「ヴィルナ」
静かだが有無を言わせぬ声だった。ハンカチを握りしめた少女の肩がぴくりと震え、手の甲に涙が落ちる。
「少し前に人身売買組織を検挙したと言ったことを覚えているか?」
涙で濡れた瞳が恐る恐るオスカルを見上げると、そこにあったのは慈しみに満ちた深い藍色の瞳だった。
「その組織は身寄りのない娘を拉致してはトルコに売り飛ばしていた」
少女は食い入るようにオスカルに視線を合わせ、次の言葉を待ちながらアンドレのハンカチで盛大に鼻をかんだ。
「おまえはトルコに売られた娘たちのように、意志に反して売られるわけではないだろう?」
「養女になって行儀作法を習ってお嫁に行かされるの。好きでもない人のところに。売られるのと同じよ」
優しい目をしながらなぜそんな冷たいことを言うのだろう。少女は鼻声で抗議した。
「そうか、そう思っているから人買いという言い方をするのだな」
「違うの?」
「人身売買は犯罪だが、養子縁組は双方の合意に基づく契約だ。不本意なら拒否できる」
言葉が難解過ぎて理解できなかったが、少女はとりあえず鼻をすすりながら唇を真一文字に結んだ。この人は貴族だから、貴族のいいように言っているに違いない。
少女に睨まれたオスカルはシンプルに言い換えた。
「やめてもいいのだぞ?」
ここで少女は激しく首を振った。
「やめないわ。これで家族全員が生きていける。幸せになれるって父さんと母さんが泣いて喜んだのよ!」
「だが、おまえは幸せだとは思っていない。違うか?やめてもいいのだぞ。誘拐された娘たちにはない選択肢がおまえにはある」
「やめないわ。やめるもんですか。母さんを今更がっかりさせたくない。泣かせたくない」
「なぜ母君を泣かせてはいけないのだ?おまえは泣いているではないか。おまえが泣くのはいいのか?結局どちらか一方が泣くのなら、どちらでもいいのではないか?」
思わぬオスカルの詰問にアンドレははらはらしながら二人のやりとりを聞いていた。オスカルの言わんとする正論はわかる。しかし、今の少女にそれは酷過ぎるのではないか。
ロザリーやディアンヌに対する時のように、オスカルは慈愛に満ちた応対をするだろうと踏んでいただけに、アンドレは当惑した。なぜまだ十代の娘を追いつめるのか、全く理解が追いつかない。
「母さんに楽をさせるためなら何だってしてやる。そうよ、父さんを殺したっていいわ!」
「おまえが父君を殺したら、母君はどうなる?」
「もうやめろ。オスカル!」
いたたまれなくなったアンドレは、オスカル止めようと肩に手を伸ばし、オスカルは手のひらをアンドレに向けて制した。
「黙っていろ、アンドレ。ヴィルナ、もう一度聞く。おまえが父君を殺したら、母君はどうなるのだ」
「母さんまで死んじゃうわ。父さんは死に、娘は人殺し。耐えられっこない!」
「それはおまえの望みではない?」
「違う!」
「ではおまえの望みは何だ」
「家族みんながひもじい思いをしないこと。凍えたり、病気にならないで生きていけるようにしたい!」
「フランソワに会えなくなるぞ」
「フランソワだけじゃない。家族みんなに会えなくなる」
「それでいいのか?」
「嫌よ!」
「ではやめろ」
「嫌っ!」
少女の涙は上気した頬の上で乾き、擦り切れたショールに包まれた胸が大きく上下していた。少女の荒い呼吸が落ち着くまでオスカルは静かに待った。次第に少女の肩は静かになり、緑の瞳には強い光が宿った。少女はもう一度繰り返した。
「わたしがそうしたいの」
オスカルがゆっくり大きく頷いた。
「おまえは自分の大切なものと引き換えにしても、大事な人を助ける力を得たいと思っている。それがおまえの一番の望みなのだな?」
「ええ、そうよ」
しばし二人は見つめ合った。少女の涙で潤んだ緑の瞳の中に動かざる意思を見取ったオスカルは、くしゃくしゃに丸めたハンカチを握りしめる少女の手を両手で包み込み、厳しい表情を緩め、優しく微笑んだ。
「おまえはトルコに売られた娘たちとは違う。おまえは自分の意思に基づいた正当な取引をしようとしているのだ。決して売られたなどと考えてはいけない。自分の選択に誇りを持て。ここは大事なところだからよく覚えておくのだな。おまえが自分で言ったのだぞ、そうしたい、と」
誇りを持て。
オスカルの言葉はやはり少女には難解だったが、言葉の理解を超えて心の奥座に深く響くものがあった。そうだ、わたしは今出来る最上の方法で得たいものを得ようとしているのだ。大切な人間関係を手放すことは辛いけれど、愛は消えはしない。
少女の頬には乾かない幾筋もの涙が残っていたが、今や少女は本当に誇り高く見えた。一時はどうなるかと肝を冷やしたアンドレだったが、二人の女性陣の強さに脱帽する思いでただそこにいるしかなかった。
少女の心の奥に踏み込むオスカルも、一歩も逃げ出さずに向き合った勇敢なヴィルナも。縮み上がった彼の肝は、もともと逆立ちしたって彼女らのそれに太刀打ちできるサイズではなかったようだ。オスカルは軽く少女にウィンクを飛ばし、少女の頬を桜色に染めた後、さらに続けた。
「いいところのドラ息子ならではの秘策を教えよう。おまえは養女先でこれから教育を受けるだろう。とにかく学べるものは何でも貪欲に学べ。家庭教師による勉学や作法のみならず、人の動き、思惑、属する社会のしくみ、金銭の流れ、観察し得るもの、経験できるもの、全てから学べ。
最初は混乱するだろう。だが次第に点と点が繋がり見える世界が広がるだろう。自分の強みがわかって来るだろう。おまえの強みは社交かも知れない、戦略かも知れないし知識かも知れん。今はわからなくもいずれ必ずはっきり形が見えて来る。
人や金を動かすおまえなりの方法が明らかになる。力をつけるのだ。そうやって国王すら動かした女性が幾人もいるぞ。おまえが一時手放すことになる大切なもの、それを取り戻したければ力をつけるのだ。そのために学べ。おまえになら必ずできる」
🌺 🍷 🥣 🍺 🧀 🍾
「今日はありがとう」
「こちらこそ、楽しかったよ」
少女は二人を店の出口まで見送りに出て来てくれた。並んで歩くと、小柄な少女の頭はアンドレの鳩尾にまでしか届かなかった。
「ほんと、ばかでっかいのね」
「うん、景観破壊の罪で訴えられないように人の前には立たないようにしている」
「そうなの?せっかくハンサムなのに残念ね」
「へえ、さすがお目が高い。気づいてもらえないことが多いから嬉しいな」
「隊長さんと一緒にいたらハンサムも霞んじゃうものね」
「そうそう、その通りなんだ」
「そうでもないぞ、こいつは立ち上がると首から上が雲の上に突き出てしまうから気づいてもらえんのだ」
「おっ、遠回しにおれがハンサムだと認めたな」
「このオスカルさまに限って遠回しなどあり得ん」
少女が弾けるように笑った。オスカルもアンドレもそれぞれ感慨深く少女を見つめる。この娘が将来どのような道を選ぼうとも、幸福を祈らずにはいられない。
「せっかくの料理をそっくり残してしまって大変失礼した」
すっかりいつもの隊長仕様の口調に戻ったオスカルが少女に詫びた。少女は笑顔のまま元気に答える。
「うううん、あれは貴族様には無理よ。残飯だもの。でも残してもらって良かったの。担当したテーブルの余り物は持って帰っていいことになっているから。だから大盛にしたのよ」
「ほう、なるほどそれは賢い」
逞しい。健康で真っすぐな逞しさだ。生きるために窃盗以外の悪事も働いたに違いない娘は、水滴をはじく若葉のように汚れを弾き飛ばす魂の持ち主だった。
オスカルの脳裏にもう一人の黒髪の少女の面影が映る。ディアンヌ。彼女にこの少女の強さの半分でもあったなら、ノエルを迎えることができただろうか。
ディアンヌは彼女のためなら全世界を敵に回すことすら厭わない兄に大切に守られていたが、もうこの世にいない。一方、守護者を持たないヴィルナは愛する者を守るために力強く生き抜こうとしている。人生の綾とは不思議なものだ。
オスカルは別れ際に身を屈め、貴婦人に少女の手の対するように手の甲に口づけようとしたが思い直して身を屈め、頬に口づけた。その方が少女には相応しい気がしたのだ。
「おまえに神のご加護があるように。自分に自信を持つのだぞ」
少女は頬を染めてオスカルの頬に口づけを返す。この先もう二人に会うことはないだろう。自分で思っている以上に失礼な物言いをしてしまったはず。せめて最後にできるだけ礼儀正しくお礼とお詫びをしよう。そう決めたヴィルナは、思いつける最高に丁寧な謝辞を一言一言心を込めて二人に贈った。
「どうもありがとうございました。ご親切は絶対に忘れません。お二人に神様のご加護がありますように。ドラ息子なんて言ってしまってとっても失礼でした。ごめんなさい。本当はドラ娘だったのに」
なぜか黒髪の従者の彼の方がたちまち嬉しそうに破顔すると、ヴィルナを抱き上げんばかりにハグしてくれた。
「しっかりな。フランソワの言う通り、きみは最強だ」
綺麗な隊長さんは一瞬あっけにとられ立ち尽くした。おそらくあまりにも立派な挨拶だったのでびっくりしたのだろうと、ヴィルナは踏んだ。その証拠に、少し遅れてから、くらくらしそうなほど美しい笑顔を見せ、抱きしめてくれたからだ。
ヴィルナはこんなに喜んでもらえるほどきちんと挨拶ができた自分が誇らしかった。
🐎 ⛄ ❆ 🧤 🎠
帰宅用に雇った馬車は市門の馬車止めに待機させてあった。市外の盛り場ポルシュロン(今のモンマルトル界隈)から市門まで半時弱ほど急な下り坂を歩くことになる。
馬車を呼んで来るまで店で待っているようにアンドレはオスカルに提案したが、オスカルも馬車止めまで一緒に歩くと言う。治安の悪さでは5本の指に入る地区である。オスカルを店に一人で残しておくのもそれなりのリスクがあるので、アンドレは強く押しはしなかった。
二人で並んで歩いた。ノエルを過ぎたばかりの空には星の一つも姿を表さず、繁華街を過ぎてしまえばアンドレの持つカンテラだけが頼りの暗闇だった。舗装されないあぜ道には荷馬車が残した深いわだちがいく本も交差したまま凍り付き、足場を危うくさせている。歩調は自然と不規則になり、二人は前に後ろになりながら足場を選んで歩いた。
衛兵隊で上官と従卒という関係性を得てから、きっちり歩幅と位置関係を正確に維持しながら歩くことが習慣になっていた。だから、ジグザグと飛び石を飛んで渡る子供のように肩を並べて歩くのは童心に帰ったように楽しかった。自然と二人から、くすくすと笑いが漏れる。
キャバレーで跳ね返り娘、ヴィルナと過ごしたのはせいぜい一時間程だったろう。喋って笑って鋭く突っ込まれ、心が柔らかく開いたようだ。相方と並び歩いているだけで自然に寛いでいられる。これほどまで安らかに一緒にいられるのは久し振りだった。
「何だか楽しかったな」
「しかも今回は安くついたしな」
「お、根に持っているねえ」
くしゅん。返事の替わりにオスカルが小さくくしゃみをした。今夜は『変装』スタイルなので、いつもの分厚い軍装用外套はない。アンドレは着ている粗末な上着を脱いでオスカルの肩にかけてやりたかったが、そうするとシャツ一枚になってしまうアンドレをオスカルが良しとしないだろう。
馬車まであともう少し、オスカルも心地よくリラックスしている今、肩を抱いても許されそうな気がした。かちかちに凍ったわだちの上で、バランスをとろうとしているオスカルの肘を自然に支えてから、アンドレはオスカルの肩を抱いた。蒼い瞳がアンドレを見上げ、唇には微笑みが浮かんだ。
「温かいな」
自然に受け入れてくれたオスカルにアンドレも微笑み返した。
「原始的な暖とりだがな」
オスカルの腕もアンドレの腰に回された。二人の間にあった微妙な緊張状態は今夜霧散してしまったようだった。異次元に入り込んだような不思議な夜、子供時代のように抱き合い、どちらもそれを不自然とは思わなかった。
互いに知る由もなかったが、二人とも一晩中馬車に着かなければいいと願った。この魔法は今夜限りで消えてしまう予感があったから。
「あのお転婆娘がお嬢様教育か。耐えられるかな」
まるで父親のような口ぶりでアンドレがつぶやく。
「意思は強い子だ。目的があればやり抜くだろう」
もしくはさっさと見切りをつけて飛び出すか。いずれにせよ、オスカルとしてはあまり心配していない。むしろ危なっかしいのはそばかすの彼氏の方だ。
「勿体ない」
しかし、父親気分の彼氏の方は別の方角が心配な様子だ。
「何が?」
「今のままの方がとびきりキュートじゃないか?」
それはそれは嬉しそうに同意を求める幼馴染にオスカルは少々むかっ腹を立てた。
「おまえのその嗜好は多分少数派だぞ 」
「そうか?だとしたら、その元になる原因は明らかだな」
オスカルのちょっとした不機嫌には頓着せず、幼馴染はやっぱり嬉しそうにのほほんと答える。
『元になる原因』は黙り込んだ。通常ならここは絶好の反撃ポイントだが、心の奥底で蕾がほころぶように喜びが生まれたからだ。今は黙ってそれを味わいたかった。魔法の降りたこの夜、いつもなら見過ごしてしまいそうな微細な心模様が透き通るように良く見える。
アンドレもオスカルの沈黙の理由を知っているかのように、何を追及するでもなく会話の余白を楽しんでいる。
「フランソワは少々分が悪いな」
「うん、あの様子だとヴィルナは養子縁組を承諾するだろうし、な」
「わたしは余計な口をはさんでしまったか…」
オスカルの肩を抱いたアンドレの大きな手がポンポンと彼女を優しく叩く。
「5年後、10年後に気持ちが変わらなければ新たな展開があるだろう。二人ともまだ10代だ。これからだよ」
10年もの間会えなくても互いを思い続ける?それも一般的な男としては少数派の感覚なのではないか。しかし、この男にかかると、すとんと納得してしまえる不思議をオスカルは噛みしめた。
宮廷文化のど真ん中で生まれ育ったにも関わらず、なぜかオスカルが人生の中で深く縁を持った男達は、父を筆頭として一人の女性に一途な人間が多かった。これは、神から与えられたとてつもない賜物なのではないだろうかと、オスカルの中に感謝が芽吹く。
少なくとも、隣にいるこの男が神からの贈り物であることは間違いない。掛け替えなく愛おしい、この名状し難い感情の正体が何であろうとも。ギリギリの死線を何度もその都度渡り切り、今でも自分の隣にいてくれる男。
「おまえは今まで何度死にかけた?」
オスカルの唐突なその問いに疑問を呈するでもなく、問われた本人はいたって呑気に記憶を反芻した。
「数えて見れば何度もあるよな。最初は12歳で肺炎になった時」
「ああ、覚えている。まだカトリーヌ姉とジョセフィーヌ姉が嫁入り前だった。ばあやに内緒で3人で礼拝堂でおまえの回復を一晩中祈ったっけな。今だから言うが、わたしは神に取引を申し出たのだぞ。おまえの命を助けてくれたら・・・」
「ドレスを着ますって?」
「馬鹿野郎!誰が着るか!」
「なんだ違うのか」
「大将になれなくてもかまいませんとな」
「そりゃあまた・・・何ともお前らしい。それが取引として当然のように成り立つと考えた訳だ」
それはどうも。確かに神は苦笑しただろう。それなのに、傲岸不遜もいいところがおまえらしいと嬉しそうに愛おしんでくれる男を一人占めする贅沢を神は与えてくれた。
「成り立ったとも。その証拠にわたしはいまだに准将だ。おい、礼はどうした」
「三人の美女の祈りとおまえの昇進を捧げてもらったのか、ガキのおれ。結構役得だったんだなあ」
「だから、ありがとうは」
ありがとうの代わりに額にキスが下りて来た。考えるより先に体が動き、アンドレ自身もキスしてからそのことに気が付いたくらいだった。アンドレの腰に回したオスカルの腕にきゅっと力が入る。額へのキスはオスカルの心臓まで一直線に届き、きゅんと甘く締め上げた。
「話が飛んだぞ」
照れ隠しに強がってみるオスカルの染まった頬を隠してくれる暗闇は、あくまでも優しく二人を包み込む。
「そう?」
ほんわかと幸せにほろ酔い加減のアンドレは話がどこにどう飛ぼうがまったく構わず、上の空だ。
「おまえが何回死にかけたか数えてみろ」
「12歳、あー、忘れもしない19歳」
「落馬事件だな。確かに忘れようがない」
「で?」
「で、何だ 」
「やっぱり命を助けて頂きありがとうをした方が…?」
額のキスを拒まれるどころか、抱擁のお返しまで貰ったアンドレは夢見心地で再びオスカルの方に屈んで見せる。と、今度はぴしっとオスカルの肩を抱いた手の甲を叩かれた。それでも抱いた肩を振りほどかれはしなかったし、オスカルのもう片方の腕はアンドレの腰から離れなかったが。
「調子に乗るな!」
「あらら、やっぱり」
うっかり反射的にアンドレをひっぱたいてしまったオスカルは猛烈に後悔した。しまった、もう一つくらいキスを貰っておけば良かった。失敗した。
「ちっとも話が進まないぞ!」
「何の話だっけ?」
オスカルが立ち止まった。ぐいっとアンドレを90度旋回させると彼の正面に向き合い両腕を掴む。
「おまえも、わたしも幾度となく死にかけた。死んでいてもおかしくない状況を数えたらきりがない」
そのやばかった状況リストの中には『あれ』と『これ』も含まれているのかな?アンドレは祈るような面持で頷いた。できれば具体的に数え上げるのは勘弁してください、女神さま。今夜だけは幸せに酔わせてお願い。
「おまえ以外の他人だったら到底許されないような残酷な思いもさせた。あれやこれやいろいろと」
うんうん、『あれ』とか『これ』ね、と頷きかけてアンドレはっと息を呑む。
「えっと…、それはおまえじゃなくておれの台詞じゃ…」
「やかましい!」
「は、はいっ!」
オスカルはがっしりと掴んだアンドレの両腕を広げ、その下に自分の両腕を差し入れてアンドレの背中にまわすと頭をアンドレの胸に預けた。突然の幸福な出来事にアンドレの心臓が跳ね上がった。だめだ、空気が足りない、くらくらする。急いで天に向けて懇願した。神様どうかこの貴重な瞬間に失神だけは勘弁してください。
この流れからすると、オスカルを抱きしめていいお許しが出たと考えて良さそうだが、今一歩自信のないアンドレは両腕をオスカルの背にまわして良いものか大いに迷った。両手をわたわたと宙に泳がせていると、早くしろとばかりの軽い蹴りを膝に喰らったので、アンドレはあたふたとオスカルをふわりと軽く腕で包む。
こころなしか、お嬢様にあるまじき、おはしたない『ふんっ!』と鼻を鳴らす音が胸のあたりで聞こえたような気がした。もしかして、ぎゅーっといっちゃった方が良かったのか。
「それでも、おまえとわたしは生きて一緒にここにいる。ほとんど奇跡だ」
オスカルはそう囁くと、力いっぱい抱きしめてくれた。
「うん」
アンドレもようやく力を込めて抱き返す。
「おまえもわたしと同じ様に思っていてくれたら嬉しい」
「以下…同文…。たとえ、おまえがおれの命よりドレスを着ないことを選んだとしても…」
胸がいっぱいになったアンドレはやっとそれだけを答えた。
静かだが有無を言わせぬ声だった。ハンカチを握りしめた少女の肩がぴくりと震え、手の甲に涙が落ちる。
「少し前に人身売買組織を検挙したと言ったことを覚えているか?」
涙で濡れた瞳が恐る恐るオスカルを見上げると、そこにあったのは慈しみに満ちた深い藍色の瞳だった。
「その組織は身寄りのない娘を拉致してはトルコに売り飛ばしていた」
少女は食い入るようにオスカルに視線を合わせ、次の言葉を待ちながらアンドレのハンカチで盛大に鼻をかんだ。
「おまえはトルコに売られた娘たちのように、意志に反して売られるわけではないだろう?」
「養女になって行儀作法を習ってお嫁に行かされるの。好きでもない人のところに。売られるのと同じよ」
優しい目をしながらなぜそんな冷たいことを言うのだろう。少女は鼻声で抗議した。
「そうか、そう思っているから人買いという言い方をするのだな」
「違うの?」
「人身売買は犯罪だが、養子縁組は双方の合意に基づく契約だ。不本意なら拒否できる」
言葉が難解過ぎて理解できなかったが、少女はとりあえず鼻をすすりながら唇を真一文字に結んだ。この人は貴族だから、貴族のいいように言っているに違いない。
少女に睨まれたオスカルはシンプルに言い換えた。
「やめてもいいのだぞ?」
ここで少女は激しく首を振った。
「やめないわ。これで家族全員が生きていける。幸せになれるって父さんと母さんが泣いて喜んだのよ!」
「だが、おまえは幸せだとは思っていない。違うか?やめてもいいのだぞ。誘拐された娘たちにはない選択肢がおまえにはある」
「やめないわ。やめるもんですか。母さんを今更がっかりさせたくない。泣かせたくない」
「なぜ母君を泣かせてはいけないのだ?おまえは泣いているではないか。おまえが泣くのはいいのか?結局どちらか一方が泣くのなら、どちらでもいいのではないか?」
思わぬオスカルの詰問にアンドレははらはらしながら二人のやりとりを聞いていた。オスカルの言わんとする正論はわかる。しかし、今の少女にそれは酷過ぎるのではないか。
ロザリーやディアンヌに対する時のように、オスカルは慈愛に満ちた応対をするだろうと踏んでいただけに、アンドレは当惑した。なぜまだ十代の娘を追いつめるのか、全く理解が追いつかない。
「母さんに楽をさせるためなら何だってしてやる。そうよ、父さんを殺したっていいわ!」
「おまえが父君を殺したら、母君はどうなる?」
「もうやめろ。オスカル!」
いたたまれなくなったアンドレは、オスカル止めようと肩に手を伸ばし、オスカルは手のひらをアンドレに向けて制した。
「黙っていろ、アンドレ。ヴィルナ、もう一度聞く。おまえが父君を殺したら、母君はどうなるのだ」
「母さんまで死んじゃうわ。父さんは死に、娘は人殺し。耐えられっこない!」
「それはおまえの望みではない?」
「違う!」
「ではおまえの望みは何だ」
「家族みんながひもじい思いをしないこと。凍えたり、病気にならないで生きていけるようにしたい!」
「フランソワに会えなくなるぞ」
「フランソワだけじゃない。家族みんなに会えなくなる」
「それでいいのか?」
「嫌よ!」
「ではやめろ」
「嫌っ!」
少女の涙は上気した頬の上で乾き、擦り切れたショールに包まれた胸が大きく上下していた。少女の荒い呼吸が落ち着くまでオスカルは静かに待った。次第に少女の肩は静かになり、緑の瞳には強い光が宿った。少女はもう一度繰り返した。
「わたしがそうしたいの」
オスカルがゆっくり大きく頷いた。
「おまえは自分の大切なものと引き換えにしても、大事な人を助ける力を得たいと思っている。それがおまえの一番の望みなのだな?」
「ええ、そうよ」
しばし二人は見つめ合った。少女の涙で潤んだ緑の瞳の中に動かざる意思を見取ったオスカルは、くしゃくしゃに丸めたハンカチを握りしめる少女の手を両手で包み込み、厳しい表情を緩め、優しく微笑んだ。
「おまえはトルコに売られた娘たちとは違う。おまえは自分の意思に基づいた正当な取引をしようとしているのだ。決して売られたなどと考えてはいけない。自分の選択に誇りを持て。ここは大事なところだからよく覚えておくのだな。おまえが自分で言ったのだぞ、そうしたい、と」
誇りを持て。
オスカルの言葉はやはり少女には難解だったが、言葉の理解を超えて心の奥座に深く響くものがあった。そうだ、わたしは今出来る最上の方法で得たいものを得ようとしているのだ。大切な人間関係を手放すことは辛いけれど、愛は消えはしない。
少女の頬には乾かない幾筋もの涙が残っていたが、今や少女は本当に誇り高く見えた。一時はどうなるかと肝を冷やしたアンドレだったが、二人の女性陣の強さに脱帽する思いでただそこにいるしかなかった。
少女の心の奥に踏み込むオスカルも、一歩も逃げ出さずに向き合った勇敢なヴィルナも。縮み上がった彼の肝は、もともと逆立ちしたって彼女らのそれに太刀打ちできるサイズではなかったようだ。オスカルは軽く少女にウィンクを飛ばし、少女の頬を桜色に染めた後、さらに続けた。
「いいところのドラ息子ならではの秘策を教えよう。おまえは養女先でこれから教育を受けるだろう。とにかく学べるものは何でも貪欲に学べ。家庭教師による勉学や作法のみならず、人の動き、思惑、属する社会のしくみ、金銭の流れ、観察し得るもの、経験できるもの、全てから学べ。
最初は混乱するだろう。だが次第に点と点が繋がり見える世界が広がるだろう。自分の強みがわかって来るだろう。おまえの強みは社交かも知れない、戦略かも知れないし知識かも知れん。今はわからなくもいずれ必ずはっきり形が見えて来る。
人や金を動かすおまえなりの方法が明らかになる。力をつけるのだ。そうやって国王すら動かした女性が幾人もいるぞ。おまえが一時手放すことになる大切なもの、それを取り戻したければ力をつけるのだ。そのために学べ。おまえになら必ずできる」
🌺 🍷 🥣 🍺 🧀 🍾
「今日はありがとう」
「こちらこそ、楽しかったよ」
少女は二人を店の出口まで見送りに出て来てくれた。並んで歩くと、小柄な少女の頭はアンドレの鳩尾にまでしか届かなかった。
「ほんと、ばかでっかいのね」
「うん、景観破壊の罪で訴えられないように人の前には立たないようにしている」
「そうなの?せっかくハンサムなのに残念ね」
「へえ、さすがお目が高い。気づいてもらえないことが多いから嬉しいな」
「隊長さんと一緒にいたらハンサムも霞んじゃうものね」
「そうそう、その通りなんだ」
「そうでもないぞ、こいつは立ち上がると首から上が雲の上に突き出てしまうから気づいてもらえんのだ」
「おっ、遠回しにおれがハンサムだと認めたな」
「このオスカルさまに限って遠回しなどあり得ん」
少女が弾けるように笑った。オスカルもアンドレもそれぞれ感慨深く少女を見つめる。この娘が将来どのような道を選ぼうとも、幸福を祈らずにはいられない。
「せっかくの料理をそっくり残してしまって大変失礼した」
すっかりいつもの隊長仕様の口調に戻ったオスカルが少女に詫びた。少女は笑顔のまま元気に答える。
「うううん、あれは貴族様には無理よ。残飯だもの。でも残してもらって良かったの。担当したテーブルの余り物は持って帰っていいことになっているから。だから大盛にしたのよ」
「ほう、なるほどそれは賢い」
逞しい。健康で真っすぐな逞しさだ。生きるために窃盗以外の悪事も働いたに違いない娘は、水滴をはじく若葉のように汚れを弾き飛ばす魂の持ち主だった。
オスカルの脳裏にもう一人の黒髪の少女の面影が映る。ディアンヌ。彼女にこの少女の強さの半分でもあったなら、ノエルを迎えることができただろうか。
ディアンヌは彼女のためなら全世界を敵に回すことすら厭わない兄に大切に守られていたが、もうこの世にいない。一方、守護者を持たないヴィルナは愛する者を守るために力強く生き抜こうとしている。人生の綾とは不思議なものだ。
オスカルは別れ際に身を屈め、貴婦人に少女の手の対するように手の甲に口づけようとしたが思い直して身を屈め、頬に口づけた。その方が少女には相応しい気がしたのだ。
「おまえに神のご加護があるように。自分に自信を持つのだぞ」
少女は頬を染めてオスカルの頬に口づけを返す。この先もう二人に会うことはないだろう。自分で思っている以上に失礼な物言いをしてしまったはず。せめて最後にできるだけ礼儀正しくお礼とお詫びをしよう。そう決めたヴィルナは、思いつける最高に丁寧な謝辞を一言一言心を込めて二人に贈った。
「どうもありがとうございました。ご親切は絶対に忘れません。お二人に神様のご加護がありますように。ドラ息子なんて言ってしまってとっても失礼でした。ごめんなさい。本当はドラ娘だったのに」
なぜか黒髪の従者の彼の方がたちまち嬉しそうに破顔すると、ヴィルナを抱き上げんばかりにハグしてくれた。
「しっかりな。フランソワの言う通り、きみは最強だ」
綺麗な隊長さんは一瞬あっけにとられ立ち尽くした。おそらくあまりにも立派な挨拶だったのでびっくりしたのだろうと、ヴィルナは踏んだ。その証拠に、少し遅れてから、くらくらしそうなほど美しい笑顔を見せ、抱きしめてくれたからだ。
ヴィルナはこんなに喜んでもらえるほどきちんと挨拶ができた自分が誇らしかった。
🐎 ⛄ ❆ 🧤 🎠
帰宅用に雇った馬車は市門の馬車止めに待機させてあった。市外の盛り場ポルシュロン(今のモンマルトル界隈)から市門まで半時弱ほど急な下り坂を歩くことになる。
馬車を呼んで来るまで店で待っているようにアンドレはオスカルに提案したが、オスカルも馬車止めまで一緒に歩くと言う。治安の悪さでは5本の指に入る地区である。オスカルを店に一人で残しておくのもそれなりのリスクがあるので、アンドレは強く押しはしなかった。
二人で並んで歩いた。ノエルを過ぎたばかりの空には星の一つも姿を表さず、繁華街を過ぎてしまえばアンドレの持つカンテラだけが頼りの暗闇だった。舗装されないあぜ道には荷馬車が残した深いわだちがいく本も交差したまま凍り付き、足場を危うくさせている。歩調は自然と不規則になり、二人は前に後ろになりながら足場を選んで歩いた。
衛兵隊で上官と従卒という関係性を得てから、きっちり歩幅と位置関係を正確に維持しながら歩くことが習慣になっていた。だから、ジグザグと飛び石を飛んで渡る子供のように肩を並べて歩くのは童心に帰ったように楽しかった。自然と二人から、くすくすと笑いが漏れる。
キャバレーで跳ね返り娘、ヴィルナと過ごしたのはせいぜい一時間程だったろう。喋って笑って鋭く突っ込まれ、心が柔らかく開いたようだ。相方と並び歩いているだけで自然に寛いでいられる。これほどまで安らかに一緒にいられるのは久し振りだった。
「何だか楽しかったな」
「しかも今回は安くついたしな」
「お、根に持っているねえ」
くしゅん。返事の替わりにオスカルが小さくくしゃみをした。今夜は『変装』スタイルなので、いつもの分厚い軍装用外套はない。アンドレは着ている粗末な上着を脱いでオスカルの肩にかけてやりたかったが、そうするとシャツ一枚になってしまうアンドレをオスカルが良しとしないだろう。
馬車まであともう少し、オスカルも心地よくリラックスしている今、肩を抱いても許されそうな気がした。かちかちに凍ったわだちの上で、バランスをとろうとしているオスカルの肘を自然に支えてから、アンドレはオスカルの肩を抱いた。蒼い瞳がアンドレを見上げ、唇には微笑みが浮かんだ。
「温かいな」
自然に受け入れてくれたオスカルにアンドレも微笑み返した。
「原始的な暖とりだがな」
オスカルの腕もアンドレの腰に回された。二人の間にあった微妙な緊張状態は今夜霧散してしまったようだった。異次元に入り込んだような不思議な夜、子供時代のように抱き合い、どちらもそれを不自然とは思わなかった。
互いに知る由もなかったが、二人とも一晩中馬車に着かなければいいと願った。この魔法は今夜限りで消えてしまう予感があったから。
「あのお転婆娘がお嬢様教育か。耐えられるかな」
まるで父親のような口ぶりでアンドレがつぶやく。
「意思は強い子だ。目的があればやり抜くだろう」
もしくはさっさと見切りをつけて飛び出すか。いずれにせよ、オスカルとしてはあまり心配していない。むしろ危なっかしいのはそばかすの彼氏の方だ。
「勿体ない」
しかし、父親気分の彼氏の方は別の方角が心配な様子だ。
「何が?」
「今のままの方がとびきりキュートじゃないか?」
それはそれは嬉しそうに同意を求める幼馴染にオスカルは少々むかっ腹を立てた。
「おまえのその嗜好は多分少数派だぞ 」
「そうか?だとしたら、その元になる原因は明らかだな」
オスカルのちょっとした不機嫌には頓着せず、幼馴染はやっぱり嬉しそうにのほほんと答える。
『元になる原因』は黙り込んだ。通常ならここは絶好の反撃ポイントだが、心の奥底で蕾がほころぶように喜びが生まれたからだ。今は黙ってそれを味わいたかった。魔法の降りたこの夜、いつもなら見過ごしてしまいそうな微細な心模様が透き通るように良く見える。
アンドレもオスカルの沈黙の理由を知っているかのように、何を追及するでもなく会話の余白を楽しんでいる。
「フランソワは少々分が悪いな」
「うん、あの様子だとヴィルナは養子縁組を承諾するだろうし、な」
「わたしは余計な口をはさんでしまったか…」
オスカルの肩を抱いたアンドレの大きな手がポンポンと彼女を優しく叩く。
「5年後、10年後に気持ちが変わらなければ新たな展開があるだろう。二人ともまだ10代だ。これからだよ」
10年もの間会えなくても互いを思い続ける?それも一般的な男としては少数派の感覚なのではないか。しかし、この男にかかると、すとんと納得してしまえる不思議をオスカルは噛みしめた。
宮廷文化のど真ん中で生まれ育ったにも関わらず、なぜかオスカルが人生の中で深く縁を持った男達は、父を筆頭として一人の女性に一途な人間が多かった。これは、神から与えられたとてつもない賜物なのではないだろうかと、オスカルの中に感謝が芽吹く。
少なくとも、隣にいるこの男が神からの贈り物であることは間違いない。掛け替えなく愛おしい、この名状し難い感情の正体が何であろうとも。ギリギリの死線を何度もその都度渡り切り、今でも自分の隣にいてくれる男。
「おまえは今まで何度死にかけた?」
オスカルの唐突なその問いに疑問を呈するでもなく、問われた本人はいたって呑気に記憶を反芻した。
「数えて見れば何度もあるよな。最初は12歳で肺炎になった時」
「ああ、覚えている。まだカトリーヌ姉とジョセフィーヌ姉が嫁入り前だった。ばあやに内緒で3人で礼拝堂でおまえの回復を一晩中祈ったっけな。今だから言うが、わたしは神に取引を申し出たのだぞ。おまえの命を助けてくれたら・・・」
「ドレスを着ますって?」
「馬鹿野郎!誰が着るか!」
「なんだ違うのか」
「大将になれなくてもかまいませんとな」
「そりゃあまた・・・何ともお前らしい。それが取引として当然のように成り立つと考えた訳だ」
それはどうも。確かに神は苦笑しただろう。それなのに、傲岸不遜もいいところがおまえらしいと嬉しそうに愛おしんでくれる男を一人占めする贅沢を神は与えてくれた。
「成り立ったとも。その証拠にわたしはいまだに准将だ。おい、礼はどうした」
「三人の美女の祈りとおまえの昇進を捧げてもらったのか、ガキのおれ。結構役得だったんだなあ」
「だから、ありがとうは」
ありがとうの代わりに額にキスが下りて来た。考えるより先に体が動き、アンドレ自身もキスしてからそのことに気が付いたくらいだった。アンドレの腰に回したオスカルの腕にきゅっと力が入る。額へのキスはオスカルの心臓まで一直線に届き、きゅんと甘く締め上げた。
「話が飛んだぞ」
照れ隠しに強がってみるオスカルの染まった頬を隠してくれる暗闇は、あくまでも優しく二人を包み込む。
「そう?」
ほんわかと幸せにほろ酔い加減のアンドレは話がどこにどう飛ぼうがまったく構わず、上の空だ。
「おまえが何回死にかけたか数えてみろ」
「12歳、あー、忘れもしない19歳」
「落馬事件だな。確かに忘れようがない」
「で?」
「で、何だ 」
「やっぱり命を助けて頂きありがとうをした方が…?」
額のキスを拒まれるどころか、抱擁のお返しまで貰ったアンドレは夢見心地で再びオスカルの方に屈んで見せる。と、今度はぴしっとオスカルの肩を抱いた手の甲を叩かれた。それでも抱いた肩を振りほどかれはしなかったし、オスカルのもう片方の腕はアンドレの腰から離れなかったが。
「調子に乗るな!」
「あらら、やっぱり」
うっかり反射的にアンドレをひっぱたいてしまったオスカルは猛烈に後悔した。しまった、もう一つくらいキスを貰っておけば良かった。失敗した。
「ちっとも話が進まないぞ!」
「何の話だっけ?」
オスカルが立ち止まった。ぐいっとアンドレを90度旋回させると彼の正面に向き合い両腕を掴む。
「おまえも、わたしも幾度となく死にかけた。死んでいてもおかしくない状況を数えたらきりがない」
そのやばかった状況リストの中には『あれ』と『これ』も含まれているのかな?アンドレは祈るような面持で頷いた。できれば具体的に数え上げるのは勘弁してください、女神さま。今夜だけは幸せに酔わせてお願い。
「おまえ以外の他人だったら到底許されないような残酷な思いもさせた。あれやこれやいろいろと」
うんうん、『あれ』とか『これ』ね、と頷きかけてアンドレはっと息を呑む。
「えっと…、それはおまえじゃなくておれの台詞じゃ…」
「やかましい!」
「は、はいっ!」
オスカルはがっしりと掴んだアンドレの両腕を広げ、その下に自分の両腕を差し入れてアンドレの背中にまわすと頭をアンドレの胸に預けた。突然の幸福な出来事にアンドレの心臓が跳ね上がった。だめだ、空気が足りない、くらくらする。急いで天に向けて懇願した。神様どうかこの貴重な瞬間に失神だけは勘弁してください。
この流れからすると、オスカルを抱きしめていいお許しが出たと考えて良さそうだが、今一歩自信のないアンドレは両腕をオスカルの背にまわして良いものか大いに迷った。両手をわたわたと宙に泳がせていると、早くしろとばかりの軽い蹴りを膝に喰らったので、アンドレはあたふたとオスカルをふわりと軽く腕で包む。
こころなしか、お嬢様にあるまじき、おはしたない『ふんっ!』と鼻を鳴らす音が胸のあたりで聞こえたような気がした。もしかして、ぎゅーっといっちゃった方が良かったのか。
「それでも、おまえとわたしは生きて一緒にここにいる。ほとんど奇跡だ」
オスカルはそう囁くと、力いっぱい抱きしめてくれた。
「うん」
アンドレもようやく力を込めて抱き返す。
「おまえもわたしと同じ様に思っていてくれたら嬉しい」
「以下…同文…。たとえ、おまえがおれの命よりドレスを着ないことを選んだとしても…」
胸がいっぱいになったアンドレはやっとそれだけを答えた。
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COMMENT
誇りを持て…素晴らしいアドバイスですね。
彼女は生涯この言葉と彼らを忘れなかったのではないでしょうか。
2人は互いに神からの贈りものですね!
互いに支えあい慈しみあい…。
もうイチャイチャしてるようにしか
見えないのですがw
おじさんとドラ娘のもだもだ愛、
ありがとうございます♡
彼女は生涯この言葉と彼らを忘れなかったのではないでしょうか。
2人は互いに神からの贈りものですね!
互いに支えあい慈しみあい…。
もうイチャイチャしてるようにしか
見えないのですがw
おじさんとドラ娘のもだもだ愛、
ありがとうございます♡
まここさま
このもだもだ期、わたしはよくもやもや期と呼んでいましたが、が大好きなんです。人が悪いですよね。
な~んとなく好意って伝わるものじゃないですか。そんな無言のスキスキを浴びながら、変わらぬ立ち位置を維持するって、けっこういろいろハプニングが起きるはずだよな、と考えると妄想が湧くんですよ。
全7章で完結しますんで、もう少しお付合い下さいね♥
このもだもだ期、わたしはよくもやもや期と呼んでいましたが、が大好きなんです。人が悪いですよね。
な~んとなく好意って伝わるものじゃないですか。そんな無言のスキスキを浴びながら、変わらぬ立ち位置を維持するって、けっこういろいろハプニングが起きるはずだよな、と考えると妄想が湧くんですよ。
全7章で完結しますんで、もう少しお付合い下さいね♥
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