
わたしはお祭り好きな方ではないのだが、黒い瞳亭1周年は特別な記念日だから、ぱっと派手にやりたいと思った。通常は特別な企画であればあるほど、相棒と頭を突き合わせ計画を練り上げるが、今回わたしは一人でやり遂げた。
相棒の頭脳とセンスは素晴らしいのだが、彼はわたしが暴走を始めそうになると、いつの間にか綺麗に制御してしまう嫌いがある。しかも、わたしが気づく間もなくやってのける。
後になって上手く丸め込まれていたことに気づくことほど、悔しいことはない。おっと、失礼、仕事上ではその手腕に感謝している。幾つもの修羅場を未然に防いでくれた。しかし、遊びの場面では引っ込んでいて頂きたい。
という訳で、わたしはやり抜いた。その成果は上々。わたしらしいしっちゃかめっちゃかな発想がふんだんに生かされたイベントとなった。
記念式典のメインイベントはギャルソンレースだ。通常、ギャルソンレースといえば、飲食店が代表選手を立て、店舗間で勝敗を競う。選手は規定の大きさのトレイにワイン瓶とワインを満たしたグラスを載せて走る。距離は1キロ、5キロ、10キロなど様々だ。
勝敗は、タイムと、ワイングラスにこぼれず残った残量とを総合したポイント数で決まる。お遊びには違いないが、脚力、駆け引き、絶妙なバランス能力、持久力と、どうして高度な総合力を必要とする競技であり、結構白熱する。
ヴェルサイユ杯ギャルソンレースが去年6月に開催された。我が黒い瞳亭は、スタッフ全員の票を獲得した我が相棒、アンドレを代表に選び送り込んだ。派手に目立つことが嫌いな彼は最後まで無駄な抵抗を試みたが、ナゴシエーションが面倒になったわたしがオーナー権限を濫用し、社命とした。
嫌々出場させられたくせに、彼は黒い瞳亭を初出場にして初優勝に導いた。二位に大差をつけたぶっちぎりのタイムだった。ついでに思いっきり黄色い声援も浴び、この夏は客数が飛躍的に伸びた。・・・全く。結構なことである。
「で?」
「何だ?」
「機嫌が悪い原因は?おまえの思いどーりに、黒い瞳亭開店1周年記念ギャルソン対抗チャリティーレースは、大盛況だってのに。このぶんだと、レース後のガーデンパーティには人が溢れるぞ。中庭を開放するだけじゃなくて、沿道も使えるように今から許可をとっておいた方がいいんじゃないか?」
大層ごもっともな意見だが、レースの出番を前にしたおまえも相当機嫌が悪そうじゃないか。往生際が悪いにも程がある。
「任せる。手配しろ」
「おれはね~、社命でこれからレースに出るの。そんな暇はないよ。まさか社命を知らなかったとか?社長」
「何をごちゃごちゃお言いだね、お嬢様の言うことが聞けないのかい?」
「いって~、いちいち腹を蹴らないでくれよ、おばあちゃん!」
アンドレの背におぶさっていたばあやが孫に活を入れた。
そう、実はわたしの機嫌はすこぶる悪い。理由はわからない。たかが一軒のカフェの主催するイベントのわりには、アンドレの言うとおり大盛況だ。一体どこで情報を得たのか分からんが、のぼりを立てた外国からのツアー客までいる。
のぼりに書かれたカンジは読めないが、その方が平和な気がするからあえて追求はしていない。レースのスタート地点となるガーデンテラスはもとより、今回は5キロと定めたコースの沿道までびっしりと埋まった客は殆ど女性。歓声が華やかに色めいている。
先月のヴェルサイユ杯で話題をかっさらった勝者が登場するし、黒い瞳亭店内フラワーアレンジを専属でやってくれているジェローデルや、スウェーデン大使のフェルゼンがゲスト参加するとなれば、女性が目の色を変えて観戦に来るのは道理だ。なにしろこの二人、社交界では絶大なる人気を誇っているのだから。
ジェローデルは、フローリストとして黒い瞳亭へやって来るが、それは彼の本業ではない。彼はグラースに広大な農園を持っており、生花と香水を生産する傍ら、国内外に20ものフラワースクールを経営する実業家である。
花を生けに来てくれるのは、ボランティアだそうだ。フェルゼンは在仏スウェーデン大使としてマスコミにたびたび登場するだけでなく、フェンシングワールドカップに何度も出場していて、その筋では有名だ。
ジェローデルは、下心つきですよ、にこやかに宣言して参加を承諾してくれた。はっきり言ってくれるので非常にやりやすい(フローリストボランティアも、下心の賜物なんだそうだ)。
フェルゼンも趣旨を説明すると、面白そうだと二つ返事で引き受けてくれた。残念なことに、こっちの彼の方に下心はない。あ、いや、その・・・別に残念ではない。わたしは洒落を解するふたりの伊達男に感謝した。
話が横道にそれるが、フェルゼンに出場を依頼するわたしの態度を褒めてやって欲しい。誰が見たって友人以外のなにものでもない自然な振る舞いだった。フェルゼンにも、わたしが過去の想いを引きずっていないことが伝わっただろう。まだ少しだけ胸が締め付けられる感じがするのは、そう、ただの習慣としての反応が残っているだけだ。
…?わたしは誰に言い訳をしているのだ?
と、とにかくだ。
このビッグゲストの名がエントリー表に乗っているからこその集客。女性客をターゲットにしたイベントだから、目論見は大成功なのだ。二人とも道化を演じることを承知の上で引き受けてくれたし、役目を楽しんでくれる余裕まである。
何処かの誰かとは大違いだ。
・・・何もかもうまく運んでいるのに、なぜかむかっ腹が立つ。
「さすがにバイト連中とは、立ち居振る舞いの洗練度が違うね。あのお二人は。この凄い声援も頷ける」
少し拗ねた声が横から聞こえて心臓が飛び出しそうになった。まだそこにいたのか!さっさとおまえもいつものように愛想を振り撒いてきたらどうだ!大声援の半分はおまえのファンだろうが。
・・・いかん、ついわたしまで拗ねたくなる。
「さて、いつまでもアランたちばかりに引き立て役を押し付けていたら可哀相だ。もう一頭の当て馬も出動してくるよ」
人の気も知らず、相棒は二本指でぴっと敬礼して見せるとよいしょ、とばあやを背負い直した。
「ほれ、たらたら歩いているんじゃないよ。もっと軽やかに走っておいき」
「重いんだって、ああ、クラバットを握らないでくれよ、手綱じゃないんだから」
アンドレはばあやに追い立てられるように人垣に囲まれたスタートラインへ向かって行った。
何が当て馬だ。黒い瞳亭はジャルジェチョコレートファクトリーのサテライトカフェだから赤字になりさえしなければよかった。それをたった一年でドル箱に成長させたのは、無節操にばら撒いたおまえの笑顔じゃないか!経営者としては、褒めてやるところなはずだが、ううむ、何か気に入らん。
アナウンス嬢役のロザリーが彼の名を紹介すると、会場はどっと歓声に沸き、そしてばあやを背負った彼が登場すると大きな笑いの渦が巻き起こった。すかさずロザリーが説明のアナウンスを入れる。
「ヴェルサイユ杯優勝のグランディエ選手には今回ハンデがつけられております」
並み居るプロを引き離し、優勝をかっさらったアンドレとでは勝負にならないとゲスト選手からクレームが相次いだので、アンドレはハンデをつけられることになったのだ。
ハンデを決めたのは当然わたしだ。ばあや以上に最適のハンデはないだろう。そして、そのばあやときたら、自分が走るわけでもないのに、闘志満々でアンドレに蹴りを入れていた。
ロザリー嬢が観客の皆さんにハンデがつけられたいきさつをアナウンスすると、大いなる歓声が上がった。ばあやは上機嫌で手を振って歓声に応え、さらなる笑いを誘った。
自称ハンサムも今日はしっかり三枚目だ、思い知ったか。花形売れっ子ギャルソンにそのボスが言うせりふとは思えんが、祭りの上のことだ、構うものか。おお、何と爽快な気分だろう。そのはずなんだが・・・。
アンドレは大いに不満そうに振り向くと、覚えていろ、と唇を動かした。その様子を見て、子供時代、アンドレをやり込めるのが楽しくて仕方がなかったことを思い出した。あの頃は同じ苛めるにしても、もっと・・・。まあ、いい。ゆっくり観戦させていただこう。

カオル様寄贈 有難うございました!
さて、我が黒い瞳亭主催のレースは、通常のギャルソンレースと趣向を変えてある。せっかく集めた女性客にとことん楽しんでいただくために、馬券ならぬギャルソン券を1ユーロから販売することにした。
エントリーしたギャルソンは全部で八頭立て(失礼!)と小規模なので、配当は大したことはない。ただ大穴が何頭もいるし、本命がハンデを負い、ゲストの実力は未知数だから、なかなか面白い展開になるだろう。
目的はチャリティーで、配当金は現金ではなく黒い瞳亭内だけで通用する通貨Jコインで支払われる。そして、レース終了後、配当金を手にしたお客は、好みのギャルソンから値段に応じたさまざまなサーヴィスを受けられると言うわけだ。あくまでも健全なサーヴィスに限ることを言い添えておこう。
そしてギャルソン券の売り上げは、そっくり地雷除去基金と、カンカン村から迎える留学生の奨学金に当てられる。さあギャルソン諸君、体を張って頑張ってくれたまえ。
と、仁王立ちして豪傑笑いをかましてやろうと思ったわたしのシャツの裾を引くものがある。不吉な予感がした。
「オスカルおねえちゃま!」
出た!
「ル・ルーも走る!」
やれやれ。ただのレースなら参加させてやってもいいが、一応ギャンブル形式をとっているからな。未成年はまずいだろう。後で姉上にバレたら・・・きっとバレるだろうが・・・大事だ。
「ル・ルー、これは大人の遊びなのだ。どういうことか分かるか?見るからに馬鹿騒ぎだが、行き過ぎと限度の加減を熟知した大人だからこそ許される脱線行為なのだよ。おまえもあと十年ほど経って、色々経験を積んだら・・・ん?」
いない。
姪は、説教を黙って聞いているようなタマではなかった。
ル・ルーはさっさとわたしに背を向けると、スタートラインに居並ぶ我が黒い瞳亭ギャルソン選手達の足元にまとわり着いて、子供らしくおねだりをしていた。姪の正体をよく知るアンドレだけが眉根に皺を寄せて注意深く彼女を観察しているが、他の男たちはあっさりと彼女の年齢とあどけなさに騙され、身を屈めて優しく構っている。
ル・ルーも心得たもので、いつもなら煩いほどアンドレにじゃれつくくせに、今回は標的をジェローデルに定めたようだ。オムツの取れない2歳児であっても丁寧にレディ扱いする彼の特性を察知したのだろう。レディ気分を味わいたければ、最適な人選だ。我が姪のプロファイリングテクはまっこと恐ろしい。姉上の気苦労はこれからも続くだろう。
タキシードにゼッケンをつけた男たちの輪の中で姫様気分を堪能し、ジェローデルの小粋なトークで何かを諭された後、ル・ルーはにこにこと嬉しそうに手を振りながらわたしのいるVIP席に戻って来た。
さて。
レースは、これ以上考えられないほどの盛り上がりを見せた。わたしがイベントの話を持ちかけるなやいなや『は~ん、基金集めの人身御供になれということだな』と即座に主旨を理解したフェルゼンは、それなら徹底して役目に務めようと、素晴らしい生け贄ぶりを見せた。
沿道の観客一人一人に爽やかな笑顔で応え、握手に応じ、差し出されたグラスには手にした競技用のワインを注いで回るといったサービス振りだ。そのうち会場整理係のディアンヌ嬢は、代えのワインを持ってフェルゼンの後を追う羽目になったが、じきに人ごみの中に見失ってしまったらしい。
客の求めに応じてコースからしばしば脱落するフェルゼンは、時に細い路地まで入り込んで迷子にすらなった。そのあたりは予測がついたので、あらかじめ地図を渡してあったのだが、磁石も与えておくべきだった、と後で反省した。現在地が分からない人間に地図は役に立たないのだ。彼はレース後のガーデンパーティが始まった頃に、堂々と最下位でゴールした。
思いのほか早かったのはアランとフランソワだ。あいつらはサービス業の何たるかを全く理解していないから、ただの闘争本能のまま突っ走る。勝ったからといって、別段特典があるわけでなく、ギャルソンはチャリティーのための道化役と言い聞かせてあったにもかかわらずだ。
一度走り出すと、ひたすら負けず嫌い魂が燃えるのだろう。まあ、デッドヒートを繰り広げるシンプルな男どもは、見ていて面白いし、何と言ってもレースなのだから、こういったガキッぽい奴は盛り上がりに必要不可欠だ。結構この手合いが好みの女性も多いらしく、声援の大きさもあなどれない。
ジェローデルはフェルゼン以上にカメラ目線である。自分の仕草ひとつ、表情ひとつがどう観客の目に映っているか、すべて承知なのだ。笑顔サービス、リップサービス、右斜め45度ポーズサービスくらい居眠りしながらできるので、フェルゼンのようにレースがお留守になりはしない。
彼はアラン達のように勝敗にこだわるとは思えなかったのだが、マジに勝負にも出ているようだ。さすがはジェローデル、観客の応援合戦にも応えるべく、レースにも力を注いでいるな、と感心していたら、どうも様子が違う。
握手も投げキッスもおろそかにせず、非常ににこやか、身だしなみのチェックも怠らないくせに、彼はアンドレに真っ向から勝負を挑んでいた。
アンドレと言えば、熱く燃えるばあやに御され(?)まくり、右も左も眼中にない。何か仕事を与えられるとそれが理不尽だろうが何だろうが真面目にべストを尽くしてしまう(彼曰く)悲しい性からは逃れられないのだ。
売り物の爽やかな笑顔を撒き散らす余裕はなく、真剣そのものの眼差しをゴールに向けている。勝負をかけて来るジェローデルとの駆け引きに応じる様子もない。そしてそれが更にジェローデルの闘志を掻き立てるらしい。
観客はと言うと、笑顔を向けてもらえなくとも、片腕でばあやを背負い、もう片手で器用にトレイを操るコミカルな姿がキュートだとやんやの喝采を浴びせている。するとばあやが無理やり沿道を向かせ、挨拶を強要させる。とほほとボヤキが聞こえてきそうな情けない笑顔で会釈するアンドレ。またそれがかわいいとその都度歓声があがった。
結果はアランとフランソワの同点優勝だった。次いでアンドレ、ジェローデル、ラサール、ピエール、ジャンにフェルゼン。勝者二人はともに大穴だったので、配当は半分になったものの単勝で当てた客が沸きに沸いた。その他複勝と、馬連が多く出た。
初心者が馬券を買う場合、単純に見た目が美しくて強そうな印象を持った馬を選ぶといい、と言われるが、まあそれは馬の場合だけに当てはめておいた方が良さそうだ。観客はそれぞれ真剣に購入した馬券、もといギャルソン券のチェックに余念がない。購入分全てすってしまった客もいたが、目的はチャリティーなので、残念がりながらも雰囲気は至って陽気だった。
「驚きましたよ。まさか抜かれるとは思いませんでした」
「これを負ぶって見ればわかります。命が惜しければ・・・いてっ!」
「この腰抜けが!これとは何だいね、失礼な!」
ぜいぜいとまだ息を切らしているアンドレに、ジェローデルが悠然と微笑んで話しかける。勝負をかけたわりには悔しそうでも何でもないが、何故か羨ましそうな、寂しそうな笑みに見えたのは、気のせいだろうか。
さて、レースの後は一周年記念祝賀パーティである。うちのギャルソン達は配当を体で支払うのに忙しい。二人のVIPゲストは、パーティの間黒い瞳亭に留まり、テーブルを順々に回ってお客の話し相手になってくれるが、当然ギャルソン役は免責されているから、実際に体を使って汗を流すのはいつものメンバーだ。
特に客のリクエストが集中するアンドレはサーヴィングとお相手と両方をこなさなければならない。レースでも人一倍体力を使っているのに、助っ人としてフロアにいるばあやを再びおぶわされて、あちこちで写真撮影の要望に応えていた。
「しかし、少々彼をこき使いすぎじゃないか、オスカル?客は大喜びしているが」
テーブルを一巡したフェルゼンが戻ってくるなりわたしに意見した。その話題には触れないで欲しい。正直言うとわたしもやり過ぎだったかと後ろめたいのだ。
「乙女の心は天邪鬼なものですわ、ハンス」
誰かがわたしの代わりに答えた。何、ハ、ハンスだとお~っ?!おお、遥か下方にひょこひょこと縮れっ毛頭!どおりで見えなかったはずだ。何時からそこにいた?
「ほほう~?つまりどういうことかな?」
フェルゼン・・・まともに相手をしないでくれ、頼む。
「それは・・・デリケートな乙女心を揺さぶることになりますから言えませんわ」
っだ、誰のことを言っている!ああ、もう我慢ならん。
「ル・ル~ッ!子供の起きている時間ではないぞ。それにその呼び方は失礼だ、気をつけなさい」
「オスカル、まあそうムキになるな。子供の言う事だ、私は気にならないよ。そうだな、ル・ルーちゃん、確かにギャルソンは楽しんでいるお客様に疲れた様子を見せるべきではないな。はは、将来が楽しみな子だ」
「うふん」
違うと思うぞ、フェルゼン。意味ありげな小悪魔のほくそ笑みを見てみろ。おまえが鈍くて良かった、と初めて思った。
「わかったから、ル・ルー、ベッドへ行く時間を過ぎている。ママンに心配をかける前に戻りなさい」
ここで動揺してはまた小娘に掻き回される。冷静が一番だ。
「いやんオスカルおねえちゃま、今夜こそ初めてのシャンペンを味わいたいと思っていますのに」
「駄目だ、早すぎるに決まっているだろう」
「あら、だってオスカルおねえちゃまがアンドレを踏み台にしておじいちゃまの秘蔵の戸棚からコニャックをくすねたのは確か7歳・・・」
「ル・ルーっ!」
どこからそんな話を!事実なだけにうろたえてしまう。見ろ、フェルゼンが笑い転げているではないか。
「やあ、楽しそうだ、小さなマドモアゼル。私も仲間に入れて頂けるかな?」
「ヴィクトール!聞いてくださる?せっかく万馬券を当てたのに、オスカルおねえちゃまったら、わたしにはそれを楽しむ権利がないと言いますの。これって差別だと思いませんこと?」
ヴィ、ヴィクトール?万馬券?いつの間に、ああこのくそガキが。
「それはですね、差別ではなく分別ある判断だと思いますよ」
ああ、そうだ、言ってやってくれ、ジェローデル。わたしは・・・これ以上口を利くとキレてしまいそうだ。こましゃくれた姪が馬券を、いやギャルソン券をちゃっかり買っていたとは。
「分別ならル・ルーにもありますわ」
「ふふふ、勿論ですともマドモアゼル」
ジェローデルはふわりとル・ルーを抱き上げ膝に据わらせた。そうだ、行けジェローデル。こまっしゃくれたませガキをおまえの武器で黙らせろ。
「これでアンドレを買い占めてあげれば、少しは彼も休めるでしょう?つい、苛めてしまう乙女心も可愛らしいけれど、分別があるならもっと素直に・・・あ、黙りますわ!」
「そう、それ以上を言わないでおくのが大人のマドモアゼルだ。よく気づきましたね。それに」
ジェローデルはそう言ってル・ルーがテーブルに並べた馬単券(何と三枚もあった)を手に取った。
「貴女のような可憐なお嬢さんなら、こんなものは必要ないでしょう。これはなにかと口実が必要な大人のための物ですよ。しかし勝敗の予想はお見事でしたね」
「うふん」
・・・頭痛がしてきた。何のことを言っているのだ、この二人は。わたしの脳は彼らの会話を理解することを頑なに拒否している。
「今夜はわたくしに免じて、お休みになってはくださいませんか?大人とはしごく不自由なものなのです。貴女の無垢な瞳を前にしては、勝負になりませんから」
「そうしますわ、ヴィクトール」
「では、お部屋までエスコートさせていただけますかな?」
「ええ、喜んで」
ル・ルーは肘を差し出したジェローデルに嬉々としてぶら下がった。ジェローデルは、すぐ戻ります、と片側の口角を上げウィンクを投げて寄越してから、小さく呟いた。
「私もオスカル嬢、貴女に無遠慮にこき使われる立場になりたいものです。苛めてくださってなお結構。ちゃんと隠れたメッセージは受け取って差し上げますのに」
ジェローデル、それは・・・。
唖然と見送っていると、ル・ルーが思い出したようにジェローデルの腕から滑り降り、駈け戻って来た。わたしが思わず身構えると、こやつはにっこりと笑ってわたしにギャルソン券を手渡した。
「オスカルおねえちゃまにあげる。おねえちゃまにはこれがいるのでしょう?」
それだけ言うと、またジェローデルのところに駈け戻り手を振った。ジェローデルは、レースの後に見せたと同じ寂しげな笑みを浮かべて待っていた。
「はっは、オスカル。大した姪御さんだ、やられっぱなしだな」
フェルゼンは一部始終を面白そうに眺めていたが、また明るく笑い声をあげた。フェルゼン・・・。まさかとは思うが、わたしはおまえのその鈍さに惹かれたのではないだろうな?
「では、彼が戻るまでの間、わたしはもう一巡してくるよ」
「ありがとう、今日は本当に世話になった」
「な・・・に、わたしも楽しんでいるさ。どんな人生でも笑いは必要だ。感謝している」
うん、そうだな。それに友人も必要だ。なのに悲しい響きだ、フェルゼン。わたしの心はおまえの湖水色の瞳に映る涙の影を未だ敏感に察知してしまう。けれど友でいられるのはとても嬉しい。おまえもそう思ってくれているのならもっと。
「ほい」
ふいに何か冷たいものが手渡された。アイスショコラだ。かすかにブランデーの香りがする。
「アンドレ」
「どうした?呆けた顔してるぞ。あれ?」
手にしたグラスの冷たさが掌から浸みこむと、体の芯がじん、と痺れた。斜めにわたしを覗き込む優しい目。こいつはいつもそうだ。貧乏性なのか苦労性なのか、忙しく立ち働いていると、何もかもリセットしてしまうらしい。
レース前の不機嫌など、すっかり忘れてわたしを気遣ってくれる。自分こそ早朝から働きづめだったのに。
「気のせいか。一瞬泣いているのかと思った」
「何故」
「何故だろ。わからないよ。元気ならいい」
これだ。喧嘩しようが何をしようが次に顔を見る時には何もなかったように笑ってくれるから、わたしの我侭は安心して度を越すんだ。気の毒な男だな。
「今日は、よくやってくれた」
「え?」
「面白くない役目を引き受けてくれて感謝している、と言っているんだ」
おい、目玉がこぼれ落ちそうだぞ。そんなに意外なことを聞いたのか。聞き返したりしたら承知しないからな。
「だったらそんな恐い顔をして睨むなよ」
「睨んでなどいない」
「噛みつかれるかと思った」
「がるるるっ」
「あはは、悪い悪い。おれこそ忙しさにかまけて言いそびれてごめんな」
アンドレはそう言うと、つん、とわたしの額を指で突いた。
「一年間、よく頑張ったな。一周年、おめでとう。これからもよろしく」
ま、待て。胸が詰まるではないか。平たんではなかった黒い瞳亭、最初の一年を誰よりも知っているおまえにそれを言われたら。パーティーが終わってからにしてくれないか。
「ジェローデル氏みたいに豪華な薔薇のアレンジを店一杯もないし、フェルゼンみたいに特選ウォッカもプレゼントできないけど、そうだな、次の一年でアラン以下12名を鍛え上げて優秀なギャルソンを山盛り一杯贈呈するよ。どう?」
「ロマンの欠片もないが、一番実用的だな」
幼馴染と言うのは時々やりにくい。あまりにも近くに居過ぎて、遠くって。もっと他の言い方があるだろう、わたし。
「そうか。じゃあ期待していろよ。さて、今夜は後もう少しだ。お客のJコインもそろそろ底をついてきたようだし、じきにお開きになるから頑張れオスカル。甘み、強めにしておいたから、元気が出るぞ。じゃあ、また後で」
「アンドレ!」
「ん?」
「わ、わたしもあるぞ、Jコイン!」
「え?おまえが?」
「まだ、換金していないが」
去っていこうとするアンドレをつい呼び止めてしまった。何を言っているんだ、わたし。どうかしているぞ。
「おいおい、凄いじゃないか。アランとフランソワの馬単が3枚。換金したら・・・。ああ、おまえでよかった。これ誰か他の客が当てていたら、おれら三日三晩サーヴィスし尽くさなきゃならなかったよ」
「わたしでよかったとはどういうことだ。まさか踏み倒す気じゃないだろうな」
「踏み倒すって、おまえマジでこれ使うつもりか?」
「いけないか」
わたしはどうかしているどころじゃない。何かスイッチが入って止められない。訳がわからない。誰か、誰か止めてくれ!
アンドレがじっと立ったまま、凝視する。わたしは目をそらせない。心臓が早鐘を打つ。
「いいよ、換金して来いよ」
アンドレの中でも何かが切り替わった。静かな切り替えし。恐い。アンドレがじゃない、未知の領分に足を踏み入れてしまう前の恐怖。恐いけれど惹きつけらずにいられない、陶酔の予感。『馬鹿、冗談だ』の一言が、からからに乾いた喉に貼りついてしまった。
一歩、アンドレが踏み出した。後ずさりしようにも、わたしの両足は凍り付いて動けない。
「ギャルソン全員で一晩中おまえをもてなすか?」
つい、首を横に振ってしまった。しまった!うん、と言っておけば、冗談ですんだものを!
「じゃあ、誰か一人を買い占める?」
どうしろ、と言うんだアンドレ。だから悪かった、少し調子に乗りすぎただけだ。と、言うべきなのにわたしは何も言えないでいる。
「誰を買う?何日分独り占めできるか計算するか?」
もう、だめだ。アンドレの胸がわたしの胸に触れそうなところまで近づくと、わたしの体は彼の瞳に吸い込まれるのを待っているように前へ傾いた。強力な磁場に捕らえられてしまったか、右手が勝手に動いて彼の左胸へ吸い付くように乗せられる。熱い。唯一わたしを引き止めるものは、左の手にした冷たいショコラグラスのみ。
「一生分・・・」
何を言っているんだ、わたしっ!おまえ、ショコラに何か入れたか?いや、まだ一口だって口にしていないはずだ。アンドレ、今のわたしは普通じゃない。何を言っても取り合わないでくれ!
「おれなら安くしてやるよ。一生分だって賄えるくらいに」
アンドレの左手が、わたしの右手の上に乗せられた。きゅっと指先を握られてそのまま彼の口元に導かれる。人差し指と中指が彼の唇をかすめた。瞬間、わたしの両膝はかっくりと力を失って折れ、アンドレが急いで右腕でわたしの腰を抱き抱える。足元で、グラスの割れる音が響いた。
訳がわからん、ええい、もうどうなっても構わない・・・!わたしが理性のすべてを手放そうとしたその時。聞きなれた声が聞こえた。
「アンドレ~!」
どうなっても構わない。そうは言ったが!どうなってもとは、こうなってもではないっ!断じて!
棺おけの蓋がいっせいに開いたってこんなに驚かないし、高額宝くじ当選券の有効期限が昨日で切れていたことを発見したって、これほどがっかりしはしないだろう。わたしの愛馬がレース編みをしている現場を見てしまったって、これほどうろたえたりはしない。…嗚呼。
いつの間にか、私たちの足元に例の縮れっ毛頭が張り付いていた。
「ル・ルー!」
「ル・ルー?おまえ、部屋に戻ったのではなかったのか」
偉いぞわたし。よく普通に言えた。
「うっ、うっ、ひぃっく、ひっく・・・、アンドレ、アンドレ・・・え~ん!」
「どうした、ル・ルー?何があった?どこか具合でも悪いのか」
「恐い夢見た」
やれやれ。アンドレとわたしは思わず顔を見合わせ、世にも情けない苦笑を交換した。ネグリジェのまましゃくりあげるル・ルーを放って置くわけにはいかなかった。
まさかうそ泣きではないだろうが、姪っ子の状況に応じた人選判断が狂うはずもなく、屈みこんだアンドレの首っ玉にしっかりとしがみ付いている。こら、おまえの身内はわたしだろう。
「わかったわかった、もう大丈夫だよ、ほら。なにもこわくない」
「ル・ルー、アンドレはまだ接客があるから、わたしと一緒にベッドへ行こう」
「いやん、アンドレがいい~」
「ル・ルー、聞き分けのないことを」
アンドレが顔を上げて肩をすくめた。
「いいよ、何とかなるさ。寝せてくる」
何とかなんてされたくないぞ、わたしの相手はどうするんだ、一生だぞ・・・!え?喉元まで出かかった感情に、我ながら愕然とした。
「アンドレ・・・」
「おれも少し頭を冷やした方が良さそうだ。今日は朝からノンストップで、少しオーバーヒート気味らしい。涼みがてら行ってくるから、少し時間くれ」
ああ、そうだ、その通りだ。経営者が客と一緒になってギャンブルを楽しんだり、パーティ会場で我を忘れそうになったり。いけない、冷静にならなければ。でも、その後は?何もなかったような顔をして、さっきのやり取りをいつものおちゃらけだったと片付けてしまうのか。それとも・・・わたし次第なのだろうか。
「わかった。ル・ルー、あまりアンドレを困らせるな、いいな?」
「おねえちゃまこそ」
な ・・・ 何い?
アンドレには聞こえないように口元に手を当てて、顔を近づけたわたしに確かにそう言った、この小娘。まずい、噴火してしまいそうだ。
「ル・・・!」
「アンドレ、おんぶ!」
「はいはい、おんぶね。いやもう80歳以下なら大歓迎だよ」
わたしだって、80歳以下だぞっ!
ル・ルーを背負ってアンドレは立ち上がった。わたしは台風一過、ぼろぼろの残骸になってしまった感じだ。姪っ子が連れてきた嵐に一瞬巻かれてしまって、一時正常な判断力を無くしていたのかも知れない。もうこいつが何を言っても、いちいち気にかけるのは止めだ。
「おやすみなさい、オスカルおねえちゃま」
「すぐ、戻るよ」
すっかり機嫌が良くなったル・ルーが何やらアンドレの耳元で囁き、アンドレが笑う。とんびに油揚げをさらわれた気分を噛み締めながら二人の後ろ姿を見送ろうとすると。アンドレがふいに向きを変えた。
「どうした?」
「ル・ルーがなにかおまえに言い忘れたってさ」
アンドレの背から身を乗り出すル・ルーがわたしを手招く。
「おねえちゃま、お耳!」
「何だ?」
「あのね」
ひゅるるる~、ドッカーン!
パーティのトリを飾る打ち上げ花火が、次々に夜空に花開き、ル・ルーの一言に、ついに爆発したわたしの叫びはかき消されてしまった。アンドレに聞かれなくて良かった、としておこう。
十二名のギャルソンが、花火に合わせてシャンペンの栓を天に向かって打ち上げる。沸き起こる歓声。彼らはよくやってくれた。いい祝賀会だったがこれでパーティの幕が下りる。誰もが幸せそうに、楽しそうに握手を交わし、抱擁とキスを贈りあっている。
アンドレはル・ルーを負ぶったまま立ち止まり、花火を見上げていた。面と向かって言うのも照れくさいから、フィナーレの喧騒にまぎれて言おうとしていた一言を言いそびれてしまった。
『おまえがいたから、この一年やって来られた。ありがとう』
「アンドレ、おしっこ!」
「えっ?部屋まで我慢できるか?」
「いやん、絶対絶命~」
「~ったく!つかまっていろよ、走るから!」
疲れているだろうに、アンドレは猛ダッシュをかけて走り去って行った。
宴が幕を下ろす。お客もスタッフも、わたしに一周年の祝福をくれるために集まって来た。そして口々に楽しかった、素晴らしい企画だった、これからの発展が楽しみだ、と挨拶してくれる。
黒い瞳亭は軌道に乗ったがまだ一年。何もかもこれからだ。こうして応援してくれる人々の存在の何と心強いことか。一人ひとりの言葉を、気持ちを嬉しく受け取り、新たな力が湧いて来るのを感じた。そんな中、ちょいとばかり心の片隅がぽっかり穴を開けている。祝福を受けるに値するもう一人の縁の下の力持ちはまだ走っていた。
走る時は一緒に。
次の一年をかけて、勇気を出してそう言ってみようか。簡単な事を伝えるのに勇気が必要になるのが幼馴染と言う奴だ。手始めに、この一年間、支えてくれてありがとう、は照れずに言わなければ。
だから、アンドレ。わたしの気が変わる前に戻って来い。
え?ル・ルーが私に何を耳打ちしたかって?
『うふ。子供の特権にはかないませんわ、おねえちゃま』
~FIN~
2005.7.18
掲載したイラストは、サイトオープン祝いにカオルさまに頂いたものです。小話は余計だったかも知れませんが、ご自由に料理してください、とのお許しに気を大きくしてこんなものを書きました。一杯一杯ありがとう。
もんぶらん
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