いな、と下がりそうになる目尻を引き締めポーカーフェイスでやり過ごした。
「エル・ドールにデュランダルで追いつける訳がないだろう?」
「なあに、騎手がわたしより重い上にへっぽこだ。まだ追いつける」
「わかった、やって見る。その代り今日の午後の移動手段を今から・・・」
「分かっている。わたしを誰だと思っている。天下のオスカル・フランソワ様がそのくらいのこと考えつかないとでも思っているのか!」
『思っているよ』
アンドレは腹の中でお答えする。点火(誤変換ではない♡)のオスカル・フランソワ様だからこそ、心よりご心配申し上げているのだ。
移動手段や時間配分段取りはもとより、午前中の内にオスカルの怒りに火をつけそうな議題の資料と幕僚の予想意見を事前に整理してオスカルに精神的な準備をする時間を作りたかった。
「早く行け!」
追い立てられたアンドレは走りながら後ろ髪引かれる思いで振り返った。一人残して今日一日大丈夫だろうか。オスカルは大仰に腕組みし、肩を怒らせたそのままの姿で立っている。ほんのり紅色に染まっている美しい怒り顔は本当に怒りのせいなのか。
デュランダルに跨ると、アンドレは場首を返し、オスカルの前に舞い戻った。
「行ってくるよ」
本当は馬上からお嬢様を見下ろす位置から話しかけるなど言語道断、無礼以外の何物でもない。それでも、潤んで熱っぽい目元の訳を知りたい、いや、訳などどうでもいいからただ黙って抱きしめてくちづけたい。
罪深い衝動だ。なのに、何故かそれを抑えることこそ罪であるように、熱い鼓動がアンドレを駆り立てる。馬上にいてよかった。さもなくば衛兵隊士の目の前で彼女を抱きしめてしまっただろう。
アンドレを見上げるオスカルの口角が上がり、一層蒼い瞳が潤んだように見えた。
「うん、行って来い。元はおまえが始めたのだ。行って見届けて来い。わたしの女としての幸福論は少数派かも知れんが、それが正しいかどうか、その目でしかと検証して来てくれ」
表層だけをさらっと聞き流せ、とアンドレは自分を戒めた。どうして、おれの制御を解いてしまうようなことを言う?おれが罪びとなら、おまえもそうなのか?そうだ、これ以上ここに留まれば自分が抑えられなくなる。アンドレは黙って頷いた。
「少数派でもな、自信はあるんだぞ」
オスカルは悪戯っぽく笑うと、間髪入れずに馬の尻を叩いた。
「行け!」
アンドレは大きく馬首を廻すと今度は振り向かずに『了解』の印に親指を立てて見せ、走り去った。見る間に小さくなる騎乗の人を見送りながらオスカルはひとりごちた。
「おまえこそ、湾曲な言い回しが通用しない男になったな」
言い回しだけではない。見つめ合う瞳に愛が零れても、言葉にするより先に愛しさの引力が肌を引き寄せ合っても、あの男は心の声よりも徳義に従うのだろう。元々意思疎通の大半を非言語で操ってきた二人だからこそ、それはある意味試練となるだろう。
「自業自得だ、仕方ない。おまえも、わたしも」
オスカルは本部へ戻るべく門戸に背を向けた。まだ遠巻きにオスカルを見守っていた兵士が数人、慌てて逃げるように兵舎へ駆け戻って行く。彼らを見送ると、オスカルは空を仰いだ。びっしりと空を埋め尽くす冬の曇のすき間から、高く上った朝日がいく筋かの天使の梯子を地上に下ろしている。
「わたしも早いうちに決着をつけてやらねばなるまいな」
ずばり、直接的な表現を与えられない限り、己を理性に閉じ込め続ける男のために言葉を選ぼう。今朝の太陽のように、理性の隙間から愛をほとばしらせている男のために、今やオスカルの胸いっぱいに溢れる温かく切ないものに名前を付けて。
(完)
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COMMENT
私の胸もあたたかくて切ない何かで溢れていっぱいです。
もんぶらんさまのOAにまた会えて感動しました!
もんぶらんさまのOAにまた会えて感動しました!
女をなめるな!
オスカルさまの幸福論、
オスカルさまらしいかっこよさ。
アンドレに勘違いじゃないよ、
て教えてあげたいです。
オスカルさまが自ら動くでしょうが(^.^)
フランソワはヴィルナに会えたのか、
追っかけていったアンドレは
帰ってから彼女になにを伝えたのか。
敢えて読者の想像に託すエンディング、
余韻がステキなんですが、
やはりそれからどーなったのか
欲張りに気になりますw
もだもだもやもや、互いの愛情や信頼、
すれ違う思いやり、新しい関係性への示唆。
ギュッと詰まった美しい作品を
ありがとうございます♡
オスカルさまの幸福論、
オスカルさまらしいかっこよさ。
アンドレに勘違いじゃないよ、
て教えてあげたいです。
オスカルさまが自ら動くでしょうが(^.^)
フランソワはヴィルナに会えたのか、
追っかけていったアンドレは
帰ってから彼女になにを伝えたのか。
敢えて読者の想像に託すエンディング、
余韻がステキなんですが、
やはりそれからどーなったのか
欲張りに気になりますw
もだもだもやもや、互いの愛情や信頼、
すれ違う思いやり、新しい関係性への示唆。
ギュッと詰まった美しい作品を
ありがとうございます♡
Roseキャベツさま
昔の作品の再掲ですが、お読み下さってありがとうございました。見ていてイライラするようなOA好きな私の個人的楽しみで書いたものなので、楽しんで頂けたでしょうか。温かい気持ちになるコメントありがとうございます!ノエルまで、もう少し再掲が続きますので、お付合い頂けたら幸いです♥
昔の作品の再掲ですが、お読み下さってありがとうございました。見ていてイライラするようなOA好きな私の個人的楽しみで書いたものなので、楽しんで頂けたでしょうか。温かい気持ちになるコメントありがとうございます!ノエルまで、もう少し再掲が続きますので、お付合い頂けたら幸いです♥
まここさま
そう、舐めて貰っちゃ困るのですよ。自分の幸せは自分が決めるんです。なんちゃってね。
ラストをオープンにしたのは、読者の皆様の想像の方がもう絶対にステキだと思ったからです。ええ、そうですとも。どんな結果になったか、私の方が教えて頂きたい。私が書くと、矮小化されちゃいそうで。しかもギャグになりそうだし。まここさまの想像はどんな感じですか?
そう、舐めて貰っちゃ困るのですよ。自分の幸せは自分が決めるんです。なんちゃってね。
ラストをオープンにしたのは、読者の皆様の想像の方がもう絶対にステキだと思ったからです。ええ、そうですとも。どんな結果になったか、私の方が教えて頂きたい。私が書くと、矮小化されちゃいそうで。しかもギャグになりそうだし。まここさまの想像はどんな感じですか?
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