SMILE

2020/08/26(水) 原作の隙間 1762夏




《SMILE》

微笑んで
心が痛くても
微笑んで
張り裂けそうでも
空に雲がかかっているときも
何とかなるから

笑って
怖いときも悲しいときも
笑って
そうすれば明日には
お日様はあなたのために
世界を照らすから

嬉しい顔で輝くのよ
悲しい顔はその裏に隠して
心が涙でいっぱいだったとしても

そんな時こそ笑って
泣いても仕方ない
ただ笑ってごらん
きっと人生は素晴らしいと
気づくから

曲 チャップリン
詞 Jターナー、G パーソンズ


有名なスタンダードですがアンドレのお母さんが歌って聞かせたとしたら、こんな歌ではないかしら、と想像したら、こんなお話ができました。
女性ヴォーカルでイメージの近い動画が見つからなかったので、もんぶらん的にアンドレヴォイス認定しているジョシュ・グローバンでどうぞ。

《SMILE》



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目が覚めると一番最初に見えたのは、綺麗なオレンジ色。母さんのアフガン編みの肩掛けだ。夕べ、毛布がわりに握りしめて眠ったんだっけ。

1日の始まりにぼくは思い出して泣いた。ウソみたいだけど、母さんが死んでしまったことを。母さんがもういないなんて、昨日までの世界がすっかり消し飛んで、違う世界に放り込まれたみたいだ。

今度の世界はとてつもなく広いがらんどう。ここは母さんのいない世界。

すこし泣いて、そろそろと寝返ると隣で眠っているはずのおばあちゃんはいなかった。昨日うちに来たおばあちゃんは働きものだからもう起きて何かを始めているんだね。

『おやおや、まあまあ、大きくなって、かわいそうに』

昨日、おばあちゃんは、ぼくをぎゅうぎゅう抱きしめると、おいおい泣いた。でも、すぐに泣き止んで母さんに終油の秘蹟を授けてくれた神父様に会いに出かけた。

教会で書類を作ってもらうこととか、お墓のこととか決めることがいっぱいあると言っていた。

それからお隣のミシェルおばさんや、森番のシモンさんにご挨拶に行ったり、家を閉める準備をしたり、大忙しだった。ぼくはおばあちゃんと一緒にヴェルサイユに行くんだって。だから、狼谷村のおうちは閉めなくちゃならないんだ。

ぼくはおばあちゃんが御用をしているあいだ、ずっと母さんのそばにいた。おばあちゃんが戻ってきたとき、きっとぼくは涙で溶けて水たまりになっているんだ思ったくらい、ひとりで泣いた。


今日はお葬式。少しでも長く母さんの顔を見ていようと思って母さんの寝室に入ると、おばあちゃんがいた。

「おはよう、早起きだね。こっちへおいで」
「おはよう、おばあちゃん」

2人で並んで母さんの顔を見た。母さんのいつもより白い顔は眠っているようだけど、ほんとうに眠っているときとは全然違う遠い感じがする。誰に聞かなくてもわかる。母さんは2度と動かない。

目の奥がじんとして、母さんの顔がぼやぼやとぼやけた。ほっぺたに熱い涙が流れて顎から落ちた。ぐすっとおばあちゃんが鼻をすする音が聞こえた。

「いい子だね、アンドレ。お前を見ているとわかるよ。ジュネは幸せだった。そうでなきゃ、こんなにいい子に育つわけがない」
「ほんと?おばあちゃん」
「ほんとうだともさ。そんな赤い目をしているくせに、にっこりできる子はそうはいないよ」

母さんは幸せだった、って言ってくれたからだよ、おばあちゃん。悲しいけれど嬉しいもの。それにね、母さんが死ぬ前に言ったこと、ぼくは絶対に守ると決めたから。

『優しくしなさい、アンドレ。そしてにっこり笑うの。
 あなたの優しい心とびきりの笑顔は、神様からの贈りもの。
 だから、あなたは人に優しくするときが一番つよいのよ』

「母さんと約束したからね」
「どんな約束だい?」
「ぼく、おばあちゃんに優しくするって」

おばあちゃんは、それを聞くとおいおいと泣き出した。ぼくは、おばあちゃんの背中を撫でてあげようとしたけれど、ちょうど真ん中には手が届かなかったから端っこを撫でた。優しくするって難しいね、母さん。

母さんがいないぼくの空っぽの世界に、一番最初に入って来たのはおばあちゃんだった。それから、おばあちゃんを手伝うためにジャルジェ家の人が3人も来た。

村長さんや、鍛冶屋のルーベンさんや、牛飼いのレイモンさん、他にも村の人たちがいっぱい母さんにお別れを言うためにやって来た。

ぼくがヴェルサイユに行くと聞いて、友達もいっぱいやって来た。ガストンにセバスチャンにジャックにオーギュスト、クリスティーヌ、マリー・アンヌ、セシルにマーゴ。

ガストンとはケンカしていたけど、真っ赤な目をしていて、ケンカのことなんか忘れているようだった。お葬式の準備ができた頃には神父様もやって来て、ぼくのうちは人でいっぱいになった。

ジャルジェ家の人は、来てくれたお客さんみんなに分けても余るほど、すごく綺麗な形のパイやお菓子や果物をいっぱい持って来てくれていた。

母さんがいなくなった途端、ぼくの空っぽの世界に、新しいものがどんど入ってくる。いつもは遠くにいるおばあちゃん。入りきれないくらい大勢が集まったぼくのうち。見たことのない綺麗な食べもの。初めて会うジャルジェ家の人たち。

でも、ぼくの世界は空っぽのままだ。

ぼくは、母さんとの約束どおり、お客さんの座るところを作ったりお茶を渡したり、ジャルジェ家の人が持って来てくれた食べものをテーブルに並べるのを手伝った。優しくするってそういうことかなと思ったから。

ぼくがそうやって頑張れば頑張るほど、なぜか大人の人は泣いた。死んだのはぼくの母さんなのに。友達は、珍しいお菓子に大喜びだったのにね。大人って難しい。

集まった人たちにお昼を出してから、お葬式のためにみんなで教会まで歩いた。母さんの棺はガストンのお父さんと、シモンさんの息子のラルフ兄さんと、シャルジェ家から馬車を御して来たジャン・ポールさんと、村長さんとこのジャン・ジャックさんが担いでくれた。

ぼくも担ぎたいと言ったけど、背が足りないからダメだと言われておばあちゃんと手をつないで棺の後を歩いた。

ぼくは、歩きながら棺にかけてある布のふさが揺れるのをじっと見ていた。この世には、そのふさしかないような気分になるくらい、それだけをじっと見ていた。

おしゃべりする人は誰もいないから、足音だけがざっ、ざっ、と聞こえている。いろいろな人の足音がたくさん重なって、一つになる。黄色いふさは足音と一緒に揺れて揺れて、ぼくの体も一緒に揺れて。

ぼくの空っぽの世界は、その音とゆらゆらする黄色だけになっていった。夢から目が覚めるときみたいに、体がふわふわしてどこかに運ばれていくみたい。

ふわふわした感じがだんだん暖かくなってきたと思ったら、教会の塔が見えた。母さんのための鐘が鳴っている。鳥のなく声も聞こえた。誰もおしゃべりしていないと思ってたけどそんなことなくて、みんなが静かにおしゃべりしていた。

父さんのおかげで村の人は誰も兵隊に行かなくてすんだこととか、感謝の印にみんなが一晩で母さんの棺を作ってくれたこととか。棺に納めてもらえるのは特別のことだとか。

おんなじ特別なら、母さんを特別に返してくれる特別の方がいいのに。そう考えたら、ふわふわの感じがいっぱいに拡って母さんが笑ったような気がした。

ぼくだけに聞こえたのかな。誰も気づかないみたいに話を続けているし、おばあちゃんをそっと見たら、悲しい顔をして前を向いている。

『母さん?』
声を出さずに呼んでみた。そうしたら、ぼくもどんどんふわふわになって広がった感じがして。それでわかった。母さんだ!母さんだ!ぼくは母さんに包まれている。

母さんは死んで目の前の棺の中にいるはずだけど、今は広がってぼくやおばあちゃんや村中を包んでいる。みんなどうして分からないんだろう。母さんがそこら中にいるのに。

ぼくはすごく幸せな気分になった。空っぽだと思った世界は、本当は母さんでいっぱいなんだ。

お葬式が始まった。ぼくはおばあちゃんに言われて母さんの棺のそばに蝋燭をたてた。神父様のラテン語の唱句が終わると、オルガンと一緒に『深き淵より』という聖歌を歌った。

難しい歌で、神父様以外はぼくも、誰もちゃんと歌えなかった。だけどぼくは気にならなかった。母さんはお葬式の間もずっとぼくを包んでいたし、どこを見ても母さんがいたから。

母さんの棺が深い穴の中に降ろされると、おばあちゃんがハンカチをくちゃくちゃに握り締めて泣いたけど、ぼくは泣かなかった。だって、母さんはもう棺の中になんかおさまってなんかいない。

神父様が、最初の土を棺にかける役目をしたいかいとぼくに聞いたので、大きな声で『はい』と答えた。母さんはぼくの心の中にも外側にもどこにでもいるけれど、体とはこれでお別れだ。

『ちょっとお待ち』とおばあちゃんが手提げ袋から母さんのオレンジ色の肩掛けを取り出した。おばあちゃんが編んであげた母さんのお気に入りの肩掛けだ。ぼくがゆうべ抱いて寝たやつ。

『これを棺にかけてやろうね』

オレンジ色が棺の上に広がった。母さんが背中を丸めたおばあちゃんをきゅうっと包んだけど、おばあちゃんは気がつかない。だからぼくがおばあちゃんの手を握った。わかる?おばあちゃん。これは母さんの手でもあるんだよ。

そしてぼくは、神父様のあとについてラテン語のお祈りを唱えると、棺が置いてある穴の中に一握りの土を落とした。

お葬式の間も、お家の片付けの間も、荷物を馬車位積み込む間も、お友達とお別れをする間も、ぼくの心の中にも世界いっぱいにも母さんはいた。母さんは何も言わなかったけど心がつながっているから、いろいろなことがわかった。

母さんの心は優しい気持ちでいっぱいで、ぼくのことも父さんのこともおばあちゃんのこともうんとうんと愛している。狼谷村のことや村びとはもちろん、葉っぱや石や木の枝とか、この世にあるもの全部を愛しているんだ。

だから、母さんはちっとも悲しんでなんかいない。心配もしていない。死産だったいもうとは洗礼を受けられなかったけど、ちゃんと母さんと一緒に神様のところへ行ける。

ぼくはすごく安心した。って言うか、愛してる気持ちでいっぱいな母さんと心が同じになったから、心配なんかできなくなった。でも、母さんはお別れに来ているだけで、じきに消えて行くんだって。

ぼくはこのまま母さんがいてくれたらいいのにと思ったけど、それではぼくが強い大人になれないんだって。ぼくは、強い大人になんかなれなくていいから、母さんのそばがいい。

ぼくがそう言うと、母さんがちょっとだけ悲しんだのがわかったけど、すぐに大丈夫だって言われた。ものすごく自信たっぷりに。絶対に絶対に大丈夫なんだって。神様の近くにいる母さんがそう言うのなら、きっとそうなんだね。

それなら、ぼくは母さんとの約束をきっと守るよ。見ていてね。



村の人たちとさよならしておばあちゃんと馬車に乗る頃、母さんは少しずつ薄くなっていった。馬車に揺られているうちに、母さんはどんどん小さくなって、ぼくの心の中で小さな点になってしまった。

でも、母さんはどんなに小さくなっても幸せいっぱいに笑っていた。そして、パリが見えてきた頃、ついに母さんはぼくの心の中に消えていった。

急に悲しい気持ちが戻っきて、ぼくのほっぺたが熱くなった。涙って枯れないんだね。ズボンの膝のところをギュッと握った握りこぶしの上にポタポタと大きな粒が落ちた。

おばあちゃんがぼくが泣いているのに気がついて、ハンカチでぼくの顔を拭いてくれながら言った。

「我慢していたのかい?いいんだよ、気が済むまでお泣き。あばあちゃんがこうしてあげるからね」

背中を撫でてもらって、肩を抱いてもらった。涙があごから落ちるたびに拭いてもらった。おばあちゃんの顔を見ると、まあるいめがねが白く曇っていた。

おばあちゃんが、ぼくの世界に本当に入ってきた瞬間だった。

それからはもう大変だった。ジャルジェ家から来た人たち二人はぼくの荷物を持ってそのままヴェルサイユに行ってしまったけど、ぼくとおばあちゃんはパリの大きなお屋敷に泊まることになっていた。

パリのお屋敷に着くと、おばあちゃんと同じ色の服を着た人たちが何人もいて、ぼくは囲まれてしまった。誰もがおばあちゃんをよく知っていて、おばあちゃんを抱きしめたり、ぼくの顔を見てはいろいろなことを言った。

大抵は、よく来たねとか、偉かったねとか、かわいい子だとか、褒めてくれたんだけど、ジュネはさぞ心残りだったろうね、こんな小さな子を残して、と泣く人もいた。

ここの人たちは、おばあちゃんだけじゃなくて、母さんのことも知っているんだ!すごい!それだけじゃなくて、母さんのことが好きなんだ、ってこともわかる。母さんのために泣いてくれているんだもの。

きっといい人たちだと思う。ただ、残念なことにおばあちゃんに名前を紹介して貰っても、ぼくの頭はもう何が何だか分からなくなっていた。

それだけじゃない。見たことのないフカフカの敷物や、きらきらした飾りのいっぱいぶら下がった蝋燭立て(シャンデリアって言うんだって後で教わった)やぼくより大きな彫刻や甲冑なんかがそこら中にあって、目がキョロキョロしてしまう。

どこをどう見ればいいのかわからなくて困っていたら、おばあちゃんはぼくの手をぐいぐい引っ張って、金色に縁取りされた大きなドアを押し開けた。そのお部屋もいろいろ凄いんだけど、そこにはまた背の高い男の人が紐のようなものを持って待ち構えていた。

「この子だよ!何とか明日までに一式縫い上げておくれ。とりあえず一組を必ず明日までにね。一日だってこれ以上お嬢様をお待たせするわけにはいかないからね。一組できたら同じのを三組み追加してヴェルサイユに届けておくれ。さあ、アンドレ、体の寸法を測ってもらったら、おまえはお風呂だよ。少し散髪もした方がいいようだね!」

ぼくの世界はいったいどうなってしまうんだろうか。おばあちゃんは、別人みたいになった。(見たことはないけれど)どこかの将軍様みたいに人に命令して、誰もがおばあちゃんの言うことをハイハイと聞いている!

ぼくのおばあちゃんって…。

何者?

新しい靴やバックル(というもの)や、薄い靴下や、靴下どめや、首に巻くものなんかも、行商の人を呼んでおばあちゃんが選んだり注文したりした。お辞儀の仕方と挨拶の仕方を教わった。

お風呂では体が赤くなるほどゴシゴシと擦られた。石鹸がいい匂いだった。そして、ぼくはもうすっかり目が回っているというのに、おばあちゃんはずっと喋り続けた。

このパリのお屋敷は、おばあちゃんがお勤めしているヴェルサイユのジャルジェ家の別館で、本館はここよりもなん倍も立派なお屋敷らしい(ひゃあ)。そこにはお嬢様が4人いる。お嫁に行ったお嬢様はふたり。

ぼくは、一番下のお嬢様と歳が近いので、遊び相手をしながらその子を守ることがお役目になるらしい。そうなの?それから、おばあちゃんは下のお嬢様がどれほど綺麗な子かを延々と喋った。

母さん、母さん、こんな大変な日は生まれて初めてだ。

おばあちゃんは下のお嬢様の自慢をするたびに、ぼくの背中を擦る手に力を込めた。お綺麗なお嬢様にあえるのは嬉しいけど、ぼくはもうフラフラでそのあとのことは覚えていない。

後で聞いた話だと、ぼくは目を回してお風呂で浮いてしまったらしい。大騒ぎになって、ぼくは引き上げられた後、そのまま朝まで目を覚さなかった。らしい。

知らない家に連れてこられたのに、ぼくは死んだようにぐっすり眠り、目が覚めたときにはものすごくお腹が空いていた。まだ名前も知らない料理係のお姉さんが出してくれた朝ごはんがとっても美味しくて、いっぱいおかわりした。

母さんが死んでから、初めてご飯が美味しいと思った。

名前はまだ覚えられないけど、お屋敷で働く人たちはみんな優しくて、僕に親切にしてくれた。ぼくが元気になったって、喜んでくれた。

おばあちゃんは、仕立て屋さんが遅いとかジャルジェ家に到着の知らせを送るとか、一晩たってもやっぱり将軍様のように人に命令していたけどね。きっと、こっちが本当のおばあちゃんなのかもね。

ひとつわかったことがある。

母さんが死んだとき、ぼくは空っぽの世界に放り込まれたようだった。おばあちゃんが来てくれても、村の人が来てくれても、ご馳走を見ても、やっぱりぼくは空っぽの世界にひとりぼっちだった。

でも、母さんが教えてくれた。ぼくの世界は母さんが死んでも空っぽじゃないことを。もう次から次へと新しいことばかりがぼくの世界に入ってくる。新しく会う人や見たり聞いたりするものは、ぼくの世界をどんどん賑やかに素敵にしてくれるんだ。

母さんや父さんと暮らしていたときとは違う賑やかさだけど、賑やかなのは同じなんだ。だから母さんは絶対に大丈夫だって教えてくれたんだ。

昨日、こんなに大変な一日は初めてだ、って言ったけど、母さん。大変な1日はこれから毎日続くことがわかったよ。

おばあちゃんの言った通り、パリの別館よりなん倍も立派なお屋敷の、まるで天国に続くような豪華な階段の上から

『きみ、なまえは?』

って聞かれたその時から。

でも大丈夫だよ母さん。ぼくのやることは決まっている。
母さんとの約束を守るだけ。

この子に優しくするのは、大人に優しくするより難しいかも知れないけど、母さんとの約束が、ぼくを強くしてくれるから。
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