「聖ジョゼフと聖マリーが、住民調査に応じるために、故郷のベツレヘムに帰った時、図らずしも泊まることになった馬小屋には、昔から一匹の醜いロバがいた。
力が強く、身体が丸太のように太くて一度に沢山の荷を運ぶことができた。働き者で穏やかな性質のロバだったんだが、そのおよそロバには見えない体つきと、つぶれた鼻、垂れた目、左右の大きさも形も向きも違う耳を、他の動物達に馬鹿にされ、いつも仲間はずれだった。
彼はよく豚に喩えられたが、豚達でさえも自分と比較される事を嫌がって彼を虐めていた。そんなある日、馬小屋に泊まっていた夫婦に子供が生まれそうだ、ということで、急遽赤子を寝かせる場所が必要になった。
一日や二日ではない。住民調査を終えて、出産後の母親の身体が回復し、また長旅に耐えられるようになるまでの期間だ。
赤子の身体の大きさに丁度良く、大きすぎず、小さすぎず、寒さから守ってやるのに都合の良さそうだった馬槽をベッドとして提供しては、と提案されたが、馬たちは自分の物を提供することを嫌がった。唯一、その醜いロバだけが名乗りを上げた。
彼には名前が無かった。便宜上、必要な時にはポルク(豚)と呼ばれていた。自分の飼い葉桶を赤子に提供したポルクは、それからというもの、他の動物達に餌を乞うて回らなくてはならなくなった。しかし、平素から彼を小ばかにしていた他の家畜達は完全に彼を無視し続けた。
その地は荒地だった上に餌の少ない冬だった。ポルクはたまに枯れ草の切れ端を拾えればいい方で、食べるものにありつくことができず、どんどん衰弱していった。仕事は変わらず誠意を込めて勤めていたが、人間は彼が全く餌にありつけていないでいることを知らずに、重い荷を運べなくなってきたポルクを処分することに決めた。
そして聖ジョゼフとマリーがナザレへ向けて旅立つ時、衰弱したポルクは処分を待つまでもなく、天に召された。ポルクの持ち主も貧しかったから、彼は、たちまち肉と皮に解体されて役に立たされることになった。そうなってから初めて人間は奇跡が起きたことを知った。
長年患っていた血の病が、ポルクの肉の入ったスープを一口飲んだだけで一瞬のうちに全快した。彼の毛皮を纏った人間が、うっかり切り立った崖から転がり落ちたが、かすり傷一つ追わずに生還した。彼の骨が打ち捨てられた裏庭から、この地方では黄金にも値する湧き水が湧いて出て、オアシスをつくった。その水は飲んで万病に効き、洗い清めに使うと全ての皮膚病が治った。
ポルクの空っぽの馬槽に赤子の産着が一枚残っていたのに気付いた人間は、彼が赤子に自分の馬槽を提供していたことを知り、彼に聖コジャンという名を与えた。しかし、彼は人間ではないので、バチカンは彼を聖人に列することはなかった。一方、彼の起こした奇跡を称えないのも神の意思に背く行為と考えた。そこで門外不出の法王の聖典に彼の名が刻まれたわけだ」
すっぽりとアンドレの腕に身を沈め、オスカルは流れるような恋人の語りを音楽を聴くように聞いていた。静かな余韻を残して話し終わったアンドレはオスカルをじっと見つめている。
オスカルも熱に浮かされたように見つめ返したのだが、何か、珍妙な違和感を得た。ひょいと訝しげに片方の眉をあげるオスカルに、アンドレがくすりと悪戯っぽく笑った。
怪しい。じつに怪しい笑みだった。オスカルの眉間の皺が深くなった。潤んだ青い瞳は疑惑に満ちた鋭い視線を上に向けた。
「聖コジャン?」
「そう、コジャン。まさにこの豚だ」
と、アンドレが手に持ったコジャンを得意そうに掲げる。
豚じゃない、ロバだと切り返してから、オスカルは恋人をにらみ上げた。
「まさか、コション(豚)と、聖ジャン(聖ヨハネ)…?」
「さっすが!よくわかったな」
アンドレはというと悪戯が大成功した少年のように目を輝かせている。オスカルは事態を察して見る見るうちに真っ赤になった。
「アンドレ!この大ほら吹きめ!下手な芝居でわたしをかついだな!」
「気づくのが遅いぞ!いやあ、良かった良かった。おまえが完全に信じ込んでしまったらどうしようかと思ったぞ。十二年に一度とか、門外不出の経典がこんな外国の教会で読み上げられるとか、怪しさ満載じゃないか。早く見抜け。それにおれは芝居は得意だ。知ってるだろ?」
アンドレは、仮面をつける身振りをして笑って見せた。
「ふふん、で、おまえは何か?わたしの為に大変な危険を冒したって!?」
オスカルは長椅子に膝を立てて戦闘態勢に入り、アンドレにぐっと迫りつ押し倒す。
「そうだ、リスクは今まさにおれの身の上に降りかからんとしている」
アンドレは一応防御の体勢とったが、誰が見ても嬉しそうだ。と、その時、この屋敷の風物詩が廊下に響き渡った。
「アンドレ!どこにおいでだね、このとうへんぼく!帰って来たのならさっさと姿をお見せ!仕事は山のようにあるんだよ!」
マロン・グラッセの招集である。
「聞いたか、おれは二重にリスクを負ってここにいるのだ」
オスカルの下敷きになりながら、アンドレがにっとした。
「ふん、待っていろ!」
オスカルはアンドレの襟首を乱暴におっ放すと、つかつかと廊下に出て行った。
「ばあや!アンドレならここだ。こいつはわたしの仕事もまだ片付けていない。悪いがもう暫らく借りておくぞ!」
オスカルの一声にマロンがぱたぱたと走り寄ってくる音が聞こえた。
「まあ、お嬢様、それは申し訳ないこと。存分に使ってやってくださいまし。本当にいつまでたっても役立たずで」
「しばらくかかるぞ」
「ええ、ええ、擦り切れるまでお使いくださいまし」
マロンを退けたオスカルは、追い詰めた獲物を捕獲しようとするハンターの笑みを浮かべて恋人のもとへ戻って来た。
「許可をとってやったぞ。感謝しろ」
「お嬢様、大声ははしたのうございます」
「いい度胸だ、アンドレ。助けてやったのに」
「哀れ、ライオンに助けられた子羊の運命やいかに」
言葉とは裏腹に嬉しそうなアンドレは大仰に防御姿勢をとった。
「それは、これから解る。今度は私の番だ」
オスカルは長椅子の上で、まだずっこけているアンドレの顎に手をかけるとくいっと自分の顔の真正面を向かせた。
「アンドレ、狼少年の話を知っているな」
「知ってるよ」
「では、聞け」
「だから、知ってるって」
「嘘つき狼少年の末路がどうなるか、教えてやる。ちゃんと身に染むまで解放しないぞ、いいか」
オスカルが再びアンドレの襟首をぐいっと掴んだ。
♥️。♥️。♥️。♥️。♥️。♥️。♥️。♥️。♥️。
「狼少年はもう一ついい話を持って来たんだが、残念だな。素行の悪いオオカミ少年の話なぞ、きっと信じてもらえないだろうな。まあ、べつに知らなくても何の支障もないしな、黙っておくか。
しかし、惜しいなあ。聞けば心が温かくなること請け合いの話なんだがな。まあ聞いてもらえないのは自業自得だし、仕方ないな」
「ごしゃごしゃと煩いぞ。聞いてやるから早く言え」
「あれ?独り言だよ、聞こえた?」
「人の耳元に唇を押し付けて喋っておいて白々しい」
「聞きたい?」
「さて、わたしの用事は済んだとばあやに言ってくるか」
「あ~、話します、話させてください~」
🎄🌟🎄🌟🎄🌟🎄🌟🎄🌟🎄🌟🎄🌟🎄🌟🎄
アンドレの持ってきた話は、本当にオスカルの心を暖めた。
ピエールの伯父が、オスカルとアンドレのつくった四組のクレーシュを焼き上げて、店に並べて置いたところ、たまたまそれを目にした近所のおかみさんが大層気に入り、娘の嫁入りに持たせてやりたいと言い出したことが事の発端だった。
売り物ではないと断ると、えらい剣幕で騒ぎ立られてしまった。このおかみさんは、敵にまわすとその町ではまず生きていけないと言っても過言でない要注意人物だったので、無断で申し訳無いと思いながら、親爺さんは出来上がっていた人形の鋳型を作り、陶器製のクレーシュを何組か複製した。
だが要注意人物ほど、味方になって動いてくれると頼りになるものである。そのおかみさんの口コミで、複製したクレーシュは即日完売し、その後も注文が殺到し、今ではパリでは陶器製クレーシュがちょっとした庶民階級のブームになっているというのだ。
「あの方は本当に天使さまだったに違いないと思っとりますです。最後のなけなしの金を、いかさま粘土でふいにしちまったし、実は借金もありやしてね。夜逃げしたって道中でのたれ死んじまうのがオチだし、これはもう首をくくるしかないと本気で思っとったです。
それがお蔭さんでこの粘土も何とかはけそうですし、どうかここは無断で複製を作って売っちまったこと、勘弁してください」
と親爺さんは深深と頭を下げたのだという。
「それで、おまえはどうしたのだ?」
「うん、四組分の代金をチャラにしてもらって帰ってきた。そんなもんでいいだろ?」
「ふふ、欲のないやつだな。注文が殺到しているのだろう?それなりのロイヤリティーを請求する権利がおまえにはあるじゃないか。そもそもいかさま粘土でクレーシュを作るというアイデアからしておまえのものだ」
「その煩いおかみさんの目を惹いたのは、おまえの彩色が鮮やかでかつ品が良かったからだよ。おまえの色使いをそのまま複製したそうだ。おまえはおれだけの天使ではないらしい、悔しいな」
言っているほど悔しそうでも無く、むしろ嬉しそうなアンドレだった。
「それではわたしの手柄というわけだ。よくも勝手に権利を放棄してきたな」
そう言う彼女もアンドレの首を締め上げるまねなどして見せるが、嬉しそうである。
「まあ、そう悪ぶるなよ。偽粘土は高くついたらしいし、その経費を考えればオスカル、おまえが思う程儲かるわけじゃない。商品の単価は原価に比べてそれほど高くはないよ。そうだな、せいぜいこの冬の薪が買えて、一週間に一度肉料理が食べられる程度の稼ぎにしかならんさ、この物価高では」
それはかなり意外なことだったらしく、オスカルは目を見開いた。
「そんなものなのか?」
ノエルの奇跡に相応しく、オスカルは自分でも意識しないうちにあの初老の痩せた男が、リウマチを患っているというおかみさんに、暖かな毛織りの靴下やひざ掛けや、滋養たっぷりの食事を用意し、惜しげもなく焚かれた火を囲んで笑っている様子を想像していたのだ。
「そんなもんだよ。それだって親爺さん夫婦にとっちゃ、思っても見なかった贅沢で、きっと今ごろ幸せ一杯で店じまいしてるよ」
「それだけ…のことで幸せなのか…」
「おれが思うに…」
オスカルの声の調子がやや下がったのを受けて、アンドレは彼女を抱え込むように大切に抱き抱えた。
「人はパンのみで生きるにあらず、ってこういうことじゃないのかな。親爺さんはただ生活の糧をえられることを喜んでいるんじゃない。労働が正当に報いられる幸せは今のパリでは得がたいものだ。自分の仕事が人の必要を満たす幸せとか、役割を果たせる充実感とか。それを喜んでいる」
アンドレの言葉は、オスカルにふと高貴で孤独な瞳をした美しい女性を思い起こさせた。贅沢では決して埋まらない空虚。今思うと、狂乱にふけるその他大勢の雅な人たちにもそれはあった。そして多分、彼女自身にも。
「きっと、庶民だけのことではないぞ。裕福だからこそ、価値を生み出す喜びを知らぬまま一生を過ごす人生もある」
「うん、贅沢だけでは満たされないものがありそうだよなあ。だから虚しさを埋めるものを探して耽美主義に走る。でも結局虚無は埋められない。無限ループだ」
「突き詰めれば、人が求めるものは皆同じなのかも知れないな…」
オスカルはそう言いながら、彼の首筋に腕を回し、恋人の鎖骨のくぼみに頬を預けた。このぬくもりより他に欲しいものなどない、わたしは全てを持っていると伝えるために。それなのに、なぜか、胸の奥底には涙の泉がこんこんと湧き出ているのを感じていた。
オスカルに応えるように、筋肉質な腕が背中に回された。温かい。重みが心地よい。大切で大切で、胸がはち切れそうなのに、想いが膨らむ程、涙の泉が冷たく悲しい。これは一体何だろう。オスカルがぎゅっと彼を抱きしめると、恋人は耳元で低く囁いた。
「ある程度の生きる糧は必要だけど、それ以上は物質的豊かさよりも、幸せを感じ取れる能力の問題なのかも」
彼の最後の一言がオスカルの何かに触れたらしい。
オスカルはアンドレに背を向けて寝返ると、黙ってしまった。アンドレは掛け布と豊かな金色の房の間から覗く、天使の羽の名残のような肩甲骨を掌でそっと撫でると、一つ口付けて背後から彼女を抱きしめた。
「とりあえず、ある一家がおまえのお陰で路頭に迷わなくても済んだ。良かったな」
「やめろ…くすぐったい」
「嬉しい?」
「…嬉しい」
「よくできました」
アンドレはそう言うと、自分の胸に腕の中のものを取り込んでしまいたいとばかりに腕に力を込め、しばらくの間全身で彼女を味わった。
それは、彼が彼女から離れる決心をつける時に決まってする仕草だった。心を込めた長いくちづけがオスカルのうなじに落とされ、ゆっくりと大きな身体が起き上がった。逢瀬の終わり。俯いた彼の長い前髪が目元を覆い、濃い影をつくる。
部屋を出て行く前に、これから離れて過ごす長い時間を耐える勇気をよこせ、とオスカルは口に出さずに抗議する。彼のせいではないことはよく知っているけれど。胸の奥底で、涙の泉の水面が盛り上がった。
「行くのか?」
アンドレが手早く衣服を身に着けていくのをぼんやりと見つめて、言うまいと決めている一言を、つい口にしてしまった。こうやって、いつも彼の方に思い切りをつける役どころを負わせている。
「このまま朝までおまえを抱きしめていられたら、どんなに幸せだろうと思うけど」
アンドレは寂しそうに微笑んで、オスカルをリネンごと抱きしめた。
「手にしていない幸せを追うあまり、たった今までおまえがおれの腕の中にいた幸せを蔑ろにするような馬鹿げた間違いを犯したくはないからな」
彼の言葉はよくわかるけれど、彼女のハートはやはり切ないと泣いている。
しかし。
彼の同僚は、まだ働いている。自分が引き止めてしまった分を、アンドレは夜を徹してでも補おうとするだろう。決して主人の気に入りという立場を利用しないのが彼だ。
表向きの立場の違いが、日を追うごとに耐えがたくなることは別にして、そんな彼の在りようをオスカルは誇りに思っていた。そんな彼を愛していた。
後からオスカルを抱きしめているアンドレも、彼女の心の揺れを感じ取った。思いは同じである。離れがたさについ負けてしまいそうだ。
「おまえはお嬢様なんだから、権限を乱用しておれを引き止めることだってできるのにな。それは潔しとしないんだろ?」
「そんなことをしたら、おまえに嫌われる…」
きゅっとアンドレの肩のあたりを握って顔を隠したまま、オスカルが消え入りそうな声で呟いた。
「まさか!」
アンドレは思わず天を仰いだ。彼女が日々蓄えているはずの天上の宝石が見えるような気がして。お嬢様のくせして人を深く尊重することをどこでどうやって学んだのだ。
アンドレは、着たばかりの上着をまた脱ぐと、ふわりとオスカルの素肌に羽織らせた。
「おれの代りに置いて行く。朝までおまえを抱きしめているつもりでいるよ」
オスカルは黙ってアンドレの上着の襟を自分の首元で握り締め、顔を埋めた。彼の香り。彼に包まれているような気持ちになる。
「返さないぞ」
怒ったように応えるオスカルの額にひとつキスを置くと、アンドレは名残惜しそうに立ち上がり、少しおどけて明るく言った。
「中身の返品もご容赦ください」
オスカルの瞳にも光が戻り、笑みが浮かんだ。
「生ものの返品は面倒だからな」
「早めのお召し上がりをお勧めします」
結局、くすくすと笑い出した二人の間を、追加のキスが飛び交った。
「これが狼少年の末路なら、おれ、一生狼少年でいようかな」
離れ際、ウィンクを飛ばしたアンドレの顔面に、バフッとクッションが直撃した。
ジャルジェ家の住人が、次期当主が時々、自室でだぶだぶの上着を羽織っているのを見かけるようになるのはこの時からである。そしてしばらくすると、それは寒い時ではなく、傍らに相棒がいない時であるという法則を、勘のいい数人が気付く事になるが、それはまた別のお話。
🦌 ❄️ ☃️
初出 Dec.24.04
力が強く、身体が丸太のように太くて一度に沢山の荷を運ぶことができた。働き者で穏やかな性質のロバだったんだが、そのおよそロバには見えない体つきと、つぶれた鼻、垂れた目、左右の大きさも形も向きも違う耳を、他の動物達に馬鹿にされ、いつも仲間はずれだった。
彼はよく豚に喩えられたが、豚達でさえも自分と比較される事を嫌がって彼を虐めていた。そんなある日、馬小屋に泊まっていた夫婦に子供が生まれそうだ、ということで、急遽赤子を寝かせる場所が必要になった。
一日や二日ではない。住民調査を終えて、出産後の母親の身体が回復し、また長旅に耐えられるようになるまでの期間だ。
赤子の身体の大きさに丁度良く、大きすぎず、小さすぎず、寒さから守ってやるのに都合の良さそうだった馬槽をベッドとして提供しては、と提案されたが、馬たちは自分の物を提供することを嫌がった。唯一、その醜いロバだけが名乗りを上げた。
彼には名前が無かった。便宜上、必要な時にはポルク(豚)と呼ばれていた。自分の飼い葉桶を赤子に提供したポルクは、それからというもの、他の動物達に餌を乞うて回らなくてはならなくなった。しかし、平素から彼を小ばかにしていた他の家畜達は完全に彼を無視し続けた。
その地は荒地だった上に餌の少ない冬だった。ポルクはたまに枯れ草の切れ端を拾えればいい方で、食べるものにありつくことができず、どんどん衰弱していった。仕事は変わらず誠意を込めて勤めていたが、人間は彼が全く餌にありつけていないでいることを知らずに、重い荷を運べなくなってきたポルクを処分することに決めた。
そして聖ジョゼフとマリーがナザレへ向けて旅立つ時、衰弱したポルクは処分を待つまでもなく、天に召された。ポルクの持ち主も貧しかったから、彼は、たちまち肉と皮に解体されて役に立たされることになった。そうなってから初めて人間は奇跡が起きたことを知った。
長年患っていた血の病が、ポルクの肉の入ったスープを一口飲んだだけで一瞬のうちに全快した。彼の毛皮を纏った人間が、うっかり切り立った崖から転がり落ちたが、かすり傷一つ追わずに生還した。彼の骨が打ち捨てられた裏庭から、この地方では黄金にも値する湧き水が湧いて出て、オアシスをつくった。その水は飲んで万病に効き、洗い清めに使うと全ての皮膚病が治った。
ポルクの空っぽの馬槽に赤子の産着が一枚残っていたのに気付いた人間は、彼が赤子に自分の馬槽を提供していたことを知り、彼に聖コジャンという名を与えた。しかし、彼は人間ではないので、バチカンは彼を聖人に列することはなかった。一方、彼の起こした奇跡を称えないのも神の意思に背く行為と考えた。そこで門外不出の法王の聖典に彼の名が刻まれたわけだ」
すっぽりとアンドレの腕に身を沈め、オスカルは流れるような恋人の語りを音楽を聴くように聞いていた。静かな余韻を残して話し終わったアンドレはオスカルをじっと見つめている。
オスカルも熱に浮かされたように見つめ返したのだが、何か、珍妙な違和感を得た。ひょいと訝しげに片方の眉をあげるオスカルに、アンドレがくすりと悪戯っぽく笑った。
怪しい。じつに怪しい笑みだった。オスカルの眉間の皺が深くなった。潤んだ青い瞳は疑惑に満ちた鋭い視線を上に向けた。
「聖コジャン?」
「そう、コジャン。まさにこの豚だ」
と、アンドレが手に持ったコジャンを得意そうに掲げる。
豚じゃない、ロバだと切り返してから、オスカルは恋人をにらみ上げた。
「まさか、コション(豚)と、聖ジャン(聖ヨハネ)…?」
「さっすが!よくわかったな」
アンドレはというと悪戯が大成功した少年のように目を輝かせている。オスカルは事態を察して見る見るうちに真っ赤になった。
「アンドレ!この大ほら吹きめ!下手な芝居でわたしをかついだな!」
「気づくのが遅いぞ!いやあ、良かった良かった。おまえが完全に信じ込んでしまったらどうしようかと思ったぞ。十二年に一度とか、門外不出の経典がこんな外国の教会で読み上げられるとか、怪しさ満載じゃないか。早く見抜け。それにおれは芝居は得意だ。知ってるだろ?」
アンドレは、仮面をつける身振りをして笑って見せた。
「ふふん、で、おまえは何か?わたしの為に大変な危険を冒したって!?」
オスカルは長椅子に膝を立てて戦闘態勢に入り、アンドレにぐっと迫りつ押し倒す。
「そうだ、リスクは今まさにおれの身の上に降りかからんとしている」
アンドレは一応防御の体勢とったが、誰が見ても嬉しそうだ。と、その時、この屋敷の風物詩が廊下に響き渡った。
「アンドレ!どこにおいでだね、このとうへんぼく!帰って来たのならさっさと姿をお見せ!仕事は山のようにあるんだよ!」
マロン・グラッセの招集である。
「聞いたか、おれは二重にリスクを負ってここにいるのだ」
オスカルの下敷きになりながら、アンドレがにっとした。
「ふん、待っていろ!」
オスカルはアンドレの襟首を乱暴におっ放すと、つかつかと廊下に出て行った。
「ばあや!アンドレならここだ。こいつはわたしの仕事もまだ片付けていない。悪いがもう暫らく借りておくぞ!」
オスカルの一声にマロンがぱたぱたと走り寄ってくる音が聞こえた。
「まあ、お嬢様、それは申し訳ないこと。存分に使ってやってくださいまし。本当にいつまでたっても役立たずで」
「しばらくかかるぞ」
「ええ、ええ、擦り切れるまでお使いくださいまし」
マロンを退けたオスカルは、追い詰めた獲物を捕獲しようとするハンターの笑みを浮かべて恋人のもとへ戻って来た。
「許可をとってやったぞ。感謝しろ」
「お嬢様、大声ははしたのうございます」
「いい度胸だ、アンドレ。助けてやったのに」
「哀れ、ライオンに助けられた子羊の運命やいかに」
言葉とは裏腹に嬉しそうなアンドレは大仰に防御姿勢をとった。
「それは、これから解る。今度は私の番だ」
オスカルは長椅子の上で、まだずっこけているアンドレの顎に手をかけるとくいっと自分の顔の真正面を向かせた。
「アンドレ、狼少年の話を知っているな」
「知ってるよ」
「では、聞け」
「だから、知ってるって」
「嘘つき狼少年の末路がどうなるか、教えてやる。ちゃんと身に染むまで解放しないぞ、いいか」
オスカルが再びアンドレの襟首をぐいっと掴んだ。
♥️。♥️。♥️。♥️。♥️。♥️。♥️。♥️。♥️。
「狼少年はもう一ついい話を持って来たんだが、残念だな。素行の悪いオオカミ少年の話なぞ、きっと信じてもらえないだろうな。まあ、べつに知らなくても何の支障もないしな、黙っておくか。
しかし、惜しいなあ。聞けば心が温かくなること請け合いの話なんだがな。まあ聞いてもらえないのは自業自得だし、仕方ないな」
「ごしゃごしゃと煩いぞ。聞いてやるから早く言え」
「あれ?独り言だよ、聞こえた?」
「人の耳元に唇を押し付けて喋っておいて白々しい」
「聞きたい?」
「さて、わたしの用事は済んだとばあやに言ってくるか」
「あ~、話します、話させてください~」
🎄🌟🎄🌟🎄🌟🎄🌟🎄🌟🎄🌟🎄🌟🎄🌟🎄
アンドレの持ってきた話は、本当にオスカルの心を暖めた。
ピエールの伯父が、オスカルとアンドレのつくった四組のクレーシュを焼き上げて、店に並べて置いたところ、たまたまそれを目にした近所のおかみさんが大層気に入り、娘の嫁入りに持たせてやりたいと言い出したことが事の発端だった。
売り物ではないと断ると、えらい剣幕で騒ぎ立られてしまった。このおかみさんは、敵にまわすとその町ではまず生きていけないと言っても過言でない要注意人物だったので、無断で申し訳無いと思いながら、親爺さんは出来上がっていた人形の鋳型を作り、陶器製のクレーシュを何組か複製した。
だが要注意人物ほど、味方になって動いてくれると頼りになるものである。そのおかみさんの口コミで、複製したクレーシュは即日完売し、その後も注文が殺到し、今ではパリでは陶器製クレーシュがちょっとした庶民階級のブームになっているというのだ。
「あの方は本当に天使さまだったに違いないと思っとりますです。最後のなけなしの金を、いかさま粘土でふいにしちまったし、実は借金もありやしてね。夜逃げしたって道中でのたれ死んじまうのがオチだし、これはもう首をくくるしかないと本気で思っとったです。
それがお蔭さんでこの粘土も何とかはけそうですし、どうかここは無断で複製を作って売っちまったこと、勘弁してください」
と親爺さんは深深と頭を下げたのだという。
「それで、おまえはどうしたのだ?」
「うん、四組分の代金をチャラにしてもらって帰ってきた。そんなもんでいいだろ?」
「ふふ、欲のないやつだな。注文が殺到しているのだろう?それなりのロイヤリティーを請求する権利がおまえにはあるじゃないか。そもそもいかさま粘土でクレーシュを作るというアイデアからしておまえのものだ」
「その煩いおかみさんの目を惹いたのは、おまえの彩色が鮮やかでかつ品が良かったからだよ。おまえの色使いをそのまま複製したそうだ。おまえはおれだけの天使ではないらしい、悔しいな」
言っているほど悔しそうでも無く、むしろ嬉しそうなアンドレだった。
「それではわたしの手柄というわけだ。よくも勝手に権利を放棄してきたな」
そう言う彼女もアンドレの首を締め上げるまねなどして見せるが、嬉しそうである。
「まあ、そう悪ぶるなよ。偽粘土は高くついたらしいし、その経費を考えればオスカル、おまえが思う程儲かるわけじゃない。商品の単価は原価に比べてそれほど高くはないよ。そうだな、せいぜいこの冬の薪が買えて、一週間に一度肉料理が食べられる程度の稼ぎにしかならんさ、この物価高では」
それはかなり意外なことだったらしく、オスカルは目を見開いた。
「そんなものなのか?」
ノエルの奇跡に相応しく、オスカルは自分でも意識しないうちにあの初老の痩せた男が、リウマチを患っているというおかみさんに、暖かな毛織りの靴下やひざ掛けや、滋養たっぷりの食事を用意し、惜しげもなく焚かれた火を囲んで笑っている様子を想像していたのだ。
「そんなもんだよ。それだって親爺さん夫婦にとっちゃ、思っても見なかった贅沢で、きっと今ごろ幸せ一杯で店じまいしてるよ」
「それだけ…のことで幸せなのか…」
「おれが思うに…」
オスカルの声の調子がやや下がったのを受けて、アンドレは彼女を抱え込むように大切に抱き抱えた。
「人はパンのみで生きるにあらず、ってこういうことじゃないのかな。親爺さんはただ生活の糧をえられることを喜んでいるんじゃない。労働が正当に報いられる幸せは今のパリでは得がたいものだ。自分の仕事が人の必要を満たす幸せとか、役割を果たせる充実感とか。それを喜んでいる」
アンドレの言葉は、オスカルにふと高貴で孤独な瞳をした美しい女性を思い起こさせた。贅沢では決して埋まらない空虚。今思うと、狂乱にふけるその他大勢の雅な人たちにもそれはあった。そして多分、彼女自身にも。
「きっと、庶民だけのことではないぞ。裕福だからこそ、価値を生み出す喜びを知らぬまま一生を過ごす人生もある」
「うん、贅沢だけでは満たされないものがありそうだよなあ。だから虚しさを埋めるものを探して耽美主義に走る。でも結局虚無は埋められない。無限ループだ」
「突き詰めれば、人が求めるものは皆同じなのかも知れないな…」
オスカルはそう言いながら、彼の首筋に腕を回し、恋人の鎖骨のくぼみに頬を預けた。このぬくもりより他に欲しいものなどない、わたしは全てを持っていると伝えるために。それなのに、なぜか、胸の奥底には涙の泉がこんこんと湧き出ているのを感じていた。
オスカルに応えるように、筋肉質な腕が背中に回された。温かい。重みが心地よい。大切で大切で、胸がはち切れそうなのに、想いが膨らむ程、涙の泉が冷たく悲しい。これは一体何だろう。オスカルがぎゅっと彼を抱きしめると、恋人は耳元で低く囁いた。
「ある程度の生きる糧は必要だけど、それ以上は物質的豊かさよりも、幸せを感じ取れる能力の問題なのかも」
彼の最後の一言がオスカルの何かに触れたらしい。
オスカルはアンドレに背を向けて寝返ると、黙ってしまった。アンドレは掛け布と豊かな金色の房の間から覗く、天使の羽の名残のような肩甲骨を掌でそっと撫でると、一つ口付けて背後から彼女を抱きしめた。
「とりあえず、ある一家がおまえのお陰で路頭に迷わなくても済んだ。良かったな」
「やめろ…くすぐったい」
「嬉しい?」
「…嬉しい」
「よくできました」
アンドレはそう言うと、自分の胸に腕の中のものを取り込んでしまいたいとばかりに腕に力を込め、しばらくの間全身で彼女を味わった。
それは、彼が彼女から離れる決心をつける時に決まってする仕草だった。心を込めた長いくちづけがオスカルのうなじに落とされ、ゆっくりと大きな身体が起き上がった。逢瀬の終わり。俯いた彼の長い前髪が目元を覆い、濃い影をつくる。
部屋を出て行く前に、これから離れて過ごす長い時間を耐える勇気をよこせ、とオスカルは口に出さずに抗議する。彼のせいではないことはよく知っているけれど。胸の奥底で、涙の泉の水面が盛り上がった。
「行くのか?」
アンドレが手早く衣服を身に着けていくのをぼんやりと見つめて、言うまいと決めている一言を、つい口にしてしまった。こうやって、いつも彼の方に思い切りをつける役どころを負わせている。
「このまま朝までおまえを抱きしめていられたら、どんなに幸せだろうと思うけど」
アンドレは寂しそうに微笑んで、オスカルをリネンごと抱きしめた。
「手にしていない幸せを追うあまり、たった今までおまえがおれの腕の中にいた幸せを蔑ろにするような馬鹿げた間違いを犯したくはないからな」
彼の言葉はよくわかるけれど、彼女のハートはやはり切ないと泣いている。
しかし。
彼の同僚は、まだ働いている。自分が引き止めてしまった分を、アンドレは夜を徹してでも補おうとするだろう。決して主人の気に入りという立場を利用しないのが彼だ。
表向きの立場の違いが、日を追うごとに耐えがたくなることは別にして、そんな彼の在りようをオスカルは誇りに思っていた。そんな彼を愛していた。
後からオスカルを抱きしめているアンドレも、彼女の心の揺れを感じ取った。思いは同じである。離れがたさについ負けてしまいそうだ。
「おまえはお嬢様なんだから、権限を乱用しておれを引き止めることだってできるのにな。それは潔しとしないんだろ?」
「そんなことをしたら、おまえに嫌われる…」
きゅっとアンドレの肩のあたりを握って顔を隠したまま、オスカルが消え入りそうな声で呟いた。
「まさか!」
アンドレは思わず天を仰いだ。彼女が日々蓄えているはずの天上の宝石が見えるような気がして。お嬢様のくせして人を深く尊重することをどこでどうやって学んだのだ。
アンドレは、着たばかりの上着をまた脱ぐと、ふわりとオスカルの素肌に羽織らせた。
「おれの代りに置いて行く。朝までおまえを抱きしめているつもりでいるよ」
オスカルは黙ってアンドレの上着の襟を自分の首元で握り締め、顔を埋めた。彼の香り。彼に包まれているような気持ちになる。
「返さないぞ」
怒ったように応えるオスカルの額にひとつキスを置くと、アンドレは名残惜しそうに立ち上がり、少しおどけて明るく言った。
「中身の返品もご容赦ください」
オスカルの瞳にも光が戻り、笑みが浮かんだ。
「生ものの返品は面倒だからな」
「早めのお召し上がりをお勧めします」
結局、くすくすと笑い出した二人の間を、追加のキスが飛び交った。
「これが狼少年の末路なら、おれ、一生狼少年でいようかな」
離れ際、ウィンクを飛ばしたアンドレの顔面に、バフッとクッションが直撃した。
ジャルジェ家の住人が、次期当主が時々、自室でだぶだぶの上着を羽織っているのを見かけるようになるのはこの時からである。そしてしばらくすると、それは寒い時ではなく、傍らに相棒がいない時であるという法則を、勘のいい数人が気付く事になるが、それはまた別のお話。
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初出 Dec.24.04