その年の天候不良による農村部での耕作物への打撃は、都市部の深刻なインフレを招いた。イギリスの産業革命に押され、小規模手工業従事者は大量に失業した。そして農村部から食い詰めた農民が街へ流入し、食料は益々足りなくなった。
最初の白い雪のひとひらがパリの街角に舞い降りた時から、飢えた人々は春を待ちわびていた。ノエルを過ぎれば、昼が夜に勝利する。昼間が毎日わずかずつ長くなる先に春が待っている。
死者と共に過ごす11月(*)の後に訪れる新しい(NOELの語源はラテン語の『新しい』であるという説がある)年への幕開けであるノエルに始まる祭礼の期間は、生きる希望が再生される一年で最も重要な時期だ。
明日、路上の片隅でひっそりと苦しみの日々に終止符を打つであろう孤児、故郷に残した妻子に約束の仕送りも出来ぬまま、もう二日も食べていない日雇い労働者。一片のパンすら手に入れられず、餓えた子が待つ家の戸口の前で佇む母親。
彼らの上に、惜しみなく平等に祝福が降り注ぐ。どんなに貧しい者からも救い主への渇仰と、失いかけた人間の尊厳を思い出すこの祭典を取り上げる事はできない。
🌟 🎄 🌟 🎄 🌟 🎄 🌟 🎄
オスカルが何とか兵士達に工面した降誕祭の休暇は4日間。11月にずれ込んだ夏季休暇は2週間という短い期間であったが、それから1月も経たないうちに再び長期休暇を兵士達に都合してやることはできなかった。
あの、初雪がそのまま大雪になった日の朝に見た、抜けるような青空を最後に重苦しく垂れ込めた暗い雲がヴェルサイユを覆ってしまった。オスカルは休暇前の閲兵を終え、留守中の当番兵の配置と緊急連絡網の確認をするとアンドレを呼んだ。
司令官室に駆け込んできたアンドレはすでに外套を羽織り、白い息を荒げている。戸外ですでに一仕事をこなした後のような様相だった。
「帰るぞ、アンドレ。今年のノエルは明日からマリー・アンヌ姉上とクロチルド姉上とその御家族がご滞在だそうだから、静かな夜は今日限りだ。早く帰ってゆっくりしたい」
「そう言うだろうと思って迎えを頼んでおいた。もう馬車寄せでジャンが待っているから早く行け」
期待通りと言うか、期待外れて、か。うんざりしたオスカルが不機嫌そうな低音でぼやいた。
「今日のおまえは何用で、どこへ行くのだ、わたしを置いて…」
一方のアンドレは次から次へと頭の中で段取りを組み立てている時の機械的な返答を無造作に返してくる。
「降誕祭中の当番兵へレヴェイヨンの手配だろ、それから教会へ寄って、祝別を頼んでおいた大薪(*)を取りに行く。品不足で出入りのギヨマン商会が注文の鶉を確保できなかったから、ミシェル爺さんの農場を覗いて来いとおばあちゃんに言われてる」
答える間も忙しく戸締りを確認しているアンドレを、アランに負けない三白眼で睨みつけてはみたものの、彼のせいではないのは明白で。
外套を肩に掛けてくれる段階で、ようやくオスカルの憂色に気づいた彼が済まなそうにぽん、と背を叩いてくれたので、オスカルは拳骨で顎を一発殴るまねをしただけで許してやることにした。
毎年この時期になると、ジャルジェ家では故郷から遠く離れている使用人達を里帰りさせることが恒例になっている。その為、アンドレのように屋敷に残る者は目の回る忙しさに見舞われる。
特に大勢の客人を迎える事になった今年の降誕祭は、例年以上に居残り使用人にとっては激務になるはずだ。
同じ教区内に嫁いだ娘達が、一緒に深夜ミサに出かけられるように数日間帰省すると聞いた時、ジャルジェ夫人はこの上もなく嬉しそうだった。
残る使用人には申し訳ないが、このご時世、いつ家族が離散するような事態が起きても不思議はないのだから、賑やかなノエルもいいかもしれない。そう思い直して、オスカルはぼそっとひとりごちた。
「そもそも何でおまえが済まなそうにするんだ」
だから、ついアンドレが悪いような気分になる。
「え、何か言ったか?」
「何でもない。おい、教会ならわたしも行く。今年の聖家族の飾り付けの趣向を見に」
「どの道ミサで行くんだから、今でなくてもいいじゃないか。ゆっくりしたいんだろ、さあ帰ろう。馬車まで一緒に行くから」
今夜もアンドレは深夜迄帰って来られないことはわかり切っていた。自分がついて行けば余計な仕事を彼に与えてしまう。優しく促されて、オスカルは仕方なしに頷いた。
オスカルを乗せ、遠ざかるジャルジェ家の馬車を見送るアンドレに声を掛ける者がいた。聞き慣れたその声は、幾らか元気がない。
「おい、アンドレ、今のは何だ?」
「なんだ、アラン。見てたのか。人が悪いな」
「ふん、暇なんでね。で、何なんだよ、今の指の合図は。訓練で使う手信号じゃあないな」
走り出した馬車の車窓からいきなりオスカルが手を突き出し、指で二つ三つ形をつくって見せたのに応えるように、すかさずアンドレも手指で合図を送った様子をアランは目ざとく見ていたのだった。
「子供の遊びさ。子供の頃、いろいろ暗号を考えては遊んでいたんだ。屋敷を抜け出すタイミングとか、くすねた酒の隠し場所を知らせたりとか、内緒で伝達する時の合図だよ。それをオスカルのやつ、いきなり送って来たから…、はは、今でも案外覚えているもんだな」
アンドレはそう言うと、懐かしそうに主を見送っている。
「そりゃ、そりゃ仲のおよろしいことで。で、隊長は何て言ってたんだ?」
アランはどことなく面白くないようだ。おまえも子供みたいじゃないか、まあいつものことけど。アンドレは同じ土俵に立ってやることにした。
「ばーか、暗号を教えちまったら非常時に役に立たないだろ」
「は、勿体つけやがって。一体どういう非常時だかね」
ふて腐れたアランがアンドレを小突く。
「そりゃ、おまえが今想像したような、あぶな~い事態に決まっているだろ」
「なんだと、こんにゃろ~」
あ、本気で怒りだした。そこで怒ると隊長好き好き~って白状しているようなもんなんだけどな。あれ、この感じ…どこかで…いや、どこかで何てもんじゃない、おれの人生通じてとっても良く知っている感じだ。これは・・・!げっ。
アンドレは自分の中にふっと一つの恐ろしい考えが浮上したのを発見し戦慄した。
『こいつ、どっかオスカルに似てないか?』
どおりで、こいつとオスカルとは反発し合いながら、お互いに強く興味を持たずにはいられない訳だ。と、言う事はおれも気をつけないとこいつとも腐れ縁になってしまいそうだぞ。この手の人種はオスカルだけで手一杯なのに。アンドレは身震いした。
「何だよ!急にあほ面して黙っちまって」
「おれはたった今非常事態に突入したような気がする」
このくそ寒いのに冷や汗でもかいているような言い方で、急に意味不明の事をつぶやくアンドレに、アランははっと何かに思い当たった。
「おい、おまえ…さっきは隊長の指の動き、見えてたよな!まさか今突然目が…?!」
アランが切羽詰った口調でアンドレの襟首を掴んだ。そのアランの真剣な顔つきにアンドレは一瞬たじろいだが、彼が自分の目の具合を心配していることを読み取り、表情を綻ばせた。
「ヒゲ、そろそろ剃れよ」
アランはポカンと口を開けて固まったと思うと、顎に手を当て、確かに見苦しいほどの無精髭を確認すると、たちまち真っ赤に着色された。
「ばっ、ばっかやろう~!見えてんじゃねえかっ!しっ心配させんな~!」
素晴らしく響く雄叫びが、冷えた闇をつんざく。至近距離でこれをやられたらたまらない。ちょっとの間を置いてダミ声の衝撃波から立ち直ったアンドレの目に、すっかり煮えたぎったアランが湯気を立てて立ち去ろうとする後ろ姿が見えた。
やっぱり似ている。ああやって怒るところも、本当は情が深いところも…。アンドレは可笑しくて可笑しくて痙攣する腹を手で抑え、耳をさすりながら慌ててアランを呼び止めた。
「おーい、悪かったよ!待てって!これからおまえ達当番兵の酒と仕出し料理を注文しに行くから付き合えよ!」
大急ぎでアランに追いつてぐいと腕を掴む。二人とも息が白い。
「おまえが見立ててくれよ、な。値引き交渉もおまえがいた方が有利だし」
鼻息荒くアランが振り向いた。
「何だよそれ」
「降誕祭に家に帰れない兵士達にオスカルが差仕入れしたいと言っている。兵舎で悪いけどせめて形ばかりのレヴェイヨン(*)ができるようにしてやりたいってさ」
「また、余計なことを…」
「まあ、おまえはとも角、他の連中の為に頼むよ」
ああ、結局誰かさんを宥めるときと同じことしているな、おれ。アンドレはアランが歩を緩めたのを確かめると、厩方面に向きを変えた。アランは特に抗う様子もないので、そのままぐんぐんと引っ張って行く。
「おまえ丸4日間、続けて夜勤に入ってるな、大丈夫か?」
「誰もやりたがらねえからな」
つまらなさそうに、ぶっきらぼうにアランが答える。
「お袋さん、ひとりにしておいていいのか?」
一度だけ訪ねた事のあるアランのパリの自宅。あの年老いて見えた婦人が、あの家で独りで降誕祭の夜を過ごすのかと思うと胸が痛くなる。
「向かいの部屋の家族が良くしてくれているから、心配ねえよ。正直、夢の世界に入っちまったお袋と24時間顔つき合わすのは、きついんだ」
「そうか…」
アランがきっと自分から志願したんだろうな、と休暇中の勤務表を見ながらオスカルがぽつりと洩らしていた。現実を見るのを止めたお袋さんより、真っ直ぐ対峙する強さを持ったアランの方が辛いだろう。アンドレはアランの肩に腕を回し、ぐいっと首を羽交い絞めに締め上げた。
「うがが」
「いらん世話とは思うが」
「うげっ!いらん、いらん」
「生きている内に、良くしてやれよ」
「……」
歩みが止まった。傍から見たら怪しい誤解を生みそうなその姿勢のまま、暫らく二人は凍りついた白い息が薄闇の中に吸い込まれていくのを黙って見ていた。
「おまえに言われたくはなかったな」
「それは失礼」
「言い訳の一つもできないからな」
「そんな立派なもんじゃないよ」
アンドレが腕を解き、アランの背中を一発叩く。
「分かったよ、昼間顔を見せに行って来る」
「無理はすんな 」
「暇になっちまったもんでね、なに、その位の時間はあらあ」
アランが鼻を啜った。きっと寒さのせいだろう。
兵営裏門から二騎の影がゆっくり姿を現した。いびつに固まっている凍った轍(わだち)をざくざくと馬の蹄が崩す音が、凍てつく空気を震わせる。吐いた息が睫毛と眉を白く縁取るくらいの厳しい夜。
夜勤の兵士には体を温める燃料がいくらあっても足りないだろう。馬の鼻息も白く流れては凍りつく。
「いい店知ってるだろ。おまえに任せたから先に行け」
「知らねえぞ、えらい高い店に連れて行かれても」
「おまえはそんなとこ知らんだろう」
「うるせえ。おっと、しまった。おれ今夜も夜勤入ってるぞ」
「大丈夫だよ、少しくらい。幸いこわ~い隊長は帰宅したし」
「おまえがそんな事言っていていいのか」
「はは、内緒な」
宮殿前のパリ大通りに、点火夫が長い竿先で街灯に一つ一つ火を灯していく姿が巡礼のように続いている。昼間は泥と雪で薄汚れて見えた路面も、点々と続く灯火の下に照らし出されて、白いガラス屑を敷き詰めた幻想的な姿に変わった。
社交の時間を迎えた街は、白いかけらを巻き上げながら、次第に交通量が増え、あちらこちらから規則的な車輪と馬の並足の音が交差する。
その音の間に間に、ノエル聖歌を練習するボーイソプラノの合唱が聞こえ、闇に塗り込められた教会の薔薇窓に灯りが燈り、そこだけが暖かく浮き上がる。濃紺一色に沈んでいた空に、白いものが舞い始めた。
二騎の兵はゆっくり遠ざかる。
* 昼が夜に勝利する日
キリストの実際の誕生日は12月25日ではないが、暗く長いヨーロッパの冬にあって、希望の一筋の光である、冬至が意図的に降誕祭に選ばれた。もともとは太陽の誕生日を祝う冬至祭だった。
* 死者と共に過ごす11月
11月は諸聖人の祝日(万聖節)と、死者の記念から始まる月で、先祖の思いをはせる月とされていた。先祖が里帰りして来る月でもあり、墓参の習慣もあった。文献によっては死者が帰って来るのは12月としている記述もある。間違ってご先祖さまを追い出してしまわないよう、この期間は掃き掃除などは厳禁だったとか。
* 大薪
クリスマスイヴに、その家の最年長者によって暖炉にくべられる薪。地方色豊かな儀式で、聖水を振り掛けたり、ワインをかけたり、様々な口上が述べられたりと、様式は多様。一家の幸せの象徴であるこの薪が、できるだけ長く燃え続けるよう、見張りを立て、工夫を凝らした。残った灰も魔よけやお守りとして珍重された。
* レヴェイヨン
イヴの深夜ミサから戻ってからの、夜を徹っての夜食会。家族の祝い席であり、食べ、飲み、ダンスをして楽しんだ。明け方まで騒いで、再び朝のミサに出かけるのが習わし。
~To be continued ~
最初の白い雪のひとひらがパリの街角に舞い降りた時から、飢えた人々は春を待ちわびていた。ノエルを過ぎれば、昼が夜に勝利する。昼間が毎日わずかずつ長くなる先に春が待っている。
死者と共に過ごす11月(*)の後に訪れる新しい(NOELの語源はラテン語の『新しい』であるという説がある)年への幕開けであるノエルに始まる祭礼の期間は、生きる希望が再生される一年で最も重要な時期だ。
明日、路上の片隅でひっそりと苦しみの日々に終止符を打つであろう孤児、故郷に残した妻子に約束の仕送りも出来ぬまま、もう二日も食べていない日雇い労働者。一片のパンすら手に入れられず、餓えた子が待つ家の戸口の前で佇む母親。
彼らの上に、惜しみなく平等に祝福が降り注ぐ。どんなに貧しい者からも救い主への渇仰と、失いかけた人間の尊厳を思い出すこの祭典を取り上げる事はできない。
🌟 🎄 🌟 🎄 🌟 🎄 🌟 🎄
オスカルが何とか兵士達に工面した降誕祭の休暇は4日間。11月にずれ込んだ夏季休暇は2週間という短い期間であったが、それから1月も経たないうちに再び長期休暇を兵士達に都合してやることはできなかった。
あの、初雪がそのまま大雪になった日の朝に見た、抜けるような青空を最後に重苦しく垂れ込めた暗い雲がヴェルサイユを覆ってしまった。オスカルは休暇前の閲兵を終え、留守中の当番兵の配置と緊急連絡網の確認をするとアンドレを呼んだ。
司令官室に駆け込んできたアンドレはすでに外套を羽織り、白い息を荒げている。戸外ですでに一仕事をこなした後のような様相だった。
「帰るぞ、アンドレ。今年のノエルは明日からマリー・アンヌ姉上とクロチルド姉上とその御家族がご滞在だそうだから、静かな夜は今日限りだ。早く帰ってゆっくりしたい」
「そう言うだろうと思って迎えを頼んでおいた。もう馬車寄せでジャンが待っているから早く行け」
期待通りと言うか、期待外れて、か。うんざりしたオスカルが不機嫌そうな低音でぼやいた。
「今日のおまえは何用で、どこへ行くのだ、わたしを置いて…」
一方のアンドレは次から次へと頭の中で段取りを組み立てている時の機械的な返答を無造作に返してくる。
「降誕祭中の当番兵へレヴェイヨンの手配だろ、それから教会へ寄って、祝別を頼んでおいた大薪(*)を取りに行く。品不足で出入りのギヨマン商会が注文の鶉を確保できなかったから、ミシェル爺さんの農場を覗いて来いとおばあちゃんに言われてる」
答える間も忙しく戸締りを確認しているアンドレを、アランに負けない三白眼で睨みつけてはみたものの、彼のせいではないのは明白で。
外套を肩に掛けてくれる段階で、ようやくオスカルの憂色に気づいた彼が済まなそうにぽん、と背を叩いてくれたので、オスカルは拳骨で顎を一発殴るまねをしただけで許してやることにした。
毎年この時期になると、ジャルジェ家では故郷から遠く離れている使用人達を里帰りさせることが恒例になっている。その為、アンドレのように屋敷に残る者は目の回る忙しさに見舞われる。
特に大勢の客人を迎える事になった今年の降誕祭は、例年以上に居残り使用人にとっては激務になるはずだ。
同じ教区内に嫁いだ娘達が、一緒に深夜ミサに出かけられるように数日間帰省すると聞いた時、ジャルジェ夫人はこの上もなく嬉しそうだった。
残る使用人には申し訳ないが、このご時世、いつ家族が離散するような事態が起きても不思議はないのだから、賑やかなノエルもいいかもしれない。そう思い直して、オスカルはぼそっとひとりごちた。
「そもそも何でおまえが済まなそうにするんだ」
だから、ついアンドレが悪いような気分になる。
「え、何か言ったか?」
「何でもない。おい、教会ならわたしも行く。今年の聖家族の飾り付けの趣向を見に」
「どの道ミサで行くんだから、今でなくてもいいじゃないか。ゆっくりしたいんだろ、さあ帰ろう。馬車まで一緒に行くから」
今夜もアンドレは深夜迄帰って来られないことはわかり切っていた。自分がついて行けば余計な仕事を彼に与えてしまう。優しく促されて、オスカルは仕方なしに頷いた。
オスカルを乗せ、遠ざかるジャルジェ家の馬車を見送るアンドレに声を掛ける者がいた。聞き慣れたその声は、幾らか元気がない。
「おい、アンドレ、今のは何だ?」
「なんだ、アラン。見てたのか。人が悪いな」
「ふん、暇なんでね。で、何なんだよ、今の指の合図は。訓練で使う手信号じゃあないな」
走り出した馬車の車窓からいきなりオスカルが手を突き出し、指で二つ三つ形をつくって見せたのに応えるように、すかさずアンドレも手指で合図を送った様子をアランは目ざとく見ていたのだった。
「子供の遊びさ。子供の頃、いろいろ暗号を考えては遊んでいたんだ。屋敷を抜け出すタイミングとか、くすねた酒の隠し場所を知らせたりとか、内緒で伝達する時の合図だよ。それをオスカルのやつ、いきなり送って来たから…、はは、今でも案外覚えているもんだな」
アンドレはそう言うと、懐かしそうに主を見送っている。
「そりゃ、そりゃ仲のおよろしいことで。で、隊長は何て言ってたんだ?」
アランはどことなく面白くないようだ。おまえも子供みたいじゃないか、まあいつものことけど。アンドレは同じ土俵に立ってやることにした。
「ばーか、暗号を教えちまったら非常時に役に立たないだろ」
「は、勿体つけやがって。一体どういう非常時だかね」
ふて腐れたアランがアンドレを小突く。
「そりゃ、おまえが今想像したような、あぶな~い事態に決まっているだろ」
「なんだと、こんにゃろ~」
あ、本気で怒りだした。そこで怒ると隊長好き好き~って白状しているようなもんなんだけどな。あれ、この感じ…どこかで…いや、どこかで何てもんじゃない、おれの人生通じてとっても良く知っている感じだ。これは・・・!げっ。
アンドレは自分の中にふっと一つの恐ろしい考えが浮上したのを発見し戦慄した。
『こいつ、どっかオスカルに似てないか?』
どおりで、こいつとオスカルとは反発し合いながら、お互いに強く興味を持たずにはいられない訳だ。と、言う事はおれも気をつけないとこいつとも腐れ縁になってしまいそうだぞ。この手の人種はオスカルだけで手一杯なのに。アンドレは身震いした。
「何だよ!急にあほ面して黙っちまって」
「おれはたった今非常事態に突入したような気がする」
このくそ寒いのに冷や汗でもかいているような言い方で、急に意味不明の事をつぶやくアンドレに、アランははっと何かに思い当たった。
「おい、おまえ…さっきは隊長の指の動き、見えてたよな!まさか今突然目が…?!」
アランが切羽詰った口調でアンドレの襟首を掴んだ。そのアランの真剣な顔つきにアンドレは一瞬たじろいだが、彼が自分の目の具合を心配していることを読み取り、表情を綻ばせた。
「ヒゲ、そろそろ剃れよ」
アランはポカンと口を開けて固まったと思うと、顎に手を当て、確かに見苦しいほどの無精髭を確認すると、たちまち真っ赤に着色された。
「ばっ、ばっかやろう~!見えてんじゃねえかっ!しっ心配させんな~!」
素晴らしく響く雄叫びが、冷えた闇をつんざく。至近距離でこれをやられたらたまらない。ちょっとの間を置いてダミ声の衝撃波から立ち直ったアンドレの目に、すっかり煮えたぎったアランが湯気を立てて立ち去ろうとする後ろ姿が見えた。
やっぱり似ている。ああやって怒るところも、本当は情が深いところも…。アンドレは可笑しくて可笑しくて痙攣する腹を手で抑え、耳をさすりながら慌ててアランを呼び止めた。
「おーい、悪かったよ!待てって!これからおまえ達当番兵の酒と仕出し料理を注文しに行くから付き合えよ!」
大急ぎでアランに追いつてぐいと腕を掴む。二人とも息が白い。
「おまえが見立ててくれよ、な。値引き交渉もおまえがいた方が有利だし」
鼻息荒くアランが振り向いた。
「何だよそれ」
「降誕祭に家に帰れない兵士達にオスカルが差仕入れしたいと言っている。兵舎で悪いけどせめて形ばかりのレヴェイヨン(*)ができるようにしてやりたいってさ」
「また、余計なことを…」
「まあ、おまえはとも角、他の連中の為に頼むよ」
ああ、結局誰かさんを宥めるときと同じことしているな、おれ。アンドレはアランが歩を緩めたのを確かめると、厩方面に向きを変えた。アランは特に抗う様子もないので、そのままぐんぐんと引っ張って行く。
「おまえ丸4日間、続けて夜勤に入ってるな、大丈夫か?」
「誰もやりたがらねえからな」
つまらなさそうに、ぶっきらぼうにアランが答える。
「お袋さん、ひとりにしておいていいのか?」
一度だけ訪ねた事のあるアランのパリの自宅。あの年老いて見えた婦人が、あの家で独りで降誕祭の夜を過ごすのかと思うと胸が痛くなる。
「向かいの部屋の家族が良くしてくれているから、心配ねえよ。正直、夢の世界に入っちまったお袋と24時間顔つき合わすのは、きついんだ」
「そうか…」
アランがきっと自分から志願したんだろうな、と休暇中の勤務表を見ながらオスカルがぽつりと洩らしていた。現実を見るのを止めたお袋さんより、真っ直ぐ対峙する強さを持ったアランの方が辛いだろう。アンドレはアランの肩に腕を回し、ぐいっと首を羽交い絞めに締め上げた。
「うがが」
「いらん世話とは思うが」
「うげっ!いらん、いらん」
「生きている内に、良くしてやれよ」
「……」
歩みが止まった。傍から見たら怪しい誤解を生みそうなその姿勢のまま、暫らく二人は凍りついた白い息が薄闇の中に吸い込まれていくのを黙って見ていた。
「おまえに言われたくはなかったな」
「それは失礼」
「言い訳の一つもできないからな」
「そんな立派なもんじゃないよ」
アンドレが腕を解き、アランの背中を一発叩く。
「分かったよ、昼間顔を見せに行って来る」
「無理はすんな 」
「暇になっちまったもんでね、なに、その位の時間はあらあ」
アランが鼻を啜った。きっと寒さのせいだろう。
兵営裏門から二騎の影がゆっくり姿を現した。いびつに固まっている凍った轍(わだち)をざくざくと馬の蹄が崩す音が、凍てつく空気を震わせる。吐いた息が睫毛と眉を白く縁取るくらいの厳しい夜。
夜勤の兵士には体を温める燃料がいくらあっても足りないだろう。馬の鼻息も白く流れては凍りつく。
「いい店知ってるだろ。おまえに任せたから先に行け」
「知らねえぞ、えらい高い店に連れて行かれても」
「おまえはそんなとこ知らんだろう」
「うるせえ。おっと、しまった。おれ今夜も夜勤入ってるぞ」
「大丈夫だよ、少しくらい。幸いこわ~い隊長は帰宅したし」
「おまえがそんな事言っていていいのか」
「はは、内緒な」
宮殿前のパリ大通りに、点火夫が長い竿先で街灯に一つ一つ火を灯していく姿が巡礼のように続いている。昼間は泥と雪で薄汚れて見えた路面も、点々と続く灯火の下に照らし出されて、白いガラス屑を敷き詰めた幻想的な姿に変わった。
社交の時間を迎えた街は、白いかけらを巻き上げながら、次第に交通量が増え、あちらこちらから規則的な車輪と馬の並足の音が交差する。
その音の間に間に、ノエル聖歌を練習するボーイソプラノの合唱が聞こえ、闇に塗り込められた教会の薔薇窓に灯りが燈り、そこだけが暖かく浮き上がる。濃紺一色に沈んでいた空に、白いものが舞い始めた。
二騎の兵はゆっくり遠ざかる。
* 昼が夜に勝利する日
キリストの実際の誕生日は12月25日ではないが、暗く長いヨーロッパの冬にあって、希望の一筋の光である、冬至が意図的に降誕祭に選ばれた。もともとは太陽の誕生日を祝う冬至祭だった。
* 死者と共に過ごす11月
11月は諸聖人の祝日(万聖節)と、死者の記念から始まる月で、先祖の思いをはせる月とされていた。先祖が里帰りして来る月でもあり、墓参の習慣もあった。文献によっては死者が帰って来るのは12月としている記述もある。間違ってご先祖さまを追い出してしまわないよう、この期間は掃き掃除などは厳禁だったとか。
* 大薪
クリスマスイヴに、その家の最年長者によって暖炉にくべられる薪。地方色豊かな儀式で、聖水を振り掛けたり、ワインをかけたり、様々な口上が述べられたりと、様式は多様。一家の幸せの象徴であるこの薪が、できるだけ長く燃え続けるよう、見張りを立て、工夫を凝らした。残った灰も魔よけやお守りとして珍重された。
* レヴェイヨン
イヴの深夜ミサから戻ってからの、夜を徹っての夜食会。家族の祝い席であり、食べ、飲み、ダンスをして楽しんだ。明け方まで騒いで、再び朝のミサに出かけるのが習わし。
~To be continued ~
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