ヴァレンタイン2018 Bitter Sweet

2018/02/15(木) 現代パラレル・カフェストーリー
オスカルの父、レニエ・ド・ジャルジェに大反対を喰らいながらオスカルが創業したル・ショコラ・ジャルジェ・マニュファクチュア―ルは紆余曲折を経て無事に五回目のヴァレンタインを迎えることが出来た。

歴史的建造物であるジャルジェ邸を後世に残すために、ホテルとして経営努力を尽くして来たレニエは、娘には後継者としてホテル経営に集中することを望んでいた。パリの五つ星ホテル、ラ・メゾン・ドジャルジェ・パリと、ヴェルサイユの三つ星ホテル、ラ・メゾン・ド・ジャルジェの経営は片手間にできる道楽ではないからだ。

ジャルジェ邸に限ったことではないが、歴史的に価値の高い建造物であるほど、維持管理には莫大な費用がかかる。ホテルの付加価値を高め、ホスピタリティの質と独自性を常に更新し、戦略的に集客に努めなければ、邸宅の個人所有を継続するために十分な収益を上げることは不可能なのだ。

ナショナル・トラストに管理を委託することも出来るが、先祖から受け継いだ邸宅を第三者に委託するなどレニエの選択肢にはない。しかし、必ずメゾン・ド・ジャルジェの付加価値を押し上げるショコラ・ファクトリーに成長させますから、と娘の幼馴染にしてビジネス・パートナーでもあるアンドレ・グランディエに静かな口調で説得され、レニエは折れた。

そして、反対の立場を取りながらも、ジャルジェ製品を紹介・直売するサテライトカフェである『黒い瞳亭』一号店をホテルの1Fに出店することを許可したのだ。『黒い瞳亭』はたちまち新しい客層をホテルに呼び入れたので、翌年はヴェルサイユ二号店がオープンした。

多くのフランス人にとってそうであるように、オスカルにとって、ショコラは特別な存在だった。

家族や仲間と共に過ごした幸せな記憶には、ショコラの香りが満ちている。幼馴染と苦楽を共にした学生時代、軍籍時代にもショコラがいつも傍らにあった。ショコラは時に疲れを和らげ、時に涙を溶かし、寛ぎの時間を豊かにしてくれた。いつの頃からだったろう、ヴァレンティンの夜には幼馴染がショコラ・ショーをオスカルのコンディションに合わせてブレンドしてくれるのが恒例となった。

フランスには長い歴史を持つショコラ文化があり、特にパリは一流のショコラティエが競合するショコラ見本市のような街である。一消費者として気に入りのメーカーやショコラティエの新作を追い求め、味わい尽くすのに一生をかけても足りないくらいだ。だから、オスカルもショコラを趣味にとどめておけば、ホテル業に専念して欲しいという父の望みに添えたはずだった。でなければ、投資家としてショコラ産業を支援しても良かったのだ。

しかし、幼馴染と二人してショコラの世界の深みに魅入られたオスカルは起業を志した。目指すビジネスモデルはショコラサロンのような小売業ではなく、ショコラティエが扱う最高のク―ベルチュールショコラファクトリーだ。オスカルの構想には、カカオ豆の仕入・選別・焙煎・摩砕・調合・成形までのチョコレート製造工程の全てを自社工房で一貫して行い、削減した中間コストは、技術指導や、教育、単一作物栽培から多角的農業への移行といった形で農家に還元することまで含まれていた。

それには、オスカルがフランス空軍在籍中にコートジボアールに駐屯した経験が大きく関わっている。カカオの産出量で世界一を誇るコートジボアールで、オスカルは貧困にあえぐカカオ農家を目の当たりにしたのだった。

新興国の台頭著しいこの十年で、カカオ豆の需要は供給を上回るようになった。しかし、国際市場価格がいくら高値をつけても、西欧が有利なスタートを切った資本主義の国際相場は、換金作物農家に決して利益が還元されない社会構造を作り上げた。農家はいつまでも貧しいままだが、単一作物プランテーションには他に収入の道がない。その結果、貧しいプランテーションは児童労働によって支えられることもオスカルは知った。

かつて、宗主国であったフランスがコートジボアールに持ち込んだカカオ・コーヒー産業は、国の一大産業でありながら、国民へ幸せをもたらしていない現実をオスカルは看過できなかった。

ショコラが持つ嗜好性は魔法のように人を虜にする。ヨーロッパからアメリカ、オセアニア、アジアへ広がったショコラ文化が後戻りすることなどあり得ないだろう。需要は増え続け、カカオ生産には過剰な負荷がかかり、商品先物市場で投機買いの対象になることは目に見えている。

フェアトレード価格は基本的に市場価格に連動し、市場価格を決めるのはG7を中心とした先進諸国である。実はアンフェアな価格設定がなされているフェアトレードは国際市場価格の変動によって、農家に恩恵を与える場合も搾取する場合もあり、システムとしての機弱性が目立つなど、賛否両論なのが現実である。

児童労働が支える安価なショコラを不買することで抗議の意を表明する草の根活動に異論はないが、現実をその目で見てしまった以上、オスカルはむしろ生産者としてショコラ産業の懐に飛び込み、内部からその不条理なシステムを変える活路を開きたかった。父が最終的に許可してくれたばかりではなく、旧知の友が心配しながらも株主として投資してくれたお陰で、オスカルはショコラ工場を立ち上げた。

あれから五年が経過した。

オスカルはパリの自宅の寝室で、ベッドに身体を仰向けに投げ出すと、タブレットに今期の収支報告を呼び出した。内戦後のコートジボアールで、いくつかの農家と契約し、戦火で生産が止まった小規模農場を購入し、養生することから始めた事業が黒字転換するまであと一歩だった。アンドレは先月からカンカン村で新事業立ち上げを先導するために留守だった。

炭素含有率の高い廃カカオ殻から発生するメタンガスによる発電事業の準備が整っていた。成功すれば新たな雇用を生み出すことが出来るし、安定した電力を使って郊外でもでチョコレート加工できるようになるかも知れない。

コートジボアールでは、カカオ豆は生産するが、加工されたショコラは輸入に頼っている。しかも、手に入るのは都市部だけだ。だから自分たちが生産しているカカオが、高級食品であるショコラの原料であることを知らない子供も多い。コートジボアール国産ショコラもなくはないのだが、フランス人にはまずくて食べられたものではない。美味しい国産ショコラを普及させることが出来たら、どんなに素敵だろう。オスカルの想像の羽根を伸ばした。

カカオ生産地でなければ味わえない、採れたてのカカオ豆で作ったショコラは、ワインのように毎年味が変わるだろう。パリに沢山生息しているショコラフリークなら、フレッシュ生ショコラを味わうコートジボアールツアーに飛びつくだろう。新たな観光資源の誕生だ。

オスカルは、沸き上がるインスピレーションをタブレットにメモした。アンドレにアイデアを話すのが待ちきれない。オスカルが思いついたアイデアは、アンドレの視点を通して吟味し直すと途端に立体的に膨らむのだ。

『はやく帰って来い』

オスカルは大きく伸びをすると、寝台の上でごろりと半分寝返った。

その時、陽気なノックがオスカルの寝室に響いた。オスカルの自宅でメイドをしながらインシアード・ビジネス・スクールで学んでいるニーナだった。ジャルジェ・マニュファクチュアールがカンカン村から迎えた第一期奨学生の一人である彼女はこの7月に経営学でMBAを取得し、母国へ帰る予定だ。これからは、ニーナ始め、オスカルが選抜した奨学生は今後の農場経営を任される。そうなれば、益々事業の規模は拡大され、カカオ豆生産以外の新しいビジネスアイデアが生まれ、形になってゆくだろう。

「ニーナか?ドアは開いているからお入り」

オスカルはゆっくりと身を起こしながら応えた。手にしていたタブレットに目を落とすと21時になろうとしている。ニーナのメイドとしての仕事が終業する時刻だから、辞去の挨拶に来たのだろう。ドアが開けられると、アフロヘアの少女がいつものようにビッグスマイルを浮かべ、足取り軽く入って来た。

「オスカルさま、これで下がりますけれど、ご用はございませんか?」
ニーナはオスカルが身を起こす動作の数倍早いスピードでオスカルの傍に来ると、パジャマ一枚纏っただけのオスカルの肩にガウンをかけながら訊ねた。
「ありがとう、ニーナ。おまえは身軽でいいな」
ニーナは真っ白な歯を見せて笑った。

「オスカルさま、今日はヴァレンタインです。ニーナで良かったらショコラ・ショーをお作りしますけどいかがですか?ばあやさんにお作りしたら褒められました」
「優しいね、ニーナ。だがもう今夜は上がる時間だろう?」
「今日は特別です。ヴァレンタインの夜にちょっぴりお寂しいオスカルさまのために」
「こら、優しいだけじゃなく、小生意気なニーナ、そうだなおまえに頼もうか。ばあやに褒められたショコラ・ショーなら間違いない」

真っ黒な睫毛を悪戯っぽく上下させ、ビッグスマイルがさらに大きくなったニーナのショコラ色の頬をオスカルがこぶしで軽く小突いてやると、娘は弾けるように笑った。常夏の国から来た娘は頭上に太陽まで連れてやって来たように明るい。いつも唇には歌を、足元は踊るようなリズムを取っているこの娘は十歳の時に船に乗せられて農場に売られて来た子だ。

「任せてください、オスカルさま!」
ニーナがオスカルの首に軽く腕を回し、嬉しそうにハグしたので、オスカルも彼女の背中をポンポンと叩いてやる。底抜けに明るい娘だが、時々母親に甘える小さな子供のようにこうやって距離を縮めて来るのは、その生い立ちのせいだろうかとオスカルは思った。

彼女の売値は30ドル、売ったのは実の母親で、まだ乳飲み子の妹と歩き出したばかりの弟がいた、と彼女は語った。そして、自分が農場に働きに行けば、母親も小さな姉弟も皆が生き延びられるのだからそれはいい事だ、オスカルがなぜ腹を立てるのかわからないと首を傾げたものだ。

踊るような足取りで寝室を出て行くニーナを見送りながら、オスカルは重い体が楽に座れる姿勢を確保するためにクッションを三つ重ね、大きくひとつ息をついた。奴隷のような児童労働には反吐が出る。しかし、ニーナのような受け止め方をしている子供が多いのも事実だった。多様な価値観と文化的背景をもっと柔軟に受け入れ、意識を広げよ、と内なる声が聞こえたような気がした。

などと思索にふける間もなく、ばたばたと足音が聞こえたかと思うとけたたましくドアが開き、次の瞬間には目の前に再びニーナがいた。

「オスカルさま!旦那様のお帰りです!」
「え?」
「やあ、ただいま」

ニーナのすぐ後ろからコートを脱ぎながらアンドレが入って来た。二月のパリにはでは不自然なほど日焼けしているので、白い歯がくっきりと良く目立つアンドレはやはりビッグスマイルを浮かべている。ニーナとペアで歯磨き粉のCMにスカウトされそうな様相だ。わたわたとニーナがコートを受け取り、クローゼットへ走って行く。アンドレは照れたように頭を掻きながら、オスカルの寝台に近づくと膝をと左手をつき、右手でオスカルの頬に触れた。

「アンドレ…」
「どうやら間に合ったようだな。調子はどうだオスカル」

アンドレの手の上に自らの手を重ね、オスカルはようやく驚きの表情を和らげた。アンドレは軽くビズをオスカルの頬に落とし、寝台に腰を掛けた。
「帰りは来週になると言っていたではないか」
「その予定だったけれど、いてもたってもいられなくてね。ヴァレンタインには帰れるように、全力で働いたんだ」

それは凄い、とオスカルは笑った。アフリカで全力でプロジェクトを進めるなんて、周囲にどれだけ迷惑がられたか、想像がつき過ぎて可笑しい。アフリカとフランスでは時間の流れが違うし、予定が予定通り進まないのが予定通りなのだ。それを予定を前倒ししてしまうなんて、いったいどれだけ現地のスタッフを追い上げたのだろう。

「まだ、三時間ほどある。ヴァレンタインのショコラを入れよう、オスカル」
「ふふ、まるでそのために帰って来たみたいだな」
「そうさ、それ以上に重要な理由なんかあるもんか。さて、おまえの今日のコンディションを見てみようか」

アンドレは、そっとオスカルの腹部に手を乗せた。その上からオスカルも手を重ねる。アンドレは重ねた手の横に耳をつけると愛し気に囁いた。
「いい子にしていたか?どうしても母様と一緒におまえを歓迎したかったから、急いで帰って来た。間に合って良かったよ。おっ元気そうだ」

小さな蹴りを頬に感じたアンドレは身を起こし、今度はオスカルと額をわせた。
「ただいま、奥さん。会いたかったよ」
オスカルは夫の首元を掴むと、自分の方にぐいと引き寄せ、乱暴なキスをした。


               終わり
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