19.同じ空の下1

2018/11/06(火) 暁シリーズ
1789年7月28日


俺にとって幸運なことに、国民衛兵総司令部が、元のフランス衛兵パリ留守部隊本部があったジュイノー邸に移された。ジュイノー邸は元大司教の持ち物らしく、練兵も可能な二つの広い中庭、そこへ続く馬車通路、馬車庫、厩舎を建物の中に内蔵した広大な邸宅だったが、衛兵隊時代に頻繁に出入りしていたこともあって、俺は内外とも勝手を良く知っている。ジュイノー邸に面するダンタン通りの縁石の数も、街灯の配置もすっかり体で覚えていた。

ジュイノー邸はパリ市の北端に位置している。郊外に並ぶ倉庫や連綿と連なる兵舎まではまだ把握できていないが、概知の場所で仕事を始められるのは有り難い。建造物から細かい物品まで、衛兵隊時代に頭と体に叩き込んだ位置関係の記憶がそのまま使えるので、大幅な時間の節約になる。

臥せっているオスカルの代理兼参謀本部付き秘書官として、今日から勤務することになった俺は、夜の明けないうちにそっとマロン館からサン・クレール男爵邸へ戻り、そこから改めて司令部へ出かけるという手間のかかる経路をとった。オスカルの所在は今のところ、ごく一部の人間しか知らない。いずれは知られてしまうだろうが、少なくともそれまでの間、小うるさい訪問者から開放される時間がオスカルに約束される。

オスカルはよほど神経を張り詰めていたのだろう。人の目を離れ療養生活に入ると、彼女の身体に待っていたかのように病の症状が現れた。オスカルと別に暮らすのは身を切られるようだが、彼女の所在を伏せておくためには仕方ない。オスカルと俺を対で記憶している者はパリにも大勢いる。

『支払う代償が高すぎる、アンドレ』
そう言ってから、失言したと小さく呟いたオスカルの泣き笑い声が忘れられない。いますぐ彼女のもとに駆け戻りたくなる衝動を抑えるのは大変だった。見えてなどいなかったはずの彼女の寂しげな表情が細部まで脳裏に映し出される。そんな彼女に明るく敬礼して、俺はマロン館を後にしたのだった。

細かな物の所在を把握することから始まって、いざ仕事を始めれば山積する課題に忙殺されることだろう。それでも半日勤務というオスカルとの約束だけは、必ず守らなければと思う。俺の身体を心配するオスカルの気持ちには背けない。ばれなければいい、とも思えない。こんな風に思うようになるとは以前の俺なら考えられないことだ。

オスカルのためなら、命も投げ出せる。その覚悟に変わりはないが、未来を見つめるようになった今、彼女とより深く繋がっている手ごたえがある。会えなくても、俺が約束を守っている限りオスカルも無茶をしないでいてくれる。これは確信であり俺の祈りだった。そうすることで、たった一人で病床にいる彼女の傍に心を置いておけるような気がした。

サン・トノレ街からダンタン通りに右折した。建物から照り返す熱気に久しぶりの軍服が息苦しい。強い日差しが街の明暗をくっきりと照らしあげるので、町並みの輪郭が良くわかる。かつて刻み込んだ感覚で、見えない部分を補いながら、俺は何とか自然な歩容でジュイノー邸へ着くことができた。

ダンタン通りに面する側の正門際、副門横には二人の歩哨の人影があった。こういう時が一番困る。顔見知りだったらそれなりの応対をしなければ不審を招いてしまう。とりあえずは携えて来た辞令を見せようと近づくと、ありがたいことに、聞き覚えのある声が先に乱暴な歓迎をしてくれた。ジュール・オジュローと、マティアス・ノエ。二人とも共にバスティーユを戦い抜いた仲間だ。

短い挨拶を交し合い、しばし再会を喜び合った。ワイン大樽2つ分くらいの荷物を降ろしたくらい気持ちが軽くなった。自分で思っていた以上に、俺は心細かったのだ。仲間の声を聞き、ふわりと心が軽くなって初めてそれを自覚した。

これから無謀とも思える試みに挑戦するのに、傍らにオスカルがいないなんて、今だかつて経験したことがあったろうか。連中にオスカルの近況を聞かれ、週末の酒場に誘う声に励まされて、門をくぐった。

暗い馬車通路を、前方にぼんやり浮かぶ明るい一点を目標に進む。次第に点が大きくなり、また再び屋外へ出たかのように明るくなった。中庭に出る手前のホールに到着したのだ。そこから二階へ上がる階段が広い踊り場を中心に左右に別れているはずだ。蹴り上げが低いので、オスカルは大概ここを一段飛ばしで駆け上がるのが常だった。

総司令部の重要機関はほぼ全部二階に置かれている。広い中庭をぐるりと取り巻くように配列された、参謀本部室、会議室、書記官控え室、資料庫。どの部屋をとっても採光が良いのは非常に助かる。昼間なら人影が判別できるだろう。

二階へ上がり、回廊から広い空間を見下ろす。真正面には広大な中庭が広がっているはずだった。強い日差しを跳ね返す芝の緑色がぼんやりと浮いている。鮮やかな色なら、太陽の下ではまだかすかに俺の網膜に届くのだ。

そんな時、視界を覆う霧が晴れるのではないかとつい期待してしまう。期待の後には絶望を味わうことになると知りながら、未だに未練は断ち切れない。俺は気持ちを無理やり切り替えると右90度向きを変え、中庭を一周する回廊を進んだ。

何だか自分の身体が借り物のような感じがした。真新しい軍服に熱がこもってめまいがした。分厚い軍服は、胸の包帯と肩のギプスを圧迫し、首筋に背中に汗の雫が伝い落ちる。太陽はもうすぐ頭上にさしかかり、今日はこれからもっと暑くなるだろう。

けれど怪我をした左側の肩のあたりだけは、熱射がぽっかりと切り取られたような冷たい空虚がある。オスカルがいつも立つ定位置である左肩先だけ、隙間風にさらされたように肌寒かった。



マロン館は新興住宅地に良く見られるバロック、ロココ建築を折衷統合したタイプの館で、古典的モチーフを多用しない外観は淡白で控えめだが、その代わり室内は華麗豪華に装飾されている。

築20年程の新しい建物らしく、隠し部屋だの仕掛け扉の名残がない。室内装飾が過剰なわりには用途別の小部屋が効率良く配置された機能的な設計で、古いジャルジェ邸などと比べると、小さな館なのに生活上の利便は遥かに優れていた。

パリの中心街より土地に余裕があるため、この館は前庭も裏庭も贅沢にとってある。元の持ち主が手放してー多分亡命資金を捻出するためーからまだ日が浅いせいもあり、昨今流行のイギリス風庭園は見事なまま保たれていた。

濃淡の違う緑で作る計算されたグラデーションが、夏の日差しに美しい。薔薇を中心に、エビネ、フロックス、グラジオラス、ダリア、ゼラニウムなどが好き勝手に咲き乱れているように見えるが、どの花をとっても白で統一されている。緑と花の配分、光効果、全て計算ずくなのだ。

その庭を眺められる一階の寝室が私のために用意されたが、庭園を愛でる余裕などない私は一昼夜、熱に浮かされて夢と現実の間を行き来していた。滅多に病気などしない代わり、たまに寝込んだ時には侍女よりもアンドレを傍に置きたがったわたしが、彼なしで病を耐えたのは初めてだ。たった一晩が永遠に明けないように思えた。

時計の針が刻む音がばかに大きく頭蓋のなかで響く。後から後から込み上げてくる塊に気道が押し上げられ、息詰まる苦しさに必死で耐えた。

浅い眠りに引き込まれると、決まって胸から鮮血をほとばしらせながらゆっくり馬から落ちるアンドレの夢を見た。彼は石畳の上に落下すると何故か胸ではなく右目から血を流している。私は彼の名を叫ぼうとしては胸に居座る黒い塊に阻まれ、声が出ない。そうして息苦しくなっては目を覚ます。

二人の修道女見習い、アガットとリュシェンヌは交替でずっとついていてくれた。汗を拭き、火照った額を冷やし、苦しい時には背をさすり、少しずつ水分を補給してくれる。天に宝を蓄えよという救世主の言葉を志にする彼女らの行き届いた看護は心強かった。

そして傍にいなくても、アンドレが私に思いを寄せてくれていることを確かに感じた。彼の為なら耐えられる。気持ちまでもが病に負けてしまわぬよう、私は幾度も悪夢を退けた。

一日臥して高熱が落ち着くと、私はあてがわれた寝室を出て二階の裏庭側に陣取った。ここからは通りを挟んだ北側に総司令部のあるジュイノー邸が遠目に見えるのだ。高熱が引き、朦朧としていた意識がクリアになればなるほど、この先に待っている長い昼と夜を思ってやり切れなくなってしまう。せめてアンドレのいる建物の見える場所にいたかった。

アガットがそんな私を心配して何かと傍にいてくれた。彼女は50代にじきに手が届きそうな、小柄で愛らしい笑顔でよく笑う婦人だった。私達はとりとめもない話をしたが
彼女の受け答えの中から、アガットが貴族出身であることを私は確信した。

貴族なら修道院でも好きなだけ召使を使い、奉仕活動などとは無縁の上級修道女になれるのに、なぜわざわざ一生奉仕に明け暮れる下級修道女に宣誓する覚悟を決めたのか、私は大いに興味をそそられたが、まだそれを尋ねるには遠慮があった。

しかし他愛のない会話の中にさえ、辛苦を味わい尽くして深みを増した温かさを見せてくれるアガットとの語らいは、私に一服の安らぎを与えてくれた。

そこにいるだけで人を癒してしまう人がいるとすれば、彼女のような人だろう。母もそんな人だと思っていたが、実際に手を動かして世話を与えるという行為が持つ強い力に、私は驚きを隠せない。特にその行為と心が一致している時は。

そんな当たり前のことに今更感動するのは、アンドレが傍にいないせいだ。たまにはいいのかも知れない、と無理やり思ってみる。彼にずっと傍にいられたら、私はつけあがるだけつけあがるに決まっている。空気か水のように与える奴だから。

アンドレが出勤して二日目の夜に、書類が一綴り届けられた。私が手を付けようとしていた仕事の概略がそこに記されていた。第三師団を構成する十ディストリクト全ての隊員名簿に、職種別、事業規模別、年齢別、に分類し直された一覧表と、全隊員のうち軍歴を持つ者の履歴が添付されていた。一師団は5千兵を擁するのだから膨大な手作業だったに違いない。各地区の特色と利害関係の傾向が一目でわかる。

アンドレの手書きではないが、一目瞭然の分類仕様が彼の仕事だということはすぐにわかった。それからここ一週間の出動記録がやはり地区別、原因別、時間帯別、に編集しなおされて簡潔に纏まっていた。また隊内部でのトラブル報告、訓練実施計画と教官名簿、実施経過と評価。訓練に関しては正規軍では考えられない程出席率が悪い。

それらをめくって見ていると、次第に体中の血が高揚してきた。この感覚、この手ごたえ。暫く体感する事のできなかった充実感が蘇って来た。たった一人では何も出来ない。一人ではなくても連携が繋がらないと、かえって組織で動くことの弊害ばかりが浮き彫りになる。しかし、一度チームワークの循環が良くなると、人材の頭数を遥かに越えるパワーが生まれる。

アンドレ、おまえはいつでもわたしの仕事の潤滑剤だった。私はそれを取り戻せると期待してもいいのか。ああ、だけどくれぐれも無理はしないでくれ。本当ならおまえはまだ床にいてもおかしくない身体なのに。

持ち前の協調性を生かし、秘書室の協力を得てはいるのだろうが、たった二日でこの仕事量はどうだ。何の指示もしないのに、わたしが把握したかった事象のうち、最優先事項が全て収まっている。

夢中でページをめくり、最後の一枚に目を通し終えた時、わたしの頭には翌日伝令に持たせる指示書の原案がすっかり出来上がっていた。
ところがペンと紙を取ろうと、ベッド脇の小卓へ手を伸ばそうとした時、一枚の薄桃色の便箋がはらり、と膝の上に落ちた。



鬼隊長殿

今夜はここまでで勘弁してください
隊長殿が張り切ると、哀れな部下は
身が保ちません
後生ですからゆっくりお休みください

鬼のいぬ間に洗濯中の小姓より


呆気にとられたわたしはたっぷり秒針が一回りする位の間、大口を開いてから笑い出した。加減を知らないとはこのことだ。これだけの仕事をこなしてくれるアンドレにダメ押しのように新たな指示を出してどうするのだ。

数分前までは彼の身体の心配をしていたというのに。書類綴りを握り締め、とりつかれたように読みふける私を遠巻きに見ていたアガットが、笑い続ける私にようやくほっとしたように傍に来た。

「初めてそのように楽しそうに笑われるのを見ましたけれど、よほど楽しいお便りなの ですか」
笑いながら、涙まで流しているわたしを心配すべきかどうか量りかねると困惑を隠せないアガットに、わたしは大丈夫と微笑み返した。



二晩目の長い夜、仕事の虫がにわかに騒ぎ始めた鬼隊長は、昨晩とは別の理由で寝付けない。ズブの素人が八割を占める国民衛兵隊。それでも何とか形にしてやろうじゃないか。フランス衛兵隊に転属した時以上の荒唐無稽な挑戦状を前にして、武者震いが止まらない。アンドレとわたしが共闘すれば、不可能を可能にできる。体中にみなぎる熱い自負がわたしを寝かせてくれない。

この高揚を語り合いたい人が傍にいないのが、不眠のもう一つの理由だ。いくら鬼隊長でも人の子だ。インク擦れひとつなく文字が美しく並ぶメモは、彼の左手がきちんと機能していることを物語る。そんな発見に彼恋しさがつのる。せいぜい今のうちに洗濯を楽しむがいい。後がこわいぞ。

長く暑苦しい夜。寂しさに慣れて来たわたしに悪夢が訪れることは少なくなった。その代わり何度も頬に暖かい唇を感じて目が覚めた。おまえも同じ夢を見ているか。

バルコニーへ出てサン・トノレ街の明かりを探したが、パリは息を潜めるかのように暗く眼下に広がっていた。その分きらめきを増した星空を見上げ、同じ星空の下に眠るおまえを思う。おまえの安らかな眠りを祈る。これほど明るく星が見えるなら、明日もきっと晴れるだろう。こんな時、おまえの目蓋の裏に映すものは何だ?





           ~To be continued ~

11.30 2004Uploaded
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COMMENT

今夜は『星がきれいだ…』のアップがあるはず、と思ってお邪魔しましたが、暁シリーズのデータ移行が再開されていて、嬉しく拝見しました!
もちろん旧サイトで何度も読んでいるんですが、2004年に暁シリーズの新作がアップされた時はみなさんこんな風にワクワクしていらっしゃったのかな〜、なんて当時を疑似体験しています。新シリーズと合わせて、こちらも楽しみにしています。あ、猫またぎ部屋の移行もお忘れなく、どうぞよろしくお願いします!
疑似体験♪ hama 2018/11/06(火) 22:54 EDIT DEL
hamaさま

お優し~いコメント、涙が出ちゃいますわ。旧館から旧作の引っ越しは私としては更新とは見なしていないので、こっそり動いていたつもりでしたのに。恥をさらしますとね、『暁シリーズ』は第一部を1789年7月14日から同年のオスカルさまのお誕生日まで、と定めていました。短い期間なので、どうせなら7月14日の話ならなら7月14日、8月26日の話なら8月26日に、と2004年のリアルタイムでUPできたら面白かろう、とチャレンジを始めたのですけど…頓挫しましたのですわ。

当時、長女16歳、長男14歳 三つ子の姉妹8歳を抱えたフルタイムワーカーだったので、かなり無謀なことしようとしていたんですね。乳幼児の時期は過ぎたものの、学校関係への出番は凄まじかったよなあ…まあ、だからこぞベルの世界も必要だったんですけど。

思い出を語ってしまいました。失礼~
こそこそやっていたのですが… もんぶらん 2018/11/08(木) 00:50 EDIT DEL
1789年のお話を2004年のリアルタイムでUPする、とても粋なプランだったんですね。でも14年経ってまだ進行中でいて下さったおかげで、私はこの物語の行く末を見守る読者になれました。ありがとうございます。

ところでもんぶらん様は5人ものお子さん、しかも3つ子ちゃんをお育てになりながらたくさんの物語を作って来られたのですね~!
私はその半分以下の数の子育てで必死になっておりますが・・・

仕事や家庭とは違う、創作の世界で楽しむというライフスタイルが素晴らしいです♪
素敵な思い出ですね♪ hama 2018/11/11(日) 23:34 EDIT DEL
プランだけは粋だったんですけどね(苦笑)
子供の数は増えても、仕事が雑になるだけですから、仕事量は思うほど増えてないかもですよ。

私たち、みーんな日々創作しているんだと思います。人生ってやつを(^O^)
NO-TITLE もんぶらん 2018/11/13(火) 00:35 EDIT DEL

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