いのち謳うもの9

2018/09/26(水) 原作の隙間1762~1789



かすかに鳥の声が聞こえたような気がした。

ジャルジェ家の広大な敷地に住み着いているコマドリが朝一番のさえずりを奏でるのは、正確に日の出1時間前であることをアンドレは知っていた。

かつて、幾夜もの眠れぬ夜を、息を凝らして東の空が淡群青に明けるのを待った時期があった。嫉妬が身を焼き、怨嗟が胸の中で醜く発酵するのを止められない長い夜。夜明けを告げるコマドリの一声を、暗闇の中に差し込む一筋の光であるかのように待ったものだ。

朝が来れば仕事が待っている。目の前の職務に集中している間だけは無心になれる。忙しさは救いだった。忙しく働いている間だけは、彼女の傍に存在することを自分に許すことができた。

あの絶望の渦の上にかかる剣の刃を渡るような日々は、まだ記憶に新しく残っている。


太陽が地平線に姿を見せる少し前、温まった大気が上昇を始める少し前、雌を呼ぶ渾身のさえずりが一番美しく響くことを知っている鳥が鳴き始める。

鳥よ鳴くな。今朝は静かに眠ってくれ。朝日を永遠に連れて来ないでくれ。

そんな子供じみた願いを頭の片隅で繰り返している自分に気づいたアンドレは、静かに目を開いた。自分が横たわっているのが自室のベッドではないことに軽くたじろぐと、目を凝らした。暗闇の中にぼんやりと明るいやわらかなものが浮かんでいる。

微かにセンティフォリアが甘く香った。自分のものではないぬくもりが腕の中で息づいているのに、ほっと安堵のため息をつく。自分の命よりも大切なものだ。それを失わないために、そろそろこの温かいものから離れなければならないことに思い至った。

鳥の声など、本当は聞こえるはずもないのだった。屋根に近いアンドレの自室とは違い、オスカルの寝室は居間や予備室、書斎、浴室など、幾重もの壁を隔てた奥にある。

だから、夜明け前を告げる鳥の声だけは絶対に聞き逃してはならない。そんな意識が鳥の声を正確に捉えさせたのだろうか。それって、どこかで聞いたような話じゃないか?しかも主人公は十代の子供。有名な台詞があったっけ。確か鳥はコマドリじゃなくて…。

薔薇の香る恋人の髪に鼻先をうずめたままアンドレはささやいた。
「ひばりの声だ。夜が明ける。行かないと」
声は驚くほど掠れていた。

「相変わらず耳が良い」
恋人は目を覚ましていた。お世辞にも甘い囁きとは言えない、歯切れ良い反応だ。アンドレはゆっくりと半身を起こし、絹の上に豊かに波打つ恋人の髪を愛おし気に梳いた。金色の光がしっとりとからみつくように指の間を流れ落ちる。

肉眼がそれを捉えているのか、自身の記憶の中のそれを見ているのか、アンドレにはどちらでも同じことだった。ただ、彼女から身を剥がすには、持てる意思を総動員しても足りそうもなかった。

「あれはひばりではない、ナイチンゲールだと言って引き止めてくれるかと思ったのに。残念」
「ふふ、そんな遠回りはせん」

しなやかな長い二本の腕がすっと伸びてアンドレの首を掻き抱き、力強く寝台に引き戻した。
「おまえはロミオのように咎人ではない。ここで朝を迎えて何のはばかりがある」

女性にしては力強い両のかいなに抱きしめられたアンドレは、不満そうな恋人の声を柔らかな胸から直接聞く幸せを噛み締めた。

いく度も燃え上がった情炎に身を焼き尽くさんとばかりに抱き合い、いつしか意識が飛んだ。荒い息が静まったあと、訪れた至福のまどろみの中をふたりで漂ったのは、ほんのわずかな時間だったに違いない。

汗はすっかり引いていたはずなのに、再び合わせた肌に熱を帯びたうるおいが戻って来る。背中をなぞる風がひんやりと涼やかに感じるほどだ。

呼吸に合わせて上下する胸の動きが、規則正しい鼓動が、たまらなく愛おしい。このまま何も考えずに恋人が奏でる命の脈動に身をまかせていられるなら、差し出して惜しいものなど、この世にありはしない。

さもなくば、ふたりで跡形もなく燃え尽きて空気に溶け込んでしまいたい。

しかし、我に返れば自分たちが身をふたつに分かたれた生身の男女であることを思い出す。人生は一時たりともその歩みを止めてはいなかった。

「随分と過激なことを言う」
「過激なものか」

恋人は幾分憤慨して見せた。アンドレの背中を抱きしめる腕にさらに力が込められる。彼女はそんなやり方で、くちびるからこぼれる言葉よりも、はるかに雄弁に愛を語る。

アンドレはオスカルを両腕で抱き返すと、そのままごろりと反転して体の位置を入れ替えた。アンドレの頭を胸に抱き込んでいたオスカルは、抱き取られるまま今度は恋人の胸に顔を埋めた。

「たとえ、誰かが今ここに踏み込んで来ても、わたしは決して恥じはしない」

恋人の強い意志が真っすぐに自分の胸に響き、アンドレは言葉につまった。彼女は本気なのだ。虚勢も、ほんのわずかなぶれもなく。

とく、とく、とく。
どちらのものとも知れない心臓の鼓動をしばらく聞いてから、アンドレはやっと言葉を絞り出した。

「うん…ありがとう」

恋人は満足気に微笑んだのだと思う。腕に込められた力が緩んでしなやかにアンドレの背なかにまわされた。

「よろしい」

アンドレは思い出した。
昨夜、いやもう一昨日になってしまったが、この勇敢な恋人は母親と主だった使用人の前で堂々と自分の心のうちを歌に乗せて宣言した。その場にいたほぼ全員がオスカルの偽ざる本心を確信したはずだ。

社会が認めようと認めまいと、わたしが愛するただ一人の男の価値は変わらない。結婚という形式など関係ない。アンドレ、おまえは毅然と頭を上げろ。

至妙なやりかただった。表向きはただの歌なだけに、誰にも糾弾させる余地が生まれない。誰にも後ろ指を指させない、というオスカルの強い覚悟がアンドレを震撼させたのだった。

恋人の方から望まれてこうして一夜を過ごした後でも、未だに後ろめたさが付きまとって離れないアンドレだった。

傷つけてしまったのではないか、期待外れだったのではないか、身体に負担をかけすぎたのではないか。大切過ぎて、どれほど優しく抱いても足りないほど配慮したにもかかわらず、自分の欲望を出し過ぎてしまったのではないかと不安になる。

自分が彼女に値するとはにわかに信じられなかった。大恩あるジャルジェ夫妻に対して背信行為をしている感覚もぬぐえない。

しかし、恋人の力強い言葉はそんな罪悪感を少しずつ溶かしていく。背中をやさしく撫でられて、アンドレは少年のように泣きたくなった。

「良かった。後悔していないかと実は少々不安だった」
素直に本音をさらけ出すと、オスカルは笑ってアンドレの髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。

「後悔か…。後悔ならしているぞ」
「えっ?」

軽い冗談のつもりだったのに、アンドレが可哀想なほどぎょっとした声をあげたのでオスカルは軽くため息をついた。この期に及んでまだ何か不安なのか、この大男は。

「もっと…」
「も、もっと?」
「早くこうすれば良かった。な?」
「…本気で?」
「本気だとも」

アンドレは二の句が継げないとばかりに黙り込んだ。そのかわり、頭の中では何やらぐるぐると余計な考えが巡り巡っているようだ。言葉通りストレートに受け取るには若干自信が足りないらしい。そこで、オスカルは恋人の背中にまわした腕にぎゅっと力を込めて耳元で囁いてやった。

「もっと早くにおまえを愛していると気づけば良かった。もっと早くに抱き合えばよかった。何を恐れていたのか、今では全くわからない。莫迦はわたしだ」

大男からぐすっと鼻をすする音が聞こえた。オスカルは経験もないのにいきなり母親になったような、こそばゆい気分になって恋人の背中をさすった。それだけでは足りないのでキスもしてやった。大男はほんのんり赤く染まった鼻先にしわを寄せ、泣きそうな笑顔を見せた。

「聞いてもいいかな」
「と、すでに聞いているのは誰だ」

衣擦れの音をたてて二人は腕を互いの体にまわしたまま、態勢を再びごろりと入れ替えた。軽いくちづけの音を数回させた後に会話が再開された。

「もっと早くって、いつ?」
「いつだろうな…言ったろう?おまえのことは最初から愛していた、と」
「じゃあ、恋に落ちたのはいつ?と聞けばいいのかな」
「う…ん…、いつの間にか気づいたら…。多分衛兵隊に転属していくらも経たないうちだ」
「…本当に?」
「環境の変化あり、人間関係の変化あり、おまえが荒むのが辛かったのもあり、とにかくわたしはいっぱいいっぱいだったからな。あらゆる感情がまぜこぜでわからなくなってしまっていた。許せ」
「原因の殆どはおれです」
「ほお、随分と背負ってるな」
「え?どうして?」
「兵士の反抗やら縁談やら、暴動に巻き込まれたのもおまえのせいではないだろう?」
「それはそうだけど」
「何が辛かったかと言えば、事件そのものよりも、そのたびにおまえがいちいち傷つくことだ。わたしはおまえが誰よりも大切だったから、おまえが傷つくことが一番辛かったのだ。今思えばシンプルな図式だが当時は全く見えていなかった。けれど、原因の殆どがおれだと言えるおまえは、どうやら直感的に理解していたようだな」
「……」

アンドレはまた黙り込んだ。腹を割って話してやったのだから、何とか言ったらどうだ、とオスカルが催促しようとした時、アンドレがしみじみと感嘆した。

「なるほど…そうだったのか…」
「それだけか、言うことは」
「ちょっと待ってくれ、おれは…」

焦れて体を起こしかけた恋人をシーツに沈め、動けないように覆いかぶさると、アンドレはオスカルの顔面にくちづけの雨を降らせた。

「あまりの幸せに浸っているんだ。ちょっと待て」

オスカルのくちびるが微笑みの形をつくった。そんなことが幸せならもっと話してやろう。自分の胸に巣食っているであろう病魔のことを思い、オスカルは続けた。命の残り時間が秒読みとなった今、愛の言葉を惜しむのは愚かなことだ。

「後悔ならまだあるぞ」
「待てと言うのに」

構わず話し続けようとするオスカルに、アンドレは仕方なくくちびるを離し、肩ひじをついて横向きなった。そして、オスカルのこめかみのあたりから髪に指を入れて丁寧に梳き降ろしながら聞く体勢をとった。

「自分の女声を嫌うあまり、おまえとの間で歌をタブーにしてしまった。20年もの間、私以外の人間におまえは歌を聞かせた」
「え?それも後悔?」
「20年分の歌を返せ。おまえはもともとわたしの歌手だったのだぞ」

彼女らしい横柄なもの言いの行間には愛が詰まっている。それらを読むのは得意なアンドレは、恋人の本意を余さず受け取った。
嬉しそうに破顔した男にオスカルはさらに追撃をかけた。

「おまえが変な遠慮などするから、損をした。20年だぞ、おい」
「もうしないよ」
「しかもだ、一昨日は貴重な一曲を皆に分け与えてしまった。あれだって本当はわたしだけのものだった。そうだろう?」
「そうです」

おまえが率先してシェアしたんじゃないか、などと野暮なことは言いっこなし。堂々たる主人として振る舞う裏で、そんな少女のような焼きもちを焼いていたとは。そんな心を吐露してくれるなら、屁理屈こじつけ大歓迎だ。アンドレは増々目尻を下げた。

「これからは、おまえのためだけに歌うよ」
「悔しい、実に口惜しい。あの曲は本当に気に入ったのに」
「え?どれ?」
「独り占めしておきたかったのだ、本当は」
「どの曲?」

むぎゅう、と脇腹をつねられ、小さな声で『わからないのか、ばかもの』と怒られたかと思うと、オスカルらしからぬ遠慮がちな返答が返って来た。

「『きみが世界でたったひとりの女の子だったら』」

アンドレは胸が詰まった。彼女はこの上もなく正確にあの一曲に込めた願いを理解してくれていた。

「誰に聴かせたって、あれはおまえのものだ」
「それでも悔しい」
「それなら」

こうしよう。横向きになっていたアンドレを強引に仰向けに押し倒し、ほふく前進のように
胸に上がって来たオスカルを抱き留めたアンドレは囁いた。

「新しい歌詞で作り直そう。お前だけの」
「あれが気に入ったんだ」
「作り直せばもっと気に入るさ」

猜疑心いっぱいの視線を恋人から向けられたことをアンドレは感じ取った。
「作り直すよ。おまえが気に入るまで。それで気に入ったら…」
「気に入ったら?」
プロポーズ代わりにするから、ウィと言ってくれ。

言葉にできない一言をアンドレは飲み込んだ。愛し合うふたりの間で身分制度が効力を失う時代は間違いなく来るだろう。しかし、立ちはだかる現実の壁を突き崩せる日は今日明日ではない。

だから、せめてオスカルが言うように自分を恥じることだけはすまい。決して。
アンドレはオスカルの両肩をしっかりと抱いた。

「おまえだけに歌う。おまえだけだ」
「約束するな」
「約束だ」
「おまえは約束だけは破ったことがないから、信用してやろう」
「…『だけ』に何の含みが込められているかは聞かないでおくよ」

鼻先どうしを突き合わせて二人は笑い合った。ちょうどその時である。ジジッと微かな音を立てて、一本だけ壁面燭台に灯しておいた蝋燭が燃え尽きた。燃焼時間を逆算して、夜明けの約一時間前に燃え尽きるようにアンドレが設置しておいたものだった。

なぜなら、アンドレにとって、時計の針はもう何の役にも立たなくなっていたからだ。彼ならでのロマンティックな演出の裏にある切実な理由をオスカルは知る由もなかったが、ふたりの笑い声は消えた。

オスカルも、燃え尽きた蝋燭が時間切れを意味することは知っていた。

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COMMENT

更新ありがとうございます。
素敵〜
うふふ ひろぴー 2018/09/26(水) 22:40 EDIT DEL
ひろぴーさま

ありがとうございます。
もしかして、絵文字使われましたか?
やっぱり絵文字後のコメントが消えてしまうようですね。
申し訳ありません。

オリジナルのコメントはメール通知の方で
ちゃんと受け取っております。

ありがとうございました!
NO-TITLE もんぶらん 2018/09/29(土) 16:51 EDIT DEL

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