いのち謳うもの7

2018/08/26(日) 原作の隙間1762~1789



全く声質の違う声がぴったりと協和する奇跡のような場所がある。聖歌隊の一員としてミサで歌っていた幼い頃、聖歌と参列者の祈りがひとつに響き合った瞬間に、神のおわす天の園が地上に降臨したかのような高揚感を何度も経験した。

この音楽ホールで一緒に練習していた時にもそんな瞬間が訪れることがあった。ふたつの声が完璧に協和すると心までがひとつに重なり合い、体も意識も消え失せて自分たちが歓喜そのものになる。

長い間忘れていたその境地に今再び立ってみると、それは、体の奥から尽きることなく湧き上がる喜びだけではなく、どこかで官能につながる熱量があった。それはもう恐ろしいほどの熱い喜びの渦で、いつまでも消えぬ陶酔の中、ふたりは微動だにせず、無言で残響を味わっていた。

身じろぎなどして、肩と肩が触れ合いでもしたら、何とか堰き止めている見えない結界が破れてしまう。特に、この種の衝動にまだ慣れぬオスカルは、文字通り我を忘れる手前で踏みとどまるだけで精一杯だった。

一方、アンドレは意識の一部をしっかりと現実に繋げていた。音楽室ではかれこれ1時間ほど過ごしている。ふたりで密室に籠っている印象を与えたくないので扉は開け放したまま、誰でも入室できる状態にしてある。

そうやって、誰に見聞きされても隠す必要がないことを明示したのだが、そろそろ切り上げ時だろう。名残惜しさを振り切るように、アンドレがピアノの蓋を静かに閉めた。自分が始めたのだ。区切りをつける役目も自分にある。

「オスカル、ありがとう」

一度やってみたかったことだった。もう二度とこんな機会はないだろう。明後日パリに出動すれば、帰って来られる保証はない。先日のオスカルの命令拒否は、天地が逆転するような決断を彼女が下す日が遠くないことを示唆するものだ。

その日は明後日ではないかも知れないが、仮に無事帰宅を果たし、ジャルジェ家での生活が続いたとしても同じことだ。主従の関係であり、大人の男女である以上、子供の頃と同じように自由に時間と空間をオスカルと共有することはできない。

誰も何も言わないが、古参の使用人らはふたりが幼馴染と主従関係を超えたことを察しつつ、黙って温かく見守りながらさり気なく背後を固めてくれている。ジャルジェ将軍に至ってはアンドレの想いを知ってなお、従者の任を解かないばかりか生涯オスカルの傍を離れるなとまで命じてくれた。

パリ出動を控え、今夜は特別に羽目を外してしまったが、使用人仲間の温かい黙殺に、当たり前のように甘えてはいけないのだ。表向きはあくまでも主従の形を完全に維持してこそ、皆も目を瞑ってくれる。

さもなければ、自分はともかく、いずれオスカルの名誉に傷をつけることになる。オスカルの従者というポジションも維持できなくなるだろう。だから、これが最初で最後のふたりだけのコンサートだ。

ホールにいる老執事や照明係を始め、何人もの使用人が耳にすることは織り込み済みでオスカルを誘った。オスカルは照れこそしたが、誰かに聞かれることに関しては全く気にせず、喜びを味わってくれた。良かった。さあ、幕引きだ。

「これで…」
もう思い残すことはないよ、と言いかけてアンドレははっとした。自分は今、一体何を予感したのだろう。触れてはいけないものを掠めてしまったような感触だった。

しかし、貴重なこのひと時に不要なものは、柔らかく蓋をしておこう。アンドレは何とか不自然にならないように明るく言い換えた。

「おまえがラブソングを歌ってもジョークにはならないことが証明された。素晴らしかったよ、オスカル」
「・・・」

返事がない。普段なら、ひねりを加えた混ぜ返しが返ってくるはずなのにオスカルは黙っている。気分を害しているのではないことは空気でわかる。それでも、表情が見えない事が辛いのはこんな時だ。

「さあ、行こうか」
アンドレはオスカルの背に手を置いて退室を促したが、彼女はぴくりと背中をこわばらせただけで、黙ったまま動こうとしない。

「オスカル?」

オスカルは葛藤していた。このまま部屋に引き上げたくない。もう、ひと時だって離れたくない。人目も何も関係ない。もう何もかもどうなってもいいからそばに居たい。そんな激しい情動が体中を荒れ狂っていた。

これが恋の持つ破壊的な力なのか、自分でも恐ろしくなるような激しさだった。初めてそれを自身の中に見出したオスカルは傍らの恋人を潤んだ瞳で見上げた。

この時ばかりは恋人の失明が良い方向に働いたと言えるだろう。一瞬でアンドレの理性を吹っ飛ばすのに十分なほど熱を湛えた瞳だったからだ。見えないアンドレは、冷静に従者の立場でオスカルを促すことができた。

「これ以上長居すると不自然だ。引き上げる頃合いだよ」

このアンドレの状況判断は的確すぎてオスカルを少々いら立たせた。なぜ、そんなことができる?胸の中で持て余すこの熱い衝動を、どうしてそう簡単に制御できるのだ。耐え続けた長い年月が恋人にあきらめを身に着けさせたのか。

どこか遠くを見ていうようなアンドレの瞳があまりにも達観しているようでオスカルは切なかった。一方、オスカルは自分が今、理性と感情のバランスを欠いていることを自覚していた。

だから今は感情よりもアンドレの判断に従うことがベストな選択であることも承知していた。でも、どうしてもまだ引き揚げたくない。あと、もう少しだけ、このままではいけないだろうか。オスカルは、溢れるばかりのその気持ちを一言に凝縮して恋人の名を呼んだ。

「アンドレ」
「!」

今まで聞いたことのないような艶やかな声がアンドレを直撃した。背中を下から上へ羽根で撫で上げられたようにアンドレは硬直した。駄目だオスカル、ここでは駄目だ、やめてくれ。懇願するようにアンドレは恐る恐る聞き返す。

「な、何?」
「もう一曲だけ、歌ってくれ」
「……」
助けてくれ…閨で聞きたいような艶っぽい声で囁かないで欲しい。って言うか、こいつは絶対に無自覚だ。そうじゃないと言うなら、大運河の上を全力疾走してやってもいい。 アンドレは力の限り自分の太腿をつねりあげることで正気を保ち、もう一度今夜はもう引き時だよと告げようとした。

「ど、ど、どんなのがいい?」

しかし、アンドレの口からでた一言は、その決意とは真逆だった。おい、やめろ俺。引き返せなくなるぞ。って、この音楽室で引き返せなくなる状況ってどんな凶行だよ、想像するのも怖すぎる。

「何でもいい。おまえの好きな曲なら」
「じゃあ、伴奏しやすいように…」
「伴奏も、デュエットもなしだ。ただ聴きたい」
「え゛っ…」

頭の中がパニックを通り越してバーストしたアンドレと、こっち方面は耳年増初心者につき要注意人物のオスカルの間には、甘い緊張が張り詰めた。会話は途切れ、音楽ホールは静まり返る。心臓の音だけが静寂の中で響き、ふたりは実に危険な空気に包まれた。

「わ、わかった!」

アンドレは沈黙を蹴破るように立ち上がり、ピアノに手を添えた。正真正銘、これが最後の一曲だ。オスカルのリクエストに応えることに全神経を集中すれば、間違いは起きないだろう。

素人なりにだけど、オスカルへ贈る会心の一曲を歌ってみよう。愛しい人に贈るに相応しい一曲を記憶の中から拾い出すために、アンドレは深く呼吸し、集中を一点に集めた。よし、これだ。この曲がいい。

「おまえに」
アンドレは大きく息を吸い込んだ。

心が塞いだり、うまく行かない時は
君みたいな誰かにそばに居て欲しくなる
ぼくの心に王座をつくってくれる
いつまでも一緒にいてくれるぼくの君

もしも、君が世界でたったひとりの女の子で
ぼくがたったひとりの男の子だったなら
何があっても怖くない
ふたりの愛は変わらない
エデンの園はふたり占めさ
誰にも邪魔はできないよ
僕は君に山ほど素敵なことを言うだろう
ふたりでうんと素晴らしいことをしよう
もしも、君が世界でたったひとりの女の子で
僕がたったひとりの男の子だったなら

If you are the only girl in the world → 
by Alfie Boe
(レ・ミゼラブル25周年記念コンサートで素晴らしいバルジャンを歌い上げた俳優さんです♡


アンドレが選んだのは、素朴な詩が可愛らしいメヌエット調のメロディに乗った曲だった。少年少女の幼い友情に近い恋を歌う曲は、誰かに聴かれても懐かしい子供時代の思い出を歌っているよう聞えるだろう。

第三者に聴かれることを念頭に入れた選曲だったが、アンドレの決して言葉にできない望みそのものだった。大好きな君とふたりで幸せになりたいね。

個人の幸せより優先させるべき大切な使命を持つ恋人に、アンドレは全身全霊で自分の心をひとつひとつの音符に込め、しかし出来る限り軽やかに明るいリズムで歌った。

最後の一小節を長いファルセットで歌い終える。無伴奏なのに、部屋中に余韻が満ちている。
オスカルは目を閉じてじっと聴いていた。アンドレも恋人の反応を待つでもなく静かに佇んだまま目を閉じる。伝えたいことを言い尽した後の爽快感が心地良い。

「ブラヴォー、アンドレ」

しばしの沈黙を経て、恋人から賞賛が与えられた。ひそかに隠された願いは、開封されないまましっかりとオスカルの胸に届けられたのだろう。恋人の声がかすかに震えている。

開封できる時が来るかどうかはわからないが、それでいい。中身がわかっている贈り物。オスカルはいずれにせよ大切にしてくれるに違いないから。

「どうも」
アンドレは右手をお胸に当ててちょいとおどけた礼を返す。オスカルも楽し気に茶化す。
「声変わり前のおまえに歌わせたら、さぞ愛らしかったろうな」

涙をこらえている声だった。そのまなざしを一目でも見たらアンドレも涙を堪えられなかったろうが、つとめて悪戯っぽく洒落のめした。

「そんなことしたら、おまえに女々しいと一刀両断されるよ。おまえに向けた歌だとは気づきもしないで」
「ふっふ…違いない」

何かしらの反撃が返って来るかと思いきや、オスカルは拍子抜けするほど素直に認め、やや自嘲気味に笑った。

「お?随分とオトナになったなあ」
「ぬかせ」

オスカルはいつものように悪ぶって見せようとして、思い直したようにふるふると首を振った。
「気に入った。ありがとう」

どういたしまして。そう答えようとしたアンドレは言葉を切った。誰かがオスカルを呼ぶ声が聞こえたからだ。

「オスカル様」

呼びかけたのは音楽室の入り口に立つデュポールだった。
「オスカル様、ご無礼をお許しください。お願いがございます」
老執事は深々と頭を下げた。


   ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


音楽室にはジャルジェ夫人のためとマロン・グラッセのために椅子が用意され、その後ろには25人もの使用人がずらりと並んだ。恐れ多くも奥様と並びの席に鎮座させられたマロン・グラッセは、恐縮しきって夫人にぺこぺこと頭を下げている。

夫人は花のように微笑んで、逆に感謝の言葉で老婦人を労った。そこで、汗顔したマロンの矛先は当然孫に向かう。

祖母にちょっとこっちへ来いと凄まれて、すごすごと小さな老女の前で低頭する大男アンドレに、お約束のヤキがお見舞いされた。

「おこがましいにも程があるよっ、このバカ息子っ」

アンドレを襲った一撃に往年の破壊力はもはやない。それなのに、明日は辛い知らせを告げなければならないアンドレの後頭部は泣きたくなるほど痛かった。

『親不孝ならぬ祖母不幸でごめん、おばあちゃん』大きな孫は、心の中で詫びながら、頭を押さえつつあたふたとピアノ脇に立つオスカルのもとへ戻った。

それにしても、まさかこんなことになるとは読みが甘かった。と言うか、こんなにデュポール爺が差し出た行動を取るのはジャルジェ家に暮らして27年間、見たことがないぞ。

などと埒もない文句をぶつくさと口の中で垂れていると、うっかりピアノの場所を手探りで確認してしまうところだった。危ない、危ない、冷や汗が背中を流れる。ここで失明がばれたら、オスカルの傍から引き離される。冗談でも今夜はその時ではない。

狼狽したアンドレは次に椅子に躓いて無様な姿を見せるはめになったが、そんなアンドレの事情などつゆ知らぬ使用人仲間からは失笑が上がった。オスカルまで笑っている。アンドレは開き直った。緊張のあまりずっこけたと思って頂けるなら上等だ。

方や、ふたりきりの時とは打って変わり、デュポールが姿を現した途端に、主人の顔に戻ったオスカルは今や堂々たる態度だった。そして、デュポールのたっての願いとやらを鷹揚に快諾したのだった。

『デュポール、おまえが我儘らしいことを言うのは初めてではないか?なぜだろう・・・不思議と嬉しいものだな』

オスカルはピアノの前で腕組みして待ち構えていた。アンドレはオスカルにしか聞こえない声で一応確認する。

『おまえと一緒に歌う・・・んだよな』
『そうだな、デュポールはデュエットを所望だそうだからな』
『・・・こんな形で・・・ありえないだろ・・・』
『そうか?前は日常茶飯事だったろうが』

そりゃどんだけ昔の話だよ。さっき散々抵抗したのは一体誰だ。恨みがましさ全開のアンドレの背中を今度はオスカルがぶっ叩く。こっちは当然派手な音をたてた強力な一撃である。

「往生際が悪いぞ、さあ皆を待たせるなアンドレ」

失笑ならぬ、遠慮のない笑いが同僚の観衆から沸き起こった。身の置き所がないアンドレは今更ながら思い出した。

そうだ、オスカルは楽器の演奏を聴かせることには慣れている上に、元近衛連隊長様だったんだ。しかも一番華やかな王妃付き騎兵隊の。

軍人とは言え、近衛隊士は端麗な容姿と一糸乱れぬ美しい栄誉礼で他国元首を圧倒することが重要な任務だ。平時国防の一つの形であり、王国の威厳を顕示する広告塔でもある。

連隊長を長年務めたオスカルは、意識ひとつ切り替えれば、呼吸をするくらい造作なく自分を演出して見せることができるんだった。そんなことをうっかり失念してしまうほど、衛兵隊での泥くさい二年間は密度が濃かったということだろう。

「用意はいいか?」
「いいよ」

今や落ち着き払った次期当主と、どうにでもなれと居直った感が見え見えの従者にギャラリーは期待で一杯の目を向けている。生唾を飲み込む音まで聞こえる始末だった。一体何を期待しているんだ。アンドレは誰にも分らないように肩を落とした。

「他でもないデュポールの頼みだ。彼には散々我儘を言って困らせたのに、その逆は一度もなかった。わたしの生涯通して一度もだ。だからこの機会をわたしも嬉しく思う」
「ほっほっほっ。ありがたいお言葉です、オスカルさま」

老執事はいつものように嬉しそうに笑った。オスカルは聴衆に向けて肩をすくめて見せると、ポンポンと隣にいるアンドレの肩を叩いた。

「なんだよ」
「わたしはおまえにも我儘放題しているが、その逆もそれなりにある。わかっているな」
「はあ、無論でございますとも」

聴衆から笑い声があがり、オスカルはメインゲストのご婦人方に向かって優雅に腰を折った。

「では母上、わざわざ足を運んで頂きました価値があるように努めさせて頂きます。ばあや、ここは大目に見てやってくれ。不詳の孫は存外にいい歌手だぞ」
「オスカルさま、何と勿体ない」
ジャルジェ夫人に肩を抱かれ、老婦人はぐしぐしと涙をぬぐった。

オスカルが前奏を弾き始める。ニ、三度合わせただけのメロディは完璧にさらに洗練されていた。つい感心して聞き入ったアンドレに怒号が入る。

「おい、ぼやぼやするな」
「えっ?あ、しまった!」

入りのタイミングを逸したアンドレに、見物人からしっかりしろ!とヤジが飛んだ。御者頭のジャン・ポールだろう。そら、もう一度、とオスカルが繰り返し演奏してくれた二巡目の前奏にアンドレはタイミングを合わせ、歌い出した。

心に残る人、それはおまえ。

次のフレーズからオスカルが追いかける。

忘れられない。どこにいても

成人したオスカルの歌声を初めて聞くほぼ全員が、
息を呑む音が聞こえた。アンドレの前では自分の
女声に躊躇を見せたオスカルは、もう臆してはいなかった。

僕の終わらない愛のうたのように、君への愛がこの僕を創った

堂々たるオスカルに、アンドレもリラックスして
のびやかになった声で追いかけると、
誰かが小さくきゃーっと歓声を上げた。
多分厨房メイドのポーレットだ。
先輩メイドに取り押さえられている気配がする。
こんなにも愛しい人がこの世にいたとは
ここでオスカルが歌詞の意味に少々照れて
少々たじろいだ。次のフレーズからは一緒に、と
アンドレが小さく耳打ちする。
心に刻まれた人 あらゆる意味で
いつまでも永遠に
僕の心に住む 不滅の人よ・・・

歌い始めは堂々としているかと思いきや、歌詞の甘さにがらにもなく照れるオスカルと、あたふたしていたアンドレが頼もしくフォローに入る。そんな様子にジャジェ夫人は微笑みっぱなし、マロン・グラッセははらはらしながらハンカチを無意識にくわえて見守った。

そうは言ってもいやでも息が合ってしまう黄金ペアのこと。思いがけず聴衆を得た緊張は長くは続かず、伴奏も含めて素晴らしく音が調和し始めた。しかし、二人の調子が整い始めたところで全長3分足らずの小曲はあっと言う間に終わりとなった。

もう終わり?といわんばかりの失望のため息が聴衆から上がる。気を利かせたジャルジェ夫人が皆の希望を代弁した。

「初めて合わせた曲のようだけれど、もう何回か繰り返したら、とても美しいハーモーニーになりそうだこと」
「初めても何も、歌など20年ぶりでございます」

「それではデュポールが血相を変えて飛んで来たのも無理もないことね。もう一度聴かせてくださるかしら」

母にそう言われてしまっては仕方ない。恥はさらしたし、もう今更だ。オスカルは頷いた。
「わかりました、母上。他にレパートリーはございませんが、お聞き苦しくも、もう少しお付き合いください」

何であれ演奏を人に披露するなら、完璧に仕上がるまで練習を重ねるのが本来のオスカルだったので、気恥ずかしさはぬぐえなかった。しかも、器楽ならまだしも、軍の指揮官として駆使した喉は、歌唱用の発声とは程遠い。

この女声とも男声ともつかない中途半端な声に陶然となれるのは、惚れた贔屓目で正常な判断ができない恋人くらいかと思いきや、母はことのほか嬉しそうにしている。

「アンドレもどうぞお願いね」
「は、はい」
パリへの出動命令についてはまだ誰にも言っていない。明日の朝食後、母を泣かせることになるだろう。ばあやも身も世もなく泣くだろう。思いがけず得たこの機会は、実は神が用意してくれた贈り物ではないだろうか。オスカルにふっとそんな考えが浮かんだ。

「オスカル」
「ん?」

ちょっと耳を貸せ、とデュオの片割れが肩をつついた。

「恋歌だと思うから照れるんだよ。この曲はもっと広く解釈できる。奥様やここにいる一人一人に向けたメッセージだと思えばいい。

出動前に一人一人に感謝を伝える時間はないから、俺はこの機会を使おうと思う。最初はこんなことになって面食らったけれど、今は良かったと思っているよ」

「そう・・・だな」

生涯通してデュオを組むだろう片割れは、ここぞという時に頭の中を共有できるかのようだった。オスカルの思いを補完して言葉に出してくれた相方の胸に、了解の意を込めた握りこぶしをこつん、打ち込むと、オスカルは椅子から立ち上がった。

目頭に熱い涙が溢れそうになったが、母を含めた聴衆に向けて一歩前へ出ると悠然と微笑んだ。

「皆も知っての通り、幼少時に聖歌隊に所属していたわたしとアンドレは、この場でよく練習したものだった。

かつて天使の歌声を持っていたアンドレ少年は見る影もなく巨大に育ってしまったが、どうしてもあの頃が懐かしいと言うので無理を承知で当時の再現を試みていたら・・・デュポールに見つかってしまったという訳だが・・・」

聴衆からくすくす笑いが洩れる。それを不作法としない寛容さがジャルジェ家にはあった。それにしても、自邸内でリラックスしているとは言え、使用人を前にして瞬時に主の顔に切り替えられる鮮やかさはどうだ。アンドレは恋人を眩しく仰ぎ、恋人は言葉を続けた。

「即興で遊んでいただけだからレパートリーも無ければ、洗練もされていないが、せっかく集まってもらったのだ。普段からわたしのために心を尽くしてくれる皆へわたしからの感謝の形だと思って聴いて欲しい。

ジャルジェ家は素晴らしいチームワークで運営されている。これは母上の心配りと、ジャルジェ家の生き字引ばあやの手腕、守り神デュポールの献身なくてはあり得なかった。

そして、この3人を頭に、おまえ達一人一人がしっかりと持ち場を守ってくれるからに他ならない。誰が一人欠けてもこのバランスは崩れてしまうだろう。

この年になるまで恥ずかしながら気づかなかったが、わたしが人を束ねる術を学んだ最初の教師はここにいる皆に他ならない。

物心つく前から、わたしは人が共通の目的のために組織立って機能する秩序美を教えられた。それは、座学では学びきれない生きた教えだった。

まだ実力の伴わぬ若い頃から、人を率いる役目に恵まれたわたしが何とか職務を果たせたのは皆のお陰だ。直接的であろうと、間接的であろうと、皆と掛け替えのない人生を共にできたことを感謝している。

アンドレが見つけてきたこの曲は一見恋歌に聞こえるが、まさにあらゆる形で大切な人がいてくれたことを喜ぶ歌だ。どうか、皆に対するわたしからの気持ちだと思ってもう一度改めて受け取って欲しい」

思いがけないオスカルの謝辞にざわつく使用人たちは一様に真顔で静かになった。使用人としても、個人としても聞いて嬉しくないはずがない主人からの言葉だ。ただ、別れの言葉にも聞こえる気韻がそこはかとなく含まれていた。空気が幾分張り詰めたことを誰もが感じ取った。

オスカルは言葉を切ると静かに着座したが、どうにも納得がいかないとでも言いたげに眉間にこぶしを押し当て、アンドレにだけ聞こえる音量で小さく唸った。そして、救いを求めるようにアンドレを斜めに見上げたが、恋人は一寸首を傾げただけで、頭の上に大きなクエスチョンマークを浮かべた。

『おまえも何とか言え』
を意味するサインを送ったはずが、アンドレは思うように反応してくれない。さっきの感動を返せ!恋人の足を踏みつけてやりたい衝動をかろうじてやり過ごし、オスカルは一度鍵盤に乗せた指を降ろすと再び立ち上がった。

「どうも、わたしの手にかかると話が硬くなっていけないな。皆にはもっと柔らかな心の部分を伝えたかったのだが。・・・おい、こういうのはおまえの領分じゃないか。うまく纏めろ、ポエット・デデ!」
「えっ?おれ?」

ジャルジェ夫人と、アンドレがジャルジェ家に引き取られた頃を知る古い使用人が笑い声を上げた。

邸にやって来たばかりの頃、初めて見る珍しいものを詩的に表現する感性が可愛らしいとつけられたあだ名を何十年かぶりに呼ばれて、アンドレは目を瞬いた。

すぐにオスカルが送って寄越した何かしらの暗号を受け取り損なったことを察し、冷や汗を苦笑でカモフラージュする。

「えっと・・・僭越ながらご主人様の演説を要約させていただきます」

誰かが口笛を吹いた。オスカル付き侍女のマルタは我が意を得たり、とガッツポーズを決める。マルタとアンドレは、オスカルに最適な扶持のために、常に彼女の言動を読み解き、正確に要約した情報を交換をする、いわば同士だ。

「幼いオスカルの・・・」
アンドレが口を開くと同時にマロンが『アンドレ!』と牽制を入れる。

「オスカル様の」
アンドレは慌てて言い換えた。

「天使の歌声は聞く人の心を浄化する清涼剤でした。聴く機会のあった人は幸運です。ですが、聴く機会のなかった人もがっかりする必要はありません。今夜ここにいる幸運を喜んでください。今や円熟した大天使の歌声に、ハートがぶっ飛ばされること間違いなしです」

「アンドレ!それのどこが要約だ!」
「これからだよ!」

観衆がわっと沸いた。その中にはマロンの怒号も含まれていたが。

「ここにいる皆さんの誰一人でも欠けていたら、いまのオスカルはいなかった。そのことに関して誇りを持ってください。精いっぱい心を込めて皆さんへの感謝を歌いますので、聴いてください。つまりこういうことだろ?」

まあそういうことだ。前半はともかく、彼にかかると物事がシンプルに見えて来る。何よりも、場を和ませるという役割を期待以上に果たしてくれたので良しとしてやろう。しつこいが前半はともかくとして。オスカルは再び着座すると鍵盤に指を乗せた。
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COMMENT

更新を発見した時はうれしかった!
ありがとうございます

オスカルさまとアンドレは生きていますね。
続きを読みたーい!と思っておりました。
読み終えて うっとりしています。
素敵な素敵な時間。恋人の時間から 皆んなへの感謝の時間にかわっていく。大きな愛。感動しました。
そして オスカルさまが女性である自分を受け入れている。素敵です。
アンドレの失明がバレない様に工夫している姿にも応援していました。

続きを楽しみにしています。
うっとり ひろぴー MAIL 2018/08/28(火) 23:51 EDIT DEL
色々な方のSSがありますが、とても好きなお話の一つに、「いのち謳うもの」があります。すごく感動しました。二人で歌っている情景が浮かんできて、実在しているかのように感じました。
ただ、もうこのお話の更新はないのかなーと諦めていたのですが、アンドレの誕生日だしなーと思い、のぞいてみると、更新されていました!バンザーイ、アンドレ、ありがとう!また、1から7までじっくり読み返します。
続きもご準備されているとのこと。楽しみに待っています。素敵なお話、ありがとうございました。
更新、うれしいです。 うさみみ 2018/08/31(金) 09:20 EDIT DEL
ひろぴーさま

やっと続きに着手しました。待っていてくださってありがとうございます。この物語は、原作のタイムラインを想定して書いているので、残念ながらOAはこの後出動して亡くなります。

>恋人の時間から 皆んなへの感謝の時間にかわっていく

この部分、予定外でした。最初は恋人の二人の時間だけを書く予定だったのです。それが、こんな展開になりました。

じきに続きをアップしますので、もう少しお付き合いくださいませ。
NO-TITLE もんぶらん 2018/09/03(月) 01:18 EDIT DEL
うさみみさま

お気に入りのひとつに入れて頂けるなんて、嬉しいと同時にビックリです。というのも、この『いのち謳うもの』は私の個人的な趣向を無遠慮に取り入れていますから。

そもそも二次創作は自己満足の世界ですが、『黒い瞳亭』の中でも一番個人的な趣味色が強いのが、この『いのち謳うもの』なんです。

必ず完結させますので、もう少しお付き合いくださいませ。
NO-TITLE もんぶらん 2018/09/03(月) 01:24 EDIT DEL

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