天使の寄り道 10 

2024/12/15(日) 原作の隙間1788冬
ル・コック停は本日の夜営業を開始したばかりで、客はまだまばらだった。そこに一人の品の良い老紳士が入って来た。

年の頃は70代。銀縁の眼鏡をかけ、鬘は控えめなワンロールに黒いリボン、目鼻立ちはこぢんまり整っており、微笑を浮かべたような口元と広い額には深い皺が刻まれている。整いすぎて、返って没個性的と言える風貌の紳士だ。

地味な色目の濃紺のマントを羽織っているが、布の光沢具合やビロードの裏地の質の良さから、貴族か羽振りの良いブルジョアであることが伺える。ル・コック亭の客層からすると、やや上品過ぎるが、女将は上客と見て、満面の笑顔で客をストーブに近い席に案内した。

客は遠慮がちにハウスワインとチーズとハムの盛り合わせを注文した。そして、暫くもの思いにふけるようにストーブの炎を見るとはなしに見ていたが、追加注文を聞きに来た女将に、ご主人にお目にかかりたいと、これまたル・コック亭ではお目にかかったことのない礼儀正しさで申し入れた。

ほどなく、ル・コック亭の主人であるジャック・ゴットマンが前掛けから突き出た腹をゆすりながら厨房から出てきた。40代後半、後ろで一つに括った赤茶色のくせ毛、せり出た眉弓に垂れ下がった黒く太い眉、薄い唇、割れた顎には無精髭。客に呼びつけられた不機嫌を隠さず怪訝そうな目を向ける。

客は、すっと音もなく立ち上がると一礼した。

「お呼び立てしてまことに失礼いたしました。わたくしはトリスタン・ド・ルサージュと申します。シャルトルからまいりました」

シャルトルと言えば、広大な麦畑を擁するヴェルサイユの穀蔵であり、豪農が何軒もあることをジャックは伝え聞いたことがあった。老紳士は名前にはドがつき上等な身なり。おそらく裕福な家の出なのだろう。これから忙しくなる時間に呼び出され、イラついていたジャックだったが、不遜な態度を一変させた。

「何の御用ですかな。お役に立てるのであれば何なりと」
「はい。実は孫娘のことでまいりました」
「ほお。孫娘ね」
「はい。方々に人を送って探させておりましたが、お宅様のお店で該当しそうな娘を見かけたと報告が入りまして、矢も楯もたまらずこうして足を運んだ次第でございます」

老紳士は深々と頭を下げた。貴族にしては腰が低い、とジャックは思った。貴族が人捜しに自ら足を運ぶだろうか?最近では貴族でなくてもドのついた名前を聞くことがあるから、もしかしたらこの爺さんはブルジョアか?どちらにせよ、孫娘のために何人も人を雇えるならば、確実に金は持っている。

ジャックは椅子を引き、どっかと腰を下ろした。
「お話をお聞きいたしやしょう。旦那」
「ありがとうございます」
老紳士は語り出した。

手塩に掛けて育てた長男が落馬事故で亡くなった。そこで、パリに駆け落ちして勘当同然だった次男と和解しようと、手を尽くして捜索した。最近になって次男の居場所をやっと探り当てたものの、慣れない荷役作業の怪我がもとで亡くなっていた。

駆け落ちまでして一緒になった嫁は、甘草水売りなどをしながらふたりの娘を育てていたが、捜索人に娘たちを奪われることを恐れて身を隠してしまった。貧しいことを理由に結婚に反対したことを、今では後悔しても仕切れない、と老紳士は目尻に涙を浮かべた。

その後、嫁はヴェルサイユの町に移住し、3人で暮らしていたことを突き止めたが、無理が祟った挙句に嫁も亡くなった。

「残されたふたりの孫娘は、この町で助け合いながら何とか日銭を稼いで暮らしていたようでございますが、そのうちの一人によく似た娘がお宅様のお店で働いているのを見かけた、と連絡が入ったのでございます」

「どんな娘さんでいらっしゃいますかね?うちも手広くやってますんで、女給なら何人も入れ代わり立ち代わり雇っておりますんでね」

ジャックは冗長な老人の話に半分飽き飽きしていた。町には職にあぶれた娘などいくらもいるので、気に入らなければ次々に入れ替えていた。顔や名前を覚えている娘は多くはない。正直、どうでもいい。

が、羽振りの良さそうな爺さんなので我慢して聞いていた。何らかの情報なりを渡してやれば、礼金のひとつもせしめられるかもしれない。老人は、ひとつ上品な咳払いをすると、孫娘の名を告げた。

「カトリーヌ・ド・ルサージュと申します。もしかすると、母親の姓を名乗っていたかも知れません。であれば、カトリーヌ・マロでございます。

今年で18才になりまして、まっすぐな金髪に薄茶色の瞳、背丈は4ピエ半ほどで小柄な方かと。実際に会ったことがありませんで、又聞きですがおとなしくて口数の少ない娘だそうです」

カトリーヌ。聖人のひとりだから、どこにでもある名前だ。過去に何人か厨房や給仕女にいたような気がするが、何かジャックの記憶にひっかかるものがあった。ジャックは眉間を親指の腹でこすりながら記憶を辿った。

何か、嫌な感じが背筋を走る。カトリーヌ、カトリーヌ…。

落ち着きなくテーブルを叩いていたジャックの指が止まる。ゆっくりと顔を上げたジャックの顔は、醜く歪んでいた。

カトリーヌ、そうだ半年ほど前にクビにした、あのいまいましい娘が確かカトリーヌと言った。小柄で真っ直ぐな金髪、薄茶色の目。ちょっと見目が良く、大人しかったので味見した。

それが、大人しそうな顔してせがれといい仲だったことが後でわかった。激怒したせがれとは大げんかになり、女房にまでつまみ食いがばれるはめになった。その結果、女房は怒り狂い、せがれは家を出ていってしまった。すべてあの疫病神のせいだ。

老紳士はジャックの表情の変化を見ると、縋るように腰を浮かせた。
「ご主人!何かご存じでございますか!」

ジャックは目まぐるしく考えを巡らせた。子どもを孕んだことがわかってクビにしたあの疫病神が、この爺さんの孫娘であるなら。女ってヤツは、自分の都合の良いように話をいくらでもねじ曲げる。うちの店での出来事を被害者面して喋られたらたまらない。

もし、あいつが金持ちの爺さんという後ろ盾を得て、あることないこと告げ口なんぞしやがったら、弁護士のひとりやふたり雇って訴えられることもあり得る。いや、待てよ、訴えたりしたら娘の行状が世間に知れるから、それはないかも知れない。良い家ならそれは避けたいだろう。

てえことは、孫娘がアバズレだってことはひたすら隠すだろう。それだけで済めばいいが、孕ませたことの恨みを晴らすために、金で雇った用心棒か何かに密かに襲撃でもされたらたまったもんじゃねえ。カトリーヌがここにいたことは言わねえ方が良いかも知れん。

ジャックは咳払いをひとつすると、いかにも同情した風を装い長々とため息をついて見せた。

「ルサージュさん。お力になりたいのは山々ですがね。ここ何年かはカトリーヌという名前の女給を雇ったことはありませんな。お孫さんに似た娘がうちにいたなんぞ、誰に聞いたか知りやせんが、背格好の似た娘はいくらもおりますからね。

いや、心中お察しいたしやす。あたしも人の親でございますから、お気持ちはよおくわかりますとも。残念で今にも泣きそうですわ。ですが、あたしにできることは無さそうですな」

老紳士は食い入るようにジャックの一言一言を聞いていたが、がっくりと肩を落とした。そして、くどくどと苦労話を始めた。ふたりの息子を亡くしてどれほど辛かったか。探せど探せど探し人が亡くなっている事実が発覚し、いかに心身共に参っているか。

心身の話になると、今度は神経痛がどうだとか、目が霞んで困るとか、膝腰の痛みが治まらないなど、身体の不具合を細に説明し始め、同じ話を繰り返し出した。ジャックは親身な姿勢を装いながらこの爺様を追い出すきっかけを探っていたが、じきに我慢の限界に近づいた。

店には客がちらほらと入り始めていた。それなりに繁盛店なので、半時もすればテーブルが埋まってくるだろう。潮時だ。ジャックは、話を中断させるために大きく咳払いをしようとした。

「でありまして、私どもの製粉工場は今ではシャルトル随一の規模に成長したのでございます。ですから、シャルトル市周辺の小麦は全て私どもが請け負っているのでございます」

え?
ジャックは驚愕した。いつから健康状態の繰り言から家業の話になっていたか知らないが、この爺さん、そんなに手広く商売していやがるのか?

「農場の方は、お陰様で3000アール(約5300ヘクタール)まで買い足しましたので、シャルトルでは一二を争う規模でございます。と言えば聞こえはよろしいかと思いますが、その分苦労も大きゅうございまして…」

3000アールだって?ポールのために見つけて来た粉屋の娘の実家が確か600アールと言っていたな。これは大した資産家だ。

「息子亡き今、本来ならば孫のカトリーヌが全て受け継ぐはずだったのです」

カトリーヌが農場と工場の跡継ぎだって!くそ爺、何でそれを先に言わねえんだ、くそったれ!こんなことなら、知らない振りなんかしなきゃ良かった、ちくしょう。

この老紳士から何某かの金を巻き上げることを目論むよりも、何かとリスクを含むカトリーヌのことは知らぬ存ぜぬを通し、順調に繁盛している自分の商売を守る方が賢明だと一度は判断したが。

老紳士が想像以上に資産を持っており、その跡取りがカトリーヌだと言うことなら話は別だ+。

とりあえず内緒でカトリーヌを探し出し、老紳士に引き渡せば、相当な恩が売れるだろう。幸い、この老紳士はカトリーヌに会ったことがない。カトリーヌを実際に知っていて、ヴェルサイユの下町に顔が利く自分の方が簡単に探し出せる。

カトリーヌがポールとねんごろになったことや、自分との関係、どちらかの子を孕んだことは、黙っていなければ良いところのお嬢さんになれんのだぞ、と言い含めれば、世間知らずの小娘は口を噤むだろう。

孕んだ子はもういい加減生まれたころだ。パリには子どもを遺棄できる教会窓口がある。適当に始末してしまえば何てことはない。こんないい話を聞けば、誰だって子どもの一人や二人、諦めるだろう。

そして、ポールを説得する。ふたりの仲を知らずに自分はあの娘を手込めにしたが、そんなことを根に持っている場合ではない。娘とよりを戻すように言おう。おまえだけを今でも愛している、とか何とか若い娘がぼーっとなりそうな言葉を並べてポールが娘をものにすれば。

何てこった!うまく行けば、俺たち大金持ちじゃねえか!

ジャックは興奮に包まれた。それを表に出さないよう、表情だけは何とか平静を装ったが肩から下はぶるぶると小刻みに震えている。厨房の奥から、まだ話は終わらないのかいと叫ぶ女房の声が聞こえたが、それどころではない。

「そりゃあ、ご苦労なことでございますなあ」

どんなご苦労をされたのかなんぞ聞いちゃいなかったが、とりあえず同調し、探りを入れる。

「確か、お孫さんはふたりおいでなさる、ってえお話でやんしたな。もう一人のお孫さんが見つかりゃあ跡取りのご心配は解決なさるんで?」

「そうもいかないのでございます。もう一人はジュリエットと申しますが、生まれつきからだが弱くて子が持てないらしいのでございます。上の孫さえ元気でいれば…」

老紳士は、苦悩に耐えないという風情で目頭を押さえた。

「この老いぼれが采配を揮えるのはあとわずかでございましょう。跡取りを決めて遺言書を残しておかなければ、相続を狙う遠縁である又従兄弟のせがれが全て引き継いでしまうでしょう。

恐ろしいのは、事業が人手に渡ることではございません。我が子を育てるように大きく発展させた事業が、これからも愛する地元の民の生活を豊かに潤して行くのであれば誰に引き継がせても本望でございます。しかし、又従兄弟の息子が引き継げば…!あれは放蕩者でして、一代で事業は潰されます」

いいぞ!爺さんは何としてでも自分の孫に、ひいてはひ孫に継がせたいらしい。つまり、跡継ぎ候補は実質カトリーヌだけか!人生丸ごと大逆転のチャンスがいよいよ現実味を帯びてきた!

ジャックの興奮は最高潮に達した。すっくと立ち上がり、老紳士の手を両手で包みがしがしと乱暴に振りながらつばを飛ばす。

「そういうことなら一肌お脱ぎいたしやしょう、旦那。カトリーヌという娘は知らないと申しましたが、実はそっくりな特徴の娘を世話したことがごぜえます。前の勤め先で不始末をしでかしたとか、妙な評判を立てられたとか、ささいな理由で名前を偽って働くことなんざよくあることですぜ、旦那。あっしにお任せいただいたら、すぐにでも探し出して…!」

老紳士は、すっとジャックの手から自分の手を抜き取ると、優雅な手つきで胸元からハンカチを取り出し、ジャックのつばのかかった顔を丁寧に拭い、深々と頭を下げた。

「年寄りの長話にお付合いくださいまして、まことに有り難うございました。ご親切、この老体に染み入りましてございます。大変残念ではございますが、人違いということがわかりましたので、また気を取り直して捜索を続けることにいたします」

慌てたのはジャックである。老紳士はがっくりと肩を落としたものの、歳に見合わぬ切れの良い動作でさっさとコートを羽織った。帽子を被って立ち去ろうとする紳士の前にジャックはあたふたと立ち塞がった。

年寄りってやつは人の話をまともに聞かねえから嫌になるぜ。カトリーヌは探せばきっと近くにいる。身重の身体じゃ、そうそう良い職になんぞありつけまい。金がなきゃ、遠くに行くこともできねえ。今頃この町の片隅か、王室の救護院あたりでひっそりと子を産んでいるはずだ。

カトリーヌを見つけ出す自信があるジャックは、ずいっと老紳士の腹に触れるほどの距離まで近づき、紳士は後ずさった。それを見ていた店の一番端にあるテーブルに座っていた二人の男性客が、何事かと表情を変えたので、ジャックは声を落として老紳士にへつらった。

「いやっ。ちょちょっとお待ちなさいって!さささささ、お座りなすってくださいよ、せっかくいらしたんだ、えっと、え~~っと、おい!オルガ!いねえかオルガ!」

とりあえず、女房を呼びつけてからジャックは半ば強引に老紳士をテーブルに戻し、ジャックは老紳士へ熱弁を振るった。

「お孫さんにそっくりの娘は確かにお世話いたしやしたんで!明日の食い物もない様子で、働かせてくれと裏戸口を叩きましてね。丁度その頃、大口の宴会の予約が入ったもんで、雇ったんですよ。確かに背丈4ピエ半、真っ直ぐな金髪、薄茶の目。

臨時雇いのつもりでしたが、どこにも働くツテがないと言うので、そりゃあ気の毒だということで、続けて働いて貰うことにした娘です。仰る通り、おとなしくて口数は少なかったですよ」

老紳士は、ハンカチから手を離さずコートを着たまま、ジャックの話に耳を傾けていた。不承不承テーブルにやって来た女房が口を開きかけたが、黙って聞いていろ、とジャックに目配せされて不満げに押し黙った。

「うちに来て孫娘さんは幸運だった。いかに王都とは言っても、この不景気じゃあ何の手に職も学もない若い娘が働ける場所なんざそうそうないですぜ。うちで働けば賄いは出すし、着るものや寝床まで面倒見てやりましたよ」

聞けと言われて側に立っていたジャックの女房、オルガの眉がピクリと動く。老紳士は片目でその様子をちらりと窺い見たが、ジャックの話に注意を戻した。

「栄養不良でしたからね、最初は風邪を引きやすくて湿布薬を買ってやったり、しもやけの軟膏なんかも毎日すり込んでやりました。毎日腹一杯食わせてやるうちに、顔色も健康そのものになりましたがね。いや、危なかった。あのまま町をさまよっていたら、去年の冬は越せなかったんじゃねえですかね」

調子よく喋りながら、ジャックは思った通りの反応が老紳士から得られないことに不安を募らせていた。孫娘の危機を救ってやったと言っているのに、何の感動も感謝も老紳士から発せられていない。おかしい、孫娘を見つけたいとあれほど真剣に語っていたはずなのに。

「実の親のように面倒を見てやりましたからね、あたしが探していると知れば、すぐに自分からやって来ますよ。18才なら十分婿も取れる。そしたら、旦那、おたくのでっかい工場も農場も跡継ぎはめでたくご自分の直系に決まって万々歳だ。そうでやしょう?」

老紳士の硬い表情は変わらなかったが、ジャックの女房の方が胸を押さえて目を白黒させている。あんぐりと開けた大口の奥で金歯がきらりと光った。

「実の親のように…面倒をみてくださいましたか」
「いかにも」
「それなのに、今その娘がどこにいるかご存じない?」
「え?いや、はは、それはですね…」

答えに詰まったジャックの代わりに、女房オルガがさっと割って入った。

「旦那さん、実はあの子はうちで冬を越させてやった後、自分から出ていったんですよ。いつまでもお世話になっては申し訳ない、と言いましてね。そうだよね、あんた」

「えっ?そ、そうだった、そうだった、自分から出ていったんですよ、あたしは止めたんですけどね」

「そうそう、都会で働いてお金を貯めてご是非恩返しをしたい、ってね。今時珍しい健気な子ですよ」

老紳士は大きく頷いた。このくそ爺、やっと納得したか!ジャックはほくほくと手もみをした。あとはカトリーヌを見つけ出してポールを連れ戻すだけだ。

「あたしは娘をよく知っております。姿形だけでなく行きそうな場所も、おたくの手の者達よりよくわかりますよって、大船に乗ったつもりで任せてくだせえ」

老紳士は、夫婦に詰め寄られても一向に毅然とした態度を崩さず、深く刻まれた口元の笑いじわを濃くして微笑んだ。

「わかりました。あなた方ご夫婦は実に慈悲深くていらっしゃる。確かに去年も今年も厳寒のために多くの貧しい人々が命を落としたと聞いております。失業者は年々増えているとも。感銘致しました。赤の他人をそうやって援助するなど誰にでもできることではありません」

夫婦は揃ってうんうん、と期待を込めて頷いた。老紳士は、脚の歪んだ椅子を節穴だらけの床の上で魔術師のように音もなく滑らせて立ち上がると、帽子を取り頭を下げた。

「残念です。私どもの孫娘がお世話になった御店のご主人は、あなた様のような慈悲深いご夫婦ではなかったと聞いております。とすれば、やはり人違いで間違いございませんでしょう。それがわかっただけでも収穫でございました。心より御礼申し上げます。では」

老紳士が立ち去ろうと向き変えると、今度は夫婦揃ってバタバタと紳士の行く手に回り込んだ。シャルトルのド・ルサージュ。それだけわかっていれば、富農であり町で最大の工場主なら、カトリーヌを見つけ出してから後で訪ねることもできよう。

とりあえず、今は人違いでないことだけはこの場ではっきりさせておかなくては。夫婦は必死に老紳士に取りすがった。

「お、お待ち下せえ。又聞きの話は尾ひれがつくものでごぜえますぜ。どこで聞いた話か存じませんが、うちはこの不景気でも繁盛している店でございます。何かとやっかみを受けることも珍しくない。よそから聞いた話より、こうして直に見聞きすること以上に確かなことはございませんって!」

「そうですよ、旦那様。中には身持ちの悪い女を雇うこともありますのでね、やむなく暇を出すこともあるんでございます。うちはまっとうな商売でやっておりますから、道を外れた女から恨まれることも珍しいことじゃありません。噂を流すのは得てしてそういう女なんでございますよ」

老紳士の温和そうな瞳に、きらりと喜色が光ったことに夫婦は気づかなかった。紳士はゆっくりとテーブルに戻り、やはり音もなく腰を降ろしたが、先ほどまでとは打って変わり、静かな威厳で夫婦を圧倒した。

「そうですか…。人違いではないと。聞いた話と実際は違うと仰る。では、せっかくでございますから、私が入手した報告内容の齟齬を正していただきましょうか」


*****************


何でこんなことになったのか。ジャックとオルガは冷や汗まみれになりながら、緊張しきって老紳士の質問に答えていた。有無を言わせない堂々とした風格で、老紳士は最初の印象とは別人のようだったが、品のある口調は変わらず柔らかだった。

紳士が鞄から取り出した紙束には細かい文字がぎっしりと綴られている。それを時々めくる様子を見ているだけで、裁判でも受けているような気分になった。紙束の分厚さが、詳細な調査がなされたことを物語っていた。

「失礼ではございますがお宅様のご子息と孫娘は恋仲であったと聞いておりますが、間違いございませんか?」

まただ。次次と後出し情報をつきつけて来やがる。知っているくせに知らない振りして先に喋らせるなんて、悪趣味なじじいだ。と、ジャックは腹の中で老紳士を罵ったが、態度は小さく出た。

「いえ、その、何ですか…はい。そのようでございます」

知っていたと答えれば、嘘をついたことがバレてしまうが、知らなかったと答えれば、あの分厚い調書の中から次に何を持ち出して反論されるか恐ろしい。

「ご子息は今どちらに?」
「あっ、そのパリに…」
「一度もお戻りになってない?お戻りになるご予定は?」
「それが、その聞いておりませんで」
「孫娘も一緒に?それともお一人で?」
「一人で行きました」

特に詰問されるわけではない。答えた内容が糾弾されるわけでもない。ただ淡々と事実を聞かれるだけだ。しかし、怖い。こんなことなら、爺様が帰るのを引き留めなければ良かった。ジャックの胃はきりきりと痛んだ。

「孫娘がお宅様を辞めたとき、懐妊していたことはご存じですかな?」

げっ!どこまで知っていやがる、このじじい!ジャックは何か答えようとしてただ口をパクパクさせた。女房の方がまだ落ち着きを保っており、平然と答えた。

「知っておりました」
「そうですか。報告書の通りですね。わかりました」

そうですか、だって?報告書の通りならそれでいいのか?本当にそれだけを確認したいのか?ジャックは混乱のあまり頭がぐるぐる回る。涼しい顔をした老紳士は続けた。

「では、子どもの父親はご子息かご主人のどちらかであることは間違いございませんでしょうか?」

これにはジャックだけでなく、さすがの女房殿も絶句した。むらむと腹が立ってくる。ここまで詳細に調べておきながら、殊勝な顔して『孫娘を探しております』と訪ねてくるとは、人を食うにも程がある。

「その質問に、正確に答えることができるのはお孫さんしかいないのではありませんかね」

素早く落ち着きを取り戻したオルガが、腹立ちを隠さずぴしゃりと言い返した。老紳士は全く動じず、帳簿の確認でもしているように感情を動かす様子はない。

「なるほど。では質問を変えましょう。おふたりとも子どもの父親である可能性があることに間違いはございませんか?」

この質問に、女房ほど腹が座っていないジャックがキレた。

「だったらどうだってんだ!それを確かめてどうしようってんだ、え?」
「ちょっと、あんた!何であんたの方が怒るんだい?怒る権利はあたしのもんだよ!」
「うるせえ、黙れ!今はそれどころじゃねえ!」

先ほどから、時々老紳士と夫婦のやりとりを心配そうにチラ見していた二人連れ男性客の一人が立ち上がった。老紳士が男に向かって『ご心配なく』と微笑と会釈を返したので、男は相方の男との会話に戻ったようだ。

ジャックは焦った。こんなやりとりを客の前で続けていたら、変な噂が広まってしまう。この会話はそうそうに打ち切らなければならない。

「おい、じじい。いい加減にしろ。変な噂でも広がったら営業妨害だぞ。もういいから出て行け!」

「そうですか。では、あなた様は子の父親であることは否定なさる…でよろしいですね。ここは重要なところでございますよ」

「どういうことだ」

老紳士は、パタンと報告書を紙挟みに挟むと、ジャックを鋭く見返した。

「私は本当のことを知りたいだけでございます。なるほど、伝聞による報告書は本人の証言より正確性に欠けるとのご意見、納得致しました。ですから、直接伺っているのです。ご主人、あなた様は子の父である可能性はない、それでよろしいですか?お答え下さった内容が、事実であると信じましょう」

「うっ…」
「あんた、どっちなんだい?」
「わたくしは警察でも裁判官でもございません。ただの事実確認でございます。他でもない、孫娘のことでございますから」

しばし、会話が途切れた。客足が少しずつ増え、雇い人の女給が助けを求めるように夫婦に何度も視線を送っている。もう面倒くさくて捨て鉢な気分になっていたジャックは、吐き捨てるように答えた。

「俺は関係ねえ。あんたの孫娘が誰の子を孕んだかなんて知ったこっちゃない」
「わかりました」

老紳士の反応は淡々としていた。何か妙だ。どうでもいいと思っているのはこの爺さんの方じゃねえのか?言いようのない不安がジャックを苛む。憮然として腕を組んだジャックに老紳士は軽やかに告げた。

「ご協力ありがとうございました。これで、跡取りである曾孫の後見人候補がひとり減りました。良かった、良かった」

曾孫だって?それはカトリーヌの産んだ子のことか?

目をひん剥いて睨んでくるジャックに、老紳士は『いかにも』と誇らしげに頷いた。

「曾孫は生まれたばかりでございます。私はもう老い先短い。曾孫が二十歳になるまで後見人として財産管理をお任せするなら、実の父親にお願いしようと思っておりましたが、あなた様は違う。納得致しましょう。では引き続き、曾孫の実父はよそで探すことに致しましょう」

女房殿の悲鳴が上がった。ジャックは放心状態で立ち尽くしている。老紳士はそそくさと身支度を整え鞄を小脇に抱えた。では、今度こそごきげんよう、と老紳士は垢抜けたお辞儀をした。はっと我に返ったジャックは、息絶え絶えの様相で老紳士のコートの裾を掴んで叫んだ。

「ポールだ!せがれのポールだ!あいつが父親だ!」

老紳士はさっとコートの裾を上品に払い、微笑んだ。
「別の者が今頃ご子息に父としての責任を全うし、子を慈しみ愛する覚悟がおありになるか、質問しているころでございます。ウィであれば、父の権利はお渡しいたしましょう」

「おい、孫娘を探しに来たってのは嘘か!曾孫を見つけたなら孫娘だって見つけているはずだ!どういうことなんだ!?」

老紳士は悠然と微笑んだ。
「おや、私は孫娘を探しに来たとは一言も申し上げてございませんよ」
「屁理屈をこねるんじゃねえ!てめえは一言だって俺に父親になる覚悟があるか、なんて聞かなかったじゃねえか!」

口角から泡を吹きながら食ってかかるジャックに対し、老紳士は穏やかな微笑はそのまま、誰にも立ち入らせない毅然とした風格をもって告げた。

「尋ねるまでもございませんでした。では、ごきげんよう。ほーっほっほっほっほ」


*****************


店の隅のテーブルで様子を見守っていたアンドレが呻いた。
「うっ、デュポール爺…」
向かいに座っているアランは口笛を吹いた。

「すげえな、あれ本当に隊長んちの執事か?」
「ああ…任せろって言うから。まさか、あそこまでやるとは…」

「はあ、大した役者じゃないか」
「後半ほぼ地だよ、あれ」

「あの報告書もすげえ調査量だな」
「あれは見せかけだ。せいぜい3~4ページしか書いていない。残りの50枚は白紙だよ」
「は、芸が細けえ~」

「シャルトルの富農の曾孫ってのは?」
「真っ赤なウソ」

どっと疲労が押し寄せたようにテーブルに突っ伏した相棒にアランは珍しく情けを覚えた。そもそも隊長を育てたジャルジェ将軍が変人なのは間違いないところにきて、ジャルジェ家にはどうやら隊長以外にも、ユニークな面々が揃っていそうだ。

「おまえ、苦労してんな」
「……」

たまには一杯おごってやるか、とアランが給仕を呼ぼうとしたそのとき。軽やかに帽子を翻して礼を取る老紳士の元に、小柄な老女が駆け寄った。老紳士は顔中を笑顔にして老女に肘を差し出す。

「終わりましたよ。お聞きの通りです。さあ帰りましょうか」

しかし老女は老紳士の腕を取ろうとはしなかった。
「ちょっと、待っておくれ。あたしはまだ用がある」

突っ伏していたアンドレがガバッと起き上がった。見れば顔面蒼白になっている。
「お、おばあちゃん…!?う…わ…勘弁してくれ!」
「お、おばあちゃん?」

丸顔に丸い目鼻、豊かな鳩胸が体つきまで丸く見せる、およそ全てのパーツが丸でできている小柄な老女は、大人しくさえしていれば可愛らしいと形容されるだろう。しかし、老女はかけていた丸いめがねを吹き飛ばす勢いでジャックの前までずんずんと進み出ると、ジャックの胴体を突き刺さんばかりに指差した。

「あんただね、カトリーヌを弄んだ挙げ句に親子共々寒空に放り出したのは!」

妙な噂が立てば客層が低下すること必至。客の目の前で女性に乱暴を働けば墓穴を掘ることになる。ジャックは為す術もなくタジタジと後ずさり、見守るアンドレは凍り付いた。

「いいかい、よくお聞き!あたしたちのリュカは、大事にかわいがられて育つんだよ。良い教育を受けて必ずひとかどの人間になる!その時になって、リュカの親を名乗ったり、頼ったりしてごらん。あたしが承知しないよ!」

「お、奥さん。人聞きの悪いこと言うのは勘弁しておくんなさいよ。あたしは何も知らないんだ。妙な言いがかりをつけられて困っている真っ正直な市民なんだよ」

老女は突き出していた指を下げ、ゆっくりと両手を腰に当てて胸を張った。小さな体から、母親特有のド迫力がジャックを圧倒する。つい、『母さんごめんなさい』とぺこぺこしてしまいそうになる、全世界共通の母ちゃん力が解き放たれた。

「本当に何も知らないんだね」
「は、は、はい!」
「だったら、ここにいる客さんみんなに証人になってもらおうか。あんたは今後一切リュカに近づきもしなければ、父親を名乗ることはないと断言するんだね!」
「はいっ!」

縮み上がったジャックと、腰が抜けたように座り込んだオルガに啖呵を切り終えると、老女はくるりと向きを変え、あっけにとられている客のテーブルにすたすたと近づいた。そして、手提げ袋から紙を出し、ぺしっと客の前に置き。

「そこにいる兄さん達、あんたらもこの男が言ったことを聞いたはずだ。この証書に今ここで署名をしておくれ。ほれ、そこのあんたもだよ」

次々と客のいるテーブルをまわる老女の後ろから、老紳士がお騒がせして大変申し訳ごさいません、と低い姿勢で謝りながらも小さなインク壺とペンを置いてまわる。

自分のテーブルにも置かれた証言書を前にしたアンドレは頭をかきむしり、左右に振った。
「名前を出しちゃだめじゃないか、おばあちゃん…」

アランは、同僚の苦労が自分の生半可な想像を超えていることに戦慄した。


**************


河岸を変えて一杯やりたい気分だったので、ふたりはル・コック亭を出た。手頃な落ち着ける酒場を探しぶらぶら歩きながら、アランはアンドレから小さな革袋を手渡された。

「まあ、これでとりあえず一件落着だ。いろいろ助かったよ。礼だ」

思ったよりずっと重い。アランは、複雑な表情で年上の同僚を見た。聞き込みの手伝い、それからさきほどル・コック亭では老紳士の護衛を同僚と一緒に務めたが、大事には至らず出番はなかった。

「多いんじゃねえか?」
「いいんだよ。オスカルの気持ちだ、受け取ってやれ。妹さんの嫁入りでものいりだろう?祝儀と言えば遠慮するだろうから、って謝礼に上乗せしたんだろうさ。おれからも少し入っている」

全く仲のいい主従だな、とアランはアンドレの横顔に呟いた。当たり前のように相方の気持ちを代弁し、自然に同じ行動をとる。以前は女主人に懸想する腰巾着にしか見えなかったアンドレだが、手負いの獣のような狂気がなりを潜めてからは主従の印象はがらりと変わった。

『おれからも少し入っているだって?上司の祝儀袋に自分の分を勝手に混ぜるか?』

主従関係が良好であることを言い表すなら、忠義深いとか信頼に足るあたりが妥当なのだろうが、アランから見ると同僚と上司の関係は『仲が良い』が一番しっくりくる。

「遠慮なんかしねえよ。実際嫁入りには金がかかる」
「オスカルはディアンヌ嬢が気に入ったらしいから、喜ぶよ」
「へえ、そんなもんか?ディアンヌのやつも、隊長に惚れ込んでいるがね」
「下手な男より男前だからな。しかも女性がオスカルに惚れても浮気とは見なされないから、惚れ放題だ」
「はは、確かにな。ディアンヌが隊長にのぼせたところで、あいつの婚約者殿は脅威には思わないだろうよ」
「婚約者殿にとっちゃ、おまえの方がよっぽど脅威さ。今、すご~く嫌そうな顔したぞ」

アランは苦笑いしながら頭を掻いた。世界中の男の中から、気に入った婿を妹のために選んでよいと言われても、大事な妹をさらっていく男であるという一点が外せない限り、どんな男だってくそ野郎に見えるのだから仕方ない。

「で、カトリーヌも下手な男より男前な隊長にぼ~っとなっていたところを姉に勘違いされただけで、男は別にいた、ってことか?」
「まあ端的に言えば、そうだ」

「命拾いしたな、おまえ」
「何が」

「あなたの子よ!って指さされたのがおまえじゃなくて」
「指さされても安全なのはオスカルだけだよ。そんなのおれに限った話じゃないだろう?」

「いんや。おれは『きい~~っ!よくもあたしに隠れて他の女と~』と爪を立てられる脅威はないから、間違われても平和だぜ?」
「おれだってないよ、そんな脅威」

「あるだろ、おまえは」
「ない」

「いや、あるね」
「……あるかな?」
「世にも恐ろしい脅威があるだろう、おまえには」

年上の同僚は押し黙り、やや俯いてアランから顔を背けた。ただの戯れ言なのに、心の傷にでも触れてしまったか。隊長に関しては何かとナイーブなヤツだということを忘れていたアランは、大丈夫か?と同僚の様子を下から覗き上げた。そして、あまりの馬鹿馬鹿しさに空を見上げて呻いた。

こいつ、にやけてやがる!

「おまえのばあちゃん、おっかねえもんな。くわばらくわばらだ」

ゲホッと何もないのにむせた同僚を置き去りに、アランはスタスタと目についた酒場に入って行った。

慰労の意味を込めて一杯おごってやるつもりだったが、今日のところは奴のおごりだ。まあ、妹が嫁に行ったらおごってやるさ。

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