容赦なく朝はやって来る。たまにはちょっと待ってくれないだろうか。微かな絹擦れと、静かな足音が寝室をゆっくりと移動し、テーブルの上に洗面用具と水差しのトレイを置く気配が感じられた。
侍女のマルタがオスカルの起床準備を始めたのだ。毎朝繰り返されるこの儀式がオスカルの一日の始まりを告げる。
最近朝の目覚めが重苦しいオスカルだった。
頭も身体も重い。しかし本当に重いのは、先行きの見えない迷いだ。どんなに困難な状況でも辿り着きたいゴールが分かっていれば、戦略を練ることができるし、前進することに集中できる。
向かう先を決められないことが、こんなに憂鬱なことだとはこの年になるまで知らなかった。若くて思慮も経験も浅かった頃、正義は単純な真実だった。世界は白黒で分けられると思い込んでいたから迷いもなかったし、無茶もできた。
絶対的な正義など、幻想に過ぎないのに。
もうひとつ、気がかりがある。オスカルは気だるげに寝返りを打った。最近、どうもアンドレの挙動が不審だ。呼べば響くように姿を現す。仕事だって穴をあけることが無いどころか以前にも増して手際よく片付ける。
だが、隙が無さ過ぎる所が却ってオスカルの六感に触れるのだ。時々、二人でいても心ここに在らずな様子を見せるし、用がなければさっさと立ち去ってしまう。…ような感じがする。
何だか彼から取り残されたような気がするのだ。取り越し苦労であることは頭ではわかる。ここ最近の人生劇場と来たら、結構な山場の連続だったから少し参っているのだろう。彼の一挙手一投足が気になってしまうのはそのせいだし、多分、少し甘えたいだけなのだ。
ただ、彼が何か隠していることは確実だろう。それを暴いてやりたい誘惑にはあらがえない。そんなことをぼんやりと考えながらオスカルはぐずぐずと寝台から起き上がった。
乱暴な手つきで金色の頭をわしゃわしゃと掻き毟りながら、急に差し込んで来た眩しい光の方に目を向けると、絡みに絡まった自分の髪の向こうに少々困った様に微笑むマルタと目が合った。
マルタは優しく膝を折って挨拶をすると、粛々と仕事を続けた。普段はどれほどオスカルの寝ぐせが爆発していても、動揺などおくびにも出さないプロ中のプロなのだが、今朝はことさらに酷い有様なのだろう。
マルタは重いダマスク織りのカーテンを順番に上げていく。昨夜は思いの外冷え込み、一晩中暖炉の火を落とさなかったので窓ガラスは結露していたが、よく晴れた美しい日になりそうな青い空が見える。
窓を開けると、ピンと張った琴の弦のような冷えた外気が暖まった部屋に流れ込んできた。
衛兵隊に転属したオスカルの不規則な勤務シフトに合わせるには、高齢のマロン・グラッセの体力はそろそろ限界だった。そこで、深夜、早朝のオスカルの身の回りの世話は、マルタが引き受けるようになっていた。
マルタは、マロンの信頼も厚く、ジャルジェ夫人付きを長年務めたベテランでありながら、なかなか若々しい精神の持ち主である。そろそろ50に手が届くとは到底思えぬしなやかでキレのある動きできびきびと働く、気丈夫な可愛らしい次期侍女頭だった。
子供の頃から馴染みのアンドレとも上手に連携を取ってオスカルの世話にあたっている。余談だが、マルタがオスカル付きを兼任するようになったため、ジャルジェ夫人には第二侍女が付けられた。それが先出のイヴォンヌである。彼女にとっては大抜擢の人事だった。
と、言う訳で、業務上アンドレの動向をオスカルよりよく知っていることがあるマルタである。そこで、オスカルは洗顔と着替えを手伝ってもらいながら、アンドレの動きに不審な点はないか、探りを入れてみた。
「マルタ、今日は二時間早く出仕したいんだが」
使用人にとって、これがかなり迷惑な要求であることは当然承知の助のオスカルである。もし、アンドレが何か隠密行動をしているとしたら、予定外のスケジュール変更でボロを出す可能性がある。
「まあ、急ですのね。お支度が間に合うでしょうか」
「すまないね、今思い出したんだ」
マルタは特に慌てる様子はなく、ただオスカルのこんがらがった髪を手に取りながら密かにため息をついただけだった。
「寝る前のお手入れがちゃんとしていれば、手早くお髪を整えられたのですけど、この状態ではほつれを解くのに少々お時間がかかりますわ。お行儀は悪いですけれど、朝食をここに運ばせてもよろしいでしょうか?
オスカル様がお食事なさっている間に私は何とかお髪をお直しいたします。急ぐからと言って、オスカルさまのお髪を乱暴に扱ったりしたら、ばあやに大目玉ですから」
マルタの気がかりは単純にオスカルの髪のセットが間に合うか、それだけのようだ。他に慌てることはないのだろうか、オスカルはさらに探りを入れる。
「あー、それはかまわないが、馬車の準備の方が間に合わないのではないか?今すぐアンドレに言いつけなくていいのか?」
「馬車ならすぐ用意できますわ。今朝は急に冷え込んだので馬の様子を見に早くからジャックとアンドレが厩に詰めていましたもの。それよりオスカルさまのお髪の方がおおごとです」
マルタの心配事はやはりオスカルの髪のことだけらしい。ジャックにも裏を取っておこうか。アンドレがこっそりどこかに出かけたりしていなかったかどうか。いや、待てよ。
「ジャックか…彼は最近歳のせいで物忘れをするようになったと言ってたな…」
オスカルの髪の毛先を丁寧にほぐしていたマルタの手が止まった。ばれたか。オスカルは最後に発した一言を悔いた。
「オスカルさま、昨晩、寝支度をしてやって欲しいとアンドレが私を呼びに来た時は、もう日付が変わっていました」
何やら子供に言い聞かせるような抑揚だった。
「あ、ああ、済まなかった。昨夜はすっかり遅くまで話し込んでしまったんだ」
「ジャックはいつも日の出前には厩へ行きます。でも、今朝は井戸が凍りつく程の冷え込みだったので、彼の腰と膝を心配したアンドレが暗いうちから氷を割りに出てましたよ」
「そ、そうか…あいつは年寄りをほうっておけない性分だから…な」
つまり、アンドレは深夜までわたしに拘束された上夜明け前から働いている、とマルタは言いたいのだな。ふと侍女と目が合った。
確か探りを入れていたのは自分の方だったはずだが、どうも立場が逆転しかかっているらしい。マルタの目は笑っていた。
「アンドレがほうっておけないのは、昔からオスカルさまでしょう。ご心配なさらなくても、彼は夕べから今朝までどこへも出かけていませんわ」
「……」
オスカルはポーカーフェイスを死守したが、ベテラン侍女はご主人がバツの悪さに身を固くしたのがすぐわかった。マルタにとっては何ともわかり易いご主人なのだ。幾つになっても愛らしい本音が、素直でない態度の後ろに丸見えで、微笑まずにはいられない。
もっともアンドレに言わせると、外では完璧な氷の花を演じることができるらしい。心から警戒を解いている相手にのみ、本音が丸見えなのだそうだ。それが本当なら幸せなことだわとマルタは思う。
『完璧なんだ。マルタが公の場にいるオスカルを見たらきっと信じられないと思うよ。屋敷で緩んだオスカルを長年見ているだけ余計にね』
と、公でも私でも彼女を見守り続ける守護青年はそう言ってから少し切な気に目を伏せた。
「まあ、公の姿はオスカルが自分でコントロールしているからいいんだ。旦那様の前で素直になりたくてもなれないのが、見ていて辛い。そこを越えたらどんなにか楽になれるのにな」
あんたがついているんだから心配ないわよと肩を叩いてやったらまだ癒えきらない傷に命中したらしく、小さく悲鳴を上げながら一瞬頬を染めた彼も愛しかった。30過ぎた弟分が愛しいなんて、私も歳かしらねえ、と感慨深いマルタであった。
その可愛らしいご主人は、悪さが明るみになった子供のように大人しくなってしまったので、マルタは優しく確認した。
「さて、お支度を、急ぎます?」
「もう、いいんだ、マルタ」
「おや、ふさぎの虫がどこからか飛んで来たようですわね、ご安心されたのではないのですか?」
まだ、ご主人は何か合点が行かないようである。しばし、考えを巡らせてから、自分自身に言い聞かせるように、ご主人は言葉を洩らした。
「あいつがわたしの知らないところで何をしていたってそれはいいんだが」
あら、そうかしら。ついこの間まで、彼の所在を常に気にされていらっしゃったけれど。素直にお聞きになればいいのに平気そうな素振りをして。
しばらく、オスカルはマルタに静かに身を預けていたが、もやもやする気分の焦点が絞れたようだった。
「マルタ、わたしはあいつを縛っていると思うか?」
何とお答えして差し上げればよいのやら。ちょっと考えてマルタは口を開いた。
「私から見た彼は、やりたいようにやりたいことだけをしているように見えますけれど?」
「そうだろうか」
「彼は私達年長者のアイドルでしたからねえ。可愛さ余って、随分と忠告をしましたけれど、まるで耳を貸しませんもの。もう、誰も何も言わなくなりましたわ。だから、たとえオスカルさまにだって大人しく縛られてなどいるもんですか」
威風堂々と人生の手綱を御しているお嬢様なのだが、不思議な自信のなさが同居しているものだわ。傍目には疑う余地なく強い絆で繋がっている2人なのに、今さら何が不安なのかしら。
今さら?ああそうか、今だからこその不安なのね。いじらしくていじらしくて大きなご主人様を抱きしめてしまいたくなるマルタだった。
🪮 🫖 🍽️ 🍎 🪮 🫖 🍽️ 🍎
その日のジャルジェ家の玄関ホールは、朝早くから賑やかだった。数人の召使いと、好好爺の執事、デュポールに見送られて、将軍が珍しく早朝から宮殿へ出向こうとしていた。
「どうぞ、足元には充分にお気をつけくださいませ。今日は昨夜の霙が酷く凍結しております」
「ふん、おまえにそのような気を使われると一層歳をとった気分になるわい」
ぶっきらぼうな口ぶりとは裏腹に、将軍の声には老執事への愛情がこもっていた。この爺ののんびりした物腰には何か人を心地良く弛緩させるものがある。
「旦那様はそのくらいで丁度およろしいで御座いますよ。下手を致しますと20代の若者と変わらぬ働きぶりでございますからな、ほっほっほっ」
笑うと、芸術的な文様を描く深い笑い皺が幾層にもくっきりと現れる。思わず見入ってしまう憎めない爺様は、ご主人の年寄りの冷や水をやんわり諫めた。
ホールに面した大階段上の踊り場からも賑やかな騒ぎが聞こえてきた。ジャルジェ将軍が振り仰ぐと、まず目に飛び込んで来たのは鮮やかな青い色と豊かに広がる黄金のコントラスト。躍動に溢れる長い脚が、将軍を認めて動きを止めた。
「これは父上、珍しい時刻に思いがけずお会いできるとは思いも寄らぬ幸せでございますが、このような気温の低いうちから動き回られては、積年の神経痛が暴れだすのではございませぬか」
パッと見、親の目から見てもほれぼれするイケメン青年将校ぶりに磨きのかかった娘が大口をたたいた。いつものように後ろに控える従者がそっとたしなめたようだが、娘は余計に尊大な笑顔を見せた。
嬉しそうに年寄り扱いしよって。減らず口が復活したな。将軍は苦笑いした。
縁談を勧めていた頃、あれは檻に繋がれた手負いの虎だった。檻の隙を探し、父親の言葉ひとつひとつに血を流しながら牙を研ぐ。それがどうだ。今では勝利者の笑みを浮かべ、皮肉を飛ばしている。父親としては、どちらの娘が危険か判断に迷う。
あるべき処に物事が勝手に収まっていく、そんな実感が自分の中に深く根を下ろし始めている。良縁を一蹴してしまった娘。家督問題も、娘の将来の安全も、何も解決していないのに、このまま納得してしまって良いのかどうか、将軍は決めかねていた。
「オスカル、待てよ、寒いのだからおまえこそ外套を羽織らないと」
甲斐甲斐しく世話を焼くアンドレをちらりと横目で見た娘は、従者の軍服のポケットから何かを抜き取り、してやったりのサインを飛ばす。
将軍の手前、騒ぎ立てられないアンドレが、何をすると目で訴えるのを無視したオスカルはさっさと階段を二段飛ばしで降り、将軍を追い越した。
「それでは父上、お先に失礼。あまり急に慣れぬことをなさると、御老体に障りますぞ。くれぐれも転倒などなさいますな!」
その娘を追うアンドレは申し訳なさそうに将軍に深く頭を下げると、無礼者の後を追った。
扉係の従僕が玄関扉を開けたところでアンドレがオスカルに追いついた。オスカルはアンドレを振り切るように勢い良く屋外へ踏み出す。屋外に一歩出るやいなや、二人のやり取りが再開された。
「こら、抜いたものを返せ、不意打ちは卑怯だぞ」
「あはは、油断した方が悪い」
「ああ、おれが悪い、外套を羽織ってくれ!今朝は特別冷える」
「ばあやみたいな口ぶりだな。おまえの小言家ぶり、年々磨きがかかってきたぞ!さすが直系だ!」
「おれが小言を言うのはおまえの世話が焼けるからだ。おばあちゃんが煩いのだってそうだ。遺伝の問題じゃないぞ」
「そうか?ばあやはわたしが生まれたとき、すでに偉大なる小言家だったと評判だぞ?」
「そりゃあ、おまえとそっくりな人物の世話をしていたからだよ!」
「誰と誰がそっくりだって?」
2人のやりあう声は少しずつ遠ざかってはいたが、娘も娘、従者も従者。将軍は苦笑いをさらに引きつらせて老執事に救いを求めた。
「しっかり聞こえているんだがな」
「ほ~っ、ほっほっほ」
将軍とデュポールも開け放った玄関扉にゆっくり向かった。刃物のような冷気が肌を刺す。大気まで凍り付いて、晴れ上がった空に氷の砂粒がきらきらと舞い散り、宝石屑の触れ合う音が響きわたるような朝だった。
屋外に出た将軍にデュポールが後から付き従う。先に外に出た2人は前庭中央の歩道を足早に歩いていた。と、アンドレを振り切ろうと駆け出したオスカルの踵が凍り付いた地面を捉え損なった。ふわりと金色の髪が進行方向に向かってなびき、長身が大きく後ろに傾いた。
「うわ~っち!」
「危ない!」
アンドレが抱えていたオスカルの濃紺の外套が大きく宙を舞ったと思うと、金髪頭の下に滑り込む大きな人影が見えた。そしてそのまま一緒に地面に叩きつけられる。
将軍とデュポールは思わず声を上げた。二人の後ろに付き従う見送りの従僕も固唾を飲んだ。オスカルはすぐに跳ね返るように頭を上げたが、下敷きになったアンドレは動かない。
「アンドレ?」
オスカルはアンドレに覆い被さったまま様子を窺ったが、返事はない。
「アンドレ!大丈夫かアンドレ!」
オスカルが蒼白になる。遠目に見ていた将軍と執事、従僕らは急ぎ足で二人の方へ向かった。もちろん、二次災害を防ぐべく慎重な足取りは忘れない。
「ア…!」
再度オスカルが呼びかけようとした時。オスカルの肩にふわりとコートが落ちた。
「ようやく着せられた」
太陽が眩しいのか、仰向けになって胸にオスカルをのせたままアンドレは目を細めて笑った。
「アンドレ…!ば、馬鹿野郎!」
「怪我はないか、オスカル?」
「ない…」
「あ、これは返してもらったからな」
アンドレがひらひらと紙片を揺らした。
「おまえ…まさかわざと…!」
「おお、人聞きの悪い。おれがおまえを転ばせたとでも?」
「わざと気絶したふりをしたのか、と言ってるんだ!」
「一瞬気が遠くなったのは本当だって!ところでそろそろどいてくれないか?背中が凍りつきそうだ」
オスカルははっと身を起こした。すっかり忘れていたが、父の目前だった。くれぐれも転倒などなさるなと憎まれ口をたたいた舌の根はまだ乾いていない。父は…振り返ると呆れ果てた様子でこちらを見ている。慌てて立ち上がろうとしたオスカルは腕を掴まれた。
「ほら、ゆっくり。また転ぶぞ」
「う…煩い!分かってる!」
一時蒼白になった顔が上気して桜色に染まっていた。とても綺麗だけど、忙しい奴だな。彼女の頬を手で包みたくなる衝動をアンドレはかろうじてやり過ごした。
❆ ⛄ ❆ ⛄ ❆ ⛄
「何とも…懐かしい光景ですな」
「懐かしいというより、まるで成長しとらんではないか」
デュポールの瞳が笑いじわに隠れて見えなくなった。
2人の目の前でオスカルがゆるゆると立ち上がった。そしてアンドレを残したまま、先に歩き出すその後ろ姿からは、心なしか湯気が立ち上っているようだ。
「全く同じではございませんでしょう」
デュポールの穏やかに間延びした調子も一層変わらない。
「何が変わったというのだ。結局あいつは何もかも振り出しに戻しおって。家の存続に必要なものくらい分かっておろうが」
家の為…ですか。言うほど怒っていない将軍に、老執事の笑い皺が深くなった。王家へ忠誠を尽くすジャルジェ家の伝統を守ることに生涯の情熱をかけてこられたのに、愛娘の幸せを願う父の情が勝ったではありませんか。
渾身の軍人教育と栄誉を白紙に戻す覚悟で愛娘のを守ろうとした深い愛は、その深さの分だけオスカルさまには横暴と映ったことでしょう。愛に不器用なところが本当に良く似ておられる。
「すべての道はローマに通じるということです、旦那様、ほっほっほ」
深く刻み込まれた目尻の皺を一層奥まで畳み込んで、爺様はにこやかに答え、まだ立ち上がれないアンドレに目をやった。
「オスカルさまの縁談がまとまった暁には、あの青年をわたくしめの後任にお預かりさせて頂くお約束でしたが、わたくしの持ち時間もわずかでございます。
彼の体は当分空きそうにございませんから、この辺で諦めて他の人材を探させていただきとうございます。世の風向きが変わる前までに間に合えばよろしいですがの」
一応お伺いは立てているが、老執事がもう決めているのは明白だった。
次期執事の人事を引き伸ばしてしまったのは、不肖の娘が衛兵隊長になぞに勝手に就任してしまったからだ。近衛ならともかく、荒くれ衛兵隊となると、彼を片時も外すわけにはいかない。少しずつアンドレの仕事の配分を変えていく心づもりでいた将軍の思惑は外れた。
ジャルジェ家の内情全てに精通しながら私欲に利用せず、軍事機密は的確に扱え、主人が不在中には名代を務めることができる男。何より次期当主と相性が良く、率直な反論さえできる彼は、平民であるハンデを補って余りある人材だったので、将軍にとっては二重に痛手だった。
それは爺様も一緒だろう。いくら資質のある人間が見つかっても、一から教育するのはあの歳では大仕事だろうに。それを娘の為に引き受けてくれるというデュポールの決断と愛情を、言外に将軍は感じ取った。
「おい、大丈夫かアンドレ」
使用人のひとり、門番と主に屋外雑用を取り仕切るジャン・ポールが、何とか立ち上がろうと四苦八苦しているアンドレに駆け寄った。
「っつ~っ、効いた~。あ、悪いジャン・ポール、悪いけどここと、あの玄関ポーチの一番下段な、危ないから氷割っておいてくれないか?おれは…行かなきゃ…」
「それはいいけど…あ…っ」
アンドレに手を差し出す者がいた。なんだジャン、やけに親切だなと、差し出された手を取ろうとして、場違いに上質な革手袋に違和感を覚えたアンドレの目の前にいたのは。
「旦那様…」
ジャン・ポールは目の前の光景が解析不能といった様子で固まっていた。将軍が一介の使用人に手を差し出す?ありえない非日常的な事態にほんの一刻だけ躊躇してから、アンドレは迷わず将軍の手を握った。
底抜けに冷え冷えと青く遠くまで冴え渡る青空を背にした将軍の表情は、逆光の為にはっきりとは解らなかったが、自分に真っ直ぐに向けられた強い思いのようなものをアンドレは感じた。意図はわからなくも、受け取らねばならぬ何かを。
一方、将軍も自分の無意識の行動に驚いていたが、握り返された手に力を込めた。片側の骨盤と肩を強打して酷く辛そうな青年を引き揚げてやろうとして、その軽さに再度驚く。彼は将軍の腰に負担をかけないよう、制御しながら立ち上がろうとしていたのだ。
なるほど。青年の意図が読めた。使用人なら恐縮して固辞するだろうこの場面で、彼は将軍の気遣いを無碍にしないよう、さらには腰に負担をかけないよう、瞬時の判断を下したのだ。
これではどっちが労わられているかわからんな、と自分より少々目線が上になった見慣れた顔を将軍は見上げた。
「恐れいります、旦那様。朝からお騒がせして申し訳ありません」
一つになってしまった瞳はそらされることなく将軍に答える。
「うむ」
言っておきたい事が山ほどあるような気がしたが、面と向き合うと何も必要ないようにも思えて、一言だけ伝えた。
「兵営に着いたら、どこも異常無いか軍医にきちんと診てもらえ。必ずだぞ」
「はい。ご心配ありがとうございます」
ごく素直な返事がこれまた素直に嬉しそうな笑顔と返ってきた。へそ曲がり娘を守っているものはこれか。なら、いい。暴力や陰謀の類から娘の身を守るだけでなく、この青年の素直さが守っているものは・・・。娘の心。
「身を呈するばかりが能ではないぞ。お前はここのところ、少し怪我が多いな。お前の故障は困る。道すらまともに歩けん奴を、一人にするわけにはいかんだろう」
アンドレは瞳を大きく見開いて、言葉につまった。将軍は愉快そうに付け足した。
「まあ、本音はわしも今だにばあやが怖いと言う事だ。頼んだぞ」
「はい」
オスカルと同じサファイヤの瞳を持つ老将軍の言葉の奥をくみ取ることはアンドレにとって易しいことだった。同じく言葉では返せない思いを、彼は『はい』の一言に託した。
将軍と、身半分ほど後ろに下がったアンドレはそれぞれ胸に抱くものを温めながら馬車寄せに向かって歩き出した。2人を見送るジャン・ポールが呟いた。
「大胆なやつ…」
「ほーっほっほっ!」
その背をデュポールが叩いて笑った。爺様のわりには強烈な一打だった。慌ててジャンは開門に向かう。
なかなか追いついて来ないアンドレに、心配になったオスカルが一度は乗り込んだ馬車から降り、様子を見に戻ろうとしていたが、父の半歩後ろを歩くアンドレに気付くと顔を赤らめ、またすぐに引っ込んでしまった。それを見て思わず声を出して笑う男2人。
昨日までは歩くたびにさくさくと足元で軽い音を立てた霜柱が、今朝は静かに固く凍りついて堅い靴音を響かせる。真鍮の取っ手は痺れるほど冷たかった。ヴェルサイユは間もなく白い褥に包まれる。
~to be continued~
侍女のマルタがオスカルの起床準備を始めたのだ。毎朝繰り返されるこの儀式がオスカルの一日の始まりを告げる。
最近朝の目覚めが重苦しいオスカルだった。
頭も身体も重い。しかし本当に重いのは、先行きの見えない迷いだ。どんなに困難な状況でも辿り着きたいゴールが分かっていれば、戦略を練ることができるし、前進することに集中できる。
向かう先を決められないことが、こんなに憂鬱なことだとはこの年になるまで知らなかった。若くて思慮も経験も浅かった頃、正義は単純な真実だった。世界は白黒で分けられると思い込んでいたから迷いもなかったし、無茶もできた。
絶対的な正義など、幻想に過ぎないのに。
もうひとつ、気がかりがある。オスカルは気だるげに寝返りを打った。最近、どうもアンドレの挙動が不審だ。呼べば響くように姿を現す。仕事だって穴をあけることが無いどころか以前にも増して手際よく片付ける。
だが、隙が無さ過ぎる所が却ってオスカルの六感に触れるのだ。時々、二人でいても心ここに在らずな様子を見せるし、用がなければさっさと立ち去ってしまう。…ような感じがする。
何だか彼から取り残されたような気がするのだ。取り越し苦労であることは頭ではわかる。ここ最近の人生劇場と来たら、結構な山場の連続だったから少し参っているのだろう。彼の一挙手一投足が気になってしまうのはそのせいだし、多分、少し甘えたいだけなのだ。
ただ、彼が何か隠していることは確実だろう。それを暴いてやりたい誘惑にはあらがえない。そんなことをぼんやりと考えながらオスカルはぐずぐずと寝台から起き上がった。
乱暴な手つきで金色の頭をわしゃわしゃと掻き毟りながら、急に差し込んで来た眩しい光の方に目を向けると、絡みに絡まった自分の髪の向こうに少々困った様に微笑むマルタと目が合った。
マルタは優しく膝を折って挨拶をすると、粛々と仕事を続けた。普段はどれほどオスカルの寝ぐせが爆発していても、動揺などおくびにも出さないプロ中のプロなのだが、今朝はことさらに酷い有様なのだろう。
マルタは重いダマスク織りのカーテンを順番に上げていく。昨夜は思いの外冷え込み、一晩中暖炉の火を落とさなかったので窓ガラスは結露していたが、よく晴れた美しい日になりそうな青い空が見える。
窓を開けると、ピンと張った琴の弦のような冷えた外気が暖まった部屋に流れ込んできた。
衛兵隊に転属したオスカルの不規則な勤務シフトに合わせるには、高齢のマロン・グラッセの体力はそろそろ限界だった。そこで、深夜、早朝のオスカルの身の回りの世話は、マルタが引き受けるようになっていた。
マルタは、マロンの信頼も厚く、ジャルジェ夫人付きを長年務めたベテランでありながら、なかなか若々しい精神の持ち主である。そろそろ50に手が届くとは到底思えぬしなやかでキレのある動きできびきびと働く、気丈夫な可愛らしい次期侍女頭だった。
子供の頃から馴染みのアンドレとも上手に連携を取ってオスカルの世話にあたっている。余談だが、マルタがオスカル付きを兼任するようになったため、ジャルジェ夫人には第二侍女が付けられた。それが先出のイヴォンヌである。彼女にとっては大抜擢の人事だった。
と、言う訳で、業務上アンドレの動向をオスカルよりよく知っていることがあるマルタである。そこで、オスカルは洗顔と着替えを手伝ってもらいながら、アンドレの動きに不審な点はないか、探りを入れてみた。
「マルタ、今日は二時間早く出仕したいんだが」
使用人にとって、これがかなり迷惑な要求であることは当然承知の助のオスカルである。もし、アンドレが何か隠密行動をしているとしたら、予定外のスケジュール変更でボロを出す可能性がある。
「まあ、急ですのね。お支度が間に合うでしょうか」
「すまないね、今思い出したんだ」
マルタは特に慌てる様子はなく、ただオスカルのこんがらがった髪を手に取りながら密かにため息をついただけだった。
「寝る前のお手入れがちゃんとしていれば、手早くお髪を整えられたのですけど、この状態ではほつれを解くのに少々お時間がかかりますわ。お行儀は悪いですけれど、朝食をここに運ばせてもよろしいでしょうか?
オスカル様がお食事なさっている間に私は何とかお髪をお直しいたします。急ぐからと言って、オスカルさまのお髪を乱暴に扱ったりしたら、ばあやに大目玉ですから」
マルタの気がかりは単純にオスカルの髪のセットが間に合うか、それだけのようだ。他に慌てることはないのだろうか、オスカルはさらに探りを入れる。
「あー、それはかまわないが、馬車の準備の方が間に合わないのではないか?今すぐアンドレに言いつけなくていいのか?」
「馬車ならすぐ用意できますわ。今朝は急に冷え込んだので馬の様子を見に早くからジャックとアンドレが厩に詰めていましたもの。それよりオスカルさまのお髪の方がおおごとです」
マルタの心配事はやはりオスカルの髪のことだけらしい。ジャックにも裏を取っておこうか。アンドレがこっそりどこかに出かけたりしていなかったかどうか。いや、待てよ。
「ジャックか…彼は最近歳のせいで物忘れをするようになったと言ってたな…」
オスカルの髪の毛先を丁寧にほぐしていたマルタの手が止まった。ばれたか。オスカルは最後に発した一言を悔いた。
「オスカルさま、昨晩、寝支度をしてやって欲しいとアンドレが私を呼びに来た時は、もう日付が変わっていました」
何やら子供に言い聞かせるような抑揚だった。
「あ、ああ、済まなかった。昨夜はすっかり遅くまで話し込んでしまったんだ」
「ジャックはいつも日の出前には厩へ行きます。でも、今朝は井戸が凍りつく程の冷え込みだったので、彼の腰と膝を心配したアンドレが暗いうちから氷を割りに出てましたよ」
「そ、そうか…あいつは年寄りをほうっておけない性分だから…な」
つまり、アンドレは深夜までわたしに拘束された上夜明け前から働いている、とマルタは言いたいのだな。ふと侍女と目が合った。
確か探りを入れていたのは自分の方だったはずだが、どうも立場が逆転しかかっているらしい。マルタの目は笑っていた。
「アンドレがほうっておけないのは、昔からオスカルさまでしょう。ご心配なさらなくても、彼は夕べから今朝までどこへも出かけていませんわ」
「……」
オスカルはポーカーフェイスを死守したが、ベテラン侍女はご主人がバツの悪さに身を固くしたのがすぐわかった。マルタにとっては何ともわかり易いご主人なのだ。幾つになっても愛らしい本音が、素直でない態度の後ろに丸見えで、微笑まずにはいられない。
もっともアンドレに言わせると、外では完璧な氷の花を演じることができるらしい。心から警戒を解いている相手にのみ、本音が丸見えなのだそうだ。それが本当なら幸せなことだわとマルタは思う。
『完璧なんだ。マルタが公の場にいるオスカルを見たらきっと信じられないと思うよ。屋敷で緩んだオスカルを長年見ているだけ余計にね』
と、公でも私でも彼女を見守り続ける守護青年はそう言ってから少し切な気に目を伏せた。
「まあ、公の姿はオスカルが自分でコントロールしているからいいんだ。旦那様の前で素直になりたくてもなれないのが、見ていて辛い。そこを越えたらどんなにか楽になれるのにな」
あんたがついているんだから心配ないわよと肩を叩いてやったらまだ癒えきらない傷に命中したらしく、小さく悲鳴を上げながら一瞬頬を染めた彼も愛しかった。30過ぎた弟分が愛しいなんて、私も歳かしらねえ、と感慨深いマルタであった。
その可愛らしいご主人は、悪さが明るみになった子供のように大人しくなってしまったので、マルタは優しく確認した。
「さて、お支度を、急ぎます?」
「もう、いいんだ、マルタ」
「おや、ふさぎの虫がどこからか飛んで来たようですわね、ご安心されたのではないのですか?」
まだ、ご主人は何か合点が行かないようである。しばし、考えを巡らせてから、自分自身に言い聞かせるように、ご主人は言葉を洩らした。
「あいつがわたしの知らないところで何をしていたってそれはいいんだが」
あら、そうかしら。ついこの間まで、彼の所在を常に気にされていらっしゃったけれど。素直にお聞きになればいいのに平気そうな素振りをして。
しばらく、オスカルはマルタに静かに身を預けていたが、もやもやする気分の焦点が絞れたようだった。
「マルタ、わたしはあいつを縛っていると思うか?」
何とお答えして差し上げればよいのやら。ちょっと考えてマルタは口を開いた。
「私から見た彼は、やりたいようにやりたいことだけをしているように見えますけれど?」
「そうだろうか」
「彼は私達年長者のアイドルでしたからねえ。可愛さ余って、随分と忠告をしましたけれど、まるで耳を貸しませんもの。もう、誰も何も言わなくなりましたわ。だから、たとえオスカルさまにだって大人しく縛られてなどいるもんですか」
威風堂々と人生の手綱を御しているお嬢様なのだが、不思議な自信のなさが同居しているものだわ。傍目には疑う余地なく強い絆で繋がっている2人なのに、今さら何が不安なのかしら。
今さら?ああそうか、今だからこその不安なのね。いじらしくていじらしくて大きなご主人様を抱きしめてしまいたくなるマルタだった。
🪮 🫖 🍽️ 🍎 🪮 🫖 🍽️ 🍎
その日のジャルジェ家の玄関ホールは、朝早くから賑やかだった。数人の召使いと、好好爺の執事、デュポールに見送られて、将軍が珍しく早朝から宮殿へ出向こうとしていた。
「どうぞ、足元には充分にお気をつけくださいませ。今日は昨夜の霙が酷く凍結しております」
「ふん、おまえにそのような気を使われると一層歳をとった気分になるわい」
ぶっきらぼうな口ぶりとは裏腹に、将軍の声には老執事への愛情がこもっていた。この爺ののんびりした物腰には何か人を心地良く弛緩させるものがある。
「旦那様はそのくらいで丁度およろしいで御座いますよ。下手を致しますと20代の若者と変わらぬ働きぶりでございますからな、ほっほっほっ」
笑うと、芸術的な文様を描く深い笑い皺が幾層にもくっきりと現れる。思わず見入ってしまう憎めない爺様は、ご主人の年寄りの冷や水をやんわり諫めた。
ホールに面した大階段上の踊り場からも賑やかな騒ぎが聞こえてきた。ジャルジェ将軍が振り仰ぐと、まず目に飛び込んで来たのは鮮やかな青い色と豊かに広がる黄金のコントラスト。躍動に溢れる長い脚が、将軍を認めて動きを止めた。
「これは父上、珍しい時刻に思いがけずお会いできるとは思いも寄らぬ幸せでございますが、このような気温の低いうちから動き回られては、積年の神経痛が暴れだすのではございませぬか」
パッと見、親の目から見てもほれぼれするイケメン青年将校ぶりに磨きのかかった娘が大口をたたいた。いつものように後ろに控える従者がそっとたしなめたようだが、娘は余計に尊大な笑顔を見せた。
嬉しそうに年寄り扱いしよって。減らず口が復活したな。将軍は苦笑いした。
縁談を勧めていた頃、あれは檻に繋がれた手負いの虎だった。檻の隙を探し、父親の言葉ひとつひとつに血を流しながら牙を研ぐ。それがどうだ。今では勝利者の笑みを浮かべ、皮肉を飛ばしている。父親としては、どちらの娘が危険か判断に迷う。
あるべき処に物事が勝手に収まっていく、そんな実感が自分の中に深く根を下ろし始めている。良縁を一蹴してしまった娘。家督問題も、娘の将来の安全も、何も解決していないのに、このまま納得してしまって良いのかどうか、将軍は決めかねていた。
「オスカル、待てよ、寒いのだからおまえこそ外套を羽織らないと」
甲斐甲斐しく世話を焼くアンドレをちらりと横目で見た娘は、従者の軍服のポケットから何かを抜き取り、してやったりのサインを飛ばす。
将軍の手前、騒ぎ立てられないアンドレが、何をすると目で訴えるのを無視したオスカルはさっさと階段を二段飛ばしで降り、将軍を追い越した。
「それでは父上、お先に失礼。あまり急に慣れぬことをなさると、御老体に障りますぞ。くれぐれも転倒などなさいますな!」
その娘を追うアンドレは申し訳なさそうに将軍に深く頭を下げると、無礼者の後を追った。
扉係の従僕が玄関扉を開けたところでアンドレがオスカルに追いついた。オスカルはアンドレを振り切るように勢い良く屋外へ踏み出す。屋外に一歩出るやいなや、二人のやり取りが再開された。
「こら、抜いたものを返せ、不意打ちは卑怯だぞ」
「あはは、油断した方が悪い」
「ああ、おれが悪い、外套を羽織ってくれ!今朝は特別冷える」
「ばあやみたいな口ぶりだな。おまえの小言家ぶり、年々磨きがかかってきたぞ!さすが直系だ!」
「おれが小言を言うのはおまえの世話が焼けるからだ。おばあちゃんが煩いのだってそうだ。遺伝の問題じゃないぞ」
「そうか?ばあやはわたしが生まれたとき、すでに偉大なる小言家だったと評判だぞ?」
「そりゃあ、おまえとそっくりな人物の世話をしていたからだよ!」
「誰と誰がそっくりだって?」
2人のやりあう声は少しずつ遠ざかってはいたが、娘も娘、従者も従者。将軍は苦笑いをさらに引きつらせて老執事に救いを求めた。
「しっかり聞こえているんだがな」
「ほ~っ、ほっほっほ」
将軍とデュポールも開け放った玄関扉にゆっくり向かった。刃物のような冷気が肌を刺す。大気まで凍り付いて、晴れ上がった空に氷の砂粒がきらきらと舞い散り、宝石屑の触れ合う音が響きわたるような朝だった。
屋外に出た将軍にデュポールが後から付き従う。先に外に出た2人は前庭中央の歩道を足早に歩いていた。と、アンドレを振り切ろうと駆け出したオスカルの踵が凍り付いた地面を捉え損なった。ふわりと金色の髪が進行方向に向かってなびき、長身が大きく後ろに傾いた。
「うわ~っち!」
「危ない!」
アンドレが抱えていたオスカルの濃紺の外套が大きく宙を舞ったと思うと、金髪頭の下に滑り込む大きな人影が見えた。そしてそのまま一緒に地面に叩きつけられる。
将軍とデュポールは思わず声を上げた。二人の後ろに付き従う見送りの従僕も固唾を飲んだ。オスカルはすぐに跳ね返るように頭を上げたが、下敷きになったアンドレは動かない。
「アンドレ?」
オスカルはアンドレに覆い被さったまま様子を窺ったが、返事はない。
「アンドレ!大丈夫かアンドレ!」
オスカルが蒼白になる。遠目に見ていた将軍と執事、従僕らは急ぎ足で二人の方へ向かった。もちろん、二次災害を防ぐべく慎重な足取りは忘れない。
「ア…!」
再度オスカルが呼びかけようとした時。オスカルの肩にふわりとコートが落ちた。
「ようやく着せられた」
太陽が眩しいのか、仰向けになって胸にオスカルをのせたままアンドレは目を細めて笑った。
「アンドレ…!ば、馬鹿野郎!」
「怪我はないか、オスカル?」
「ない…」
「あ、これは返してもらったからな」
アンドレがひらひらと紙片を揺らした。
「おまえ…まさかわざと…!」
「おお、人聞きの悪い。おれがおまえを転ばせたとでも?」
「わざと気絶したふりをしたのか、と言ってるんだ!」
「一瞬気が遠くなったのは本当だって!ところでそろそろどいてくれないか?背中が凍りつきそうだ」
オスカルははっと身を起こした。すっかり忘れていたが、父の目前だった。くれぐれも転倒などなさるなと憎まれ口をたたいた舌の根はまだ乾いていない。父は…振り返ると呆れ果てた様子でこちらを見ている。慌てて立ち上がろうとしたオスカルは腕を掴まれた。
「ほら、ゆっくり。また転ぶぞ」
「う…煩い!分かってる!」
一時蒼白になった顔が上気して桜色に染まっていた。とても綺麗だけど、忙しい奴だな。彼女の頬を手で包みたくなる衝動をアンドレはかろうじてやり過ごした。
❆ ⛄ ❆ ⛄ ❆ ⛄
「何とも…懐かしい光景ですな」
「懐かしいというより、まるで成長しとらんではないか」
デュポールの瞳が笑いじわに隠れて見えなくなった。
2人の目の前でオスカルがゆるゆると立ち上がった。そしてアンドレを残したまま、先に歩き出すその後ろ姿からは、心なしか湯気が立ち上っているようだ。
「全く同じではございませんでしょう」
デュポールの穏やかに間延びした調子も一層変わらない。
「何が変わったというのだ。結局あいつは何もかも振り出しに戻しおって。家の存続に必要なものくらい分かっておろうが」
家の為…ですか。言うほど怒っていない将軍に、老執事の笑い皺が深くなった。王家へ忠誠を尽くすジャルジェ家の伝統を守ることに生涯の情熱をかけてこられたのに、愛娘の幸せを願う父の情が勝ったではありませんか。
渾身の軍人教育と栄誉を白紙に戻す覚悟で愛娘のを守ろうとした深い愛は、その深さの分だけオスカルさまには横暴と映ったことでしょう。愛に不器用なところが本当に良く似ておられる。
「すべての道はローマに通じるということです、旦那様、ほっほっほ」
深く刻み込まれた目尻の皺を一層奥まで畳み込んで、爺様はにこやかに答え、まだ立ち上がれないアンドレに目をやった。
「オスカルさまの縁談がまとまった暁には、あの青年をわたくしめの後任にお預かりさせて頂くお約束でしたが、わたくしの持ち時間もわずかでございます。
彼の体は当分空きそうにございませんから、この辺で諦めて他の人材を探させていただきとうございます。世の風向きが変わる前までに間に合えばよろしいですがの」
一応お伺いは立てているが、老執事がもう決めているのは明白だった。
次期執事の人事を引き伸ばしてしまったのは、不肖の娘が衛兵隊長になぞに勝手に就任してしまったからだ。近衛ならともかく、荒くれ衛兵隊となると、彼を片時も外すわけにはいかない。少しずつアンドレの仕事の配分を変えていく心づもりでいた将軍の思惑は外れた。
ジャルジェ家の内情全てに精通しながら私欲に利用せず、軍事機密は的確に扱え、主人が不在中には名代を務めることができる男。何より次期当主と相性が良く、率直な反論さえできる彼は、平民であるハンデを補って余りある人材だったので、将軍にとっては二重に痛手だった。
それは爺様も一緒だろう。いくら資質のある人間が見つかっても、一から教育するのはあの歳では大仕事だろうに。それを娘の為に引き受けてくれるというデュポールの決断と愛情を、言外に将軍は感じ取った。
「おい、大丈夫かアンドレ」
使用人のひとり、門番と主に屋外雑用を取り仕切るジャン・ポールが、何とか立ち上がろうと四苦八苦しているアンドレに駆け寄った。
「っつ~っ、効いた~。あ、悪いジャン・ポール、悪いけどここと、あの玄関ポーチの一番下段な、危ないから氷割っておいてくれないか?おれは…行かなきゃ…」
「それはいいけど…あ…っ」
アンドレに手を差し出す者がいた。なんだジャン、やけに親切だなと、差し出された手を取ろうとして、場違いに上質な革手袋に違和感を覚えたアンドレの目の前にいたのは。
「旦那様…」
ジャン・ポールは目の前の光景が解析不能といった様子で固まっていた。将軍が一介の使用人に手を差し出す?ありえない非日常的な事態にほんの一刻だけ躊躇してから、アンドレは迷わず将軍の手を握った。
底抜けに冷え冷えと青く遠くまで冴え渡る青空を背にした将軍の表情は、逆光の為にはっきりとは解らなかったが、自分に真っ直ぐに向けられた強い思いのようなものをアンドレは感じた。意図はわからなくも、受け取らねばならぬ何かを。
一方、将軍も自分の無意識の行動に驚いていたが、握り返された手に力を込めた。片側の骨盤と肩を強打して酷く辛そうな青年を引き揚げてやろうとして、その軽さに再度驚く。彼は将軍の腰に負担をかけないよう、制御しながら立ち上がろうとしていたのだ。
なるほど。青年の意図が読めた。使用人なら恐縮して固辞するだろうこの場面で、彼は将軍の気遣いを無碍にしないよう、さらには腰に負担をかけないよう、瞬時の判断を下したのだ。
これではどっちが労わられているかわからんな、と自分より少々目線が上になった見慣れた顔を将軍は見上げた。
「恐れいります、旦那様。朝からお騒がせして申し訳ありません」
一つになってしまった瞳はそらされることなく将軍に答える。
「うむ」
言っておきたい事が山ほどあるような気がしたが、面と向き合うと何も必要ないようにも思えて、一言だけ伝えた。
「兵営に着いたら、どこも異常無いか軍医にきちんと診てもらえ。必ずだぞ」
「はい。ご心配ありがとうございます」
ごく素直な返事がこれまた素直に嬉しそうな笑顔と返ってきた。へそ曲がり娘を守っているものはこれか。なら、いい。暴力や陰謀の類から娘の身を守るだけでなく、この青年の素直さが守っているものは・・・。娘の心。
「身を呈するばかりが能ではないぞ。お前はここのところ、少し怪我が多いな。お前の故障は困る。道すらまともに歩けん奴を、一人にするわけにはいかんだろう」
アンドレは瞳を大きく見開いて、言葉につまった。将軍は愉快そうに付け足した。
「まあ、本音はわしも今だにばあやが怖いと言う事だ。頼んだぞ」
「はい」
オスカルと同じサファイヤの瞳を持つ老将軍の言葉の奥をくみ取ることはアンドレにとって易しいことだった。同じく言葉では返せない思いを、彼は『はい』の一言に託した。
将軍と、身半分ほど後ろに下がったアンドレはそれぞれ胸に抱くものを温めながら馬車寄せに向かって歩き出した。2人を見送るジャン・ポールが呟いた。
「大胆なやつ…」
「ほーっほっほっ!」
その背をデュポールが叩いて笑った。爺様のわりには強烈な一打だった。慌ててジャンは開門に向かう。
なかなか追いついて来ないアンドレに、心配になったオスカルが一度は乗り込んだ馬車から降り、様子を見に戻ろうとしていたが、父の半歩後ろを歩くアンドレに気付くと顔を赤らめ、またすぐに引っ込んでしまった。それを見て思わず声を出して笑う男2人。
昨日までは歩くたびにさくさくと足元で軽い音を立てた霜柱が、今朝は静かに固く凍りついて堅い靴音を響かせる。真鍮の取っ手は痺れるほど冷たかった。ヴェルサイユは間もなく白い褥に包まれる。
~to be continued~
スポンサードリンク