万聖節が来る前に 9

2024/11/19(火) 原作の隙間 1762晩秋
「ぼうず、ここまでだ。おれはここで右に行くが、狼谷村は左だ。大丈夫か?」

ひょろりと痩せた髭面の男が荷馬車を止めた。荷台の隅で小麦用の麻袋に包まって震えていたアンドレは顔を上げた。狼谷村へ向かう道が本街道から枝分かれする場所に差し掛かった所だ。しっかりと見覚えがある。

道の又に立っている二本の楡の大木のうち、去年落雷で半分に割れてしまった一本が、アンドレの記憶に残るとおり半倒壊した姿そのままで大枝を垂らしていた。完全に落葉した林は薄闇の中に沈み、時折吹きすさぶ風が揺らす細枝がピシピシと乾いた音を立てている。

痛む足を引きずりながら、麻袋の山の隙間から這い出したアンドレは重たそうな雲に覆われた空を見上げてぶるっと背を震わせた。狼谷村へ向かう林道は街道より細く、黒々とした木々がを覆うように枝を垂らしている。まるで何千もの化け物が折り重なってアンドレに細長い爪を立てようとしているようだ。

もしここが見知った場所でなかったら、狼谷村まではあと半時ほどの距離であることを知らなかったら、地面に降り立つ勇気を振り絞ることはできなかっただろう。物寂しさが果てなく続く逢魔時にたったひとり。

「すぐに真っ暗になるからな、急いで行くんだぞ、坊主。本当におっ母さんが待っているんだろうな?」
「はい、ありがとうございます」
「気をつけて行けよ。じきに狼もうろつく時間だ、ほらこれを持って行け」

髭男は、腰に下げていた鎌でアンドレの手で握れるくらいの枝を切り落とし、長さを調整してから、アンドレに持たせた。

「地面を叩きながら行くんだ。狼よけになる」
「はい」

男は、今にも倒れそうな泥まみれの子供をこのまま行かせるべきかしばし逡巡したが、つばのすり切れた帽子を深くかぶり直すと、荷台に上がった。男の自宅のある村はまだ2リューほど先であり、帰宅すれば腰を降ろす間もなく、翌朝パリへ出荷する麦の脱穀作業が待っている。

送り届けてやりたい気持ちはあるが、年老いた馬も、自分も、疲労の限界が迫っている。特に、老馬は男の一家の命綱であり、余分な苦役は課したくない。

だから、道ばたで蹲っていた子供を見かけたとき、見て見ぬ振りで通り過ぎようとした。しかし、見て見ぬ振りをした自分を神様は見て見ぬ振りはしてくれないだろう、と思い直し声をかけたのだった。

荷馬車に乗せてやったのはほんの半時ほどだったが、その間に歩ける体力を取り戻しておけば、何とか真っ暗闇になる前に村へ着けるだろう。

森を貫く街道に街灯などありはしないから、完全に日没してしまえば道と森の区別はつかなくなり危険が増す。じきに夜行性の肉食獣が活動を始める時刻でもあった。

いくらかは助けになったはず、と髭男は無理矢理自分に言い訳し、子供の肩をぽんと叩いた。
「じゃあな、坊主」

このくらいで勘弁してくださいまし、神様、あとはお任せいたしますんで子供を守ってやってくだせえ。後ろ髪を引かれる思いで荷馬車の荷台に戻った男は、そっと胸の前で十字を切り、老いぼれ馬に鞭をくれた。振り向くと、ぴょこん、と頭を下げる子供の姿が夕闇に朧気ながら見えた。

泥まみれで明らかに弱り切った子供を路上に置いていくことに、髭男が後ろめたさを拭え切れないでいる一方、アンドレは、荷馬車に乗せてもらったことを心から髭男と神に感謝していた。

力尽きる寸前だったからだ。

次の一歩を出すことだけを考えて歩いていれば、どんなに遠くても絶対に村にたどり着けるはずだ、と自らを鼓舞して歩き続けて来たものの、体力は刻々と失われていった。ついに次の一歩をどうしても踏み出せなくなり、しゃがみ込んでしまったのだ。

しゃがんでも尻を地面につけてはいけない、と本能が警告した。一度腰を降ろせば、二度と立ち上がれなくなる。長く休めば、村へ着く前に森が漆黒の闇に包まれてしまう。

父の駆る馬に乗せられて何度も往復したことがあるアンドレは、どこまで行っても同じような森林が続く土道に、現在地を知る目印が乏しいことを知っていた。

『日の沈む前に着かなければ、迷ってしまう』

しかし、どうしても耐えきれず、腰を降ろしてしまった。冷たい地面につけた尻から体温がどんどん奪われてゆき、震えていた体はその力も失いつつあった。寒風が頭上で渦を巻いて通り過ぎてゆく。乾いた落ち葉が、そのたびにざあっと音を立てて舞い上がる。

森ごと、重い空が森ごと落ちて来て、潰されてしまったのではないか。そんな感覚に襲われるほど、体が重く意識がぼやけてゆく。

寒い、という感覚すら薄れ、目蓋が重くなった。体も岩になったように動かない。ふと、『ここまでなのかな』と諦めの方へ意識が向いた。すると、たちまち『諦める』という甘美な誘惑がアンドレを絡め取りにやって来た。

何が何でも歩き続けるしかない、と思っていたのに、他にも選択肢があったのだ。今すぐ、選べる楽な道が。そしてその先にきっと母がいるはず。

『母さん』

何と言う心安まる響きだろう。恐らく、母がいるであろう先にアンドレは手を伸ばした。これで楽になれる。楽な道こそが、今選ぶべき正しい道だと思えたし、母にも会えるのだ。閉じた目蓋の先に明るく暖かな光すら見える。

そっちに進んでいいのだ、と安心しかけたその時。伸ばした手とは反対方向である後ろから声が聞こえた。『アンドレ、母さんはこっちよ』。

アンドレはやっとの思いで重い目蓋を上げ、声の聞こえた方に頭を持ち上げ振り返った。たちまち光は消え、あたりは再び薄闇に沈む森に戻った。絶望の中で振り返った先には、半分破れた幌をかけた一頭立ての荷馬車が止まっていた。

御者台に乗っていた髭男に引っ張り上げられ、どこへ行くと聞かれ、ガチガチと合わないくちびるで、何とか『狼谷村』と答えた。村へ向かう道が街道から分岐するところまで乗せていってやろう、という男の申し出を警戒する余裕は最早なかった。

寒いだろうから包まっておけ、と言われ、風の当らない荷台の隅で何重にも空の麻袋を被り、丸くなっていると、次第に体温が戻ってきた。すぐに目蓋が重くなったが、路上で目を閉じた時とは違い、夢は見なかった。ただ、荷馬車の揺れに心地よく身を任せながらうつらうつらした。

体が幾分温まり、わずかな休息を得たアンドレは、分岐点で降ろしてもらった時には再び立てるようになっていた。狼谷村まであと少し。元気なアンドレの駆け足ならば、20分足らずで村の入り口に当る石橋に着ける位置だ。

それよりは長くかかるだろうが、ここまで来て、諦めてしまおうとしたなんて!馬車に乗せてくれた男は、姿を変えた神様の使いだったのかも知れない。そうだ、きっと母さんが送ってくれた使者に決まっている。神様、ありがとうございます、と短い祈りを捧げ、アンドレは再び歩き出した。

まだ、かろうじて足下の林道と枯れた下生えが生い茂る林の区別がつく。言われた通り、持たされた枝で枯れ葉で埋まった地面を叩きながら進んでみたが、あまりにも体力を使いすぎるので、じきに放り出してしまった。

今にも、林の中から狼が飛びかかって来るのでは、と恐ろしかった。一歩進むごとに夕闇が濃くのしかかって来るようだ。落ち葉を引きずる自分の足音が、獣が後ろからついて来る
音に思えて何度も振り返った。

吐く息の白さが、だんだん薄闇の中で見えづらくなる。それでもアンドレは、足を止めるな、次の一歩、と呪文のようにぶつぶつと口の中で繰り返しながら歩き続けた。しもやけで痛がゆい指先をこすり合わせ、鼻をすすった。

いくらか意識が朦朧としていたのだろう。懐かしい我が家が今は無人であること承知しているにもかかわらず、村に着いたら、母が温かい夕食を用意して待っている、という期待が、アンドレの小さな胸を一杯に満たしていく。

暖炉には父さんの作ったクレーンがかかっていて、その上には豆を煮る鍋がふつふつと音を立てている。部屋一杯に漂う煮物の匂い。ぼくが台所の床に落ちた野菜くずや枝葉をほうきで集めて捨てに行くと、母さんはありがとう助かるわ、と笑うんだ。

床をきれいにした後は、スープ椀とお皿とスプーンをテーブルに運ぶお手伝いをしよう。今日は父さんも帰ってくるから、いつもの木のお椀を戸棚から3つ出すんだ。母さんが大切にしているとっておきの陶器のお皿は、ぼくが届かない高い棚にしまってあるし。

心配しなくても、大事なお皿を転んで割ってしまうほど、ぼくは子供じゃないのにね。張り切ってお手伝いをしていると、母さんが台所から叫ぶんだ。鍋は熱いからさわっちゃダメよ、って。

ぼくは大きな声で、わかった~!って返事をする。お豆をよそうお手伝いだって、本当はちゃんとできるんだけどな。父さんなら笑って、やってみろって言うんだけどな。まあ、いいか。あれ?テーブルの上は母さんがむいた豆と栗の皮が山になっている。こっちもきれいにしよう。母さんがパン籠とスープを運んでくる前に。

突然、数羽のカラスが人間の赤ん坊のような鳴き声を上げ、バサバサッと羽音を立てて頭上の枝に降り立った。アンドレははっと、夢想から現実に返る。足はもう地面から持ち上げる力を失い、積もった落ち葉に足首を埋めたまま、ずるずると引きずっている。

背中がしくしくと痛んだが、寒さで凝り固まった肩に首を埋めて、アンドレは歩き続けた。寒風に、泥水で固まったシャツの裾を吹き上げられて、涙がこぼれる。やはり、泥でバリバリになった袖口で、ぐいぐいと涙を拭いながら、前へ前へと足を引きずった。

ここまで来たのだ。歩みを止めなければ、必ず村へ、懐かしい我が家へ辿り着けるところまで。諦めるな、と誰かが遠くで言っている。知っている声だが、もう誰だったかわからない。しかし、声は止むことなくアンドレの耳の奥で、頑張れ諦めるな、と繰り返した。

突然黒い小さな影が落ち葉が埋め尽くしている土道をさっと横切った。アンドレは、ひっと恐怖のあまり声を出したが、その影は林の奥へ走り去って行った。大きさからしてウサギだろう。目視で動物の種類を判別できないくらい森は暗くなっていた。

空を見上げれば、かろうじて枝枝が黒く判別できるが、漆黒の闇が訪れるのは間もなくだろう。アンドレは体と心がばらばらに動いているような感覚を覚えた。体はどう頑張っても走れないが、心は先へ先へと飛んでゆく。

その時、小さな暖かみのあるぼんやりとした光が林道の先にぽつりと見えた。それはゆらゆらと動きながら、そう丁度人が明かりを手に歩いているように小さく上下に揺れながら、少しずつ大きくなってゆく。

村まであと一息のところまで来たのだ。きっと、あれは村人の誰かだ。知っている人かも知れない!アンドレの心に灯が点いた。足下の落ち葉を掻くように足が前に進もうと足掻く。その間に明かりはぐんと近づき、人影を浮かび上がらせた。腰のところがきゅっと締まったスカート姿の女性のようだ。

灯りの逆光に浮かぶシルエットだけで、それが誰なのかアンドレにはわかった。スカートの衣擦れと落ち葉を蹴る足音、懐かしい匂い。人影は両手を広げてアンドレへ向かって小走りになる。アンドレも残った力を振り絞り、前のめりになりながら走ろうとした。乾いてひび割れたくちびるに、あふれ出る涙が滲みる。

足はいうことをきかず、アンドレの体は宙を舞った。頭から地面に突っ込むかと身構えた瞬間、懐かしい匂いのする柔らかな胸に抱き留められた。

「母さん!」

掠れた声しか出なかったが、アンドレは母に抱きついて、あらん限りの力が尽きるまで泣いた。泣いて泣いて、泣きじゃくる間、優しい手はアンドレの頭をなで続け、温かな頬ずりをしてくれた。

しゃくり上げる力すら尽きた頃、抱きしめる腕は力を緩め、アンドレの両頬を包んだ。導かれるまま見上げれば、そこには生前そのままの姿の母が微笑んでいた。

「まあ、まあ、泥だらけになって!ひとりで来てくれたのね、まあ、何てこと!少しの間にこんなに強くなって」
「か…あさん!生きていたの?」
「もちろんよ。ずっとあなたと一緒にね」


胸はいっぱい、声は枯れ、頭は働かず、アンドレはただ母のにおいに包まれてふわふわと漂う。気が遠くなるほどだった空腹感ももう感じない。凍えていた身体は温まり、重さすらどこかに行ってしまったようだった。

母の胸に抱かれ、アンドレは幸せに満たされていた。もう、何もいらない、ずっとこのままでいたい。しかし、母に何か伝えたいことがあったはず、との思いがふとよぎる。何だっただろう、と思い出そうとするが、あまりの幸せに、その思いは過ぎて掴みどころなく逃げていく。

そうだ!手紙に書いてある!アンドレはそれだけを思い出した。

「かあさん、あのね、ぼく…えっと」

大事に内ポケットにしまってあった、アンドレ渾身の作である手紙を手探りで探す。しかし、身にまとっているのは泥水を吸ってごわごわになったシャツだけだ。胸回り、尻のポケットとあちこちに手をまわしてみるが、何の手ごたえもない。

そうだった、+手紙は、奪われてしまった上着の内ポケットだ。アンドレはパリで恐ろしい目にあったことを思い出した。

「ぼく…母さんにお手紙書いたんだよ。でも、なくしちゃったみたい」
頑張って書いたのに。じわじわと再び涙が滲んでくる。母は優しく微笑み頷いた。

「大丈夫、お手紙は届いたわ」
「え?」
「たくさん綴りを覚えたのね。びっくりしたわ。頑張ったのね」
「え?どうやって届いたの?」
「後ろを見てごらんなさい」

振り返ると、カンテラを掲げ持つひときわ背の高い誰かがもう片方の手に畳んだ紙片を持ち立っている。カンテラは、いつの間にか中に小さな太陽でも入っているかのように、あらゆる方向をまばゆく照らしていた。

逆光で顔は見えなかったが、アンドレはカンテラを持つ人物が誰なのか一瞬で判別した。

「父さん!父さん、帰っていたの?」

父は跪き、カンテラを地面に置くと両腕を広げた。去年のノエルの後に大陸へ出兵した時のまま、変わらぬ笑顔だった。アンドレは父の胸に飛び込み、その首にかじりついた。母の柔らかな胸とは違う、広くがっしりした胸板が力強くアンドレを受け止めてくれる。そして、やはり懐かしい父の匂いがした。

「父さん!父さん!」
「ただいま、アンドレ。大きくなったな、顔を見せてくれ」

父は見上げるアンドレの顔を指でなぞり、大きく破顔した。アンドレは泣くまいと堪えれば堪えるほど溢れる涙を父に見られるのが恥ずかしくてたまらなくなり、父の首元に顔を埋めた。父はそんなアンドレの髪を大きな手で何度も撫でてくれた。

「母さんをよく守ってくれた。ありがとう、アンドレ」
「ぼく、ぼく…そうしたかったんだけど…母さんは…!」
「いや、おまえはよくやってくれた。母さんがどれほど心強かったか、父さんにはよくわかるよ。おまえのおかげだ」

アンドレは父の首にしがみついたまましゃくり上げ、その背中を母が優しく摩るのを感じていた。もう安心だ。母さんも父さんもいる。もう何も心配しなくていいのだ。何だか、長い夢を見ていたようだったが、もう終わるのだ。父も母も元気で何も変わらない村での生活を取り戻せる。アンドレの全身は、安堵と喜びで満たされる。

「さあ、家に帰ろう。ここまで歩いたおまえだ、村の入り口の石橋までもうひと頑張りできるな?」
「うん!」
「寒くないかしら?さあ、母さんの肩掛けをかけてあげるわ」

母が愛用していたアフガン編みの肩掛けはアンドレの足下まで届くほど大きく暖かかった。それにすっぽりと包んでもらい、首元でピン止めしてもらうと、アンドレは両親の間で両手を繋いだ。

父の持つカンテラが明るく照らす林道を歩き始めると、足首が埋まる程の落ち葉も、その下をのたくる木の根や小岩は全て消え失せ、シロツメクサやスミレが両端に咲き乱れる緑の道が現れた。

耐え難かった靴擦れの痛みは消え失せ、まるで足首に羽が生えたように、飛ぶように歩くことができた。暗い森はぐんぐんと後ろに遠ざかる。嬉しくなって、かわるがわる父と母を見上げれば、どちらも優しく微笑み返してくれた。

あっという間に石橋を通り過ぎた。村に帰ってきたのだ!カンテラは、まっすぐ続く花の道だけを照らし上げ、村の様子は漆黒の闇に包まれ見えなかったが、両親に挟まれて安心しきっているアンドレは全く気にならなかった。

数分もしないうちに、懐かしい堅牢な岩の館が花の道の先に見えてきた。自宅は村の端だから、もっと遠いはずなのにと、ちらと疑問が頭を掠めたが、やはり気にはならなかった。それよりも、家に帰って来られたことが嬉しくて足が自然にスキップを踏んだ。

父と母がそんなアンドレを見て笑う。なお嬉しくなって、両親の手を引っ張った。こんなに家が懐かしいなんて、一体どれほど長い夢を見ていたのだろう。アンドレはくるくると小躍りしながら、居間に面したポーチの階段を駆け上がった。玄関よりも、アンドレが好んで出入りする掃き出し窓は大きく開いていた。

何もかもが、元通りだった。石壁には母の手仕事であるタピストリー、床に敷かれたパッチワークのラグ。クッションも、カーテンも母が縫製したものが、記憶の通りに並んでいる。母に教わりながらアンドレが作った愉快な表情をしたフェルトの羊は、台所の窓枠に勢ぞろいしている。。

4人掛けのテーブル、藁編みの椅子は3脚、そのうち1脚はアンドレのために父の手で座面が高く設え直してある。機械技師の父は何事にも器用で、小柄な母が家を切り盛りしやすいよう、そこここに工夫を凝らすのが趣味なのだ。

天井梁近くまである食器棚前には母の身長に合わせた段違いの踏み台、石組みの暖炉の上には鍋類を並べる棚、暖炉周りを大きく囲むアイアンの柵は洗濯物を干せる仕様になっている。全て父の手仕事だ。

暖炉にはいつになく薪がふんだんに焚かれている。そのせいか、まるで昼間のように室内は明るかった。父が暖炉柵を片付け、母が椅子を運び、3人は火を囲んだ。体中がぽかぽかと温かかったが、母がアンドレの靴を脱がせて火にかざしてくれた。

「こんなに足を擦りむいてまで、よく帰って来てくれたわアンドレ」
「うん、すごく頑張ったんだよ。だって、母さんが一人ぼっちになったらどうしようって」

そう言ってから、アンドレははたと首を傾げた。人さらいから命からがら逃げだし、服と所持金を奪われ、凍えながら空腹を抱え、痛い足を引きずりながら、何度も諦めそうになりながら帰って来たけれど、なぜそうなったのだろう。思い出そうとすると、頭の中にモヤがかかる。

その様子をきづかわし気に見ていた父が、懐から紙片を取り出した。
「おまえが母さんに書いた手紙だ。父さんも一緒に読んでいいかな?」
「手紙?」

覚えているようないないような。書いた気はするけれど、もうどうでもいいような気がした。そんなことより、待ちに待った父にはして欲しいことがあった。父の留守中、ずっと我慢していたのだから。

「いいけど、そんなことより勇者の道に挑戦してもいい?」
「アンドレ…」
「いいでしょ、父さん!うんと久しぶりなんだもの」

勇者の道。むき出しになっている天井の太い梁のことを父子はそう呼んでいる。その梁を両手両足で抱きかかえた姿勢でぶら下がり、壁から壁まで渡り切れれば勇者と認定される。父子で決めたゲームだった。

梁はアンドレの両腕では抱えきれないほどの太さがあるため、7歳だったアンドレは広い居間の中ほどまで辿り着くのが精一杯だった。だから、力尽きて落下するアンドレを受け止める父が在宅する時のみ挑戦は許可されていた。

父と別れた時は7歳。今年は8歳になったのだ。身長も伸びたし力もついた。きっと成功するに違いない。成功しなくたって構わない。落下のスリルと、力強い父の腕に抱き留められる安心感。どちらも素晴らしいのだ。

「母さん、いいよね。だって父さんが帰って来たんだもの!」

アンドレは母に同意を求めた。どちらかと言うと、この危険な遊びに難色を示すことが多かった母が首を縦に振ってくれれば、父もやりやすいだろう。期待に満ちた息子のきらきらした瞳を見つめ、母はなぜか辛そうに唇を噛んだ。

父は、と見るとそんな母の肩を抱き寄せては何かそっと耳打ちしている。母は頷き、アンドレにそばに来るように手招きした。

「父さんが、あなたの手紙を読みたいと言っているでしょう?母さんも読みたいわ。先に一緒に読みましょう」
「う、うん…」

アンドレは渋々両親の間に座った。いつ書いた手紙なんだろう?もうすっかり思い出せなくなっていた。父は、くしゃくしゃとアンドレの頭をかき回すと、手紙を広げた。見れば、金色の飾り文字Jとツタ模様が四隅に刻印されている紙だ。見たことがあるやつだ!ふと記憶がよみがえったところで、父が手紙を朗読を始めた。

『かあさんへ。

ぼくは、ヴェルサイユのジャルジェ家というところで、おばあちゃんと一緒に暮らしています。さいしょは寂しかったけれど、ジャルジェ家にはおおぜい人が住んでいて、仲良くしてくれるので、もうあまり寂しくありません。

あととりのオスカルと一番なかよしになりました。おばあちゃんはとてもきびしいけれど、みんなが頼りにしているのですごいと思います。だんなさまは、王様におつかえする偉い人だそうです。

おくさまはとてもおやさしい人で、いい匂いがします。3にんのお嬢さまもおきれいです。もうふたり、お嬢さまがいらっしゃるけれど、およめにいかれたそうです。

ぼくは、オスカルに剣を教わるようになりました。べんきょうと家のしごとも教えてもらっています。ほかにもいろいろありますが、だいじなことを先に書きます。ぼくはげんきで大丈夫だから安心してください。みんながびっくりするくらい、ごはんもたくさん食べています。

かあさんは、万聖節のまえの日に狼谷村のおうちに帰ってくるよていですか?ぼくは、もうそこにすんでいません。でも、かあさんがおうちでひとりぼっちになるといけないので、ぼくは何とか10月31日にはおうちに戻ろうと思います。

うまく会えたらいいけれど、そうでなかったときのためにこの手紙をかいています。この手紙をみれば、もし会えなくてもぼくがげんきでヴェルサイユにいることがわかるからです。

かあさんは、狼谷村にしか帰ってこれないのですか?もし、ちがうところにも帰ってこれるなら、来年からはジャルジェ家に帰ってきてください。おばあちゃんもいるし、かあさんのことを知っている人がたくさんいます。だんなさまもかあさんをごぞんじだそうです。

それがいちばんいいと思うので、どうか神さまにおねがいして、来年からはきっとジャルジェ家にきてください。        

アンドレ』

父が手紙を読み終わると、母は両手を頬にあてて涙ぐみ、アンドレを抱きしめた。アンドレは茫然と母に抱かれていた。父が手紙を読み上げるにつれ、記憶がありありとよみがえってきたからだ。

間違いなく自分が書いたものだった。そして、手紙の内容こそが現実であることも思い出した。では、父と母がいるこの我が家は自分が見ている夢なのだろう。これが夢だなんて。暖炉の火は暖かいし、母の胸は懐かしいいい匂いがするのに。

だとしたら。大陸に出兵したはずの父が母と一緒にいるということは。盗まれてしまった上着の内ポケットに入れていた手紙を父が持っているということは。

認めたくはなかったが、見ないふりができるほどアンドレは幼くはなかった。母の胸に抱かれたまま父を見上げると、父は静かに頷いた。アンドレの頬を大粒の涙が幾筋も伝い、母の胸を濡らした。

「アンドレ、1年足らずで成長したな。立派な、思いやりに溢れた手紙だ。しかもこれだけの文章を書けるようになったとは、驚いたよ」

アンドレは母の胸を離れると、父のひざ元に寄った。ふわりと抱き上げられ、膝に乗せられる。父の腕や膝の感触も、その声も、夢とは思えないほど本物なのに、父と母から直接心に届けられる思いがアンドレに告げるのだ。

これは一夜限りのギフト。二つの世界がつかの間交差する奇跡の刹那なのだ、と。

「手紙は、オスカルが手伝ってくれたから書けたんだよ」
「素敵な友達ができたんだね」
「オスカルは友達だって言うけど、おばあちゃんや他の大人は身分をわきまえなさい、って言うよ」

「なるほど。おまえはどうしたい?」
「ぼくは、友達でいたいな」
「おまえが選べばいいさ」
「え?そんなことができるの?」
「強くなれ。そうすればできるよ」

父はアンドレの両肩をがっしりと掴み、慈愛を込めた眼差しを向けてくる。
「おまえは、何でも選べるんだよ。おまえは、何度も諦めることができたのに、諦めないことを選んだから、ここにいるだろう?どんな気分だ?」
「やったあ、って感じ。諦めなくて良かったと思う」
「ほら、天井の梁なんか渡って見せなくても、おまえは立派に勇者の証明を果たしただろう?昨日のおまえと今日のおまえはもう違う。一回り大きく強い人間になったんだよ」

アンドレは一言も漏らすまい、と父の言葉を追った。恐らく、これが父と言葉を交わす最後の機会になる。一言一言に込められた、これが最後という父の覚悟をアンドレは全身で受け取っていた。

「未知のことに挑むたびにもっとできることが増えて行く。辛いことも起きるが嬉しいことも起きる。どちらも、おまえを強く賢くするだろう。それが本物の冒険だ」

本物の冒険と言われて、胸の奥底でぞくりと動くものがあった。冒険と言えば、思い出すのはオスカルだった。狼谷村へ行く計画を立てた時、やるのか、やらないのか、とぐいぐい迫ってきたオスカルは、困難の水しぶきに自分から向かっていく時にこそ瞳が輝く子供だ。

「うん。オスカルが欲しいものはあきらめちゃいけない、って教えてくれた。だから、ここまで来たんだよ。できるわけない、って思っていたのに」

「できないと思っていたことを、おまえはやり遂げたんだな。素晴らしい」

「オスカルがやり方も教えてくれたからだよ。オスカルは、ぼくが知らないことを一杯知っているし、ぼくが考えつかないことを考えつくんだ」

「なるほど。でも、それは彼女も同じだよ。おまえが思いつくことを彼女は思いつけない。きっと、同じようにおまえも彼女に教えているはずだ」

オスカルに教えることなんて何もないけどな、とアンドレは信じられない思いで父の言葉を聞いた。

「オスカルは、一緒にいると、すっごく大変なんだけど、知らないことを知るのはわくわくするね」

父は白い歯を見せてカラカラと笑った。そうか、すっごく大変なんだな、と。そして、真顔に戻ると、一瞬の躊躇を挟んでから息子に問うた。

「おまえは、本物の冒険と絶対安全な冒険、どちらを選びたいか?」
「えっ?」
「今日、おまえは自分の力で困難を切り抜けることを学んだ。本物の冒険だよ。それとも、このまま父さんと母さんと一緒に暮らしたいか?」

アンドレは弾けるように身を起こした。このままここにいられる?周りを見渡せば、居間の設えのすべてが優しい調和に満ちている。祖母に引き取られてから、洗練された美意識を体現する生活様式を垣間見るに至ったアンドレだが、一番心安らぐ場所はここ以外にない。しかも。

「父さんと、母さんと…?」

母を振り返ると、大好きな優しい微笑みがあった。アンドレにとって、世界一美しい人だ。一緒にここで暮らす?冬を飛び越して、光あふれる春の華やぎが一度に訪れたかのように甘い香りで胸が満ちる。

もろ手を広げて抱きしめたい幸福を目の前にして、アンドレは何か既視感を感じた。どこかで、同じような感覚を覚えたことがなかったろうか?そうだ、暗く寒い林道で、棒切れのように動かない足に絶望して、もうここまでだと観念した時だ。それまで見えていなかった諦める、という道があることに気がついた時。

その道は、とてつもない甘さでアンドレを引き寄せようとしたのだ。諦めてしまう道は、何と魅惑的に見えたことか。

あの時と、同じだ!

父は、はっと目が覚めたように見開いた目で、中空の上に何かを探す息子の様子を見ると、妻にだけわかる苦悩のしるしを瞳に浮かばせて続けた。

「二度と腹はすかないし、凍えることもない。危険な目にも遭わない。傷つくこともない。そうだ、おまえが望めば冒険だってできるぞ。それこそ、勇者の道にだって毎日挑戦できる。父さんが下で受け止めてやるから、落ちても心配ない。絶対に安全な冒険だ」

絶対に安全な冒険。その一言を聞いた時、ふと誰かの面影がアンドレの脳裏に浮かんだ。アンドレは慌てて目をぎゅっとつぶる。もうそれが誰かはわかっていた。その子の瞳を見てしまったら、自分は優しく安全な世界を選ぶことができなくなることも。

その子がいてくれたがために、今自分はここにいるのだから。

「それとも、本物の冒険を生きたいか?おまえの世界を広げる挑戦を続けたいか?」
「父さん…ぼく…」

父は膝の上の息子を持ち上げ座り直させた。父子は真向かいになり、母が父の真横に寄り添った。

「どちらでもいいんだ、アンドレ。良い悪いなんてないんだよ」

アンドレは大粒の涙をこぼし続け、母がそれをぬぐってくれる。それでも止まらない涙、ぼやける父と母の笑顔。しゃくり上げるアンドレの肩は大きくなり、息は苦しくなり、ついに大号泣して父にしがみついた。父が母ごと抱きしめてくれる。母も涙を流していた。

「おまえの心はもう決めたようだね。それでいい。まだやりたいことがあるはずだ。自分の力で切り開いた世界を見たいだろう?こちらに来るのはもっと後でいい」
「ぼ、ぼく…、決めてなん…か…!」

大きく上下する小さな肩を、父と母が両方から撫でてくれた。その手は、泣きたいだけ泣きなさいと優しく言われているようだった。

「いや、おまえは決めているよ。だからこんなに泣いている」
「だって、だって…!」

涙でぐしょぐしょになったアンドレに母がこっちへいらっしゃい、と言うように腕を伸ばす。アンドレは導かれるまま母の胸に納まって泣き声を張り上げた。もう、何も言葉にすることはできなかった。

「母さんも寂しいわ。でもね、あなたの心はもっと自分の力を試したい、ってそう言っているわ。母さんにも聞こえる」

尚も泣き続けるアンドレの背中をゆっくり摩る母の手がそう言っているのか、心に直接響いて来るのか、もう区別などない中で、アンドレ自身もわかっていた。

出し得る限りの勇気を振り絞り、体力の限界を遙かに超えた試練を経て、やっと会えた父と母。離れたくない、失いたくなど有ろうはずはない。しかし、確かに母の言ったとおりの叫びが魂の奥底から聞こえる。

自分の足で立ち、自分の力で舵を取りながら航海してみたい。ときに波を乗り越え、ときに波に乗り。父母の庇護がない世界だからこそ、向かい風が鍛えてくれる。より遠くまで到達できるはず。ぼくはその先の景色を見たいのだ、と。

父母の庇護がない世界だからこそ、出会える人の手を取り、与え与えられることを知りたいのだ、と。

安全で温かい場所で微睡んでいるだけでは手に入らないそれを、手にする過程に挑みたい、と。

アンドレは声を枯らして泣き続けた。手にしたいものを求める『本物の冒険』のために手放さなければならないぬくもりに抱かれて。否応なしに別離した大好きな両親から、今度は自分の意志で離れるのだ。

親子の影は一つになったまま、燃えさかる暖炉の前で長く伸びて揺れていた。ひとしきり泣くだけ泣いたアンドレは、いつしか両親に抱かれたまま静かになった。ときどき小さくしゃくり上げる声と、パチパチと薪の爆ぜる音だけが小さな居間に響く。

「母さん、来年の今日もまた会える?」
半分眠りながら、アンドレは母に聞いた。答えは知っていたが。
「いいえ、こうして会うのはこれが最後」
「どうして?ジャルジェ家には来られないから?」

しゃくり上げる嗚咽が少し大きくなった。母は愛おしそうに息子の脳天にキスを落としながら、あやすように静かに息子を揺らした。

「母さんを寂しがらせないように、って考えてくれたあなたの優しい気持ちが、3人を会わせてくれたのよ。でもね、毎年それを期待するようになったら、あなたの成長を止めてしまうから」

暖炉の中で、太い薪がごとりと火の粉を上げて崩れ落ちた。母の膝で、揺れる炎を見ているうちに、心が凪いでくる。両親の思いは直接心に染み入ってくる。そして、そのままそこに留まるのだろう。

「もう少し、一緒にいてもいい?」
「ええ、もちろんよ。少しじゃなくて、ずっと一緒よ」
「そうだ、安心して眠るといい。前に話したことを覚えているかい?」

両親と過ごした最後のノエルに、父が語ってくれたこと。頭はすっかり忘れていたが、心はしっかりと覚えている。だから、これほど心が凪いでいるのだろう。目蓋が重くなってきた。もう少し、父と母の腕を感じていたい、アンドレは睡魔と戦ったが、眠りの淵に落ちていくのがわかる。

安らかな眠りに意識を明け渡す直前に、アンドレは身の内に父の声を感じた。

『本当に大切な人を、失うことはできないんだよ。たとえ、その人を忘れてしまったとしても、もうおまえの一部になっているのだから』

そうだったね、父さん。でも、ぼくはふたりとも忘れないよ。

父の腕、母の胸。大切な感触を心に刻みつけ、アンドレは眠りに落ちた。



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