いのち謳うもの8

2018/09/10(月) 原作の隙間1762~1789


「他にレパートリーがないからな、納得がいく仕上がりになるまで繰り返すぞ」
そうアンドレに指示出ししたオスカルには、トレードマークの不敵な笑みが浮かんだに違いない。アンドレは了解、の意味を込めて軽く頷いた。

「いいかい!まじめにおやり!オスカルさまにお手間をおかけするんじゃないよ!」

マロンから喝が入り、わかったから勘弁してよとアンドレが身振りで返したところで場は完全にリラックスモードに入った。

聴衆の緊張が緩んだ間合いを読むと、オスカルは前奏を開始した。今や完全にメロディを記憶したオスカルはコードを自在に展開し、変奏を加える。アンドレは自由に主題をアレンジしているオスカルに意識を集中した。

ピアノの音に乗って、かつての感覚が雪解け水のように流れ出す。24年前、この場で心のままふたりで歌声を遊ばせた。声を合わせたり離したり、追いかけ合ったりするうちに一期一会のハーモニーが生まれることがあった。

何の打ち合わせもしないのに、不思議と旋律と和音が美しく組み合わされるその瞬間は、意識を共有しているかのように、相手の意図が見えた。その時の呼吸が今鮮やかによみがえる。

オスカルが指を鍵盤に乗せると、新しい編曲のイメージが自然に広がった。溢れ出る創意のまま鍵盤の上に指を走らせる。自分でも曲がどう展開するのかわからないが、何故かアンドレが迷わずついて来ることは知っていた。

短いはずの前奏が何かに導かれるように変奏されていく。目を閉じたアンドレはイレギュラーな前奏に慌てるでもなく、落ち着いて流れに乗った様子だ。よし、アンドレ行くぞ!

オスカルがここ、と決めたタイミングで彼女の呼吸を読んだアンドレの伸びやかなバリトンが響いた。オスカルも一小節を遅れて追唱する。

思い出したぞ、この感覚!心が欲するままに歌えば歌うほど、ふたりの歌唱がひとつになる。メロディーは命が宿ったかのように、自在に形を変え、聴く者の心にぴたりと沿った。二人の掛け合いは先になり後になり、時にはひとつになり、自在に変化しながらたったひとつの主題を歌った。

人生のあらゆる瞬間に忘れ得ぬ人がいる。

全ての出会いが今の私を作った。

あなたを大切に思う私がいて私を大切に思うあなたがいる。

それだけで嬉しい。

見事に一体になった二重唱と伴奏は、シンプルな主題を幾通りにも変化させてから、引き潮が砂浜に残す波の跡のような余韻を残して静かに消えていった。

我を忘れて聴き入っていた聴衆は歌曲が終わったことに気づきもせず、夏の夜の魔法に身をゆだねたまま身じろぎ一つしない。人生に関わった人たちへの思いを全て音に託して出し尽くした二人は、胸の中が空っぽになった清々しさを味わった。

しん、と静まり返った聴衆の後ろに、オスカルが腕組みをした父親の姿を認めたのはその時だった。ジャルジェ将軍もオスカルの視線に気づき、小さく首を横に振ると、しわの刻まれた口角を上げた。

『いいから続けるがよい』という父の意向を理解したしるしにオスカルもかすかに頷いて見せてから、椅子から立ち上がった。同時に夫人の拍手が沈黙を破った。その音に我に返った他の聴衆からも一斉に拍手が沸き起こった。

「ブラヴォー、オスカル、アンドレ!素晴らしかったわ」

両腕を広げて賛辞を贈る母の元に歩み寄り、オスカルは跪いた。

「ありがとうございます、母上。恥ずかしながらお聞き頂けて光栄でございます」

母親の祝福を受けながら、オスカルは父親の視線を感じていた。使用人の背後で気配を殺して見守る父に、オスカルは息子たり得なかった自分に初めて許しが与えられたように感じた。

目頭の奥が急に熱くなる。息子であれ娘であれ、伯爵家の存続と栄誉に貢献しようとしまいと、軍功の多少にかかわらず、オスカルが両親にとってかけがえのない存在であることに変わりはないのだ。

跡取り息子として父が誇れる軍人になることだけを目指し、精進に精進を重ねた日々。その至上の命題しか見えなかった少女オスカルは、軍人として功績を積み、王家に忠義を尽くすことと自分の価値を同一視してしまったのだ。

だからこそ、血のにじむような努力もできたし、娘として育っていたら経験し得ないような、生きる実感を味わうことができた。支えてくれた幼馴染との絆は、困難に立ち向かう度に深まった。

しかしその反面、どう努力しても息子として父を満足させることのできない自分を恥じていた。父親の価値観から離れつつある自分を親不孝者と責めていた。女性であることは、オスカルにとって原罪だった。

「オスカル、今夜のあなたは何て美しいのかしら。わたしはあなたの母になることができて幸せですよ」

騎士然と跪いた娘の頬を両手で挟んだ夫人が潤んだ瞳にオスカルの姿を映してこう告げた。母が見た目の美しさを言っているのではないことがわかる。オスカルが彼女の愛する娘だから美しいと言っているのだ。母の無条件の愛情をオスカルは素直に受け取った。

「わたくしも母上の娘に生まれて幸せでした」

実際に言葉に出すことで、オスカルは突然理解した。こうして愛を言葉にすることに長けている母が、長年言葉に不器用な父の分まで愛を伝えてくれていたことを。オスカルの従者であった恋人が同じような役目を果たしてくれていたように。

母の思いも父の思いも根底ではひとつだったのだ。母子の頬にそれぞれ涙が伝って落ちた。マロン・グラッセもグスッっとハンカチで鼻をかんだ。オスカルは微笑んで乳母の縮んだ皺だらけの手を取った。

「もちろんばあやも愛しているよ。ばあやなしのわたしなぞ、考えられない。そうだろう?ばあや」
「お嬢さま、なんて勿体ないことを」

久しぶりに握った乳母の手はオスカルが記憶しているよりもはるかに小さく骨ばっていた。何という事だ。今夜この機会がなかったら、そんなことにも気づかず明後日の出動を迎えてしまっていたかも知れない。

アンドレの言う通り、これは神からの贈り物だ。老親の真心、オスカルと家族のために全身全霊で働きづめて一回り小さくなった乳母の存在。

別れが余計に辛くなるかもしれないが、知らずに出動したらわたしは本物の愚か者になってしまうところだった。ぎりぎの瀬戸際で気づけて良かった。そんな胸詰まる思いが溢れ出て来たが、オスカルは母と乳母の頬にビズを落とすと急いで立ち上がった。

マロンが大号泣を始める予兆の鼻音が聞こえたからだ。両親と乳母にもう一曲披露したくなったからだ。ちらりと父将軍の方を見ると、気配を消したまま暗がりから出る様子はない。

使用人に気づかせてしまったら最後、彼らは将軍を無視してこの場に居続ける訳にはいかなくなる。それを配慮して父は存在を消したまま佇んでいるのだ。

言葉に不器用な父親は、その行動で本意を表現して来た。若くて自分の事に精一杯で、そんな父の気持ちを汲み取れずに長い年月を過ごしてしまったことに気づくことができたオスカルは、そのことにも感謝の念を覚えた。

「ばあや、もう少し堪えてくれ。もう一曲披露しよう。それまで泣くのは厳禁だ、いいね」

わあっと聴衆が沸き、マロンはくしゃくしゃになったハンカチをまるめて口元に当てた。ピアノ前で呆けていたオスカルの恋人が彼女の暴走に口をあんぐりと開けたが、オスカルは構わず再びピアノの前に座った。

「よし、アンドレ。おまえがさっきアカペラで歌ったやつだ。確か出だしはこうだったな」
慌てる恋人をよそに、一度聞いただけのメロディをオスカルはすらすらと即興で奏で始めた。

「えっ?嘘だろ?あれを?」
「それだ」
「そんな、無茶な」
「私の記憶力をあなどるな」
「そ、そういう問題じゃなくな、オスカル」

そうこうするうちに、オスカルは短い曲を弾ききってしまった。
「どうだ、間違いないだろう?」
得意げに胸を張るオスカルに拍手が沸き起こる。
「参りました・・・完璧です」
大きな体を心持小さくしてうな垂れたアンドレに同僚からヤジが飛んだ。

「あきらめろアンドレ。こんな機会はめったにない。聴かせてくれ」

若い侍女からも歓声が上がった。オスカルは動揺するアンドレをここで初めて気の毒に思ったが、両親に対してもマロンに対しても、これが正しい行いであると確信があった。

面と向かって告げることは許されない真実を、形を変えて伝えること。それをしないまま出動してはいけない。それが両親と乳母に対してオスカルができる精一杯の感謝の形だった。

オスカルは二巡目を演奏しながら、恋人の様子を伺った。覚悟を決めるのに難儀しているようだが、聴衆の後ろに隠れるように立っている父将軍には気づいていないらしい。アンドレにしては珍しいことだとオスカルは訝しんだが、その方が彼にはやりやすいだろう。

自分の一存で振り回してしまうことになったが、これはアンドレに対してオスカルが示す出来る限りの誠意でもある。オスカルの手で巧みにアレンジされた曲は二巡目を終わろうとしていた。

「アンドレ」

オスカルはアンドレを促した。唇をかんでいたアンドレが眼を閉じて大きく息を吸い込んだ。覚悟が決まったようだ。オスカルは二巡目を弾き終わると、一呼吸間を置いた。二人の呼吸が重なり、次の瞬間にアンドレの一声とオスカルが叩く鍵盤がシンクロした。

心が塞いだり、うまく行かない時は
君みたいな誰かにそばに居て欲しいな
ぼくの心に王座をつくってくれる
いつまでも一緒にいてくれるぼくの君

もしも、君が世界でたったひとりの女の子で
ぼくがたったひとりの男の子だったなら
何があっても怖くない
ふたりの愛は変わらない
エデンの園はふたり占めさ
誰にも邪魔はできないよ
僕は君に山ほど素敵なことを言うだろう
ふたりでうんと素晴らしいことをしよう
もしも、君が世界でたったひとりの女の子で
僕がたったひとりの男の子だったなら

しつこくて済みません。とても可愛らしい曲です。是非、Alfee Boe氏の声をアンドレと思って目を閉じて聴いてくださいまし

腹を括ったアンドレの深いバリトンが軽快にオスカルのピアノに乗った。息の合いようはぶっつけ本番であることが嘘のようだった。

2分で終わる短い曲である。オスカルはアンドレが歌い終わっても演奏を止めず、二巡目を続けた。アンドレは仕方なくオスカルに合わせたが今回はオスカルもアンドレにハーモニーをつけた。

短い曲とは言え、オスカルは歌詞も完璧に覚えていた。オスカルはさらに三巡目を続けるつもりらしく、今度は間奏を入れた。

「これで終わりだ。もう一回だけ頼むぞアンドレ」

アンドレは黙って頷いた。歌詞の内容とアンドレ自身の思いを聴衆が重ね合わせてしまうことが心配だった。ましてジャルジェ夫が聴いているとなれば尚更だが、もうじたばたしても始まらない。

三巡目した曲は二人の息がさらにぴったり合いハーモニー美しさが際立った。掛け合いを交わすには単純すぎるメロディーラインには、主旋律を歌うアンドレに対しオスカルが副旋律を添えた。

3度ほど音階を開けた二人の声が素直にひとつに調和する。聴いている聴衆の優しい気持ちが奏者に流れて来る。

フィナーレに持って行こうとオスカルはテンポを落とした。アンドレはオスカルがどのようにテンポを変えてもぴったりと合わせて来るので、何の心配もなく自由に演奏を広げた。

最後の2フレーズを残したところでオスカルが主旋律を歌い始めたのでアンドレは自然に引き、副旋律をファルセットのアハミングで添えた。

そのまま曲は感動のうちに静かに終わるはずだった。しかしアンドレと聴衆を待っていたのは驚愕の幕引きだった。主旋律を引き取ったオスカルは歌詞を変え、リフレインした。

もしも、君が世界でたったひとりの男の子で

わたしがたったひとりの女の子だったなら



オスカルは真っすぐにアンドレの瞳に自分のそれを合わせ、最後の2フレーズをゆっくりと歌い切った。見えなくても、オスカルの意識が聴衆ではなく自分に一直線に向けられたことを感じ取ったアンドレは驚きを隠せなかった。

従者として、何が起きても感情を表に出さない訓練を積んだはずなのに、膝が震えて止まらない。一方のオスカルは嫣然と微笑むとピアノから立ち上がった。それを待っていたかのように、聴衆の背後からジャルジェ将軍が音もなく姿を消した。気づいたのは娘だけだった。

拍手を忘れた使用人が静まり返る中、夫人が立ち上がり、惜しげもなく拍手を送った。

「ブラヴォ、オスカル、アンドレ。何て愛らしい歌でしょう。まるで25年前に戻ったようね。本物の双子より息が合っていたわ!」

夫人の称賛に被るようにして使用人らからも拍手と歓声が上がった。そして、その後はついに号泣を始めたマロン・グラッセを中心に大騒ぎになった。オスカルとアンドレがジャルジェ夫人の前に進み出て礼をすると、あたりまえのようにアンドレには涙でぐちゃぐちゃになったマロン・グラッセが手渡された。

同僚たちの手で祖母を背負わされたアンドレの頭にゲンコツの雨が降り注いだ。『ごめん、ごめんおばあちゃん、もうやめてよ』と哀願する孫の関心は、ゲンコツを受ける自分の頭ではなく、祖母の疲労だ。

仕事仲間は、そんなアンドレのポケットに手持ちの小銭やキャンディやゴミくずなど、手当たり次第につっこんでは口々に喝采を送った。

「そら、おひねりだアンドレ、よかったぞ」
「またお願いね、ほらわたしのとっておきのお菓子よ」
「ここクビになっても十分食っていけるぞ、心配ない」

聞きようによってはシャレにならない称賛も中には混じっていたが、アンドレは同僚たちにもみくちゃにされながら、彼らのふざけた歓声と、祖母の怒号に心から頭を下げた。

なぜなら、陽気な騒ぎがアンドレの隠すに隠せない動揺を覆い隠してくれたし、祖母のゲンコツが涙目の理由になってくれたからだ。さもなければ、オスカルの大胆な宣言に膝から崩れ落ちてしまいそうだった。

同僚らもそれを理解して、ジャルジェ夫人が同席している場にそぐわない騒がしい称賛をくれたのではないか、と思ってしまう。夫人が真っ先に拍手をくれたのも同じような配慮ではないだろうか。アンドレは回らぬ頭で考え考え、祖母を背負ったままジャルジェ夫人に再度深々と頭を下げた。

パンパン、と拍手ではない打ち手の音が響いた。
「皆さん、お静かに!静粛にお願いします!持ち場に帰る頃合いです。オスカルさまにご挨拶の上、すみやかに動いてください!」

デュポールだった。
そう言う本人もジャルジェ夫人とオスカルに深く礼をしたところ、逆に二人からビスを受けてくしゃくしゃの顔をしている。使用人らもオスカルの周りを取り囲んだようだ。アンドレはその間にそっとその場を去ることにした。そうしなければならなかった。誰かに気づかれてしまう前に。

『おばあちゃん、皆にもまれて方向がわからなくなった。誘導お願い』
孫にこっそり耳打ちされたマロンはまた泣いた。
「馬鹿な子!馬鹿だよおまえは!」
マロンの涙の意味が変わったことに気づいた者はいないだろう。
「ごめん」
明朝もおなじことばを祖母に繰り返すことになる不詳の孫は、手綱代わりに髪を引っ張る祖母に誘導されて、ホールを後にした。
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