ミッション・ポッシブル

2018/11/07(水) 原作の隙間 1762夏
剣術練習用防具の支度を手伝ったのは執事のデュポール氏だった。
「お稽古が終わったら奥様のお部屋においで下さいませ、オスカルさまにお話しがおありになるそうでございます」

老執事はお嬢さまの愛らしいうす薔薇色の頬がぷっくりとふくれていることに気づいた。ご機嫌はいささか斜め方向を向いているようだ。
『まだまだばあやの姿が見えないとお寂しいと見える』

防具の紐を結びながら、老執事は目を細めた。血色の良い頬をくるくると愛らしく縁取る金髪が午後の陽光を乱反射させる様は相変わらず凄烈な美しさだ。

「ばあやは?」
「ばあやは今日はちょっと忙しいのですよ。オスカルさまはもうばあやがいなくても立派にお支度ができるようになりましたなあ、ほっほっほ」

執事は防具のバランスを調節する振りをしながら小さな背中でめくれ上がっていたジレをこっそり直した。

「当たり前だ。戦場では何でも自分でできないとショジョーの遅れが兵士を危険な目にあわせることもあるんだ。父上がそう仰った!」

『ショジョ―とは初動のことですかな』
執事は経年の笑い皺をさらにくっきりと濃く刻み目尻を下げた。少女の父親が6歳の子を相手に大人同様の言葉遣いを崩さないこともあって、この子は年齢以上に大人びた話し方をする。少女のいじらしい背伸びが愛おしくもあり、いくばくかの不憫さも感じる。

「ほっほっほっほっ、それは頼もしいことでございますな」
「行ってくる!」
「行ってらっしゃいませ」

やっとひとりで立って歩けるか歩けぬかの頃からおもちゃ代わりに武器のレプリカで遊び、5歳から家庭教師を招いて剣の稽古を開始して2年弱、オスカルは防御の型を一通り覚えたところである。はやく攻撃を学びたくて仕方がないのだが、今しばらくは許可が降りないだろう。



「母上、お呼びでしょうか」
2時間後、少女は執事に随行されて母の居間を訪れた。全開したフランス窓から午後の風を取り込んだが明るい居間には、母だけではなくオスカルの3人の姉たちの姿があった。4人は賑やかにお茶のテーブルを囲んでいたようだ。

オスカルはぎょっとして一歩あとじさり、後ろで控えるデュポール氏をそっと振り返ったが、執事は深くお辞儀をすると去って行ってしまった。

「お稽古は終わりましたか?喉が渇いたでしょう。お茶を入れますからお座りなさい」

母であるジャルジェ夫人が手招く。たっぷり汗を流した後で喉はからからだったしよく動いたのでお腹も空いていた。テーブルに並ぶマドレーヌやかわいらしい桃色のマカロンと果物から甘い香りが漂い、オスカルの小さな胃袋がきゅうっと鳴いた。

しかし、姉たちと一緒となると分が悪い。何しろお姉さま方ときたら、リボンの柄から家庭教師の先生の靴下のほつれから脛の長さに関する一考察まで兎に角次から次へところころと話題を変えながら延々と喋るのだ。

オスカルは作法として人の話の腰を折らないことを心得ているが、失礼にならないように巧みに話題をすり変えるだの、スマートな中座のタイミングを測るといった高等技術を使いこなすには若干若すぎた。

そこで一応は礼を逸しないように我慢と努力を重ねるのだが、こと姉達が相手ではたちまち限界を超えてしまう。その結果大爆発してしまう率は今のところ100%を誇る。挙句の果てに

『お母さま、オスカルの癇癪玉はあといくつ爆発したら燃え尽きるのかしら』
などと、彼女なりに払った最大の努力をばっさりと切り捨てられる、という理不尽な憂き目にあうのがお約束だ。

「母上、お茶ならばあやと…」
逃げの口上を言いかけて、ばあやが今朝から顔を見せないことを思い出した少女は口をつぐんだ。ばあやがオスカルに何も告げずにどこかに行ってしまうなど未だかつてなかったことだ。

「ばあやのことをお話しするために呼びました。さあ、こちらにお掛けなさい」

いつもの優しい微笑は変わりはないのに、母には何か改まった雰囲気を感じた。オスカルは不安を覚えたが、そう言われてしまってはテーブルにつくしかない。朝からばあやがいないのは何かとても大変なことが起きているからなのだろうか。

しかも、母親の隣に座っていたジョセフィーヌがオスカルのために黙ってその席を譲ったのだ。何かとオスカルと張り合いたがる末姉が席を譲るなど、それだけでも前代未聞の有事である。

更に。大人用の椅子にオスカルがよじ登るようにして腰を掛けると、ぶらぶら浮いてしまった足の下にもう一人の姉であるカトリーヌが台座を蹴って寄こしてくれた。

いささかお行儀の悪い手段に、母に小さく注意を受けたことは置いておくとしても、年齢が近いゆえ何かと衝突が絶えない姉二人が今日はオスカルを気遣っている。一体何の話なのだろう。オスカルの緊張は高まった。

「ばあやのご家族に不幸がありました」

母はオスカルの瞳を真っすぐ見つめると、オスカルに紅茶のカップを手渡しながら結論から告げた。茶はオスカルが両手で持っても熱すぎない程度にあらかじめ冷ましてある。ばあやと同じ心遣いだ。

母の言葉の意味は分かった。しかし、ジャルジェ家こそがばあやの家族だと認識しているオスカルは軽く混乱する。ばあやの家族って誰だろう。オスカルの困惑を見て取った夫人は末娘を愛しそうに見つめた。

「ばあやの娘さんのジュヌヴィエーヴを覚えていますか?」

そう言えば、おぼろげながら記憶があった。娘に会いに出かけたばあやを追って馬車の荷台にこっそり潜り込み、ついて行ったことがあった。着いた先で冒険を楽しんだところまでは良かったが、馬車に置き去りにされてしまったのだ。

当然ジャルジェ家では大変な騒ぎになった。心細くて泣きそうになったことを覚えているが、その時優しくしてくれたのが多分ばあやの娘だったのだろう。その人がどんな姿だったのかは思い出せないが、ジャルジェ家の迎えを待つ間、誰かと遊んでもらったのだと思う。しかも、なぜか帰りたくなくなったほど楽しかったのだ。

「はい、前にあったことがあります」
一連の出来事を思い出したオスカルは恥ずかしくなって、やや小さな声で返事をした。

「今日の明け方にお産の事故で亡くなったそうです。ばあやはあなたに黙って出かけることを大変恐縮していましたが、私が一刻も早く娘さんのところへ行くようにとばあやを送り出しました。きっと、あなたならばあやを快く送りだしてあげるはずだと思ったのよ」

母はそこで一度言葉を切ってオスカルの反応を待った。いつもは賑やかな姉たちも神妙に口を閉ざしている。オスカルは両手で持ったティ―カップの紅茶にじっと目を落した。琥珀色の液体がゆらりとゆがんだ。

黙って姿を消したばあやには腹を立てていたし、置いて行かれて寂しかったけれど、だれにも悟られたくなかったので平気なふりをしていた。ばあやは誰よりも自分のことを優先に考えてくれると思っていたのに、自分よりも大切な何かがあったと思うと悔しく悲しかった。

そして、知らなかったこととは言え、身内の不幸というばあやの一大事に、自分のことしか考えていなかった自分を恥ずかしく思った。いくつもの思いがないまぜになってオスカルの目の奥がじんと熱くなる。

『泣くもんか』オスカルは下唇を噛んで堪えた。姉たちの前で泣き顔を見せるくらいなら、このままティ―カップの中にダイブする方がずっとましだ。オスカルは顔を上げた。

「ぼくもそう思います。しかたなかったと思います。ばあやはいつ帰ってくるのですか」

母には末娘の心情が手に取るように見えた。精一杯気丈に振る舞う末娘が余りにもいじらしく、抱き上げて頬ずりしてやりたかった。しかし、この場でそれをすれば小さな末娘のプライドを潰してしまうことも良く理解していたので、ただ優しく微笑んだ。

母親が末娘を”ちいさなレニエ”と心密かに呼びたくなるほど、彼女のこの誇り高さは父親そっくりだった。

「これから侍女二人と馭者見習いのジャン・ポールをばあやのお手伝いにやりますから明日にはお葬式が終わるでしょう」
「では、あしたは帰ってくるのですか?」
「いいえ、もう2、3日かかるかも知れません」

そんなにかかる?言葉に出さない末娘の抗議が母にはくっきりと聞こえた。母はカップを持った小さな手をその上から両手で包み込むと言い含めるように少女の名を呼んだ。

「オスカル。わたしからあなたへ二つのお願いがあります。ひとつはばあやが帰って来るまで辛抱強く待っていること」

じっと見つめる母の瞳から、オスカルは状況が理解できなくても母の言いつけを守ることは大人の世界の一員として認められる一歩なのだ、と読み取った。

「はい、わかりました。もうひとつは何ですか」
少女はいつものようにはきはきと答えたが、その中には不承不承の種が隠れていることは明らかだ。母は微笑むと今度は辛抱強く静かに待っている三人の姉達にも目をやった。

「もうひとつはクロティルドとカトリーヌとジョゼフィーヌにもお願いしたいことなの」
「お母さま、だからお話は私たち4人が揃ってからと仰ったのね」
「そうですよ、ジョゼフィーヌ」
母は4人の娘達に話し始めた。

ジャルジェ家の乳母であるマロン・グラッセの一人娘ジュヌヴィエーヴが今日未明に出産事故で母子ともども命を落とした。ジュヌヴィエーヴの夫、レオン・グランディエは工兵として大陸に出征中であるが、大陸でのフランス軍はすでに敗退しており、彼の生還は絶望視されている。

その二人の一人息子でありマロン・グラッセの孫にあたる男の子が孤児として一人残されてしまった。その子の世話と教区からの転出手続き、無人になる娘の家の後片付けにマロンはしばらく謀殺されることになる。

もし、ジュヌヴィエーヴが無事に出産していた場合、彼女は息子と一緒にジャルジェ家の次女、マリー・アンヌの嫁ぎ先へ乳母として赴くことが決まっていた。

ジャルジェ家で侍女として働いていた独身時代のジュヌヴィエーヴとマリー・アンヌが非常に近しい間柄だったこともあり、マリー・アンヌが出産時期の重なったジュヌヴィエーヴを乳母にと望んだからだ。

マリー・アンヌは実の母と同じく、自分の子供は里子に出さずに手元で育てたいとかねてより望んでいたので、住み込みの乳母を探していた。未亡人となっていたジュヌヴィエーヴにとっても渡りに船のオファーだった。

「何しろ急なことなのでお父様の許可も頂いていませんが、独りぼっちになってしまったばあやのお孫さんは我が家に迎えます。その後のことは何も決まっていません。マリー・アンヌも急いで新しい乳母を探さなければなりませんから当分は忙しくなるでしょう。でも、もともとばあやのお孫さんも一緒に引き取る心づもりでいたのですから、いずれその子を引き取りたいと申し出るかも知れません」

息を詰めて母の話に聞き入っていた娘たちは、母が一旦話を区切るのを待ってにわかに騒がしくなった。

「マリー・アンヌお姉さまはお優しいから男の子を引き取りたいと思うに違いないわ」
やはり真っ先に口を開くのはジョゼフィーヌである。
「そうね、お姉さまはジュヌヴィエーヴと仲良しだったもの」
4人の中では一番年長であるクロティルドは10年前にジャルジェ家から嫁いで行ったジュヌヴィエーヴをはっきりと覚えていた。
「でも、ばあやがうちにいるのよ。ばあやの孫ならその子はうちに来る方が幸せではなくて?」
「どっちにしても今はどんなにか悲しいでしょうね。お父様もいないのにお母様までお亡くなりになるなんて」
「そうよ、赤ちゃんまで亡くなってしまったのだもの」
「ばあやだってきっととっても悲しんでいるはずよ」
「お母さま、その子はおいくつなのでしょうか?」
「確か7歳と聞いていますが、じきにお誕生日が来るはずですよ」

それまで黙って姉たちのお喋りを聞いていたオスカルが7歳と聞いて口を開いた。
「母上がぼく…わたしたちにお願いしたいもうひとつのことって何ですか?」

『ぼくも今年7歳だ。一番年が近いのはぼくだ。しかも姉さま達は女だし』
たちまち見知らぬ男の子を身近に感じたのだった。母は頷いた。姉妹のお喋りが際限なく広がる前に母もそろそろ切り出す頃合いだと思っていたのだ。

「よく聞いてくれましたね、オスカル」

ジャルジェ夫人は由緒正しい家系の出ではあったが、少女時代に苦労を知っていたため、慈善事業に対する意識が高く、領地内と居住区内で積極的に教会の事業に係っていた。同じ理由で使用人たちの境涯への理解と共感も深く、温情ある処遇を与える人でもあった。

例えば、引退を余儀なくされた高齢の使用人には引き続き使用人棟で隠居を許したり、子を抱えた未亡人を福祉の意味合いを込めて雇用したりした。夫である将軍は家政に関する妻の采配を全面的に信頼し、全て一任していたから滅多なことで口を出すことは無かった。

従って、宮中に詰めている将軍に今朝がた夫人が送った伝文に対しても、ばあやの孫が男の子ならオスカルの遊び相手に丁度いいから良いようにしてやれ、細かいことは任せた、と大雑把かつ楽観的な返事が先ほど返って来たばかりだった。

マロンは夫の代からの乳母であり、ヴェルサイユで体面を保つ知識も経験もないまま嫁いで来た夫人にひとつひとつこの家のしきたりを教えてくれ、6人の娘の養育を一手に取り仕切ってくれた。

ばあやの手腕無くして子供達を里子に出さずにその成長をつぶさに見守ることは出来なかったであろう。ただの使用人と呼ぶよりは家族に近い、そのばあやのたった一人の血縁である男の子に一番良いようにしてやりたいという思いが夫人にあった。

「両親を次々と亡くした子供をいたずらにたらい回ししたくはありません。受け入れるのであれば、仮住まいとしてではなく、初めから我が家と思えるよう迎えたいと思います。あなた達はその子が母を失ったばかりであることを忘れずにいたわってあげてください。出来ますか?それがもうひとつのお願いです」

「はい!お母さま!」
「きっと優しくしてさしあげます」

少しずつ音調の違うかわいらしい三重唱が元気に響いた。末娘のオスカルは唇を一文字に引き結んで黙っている。実はジャルジェ夫人の一番の懸案事項はこの末娘の反応だった。

他の娘達と比べ、末娘とマロン・グラッセの絆は特別に濃密である。そこへ、ばあやの実の孫が登場するとなると、オスカルは内心穏やかではいられなくなるだろう。

新しい姉弟を迎えた子供が赤ちゃん返りするように、年齢相応の焼きもちを素直に表現できる子供なら、それもいいだろう。切磋琢磨を通してたくましく健康に成長するに違いない。

しかし、父将軍の命で男子として教育を受ける末娘は、6歳にして己を厳しく律する術を身に着けてしまっている。加えてこの誇り高さだ。表現できずに閉じ込められた子供らしい甘えや嫉妬心がこの子を内側から蝕むのではないだろうか。

父将軍は学問だけではなく、剣術に馬術、兵法にまで驚くほどの適性と才能を発揮し始めたこの子が娘であることを忘れているかのように、息子として扱っている。6歳と言う年齢を認識しているかどうかも怪しいほど、娘と同じ土俵で張り合うところは正直呆れるほどだ。

そのような主君の下で、オスカル女の子扱い厳禁令は自然に使用人の間で不文律となった。そんな中で唯一ばあやだけがひるまずオスカルを「お嬢様」と呼び、女の子としての徳を説く。これには将軍も苦味きった薄笑いを浮かべるがせいぜいで、ばあやにだけは文句を言えないのだ。

今のところオスカル本人は鬱陶しがっているが、夫人にはこのばあやの存在は何ものにも替え難いほどありがたい。ばあや本人は無意識かも知れないが、彼女はオスカルがいずれ思春期を迎えた時、嫌でも直面しなければならない女性性を受入れる下地を丹念に構築してくれている。

そして、巧みにオスカルを甘やかしてくれるので、年齢不相応な背伸びをして大人になり急ごうとするオスカルの精神の均衡がかろうじて保たれているとも言えよう。オスカルにとって、夫人にとって、ばあやの立ち位置はこれからも変わっては困るし、オスカルの健全な成長に不可欠なのだ。

ばあやが孫息子の登場によってオスカルへの接し方を変えるとは思わないが、プライドの高いオスカルの方がばあやから距離を置こうとする可能性は十分にある。同時に、男の子にとってもジャルジェ家が針のむしろになる要素があった。

オスカルのために総力を注ぎ込むことを生き甲斐とするマロンの忠義心は、孫息子よりオスカルを優先するだろう。そんな祖母の後ろ姿は母を失ったばかりの子供にとって辛いだけではないだろうか。何しろ、、もう肉親はマロンしかいないのだ。

嫁いだ次女に男の子を委ねれば、十分に慈しみ良育されることは間違いない。そして、マロンとは時々顔を合わせるくらいの距離を保つ方が良いかも知れない。夫人は判断しかねていた。

「オスカルはどうですか?」

末娘はなおも押し黙ったまま、紅茶を啜った。オスカルは同年齢の子供とあまり交流を持ったことはない。子供は家庭外で里親によって養育される貴族社会には幼児の居場所はないのだ。

例外的に父母の下で育ったオスカルは父母の愛情を一身に受ける環境に恵まれた半面、同年代の友には縁遠かった。姉妹の仲は良かったが、嫡子として扱われるオスカルは姉妹の中では異質な存在であり、共通の興味を持ち得ないという点で孤独だった。

男の子の遊び相手への好奇心と、ばあやをめぐる葛藤。平素ははきはきと発言するオスカルが答えられないことがオスカルの誠実の表れなのだろう。夫人はそれ以上問うのを止めた。

「では、実際に会ってから考えましょうね。会ってみて、もしお互いに無理だと思ったら、マリー・アンヌのお家にその子を引き取ってもらうのも良いでしょう。マリー・アンヌはきっとその子を大切にしますから心配はいりませんよ」

末娘は珍しく心もとないような眼差しで母親を見上げた。何かを口に出そうとするのだが、どう言葉にして良いかわからないのだ。

母親が教会で孤児院の援助活動をしていることもあり、オスカルはこの世の中には打ち捨てられた子供が大勢劣悪な環境の中で暮らしていることをよく知っていた。しかし、6歳のオスカルにとって、それは現実感を欠く概念上の世界だった。

しかし、大好きなばあやの孫のことである。オスカルに生々しい現実感を与えるには十分な距離だ。父が死に、母が死ぬ。そして自分と変わらぬ年齢でたった一人、見知らぬ家に連れて行かれる。

もしそれが自分だったら?慈しみを込めた眼差しで自分を見下ろしている母が死ぬことを想像しただけで息苦しく胸は詰まり、涙が溢れそうになる。

母が死ぬ。そんなことがあって良いはずがない。肉体が死んでも不滅の魂は天で安らかに憩うと教えられた。でも二度とこの地上で会えなくなるのだ。

母の笑顔、声、抱きしめて頬にキスしてくれる時に香る母の匂い。厳しい剣の稽古にくじけそうになった時、振り向くと黙って頷いてくれる母。会いたい時にはいつでも会えるところにいてくれる母。それらが全て奪われるなんて、そんなことが耐えられるのだろうか。

父母の温もりを知らぬ貴族の子弟と違い、オスカルは臨場感を持ってそれを想像することが出来た。否応なしに孤児として生きて行く子ども。その子が望んだのではないにしろ、何と勇敢なのだろう。何と悲しく寂しいことだろう。その子がジャルジェ家にやって来たら、出来る限りの力になってやりたい。

その気持ちに嘘は無いが、同時にばあやをその子に明け渡さなければならないことが悔しくてたまらない自分もいる。狭量な自分が恥ずかしい、不甲斐ない。こんな気持ちは口が裂けても母に言うわけにはいかない。

自分が嫌だと言えばその子はマリー・アンヌ姉の家に行く。それでいいのか?ばあやを独り占めするためにその子をたった一人の肉親と引き離す?いやだ。そんな自分には絶対になりたくない。

「母上」
オスカルは口を開いた。
「その子の名前は何というのですか?」
「アンドレと聞いています。アンドレ・グランディエ」
「アンドレ…」

まだ見ぬ子供の姿を窓の外に見出そうとするように、オスカルの瞳が遠くに焦点を絞った。母はそんな末娘の様子を静かに見守っている。アンドレ。オスカルは声に出さずにその名を繰り返し呼んでみた。何度が呼びかけていると、だんだんその子が身近な存在に感じられて来る。

ばあやの孫である男の子が、勇敢にひとりぼっちと戦っている。そんな勇気のある子と仲良くなれないはずは無い。オスカルの胸にも未知の出会いに対する勇気が湧いて来た。

「母上、ぼくは将軍になる勉強が忙しいので遊ぶ暇はありません。でも、アンドレがぼくと一緒に勉強してくれたら、ぼくはアンドレが寂しくないように助けてあげられると思います」

オスカルにしては一言一言を慎重に選びながらの決意表明だった。母を見上げる瞳は、新しい試みに挑戦する決意に満ちた強い光を放っている。しかし、母はその奥に不安の色が揺らいでいることを見逃さなかった。そんなことはおくびに出さず、夫人は静かに頷いた。

「よかったわ、皆賛成ね。私たち全員でアンドレとばあやの味方になりましょう」
「はい、母上!でもどうしてばあやもですか?」

何気ないオスカルの問いに、沈黙はあまり得意ではない3番目の姉、カトリーヌが母より先に答えた。
「まあ、オスカル。寂しいのはアンドレだけではなくてよ。ばあやは娘さんを亡くしたのよ!」
「そうよ、あなたはもう少しばあやに心配をかけないようにしてはいかが?」
オスカルの急所を嗅ぎつけることでは一番手のジョゼフィーヌも追撃に加わった。

それを合図に、のんびりタイプのクロティルドも加わって、再びお茶のテーブルは千羽のひばりが囀り合戦を始めたように賑やかになった。話題は次から次への際限なく沸いては流れて行くので、オスカルのうっかり発言などあっという間に忘れ去られた。

実は痛いところを突かれたオスカルの方は、見る間に不機嫌そうに頬を膨らましそわそわと脱出の間合いを計り始めている。夫人はじりじりと椅子から滑り降りようとしている末娘を愛おしく見つめた。

マロンの孫であるアンドレは、どちらかと言うとおっとりと優しい性格で、今はさすがに気落ちしているだろうが、本来は明るく素直な子だと聞いた。活発で激しい一面を持つオスカルとはかなり違ったタイプの子供らしい。

さて、どうなることやら。うまく馬が合えば、姉たちとは異質な立場に置かれたオスカルに仲間ができる。そうなれば大人びているとは言えまだ6歳。『遊ぶ暇はありません』などという家庭教師から刷り込まれた建前を突き破って、じっと出番を待っている遊び心が発動するだろう。

『是非そうなって欲しいものだわ。子供らしい時間を持ったからと言って、それがあの子の美点や資質を損なうはずがない。むしろ、健やかに成長できるはずですもの』

母のささやかな祈りはじきに聞き届けられることになるが、それがわかるまではあと1週間ほどを要することになる。

アンドレという子がどんな少年なのか、ばあやに似ているのか、どうやって歓迎するか、などなどお喋りが盛り上がりに盛り上がった隙に、そっと床に降り立ったオスカルが母に目で合図して来た。

『母上、もうよろしいでしょうか』
『ええ、お行きなさい』

母の許可を得た末娘はにこりと笑った。そして、膝を折り一礼してから機敏に背を向け走り出した。慌てて扉を開けようと後を追う侍女より早くドアノブに飛びついた子供の後ろ姿の隣に、夫人はもう一人の子供の姿を一瞬垣間見たような気がした。