1.非・非常時にも愛を Ⅰ 

2024/07/13(土) 暁シリーズ番外編

結婚してから一月足らずでわたし達は片手指では数え切れないほど喧嘩した。これが新鮮かつ懐かしくて、わたしは感慨にふけっている。わたし達は随分と長い間、喧嘩らしい喧嘩をしていなかったのだ。できなかった、と言ってもいい。

わたしが言う喧嘩とは、生死にかかわるような深刻な状況下で勃発する衝突のことではなく、馬鹿馬鹿しい意地の張り合いのこと。わたしたち夫婦は乳兄弟だったから、そんなものは日常茶飯事だった。

派手にやり合っていると、喧嘩するくらいなら、離れていろと大人に諌められることしばしばだったが、わたし達は離れるくらいなら、発酵しすぎたパン種のように不平で頬を膨らませながら友好の握手をすることを選んだ。

あれはなかなかの健康的なコミュニケーションゲームだったと思う。ゲームならどれだけ敵打倒意欲に燃え上がっても、それは試合中に限ったこと。相手は誰でもいいわけではなく、大好きな相手ほど勝負は楽しい。ごく自然な運びである。

ここ何年かはそのような喧嘩ができなかった。表面上オトナの振る舞いはできたので、傍目からは平和に見えたかも知れないが、心はすれ違い、距離が広がり、溝は深まった。空回する言葉、一緒にいる孤独。これは喧嘩とは呼ぶには辛すぎる。自業自得とは言え、実際辛かった。

さて、ここで本日の命題。
わたし達は再びアホらしい喧嘩するようになった。ということは、わたし達の生活についに平和が訪れたことを意味する(ふむ、非常に逆説的である)。これを証明せよ。

証明に先立ち、あらためて喧嘩をきちんと定義づけるところから始めるべきだろう。凡庸な用語ほど、広義に解釈されるものだから、ぼやけがちなことばの境界ははっきりさせておく必要がある。

【喧嘩の定義】
 1.原因は些細な出来事である
 2.お互いの引っ込みがつかなくなった時点で、肝心の原因はどうでもよくなっている
 3.「もう二度と顔を見たくない」と思ったら、怒りが頂点に達したことを意味する
 4.怒りが沸点に達した後、数秒~数分以内に激しく後悔する
 5.どちらかが意を決して謝る時には、相方も仲直りが待ちきれなくなっている
 6.先に謝るのはモーレツに悔しいのに、相方に先を越されると負けた気分になる
 7.上記案件はわかりきっているが、戦闘中に思い出すのは何故か困難である
 8.まれに思い出すことがあっても、まず役に立たない

【付記 : わたしの場合】
 A.先に謝ったことがない、あるいは記憶にない
 B.右の頬を打たれたら、左の頬も差し出せ。無理だ、専門は先制攻撃だから
 C.勝利には何故か罪悪感がもれなくついてくる
 D.表向きの勝敗に関して言えば、ほぼ無敗を誇るのに勝った気がしない
 E.手加減、手心は相手に失礼だろう。全力を尽くすべし


自分に突っ込みすぎて自爆する前に証明に移った方がよさそうだ。
定義その一。今も昔もこの法則は順守している。定義その二、左に同じ。定義その三、以下同文。定義その四、ああ面倒くさい、以下も以上も同文だ!

そうとも、七歳八歳の時代と、今現在と、わたし達の喧嘩の構成はまるで変わっていない。振り返ると、奴が我が家にやって来てからがわたしが近衛に入隊するまでの数年間は、わたしの人生の中でも珠玉の時代だった。

そして、現在。当時と同じ形態でわたし達は喧嘩している。よって、わたし達は平和である。証明終り!話がややこしくなるから、大人になったなりの進歩がないなどと決して指摘してはいけない。

まあ、何だ。何が気に入らないって、あいつ相手にバトルした場合、勝っても勝った気がしないことだ。これは古くから体に浸み込んでいる感覚だが、最近再び浮上した。今朝も一戦交えたわけだが、いつものようにわたしが勝利した。

勝てば官軍、占領軍らしくわたしは勝者の権利を堂々と行使すれば良いのだが、なぜか朝食のパンは石炭の味がした。今もごろごろと何か重苦しいものが胸にしこる。

事の発端はこうだった。

食糧事情は好転せず、立ち退かない国王軍の脅威にさらされた市民のストレスはバスティーユ以前より緊張を増していた。その市民に潜在する怒りを利用して議会を動かすため、金で雇われた扇動者がパリの貧しい区画に放たれていることがわかっていた。目的は王政の無力化である。

一刻も早く扇動者を取り締まり、黒幕を突き止めなければ、市民が政治の噛ませ犬として利用され、大勢の死者が出る。わたしは焦っていた。捜査には厳選した部下がちゃんと配備されているのだが、敵も巧みに監視の目をすり抜け、影だけを落としていく。

報告書は一向に事態の進展を伝えて来ない。ついに業を煮やしたわたしは、パリでも特に貧しいマルセル地区、サン・タントワーヌ地区に出向き、司令部にもマロン館にも戻らず現場に張り付いた。

わたしの予定外の行動が後方勤務のあいつに心配をかけ予定を狂わせる自覚はあったものの、わかってくれるだろうとつい甘えが出た。(定義1)無理を重ねた結果か、しばらくなりをひそめていた咳が止まらなくなった。

これはまずいとわたしがようやくわが身を振りかえった丁度その時、司令部待機中のはずのあいつがサン・タントワーヌ商工会議所に設営した仮詰め所に一人でやって来た。あいつもいい加減耐えかねたのだ。

が、待機命令無視ばかりか、治安の最悪な地区を一人で(!)やって来たあいつはわたしの怒りの導火線に火をつけた。

わたしを心配するあまりの行動であることはわかっていたが、単独行動は厳禁してあった。盲目と悟られたら最後、袋叩きはまぬがれない。見知らぬ他人の命よりも僅かな小銭の価値が高いのがサン・タントワーヌなのだ。

さて、仮詰め所で相対したときは、表向き用の取り澄ました事務的態度の下でふたりとも臨戦状態だった。地下倉庫に収めた銃器と持参した納品書とを照合するから一緒に確認して欲しいとあいつが言い出したのが開戦ラッパだった。

わたしは返事の代わりにあいつの腕を引っ掴むと仮詰め所から引っ張り出した。地下に続く人気のない狭い廊下に出た途端、あの野郎は逆にわたしの腕と腰をむんずと抱えると地下室に引きずり込み、乱暴に足で扉を閉めた。

ふん、長い足の使い方をよく心得ている。結構なことだ。この馬鹿野郎と一喝してやろうと大きく息を吸い込んだが、あいつの怒声の方が私より半呼吸速かった。

「いい加減にしてくれ!おまえが現場に詰める必要がないように万全に手配してあるじゃないか!」

真っ暗な地下室に稲妻が走るのが見えるようだった。前置きも何もなしとは話が早い。国民衛兵隊総司令官、人呼んで広報部長ラ・ファイエット公がまた何か国民衛兵隊宣伝用式典を計画したら、こいつにスピーチ草稿を書かせよう。きっと感謝される。(定義2)

「ほう、おまえが司令部で調整役を務めていればこその計画だと理解していたが?」

可愛げのなさならすでにわたしの勝ちだな。翻訳すれば、『おまえに何かあったら、わたしは生きていけないから、危ないことはやめてくれ』となるのだが、売り言葉に買い言葉というものがある。(定義2)

あいつが売る側にまわるのは珍しいが、わたしに買うなと言うのは豚に穴を掘るなと命令するようなものだ。買わずに本音で勝負をかければ即一件落着。などとこの時点で気づくわたしなら、今頃孫の五人や十人は固いだろう。

「おまえが現場に詰めっぱなしでいることこそ計画外だ!」

おまえも本音を言え。わたしは言わないが。計画なんぞどうでもいいのだろう?

「現場にいる必要がない人間がたまたまいても問題なかろう。いなければならない人間が持ち場を離れるのはどうだ?ん?」

それ見ろ、不毛な議論が始まってしまったではないか。屁理屈でわたしに勝てる者がこの世にいるとでも思うのか。

頭に血が上りきったわたし達二人は、その後たっぷり半時間ほど理論攻撃し合った。理屈の応酬戦としては新記録ではないだろうか。溜め込んでいるストレスの度合いがわかろうというものだ。

が、バトルの長短に関らずその後の収束は同じパターンをたどる。もともと論点はとっくに本音からずれているのだから、どちらかが勝機を投げてしまえば、愚論は終わりだ。何にでも勝ちを取りに出る性分のわたしと、勝敗へのこだわりが希薄なあいつでは結果は知れたもの。

「おまえの言う通りだ、オスカル。おれは持ち場を離れるべきではなかったし、おまえは現場にいた方が、迅速な状況判断で兵を動かせる。師団長の意図が地区民を守ることにあると直に感じられれば、士気も上がるだろう。

おまえが姿を見せれば貴族と市民間の緩衝効果は劇的だ。それに、タントワーヌ地区は事実上厳戒態勢下にあり通常の治安維持と別枠で考えるべきだというおまえの主張の方が正しい。責任を負う身であるおまえが時にルールを曲げて無理をする必要があるのは当然だ」

定義その四ほど、例外なく当てはまる案件はないだろう。あいつが譲歩した途端、わたしは急速に正気に戻った。何と無駄な口論だったろう。わたし達はどちらも、互いの身を切に案じている。要はそれだけだったのに。

「わたしも今日は必ず戻るから、おまえは先に帰れ」
「・・・わかった」
「これから市庁舎へ出向く班があるから同行して戻るといい」
「オスカル」

やばい。その切なげな呼びかけは。わたしの罪悪感を直撃してA級戦犯の気分にしてくれる。真っ暗な倉庫の中、とくん、と心臓が私のかわりに返事をした。

定義その五.どちらかが意を決して謝る時には・・・。第五項は後で訂正しよう。
『どちらか』のかわりに、固有名詞を入れる。そうなると、『意を決して』は必要なくなるから削除だな。私が第四項にのっとって後悔しまくっている間に、あっさりとあいつが謝罪してしまうのがパターンだ。

「騒ぎだてして悪かった。おれはただ・・・」
ほら、言ったとおりだろう。なんて威張っている場合か、早く何か言え、わたし。わかっている、よくわかっているのに辛抱しきれなかった、わたしも悪かった、と。なぜかこれが難しいのだ。

あいつがそっと手を伸ばしてわたしの頬に触れた。微熱を帯びた頬をいたわしげに掌で包み込むようにして確かめてからすっと手が離れる。その手を追いかけて握りしめたい衝動を何故か反射的に押さえる。何をしているのだ、わたし。

遠慮ぜずに抱きしめてやればいいじゃないか。誰もいない倉庫には二人きりでいるときの、倉庫の正しい使用法くらい、大人なら常識だろう。

「ただ、おまえが大事で、私情と仕事の境界をどう折り合えばいいか、わからなくなってしまうんだ。気をつける」

うまく折り合えないのはわたしの方だ。おまえは素直な気持ちを難なく口にする。わたしは敗北感と言うよりも、申し訳なさで胸が一杯になってしまって、益々言語障害におちいる。語学は得意なほうだが何の役にもたちはしない。

「じゃあ、後で」
「うん」
わたしはただ木偶の坊のように頷いた。

立ち去り際、あいつは迷うように二度三度足踏みすると、戻って来てわたしの額にキスをくれた。ふわりと気持ちを軽くしてくれる仲直りのキス。なぜ、わたしの方から与えてやることができないのだろう。わたしは黙って見送りながら、足元から頭までずぶずぶと自己嫌悪という名の底なし沼に引き込まれて窒息した。

わたしの体調はますます良くなかった。同行しているル・フォージュ少佐に気取られたくはないし、部下の前で倒れるようなことは絶対にできない。結局、あいつが怒鳴り込んでこなくてもわたしの現場監督はそろそろ潮時だった。

後の指示を残すと、わたしは司令部に戻るあいつを追うような形で、サン・タントワーヌを後にした。底なし沼素もぐり記録は自己ベストをマークした。

喧嘩できること自体は好ましいことだ。特に、あいつが感情を抑えすぎずにわたしにぶつけてくれるようになったのはいい兆候だ。ただ、何かが、このままではいけないとわたしの襟元をひっぱる。

わたしの残り時間は長くないだろう。無駄な衝突より他の使い方をしたい。どちらかが歩み寄らねば。

重い腰を持ち上げて、本日の真の命題。
誰が歩み寄るか?

考えるまでもない。歩み寄る余地をたっぷりと残しているのは無論わたしだ。なのにそう考えると、警報がフルオーケストラよろしく大音響で鳴り響くものだから困る。

幼い頃から、わたしにとって『勝つ』ことは言わばサバイバルと同義語だった。学問でも武道でも、わたしは勝って勝って勝ち抜いて『男』を証明して見せなければならなかった。少しでも弱みを見せると、『所詮は女』と見切られる。それは、わたしの全存在を否定されるに等しい屈辱だったから、もともとの負けず嫌いは一層磨きがかかった。

それにしても、生まれつき球技セットを携帯しているだけで、弱かろうか肝がつぶれていようが『所詮は男』と否定されないとは頭にくる。あまりにも当たり前すぎて、どれほどの特権を股間にぶら下げているか、ズボンをはいた人種は気づきもしない。気づかないから議論の土俵に上がることもない。ああ、ムカムカしてきた。脱線したな。

今のわたしは女であることに抵抗していない。他人の評価はさほど重要でなくなったから、『男』を証明する必要もない。軍人として、兵を率いる将校として精進することと、『男』は必ずしも交差しなくていいと自分で納得してから、余分な気負いから開放されて自分自身でいることが心地良くなった。ところが、どっこいだ。

『勝ち続けねばならない』

今のわたしに不必要になった古い信条だけは、しつこく居座っている。古い上着を脱ぎ捨てるほど簡単に破棄できるものではないのだ。『勝負に負ける』『先に否を認める』、『謝罪する』ことに対して、けたたましく警鐘を打ち鳴らす番人がわたしの中に依然と住んでいて、危険を察知すると狂ったように指揮棒を振り回す。

戦闘開始ラッパが鳴り響けばわたしは瞬時に臨戦体勢を整える。そんな旧態然とした反応を、わたしは自動的に繰り返してしまうのだ。

理論武装もしかり。正直な気持ちを無防備に表現することに慣れないわたしは、必要のない場面であっても、自動的に鎧を身につけてしまう。思い起こせば、わたしがあいつに素直な思いをぶつけることができたのは、決まって非常時だ。

出動命令に後押しされないでもわたしはあいつに・・・うう、くっそ。命を危険にさらされなければ愛していると言えないなんて、情けなくないか。ベッドの中のしかるべき状況も非常事態に準ずるとすれば(情事が常時では・・・かなりやばいではないか?)わたしのポイントは限りなく低い。

わたしが武装解除しなければ。

あいつとの間に武器はいらない。常時身につけていることが習い性になってしまった鎧をはずそう。喧嘩するなら思いきり素手でやり合えばいい。そうでない時は、あいつの読心術に甘えてばかりいないで、ちゃんと言葉にして愛を伝えよう。わたし達の時間は有限なのだ。

午後になって司令部に戻ってから、まだあいつの姿を見ていなかった。今日はダグー大佐がサン・マルソー地区の小隊を編成し直すために地区代表と小会議室に詰めている。あいつはただ無駄に待機などしないから、きっと大佐の補佐についていることだろう。

そして、その場で新編成人員の情報を頭に叩き込んでいるはずだ。今日のあいつは夜半まで身体が空かない予定なので、わたしは先にマロン館に戻ることになっているが、せめて食事くらいは一緒にしたい。わたしはあいつの夕食休憩まで執務室で待つことにした。なぜ早く帰って休まないと怒られても構うもんか。このままではどうせ眠れない。

ほどなくダグー大佐がわたしの執務室に戻って来て、わたしの姿を認め目を丸くした。

「今日は直接館にお帰りになると聞いていましたが、何か緊急事態でも?」
「サン・タントワーヌもサン・マルセルも非常事態が常態だからな、いつも通りだ。マルソーはどうだ?纏まったか?」

「こちらも、いつも通り、無秩序の巣窟ですから纏まりようがありませんよ。何せ一部屋に五人も六人もの家族が住み着いているようなアパルトマンが五階までぎっしり詰まっている建物がひしめいている。

住人は家賃が払えずに絶えず流出入を繰り返しますから、代表者を選ぶのも、地区分けするのも、泥酔した羊とヤギの群れを整列させようとするより困難です。一応隊編成はしましたが、また年内にもう一二度やり直すことになるでしょう。いっそ、中央司令部の派遣した兵だけで管理したいものですな」

「そうしたいのはやまやまだが、それでは住民と国民軍の乖離を促進してしまうだろう。街の秩序は自分達の代表が守るという意識を持たせることに意義がある。軍事機動力の不足は当面目をつぶらねばならん。では、会議は終わったのだな?」

わたしはわかりやすい人待ち顔を見せたようだ。ダグー大佐が、成程と得心したように豊かな口髭を跳ね上げる。
「ええ、終わりました。彼ならそのまま小会議室に残って名簿を作っていますよ。すっかり健常者と変わらない速さで書物きができるようになりましたなあ。記憶した情報は正確だし、信じがたいことです」

わたしは思わずほころぶ表情をポーカーフェイスに置き換えようとして、慌てて自分を諌めた。心のままに微笑んでいけない場面ではない。

「ふふ、あいつはそのうちもっと驚く仕事をやってのけるから楽しみにしていてくれたまえ。それでは大佐、わたしはこれで失礼する」
大佐はおや、と珍しいものでも見たように太い眉を持ち上げたが、すぐに目尻を下げた。
「ごゆっくりお休みください」
「ありがとう、大佐」

あからさまではないにしても、わたしは恋する女の横顔をダグー大佐に隠さなかった。心臓が慣れない言動に抗議してややじたばたとのた打ったが、この次は落ち着いて対処できるだろう。相手と状況は慎重に選ぶ必要はあるが、少しずつ心を開放することに慣れていこう。

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